1
地下六階。そこはこれまでの階層とは一線を画す、禍々しい魔力と冷気が渦巻く深淵であった。
しかし、スカウトの男率いる「神獣の従者」一行は、新たな戦力として救国の英雄フィランヌを加えたことで、かつてないほど意気揚々とその暗闇を突き進んでいた。
「フフ……。それにしても、先ほど君に『愚鈍と認める』と追い打ちをかけられたあの戦士の顔は見ものだったな」
松明の明かりが揺れる中、リーダーの男が背後のフィランヌを振り返り、愉快そうに喉を鳴らした。彼にとって、テューレという男の絶望は、自らの優位性を確認するための最高の
フィランヌは、法衣の裾を汚さぬよう悠然と歩きながら、うろんな――心底どうでもいいといった表情で、冷淡に答えた。
「……それが何か? あたしは普段からあいつにはああいう風に言ってるし、あいつの方だって、あたしを怖がってああいう情けない顔になるのも、いつものことなんだけど?」
「それは本心かな?」
リーダーは立ち止まり、探るような眼でフィランヌの青い瞳の奥をじっと見つめた。その視線は、獲物の急所を狙う毒蛇のように鋭い。
「実はね。私はさっき、君が毒を治すという名目で、彼にどんな細工を施すつもりか、興味深く見つめていたのだよ。しかし、君が使ったのは――」
リーダーは、すべてはお見通しだぞと言わんばかりに、ニヤリと不敵に口角を上げた。
「あれは確かにラーダの高位の司祭のみが使える魔法ではあったが、戦力増強でも罠でもない。単に対象へ十文までの言葉を劣化させることなく暗記させる……それだけのものに過ぎないはずだ」
男の言う通りだった。フィランヌが移籍の間際、テューレの耳元で囁いたのは、ラーダの秘術『
だがフィランヌは全く動じることなく、涼やかな声で返した。
「あら、ラーダの魔術に詳しいのね。そんなに興味があるのなら、あたしがラーダ教団に紹介してあげようか? 入信のための寄進は、安くしてあげるわよ」
「ごまかすな!」
男は眉をひそめ、声を荒げた。
「あんな何の戦闘力も、防御の力もない魔法を、わざわざあの土壇場で使うとはどういうつもりだと聞いているんだ! 私たちの脅威になるような『策』を授けたのか?」
フィランヌは男の激昂っぷりをよそに、くすくすと鼻でせせら笑ってみせた。
「へー……『言葉の力』を知らないとは、案外、あなたも愚鈍なのね」
その言葉には、一切の強がりの色はなかった。ただ純然たる事実として、目の前の男の知性の乏しさを哀れんでいる。そのフィランヌの表情が持つ絶対的な自信を前に、リーダーの男は言葉を失い、うろたえた。
(この女は、確かにあの『不滅の口伝』が、自分たちに対抗する何らかの策になると確信している。……しかし、それがどういう原理で行われるのかが、皆目見当がつかない……)
相手がただの凡人ならば、リーダーも「負け惜しみだ」と笑い飛ばして済ませただろう。しかし、目の前にいるのは、あの帝国を打ち倒した救国の英雄フィランヌだ。彼女が何ら裏付けのない盲信などするはずがない。
しかし、論理的な思考を積み重ねても、その正解に辿り着けない。男の思考は、疑心暗鬼という名の袋小路へと陥っていく。
しばらくの間、迷宮に沈黙が流れた。ようやく、リーダーの男はポツリと、吐き捨てるように漏らした。
「……まったく、あなたは何という女性だ。敵同士でなかったら、私もあなたの熱心なファンになっていたかもな」
「あら? 今は、あたしはあなたの仲間ではなかったかしら? 新しいリーダーさん」
フィランヌの口元には優雅な微笑が浮かんでいる。交わされた言葉は一見親しげでさえあったが、二人の視線の間には目に見えぬ火花が飛び出し、激しくぶつかり合っていた。
そんな二人のやり取りを、残るメルヴィーたちは、驚いた顔で見ていた。彼らのリーダーがここまで感情を乱され、余裕をなくしたところを、これまでに一度も見たことがなかったからだ。
フィランヌの放った「言葉」という名の
2
同じ頃、一つ上の階層である地下五階――かつて「偽りの主」が座していた玉座の間。
半日にわたる強制的な足止め――ライバルリーダーの放った『ミスディレクション』の効果がようやく解け、辺りの空間に漂っていた認識の歪みは霧散していた。
ゆっくりと休息を取り、魔力も体力も全快になったはずのテューレ一行であったが、その顔は一様に暗く沈んでいた。特に、精神的支柱であったフィランヌを失い、さらに彼女から敵陣営の目の前で「愚鈍」と切り捨てられたテューレの落胆ぶりは、見ていられないほどだった。
その重苦しい沈黙を破ったのは、レオンだった。彼はゆっくりとした足取りで玉座へと近づき、そこから地下六階へと続く「真の深淵への階段」が、もはや蜃気楼のように消えることがないのを確認した。
「……テューレ。先ほども言ったが、俺には先に進まねばならない理由がある。この迷宮の最深部には、父の不名誉を晴らすための真実が眠っているはずなのだ」
レオンは階段を背にし、愛用の長剣を握り直すと、力なく座り込んでいるテューレを真っ直ぐに見据えた。
「どうしても……一緒に来てはくれないのか?」
テューレは顔を上げず、ただ黙って首を左右に振った。フィランヌのいない自分に何ができるというのか。その喪失感と、強大な神獣の従者たちへの恐怖が、彼の魂に底しれない重しとなってのしかかっていたのだ。
「……そうか、仕方ない。君に無理を強いることはできないな」
レオンは寂しげに、しかし決然とした表情で一度だけ頷いた。
「では、ここでお別れだ。短い間だったが……私のような薄汚れた男に、最後まで信頼を預けてくれたこと、心から感謝している。今まで本当にありがとう、テューレ、ミーア、ドルドムント、ラトーナ」
レオンが背を向け、暗闇へと消えていこうとしたその時――。
「待ちなさいよ。私も行くわ」
その彼の横に、すっとミーアが進み出た。彼女はいつもの不敵な笑みを浮かべ、腰の精霊石を揺らす。
「波乱万丈な物語を求めてこの迷宮に来たのに、ここで引き返すなんてあたしの主義ではないもの。それに、レオン。……あなたのその死に急ぐような横顔、最後まで見届けさせてもらうわよ」
「ミーア……」
「おやおや、お取り込み中失礼。ラトーナ殿、テューレ殿を頼みましたぞ」
続いて声を上げたのは、ドルドムントだった。彼はシルクハットを優雅に整え、誇らしげに外骨格を鳴らした。
「迷宮をさらに進もうというのに、スカウトなしでどうするつもりですかな? 『不肖(ふしょう)』このドルドムントが、『負傷(ふしょう)』しないように、プロとして同行いたしましょうぞ」
軽妙なダジャレを飛ばしながら、ドルドムントもまた、何でもないことのようにレオンの隣へと並ぶ。
しかし、立ち去ろうとするレオン、ミーア、ドルドムントの三人の後ろ姿は、今のテューレには不気味なほど冷たく――まるで「死相」をまとっているかのようにしか見えなかった。地下六階という「地獄」が、彼らを呑み込もうとしている予感に、テューレはさらに震えた。
三人が玉座の下の階段へと姿を消すと、静まり返った部屋で、ラトーナが必死にテューレへと呼びかけた。
「テューレ様、みんな行っちゃいましたよ! 私たちも追わないと、手遅れになります!」
「……あんたも行きなさいよ、ラトーナちゃん。もう、あたしにかまうことなんてないわ……」
テューレはなおも暗く沈んだまま、かぶりを振った。
「あたしに何ができるっていうのよ。フィランヌがいて6対5でも、あいつらにはてんで歯が立たなかったのよ? ましてや今は、そのフィランヌが向こう側について、あたしを笑っている……」
その弱気な言葉に、ラトーナは拳を握りしめ、身を震わせた。彼女にとって、テューレはいつでも高潔な「想い人」であり、自らのすべてを捧げて慕うべき存在だった。しかし、今の彼の姿はあまりに情けなく、愛するがゆえに許しがたいものだった。
「ラトーナは……ラトーナは、何があっても、決してテューレ様のそばを離れません!」
彼女は一度言葉を切り、心に大きな負担をかけながら、テューレに向けて鋭い苦言――諫言を放った。
「でも……今のテューレ様は、少し……嫌、です……っ!」
テューレを誰よりも愛しているがゆえに、ラトーナにできる発破はそれが限界だった。彼女の瞳には涙が溜まり、その言葉は彼を突き放すためのものではなく、自分自身を削り取って絞り出した絶叫に近かった。
しかし、それでもテューレの心は動かなかった。
「……そう。嫌われて当然よね、あたしなんて」
しばらくの沈黙の後、テューレはのろのろと立ち上がった。だが、彼が進み出したのはレオンたちが消えた階段ではなく、後方の、自分たちが入ってきた方の扉だった。
「……帰るわ」
悲しさでいっぱいになりながらも、ラトーナはただ、テューレの隣について一緒に歩くことしかできなかった。
3
テューレが重い足取りで扉に手をかけ、その冷たい感触が掌に伝わった、その時だった。
『――テューレ、一字一句違わずに聞き、その魂に刻みなさい』
「……っ!?」
頭の中に、直接フィランヌの声が響き渡った。それは、移籍の直前に彼女が囁いたラーダの秘術、『
『アンタの背負った10万ゴールドの蘇生費用は、まだ一銭も返ってきていないわ』
「な、なによ、これ……」
『だから、私が隣にいないからといって、勝手に死ぬことなんて絶対に許さない』
『アンタはもう『仮のリーダー』なんかじゃない、仲間の命を預かる立派な戦士なのよ』
『その盾は、もはや震えを隠すための衝立ではなく、みんなの希望を守る壁だと信じなさい』
『迷宮で無事に生き残ってここに立っていること、それ自体がアンタの最大の貢献なの』
「あ、あたしは、違う……そんなのじゃ、ない……ッ!」
『いつか本当に借金を返せるほど強くなったら、その時は胸を張って私の名前を呼びなさい』
『アンタと再会して、また一緒に歩めたこと……本当は、純粋にとても嬉しかったわ』
「……フィランヌ……」
『知識の神ラーダの加護が、私の愛すべき、愚かな戦士の行く末を照らしますように』
『さよならは言わないわよ――借金取りからは、一生逃げられないんだからね』
テューレは頭を抱えて絶叫した。
「うわあああ! 消えろ! 消えてくれ!!」
しかし、その言葉は彼の魂の奥深くに
嗚呼フィランヌよ、そこまでやるのか!?
テューレは、ようやく理解した。
死ぬまでこの言葉に苛まれ続け、後悔と共に生きるか……あるいは、レオンたち仲間を助けるために、そして、自分にすべてを託して敵地へ消えたフィランヌに再び会うために、迷宮の奥を目指すか。この言葉による「良心の呵責」から逃れる道は、ただ一つしかなかった。
「……まったく、何てことをしてくれたのよ、あの人は……っ」
テューレはボヤきながら、ボロボロとこぼれる涙を荒っぽく拭った。しかし、その顔は先ほどまでの絶望が嘘のように、晴れやかな決意に満ちていた。
「ラトーナちゃん、さっきはひどい言葉をぶつけてすまなかったわね」
テューレは巨大なタワーシールドを構え直し、玉座の下へと続く階段に向かって、力強く一歩を踏み出した。
「レオンたちを追うけど……いいかしら?」
ラトーナは、その瞳をぱっと輝かせ、満面の笑みで頷いた。
「はい! ラトーナは、どんなことがあっても、決してテューレ様のそばを離れません!」
二人の戦士と魔法使いは、迷うことなく奈落の闇へと駆け出した。
前半では、フィランヌが得体の知れない余裕と「言葉の力」をもって、敵の合理的すぎるリーダーの心に【疑心暗鬼】という消えない楔を打ち込む様子が描かれました。一見何のバフ効果もない魔法が、知性の高い敵だからこそ勝手に裏を読んで自滅していくという心理戦の面白さを感じていただけたら幸いです。
そして後半――。
「死ぬまでこの言葉の後悔に苛まれるか、それとも盾を構えて彼女を追いかけるか」
フィランヌがかけたのは、優しさなどではなく、彼を英雄へともう一度引きずり上げるための「不滅の愛の呪い」でした。
一度はバラバラになりかけたパーティですが、レオン、ミーア、ドルドムント、そして覚醒したテューレとラトーナが再び同じ「真の深淵」を目指して走り出します!
さて、ここまでで構想の半分まで書き終わりました。
残る半分の結末へ至るストーリーを、楽しんでいただければ幸いです。