地下六階。そこはこれまでの階層とは一線を画す、禍々しい魔力と極寒の冷気が渦巻く深淵であった。
「ひ、ひえぇぇ〜っ! さすがにここ、あたしの恐怖メーターが振り切れて、粉々に粉砕されちゃいそうよぅ!!」
大盾を抱えたテューレが、いつもの情けない悲鳴を上げながら、ガタガタと膝を震わせる。隣に立つ褐色の魔法使いラトーナは、その震える手をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫ですよ、テューレ様。ラトーナは絶対に、テューレ様のそばを離れませんから!」
しかし、安息の時は長くは続かなかった。
「ギギッ……!」「ケケケッ……!」
闇の奥から、不快な羽音と共に現れたのはインプの群れだった。一体一体は下級の魔族に過ぎないが、その数は十ほどにも及ぶ。
「まずいわ、二人だけでこの数は……!」
ラトーナが杖を構えるが、四方八方から飛びかかる影に、詠唱を完了させる隙がない。テューレもまた、迫り来る「死の予感」に喉がからからになり、盾を落としそうになっていた。
――その時だった。
『テューレ、一字一句違わずに聞き、その魂に刻みなさい』
「っ!?」
頭の中に、直接フィランヌの声が響き渡った。それは、彼女が移籍の間際にテューレの耳元で囁いたラーダの秘術『
『その盾は、もはや震えを隠すための衝立ではなく、みんなの希望を守る壁だと信じなさい』
「はいはい!」
テューレは無意識に叫び、逃げ出しそうになる足に力を込めた。彼は一歩前に出ると、迫り来るインプたちの牙と爪を、巨大なタワーシールドで真っ向から受け止めた。
「あたしが……ラトーナちゃんを、守るんだからぁぁ!!」
『迷宮で無事に生き残ってここに立っていること、それ自体がアンタの最大の貢献なの』
「わかってるわよっ!」
ハッとしたテューレは今度は引き、インプが放ってきた暗黒魔法の弾丸に対して、盾に隠れて精神を集中させて耐え抜く。フィランヌに「仲間の命を預かる立派な戦士」と認められた不滅の口伝が、彼の肉体に不屈の根性を与えていた。
ほどなく、インプたちはその半数を失って、散々に追い散らされた。
「すごいです、テューレ様! 今の動き、すごく良かったです!」
ラトーナが瞳を輝かせて駆け寄る。しかし、テューレの表情はあまり明るくない。
「確かによいことなのかもしれないけど……。ラトーナちゃん、あの人と別れる時に授けられた『口伝』がね、あれからずっと、あたしの頭の中で四六時中響き続けてるのよ。 まるでフィランヌのお説教がノンストップで続いてるみたいで……これじゃあまるで、フィランヌにあたしの脳みそを完全に支配されちゃったみたいじゃない!」
「は……? フィランヌ様に……支配された!?」
ラトーナの表情が一気にこわばった。 自分がこんなにも尽くし、そばを離れないと誓っているのに、テューレの頭の中は去っていったあの「ドS聖女」の言葉で満たされ、戦うための原動力になっているという。 なぜ自分がこんな理不尽な目にあわなくてはならないのか。ラトーナの胸の奥で、チリチリとした嫉妬の炎がまたしても「黒いもの」となって身をもたげ始めた。
「それにしても、レオンたちはどっちに進んだのかしら……」
ラトーナの不穏な空気に気づかぬまま、テューレはきょろきょろと辺りを見回していた。その目が、ある一点に止まる。
「そうか。レオン……そういうことだったわよね」
テューレは、かつてレオンが語った「這いつくばってでも生きて帰るための技術」を思い出し、ニヤリと笑った。
「さあ、追いかけるわよ、ラトーナちゃん! あのプロの剣士が、あたしたちの歩くべき道をちゃんと残してくれてるんだから!」
その背中には、ラトーナへの信頼と、そして彼をどこまでも縛り、導き続けるフィランヌの『不滅の口伝』が、確かに息づいていた。
◆ ◆ ◆
その数刻前。スカウトの男率いるライバルパーティ一行の末尾を歩いていたフィランヌは、背筋を凍らせるような鋭い悪寒を不意に感じ、足を止めた。
(……「
知識の神ラーダの限られた神官のみが、その身に宿す防衛本能。己に向けられた明確な「殺意」や「敵意」を事前に察知し、不意打ちを防ぐその魔法が、彼女の脳裏で警報を鳴らしていた。
(さて、どうしようかしらね……)
フィランヌは歩みを緩め、神官としての感覚を研ぎ澄ませる。だが、彼女が対応を思案する間もなく、そのどろりとした粘着質な敵意は、急速に遠ざかり、やがて消えた。 こちらのパーティには救国の英雄である自分に加え、神獣の加護を受けた強力な戦士たちが揃っている。獲物の力量を読み取り、勝てないと判断して引き下がったのだ。
だとしたら、その力以上に、その「狡猾な邪悪の知性」こそが厄介だった。
(あのバカ戦士たちが来ているとしたら……まともに戦えるのかしら、あいつら)
フィランヌは内心、テューレたちの安否に言いようのない不安を感じたが、今は敵陣営の一員。表情を仮面の下に隠し、冷徹な聖女を演じて歩き続けるしかなかった。
◆ ◆ ◆
一方、テューレとラトーナが自分たちを追っているとも知らぬレオン、ミーア、ドルドムントの三人は、慎重に迷宮の探索を続けていた。 かつて六人いた戦力は、今や半分の三人。神官もいなければ、重厚な大盾で「壁」となる戦士もいない。
「……また、袋小路か」
通路に沿って左へと曲がった先で、レオンが忌々しげに吐き捨てた。 地下六階は、複雑な枝分かれと無数の行き止まりが入り組んだ、侵入者の精神を削るための設計となっており、生き物のように彼らを惑わせていた。
三人は重い溜息をつき、元の道を戻るべく、先ほどの角へと引き返した。
――だが。
「っ!?」
曲がり角を抜けた瞬間、三人は硬直した。 さっきまで何もいなかったはずの通路の中央。そこに、逃げ場を塞ぐようにして、一頭の巨大な魔獣が鎮座していた。
老人の顔、ライオンの体、蝙蝠の翼、そして鎌のように鋭いサソリの尾。 魔獣マンティコア。
それはレオンたちを見据えると、異常なまでに人間らしい表情を浮かべ、喉の奥からせせら笑うような声を漏らした。
「ヒヒッ……。聖女に捨てられた哀れな敗残兵よ。その悲しみの感情を味わうため、その脳を存分に喰らわせてもらうとしよう」
その嘲笑は、これ以上ないほど明確な戦闘開始の合図であった。
「……来るぞ! サソリの尾に気をつけろ、一撃でも掠れば終わりだぞ!」
レオンが長剣を抜き放ち、鋭い声を張り上げる。その隣では、ドルドムントがシルクハットを指で弾き、複眼を妖しく発光させた。
「おやおや。待ち伏せとは、私のようなスカウトの真似事ですな。ですが、その『顔』は私の好みではアリませんぞ!」
レオンとドルドムントは同時に通路を駆け出し、一気に間合いを詰めた。地下六階、フィランヌどころかテューレやラトーナも不在の絶望的な戦いの幕が、ついに切って落とされた。
「ヒヒッ……まずはその自慢の眼を曇らせ、暗闇の恐怖の中で踊り狂うがいい!」
マンティコアが鋭い爪を伸ばし、最前線のドルドムントの顔面へ触れようと肉薄する。 「――深淵の影、光を食らいて闇となれ。『ブラインドネス(盲目化)』!」
老人の唇から零れた呪言が黒い霧となってドルドムントを包み込む。しかし、ドルドムントは即座に自らの精神にのみ作用するタレント『エモーションコントロール』を発動した。恐怖や動揺を脳から切り離し、蟻人としての冷徹な理性を強制的に維持する。その「心の空白」は、精神に付け入る魔法の干渉を完璧に撥ね除け、至近距離での盲目化を完全に無効化した。
「おやおや。心を無に、
ドルドムントが悠然と身をかわすと同時に、レオンが長剣を抜き放ち間合いを詰める。だが、マンティコアは離れた位置から不敵に叫んだ。
「――肉を裂き、血を汚し、死の刻印を刻まん。『
不可視の魔力の刃がレオンを襲う。しかし、レオンは裏街で培った天性の勘で、空気が爆ぜる一瞬の予兆を察知していた。彼は致命傷となる軌道から紙一重で身を逸らす。魔力の衝撃が背後の壁を砕くが、レオンは一歩も退くことなく、逆にその勢いを利用して最短距離で踏み込んだ。呪文を放ち終えた直後の無防備なマンティコアの横腹を、彼の長剣が深く切り裂く。
マンティコアの横腹から鮮血が漏れるが、その邪悪な笑みは消えない。彼は即座に次の暗黒魔法を紡ぎ始めた。標的は、レオンではなく側面のドルドムントだ。
「――汝の生は我が糧、我が傷は汝の罰。命を啜れ、『
魔法の力が空気を歪め、マンティコアの脇腹に刻まれた斬撃の傷が忽然と消失する。それと同時に、ドルドムントの脇腹に全く同じ裂傷が現れ、鮮血が噴き出した。
「ぐっ……傷の『横流し』とは、これまた悪趣味な……!」
ドルドムントは激痛に顔を歪めながらも、折れることはなかった。溢れる血を無視して間合いを詰め、口から強力な
「おのれ、不純物め! 忌々しい呪文で引き裂いてくれるわ!」
マンティコアが更なる大魔法を放とうと、大きく口を開く。その強大な精神抵抗を打ち破るべく、後方のミーアは普段より深く魔力を練り上げ、風の精霊を自らの意志で束縛した。彼女の周囲で荒れ狂う風の精霊が、彼女の怒りに呼応するように鋭く鳴り響く。
「さっきから聞いてれば、その下品な口をパクパクさせて……。あんたみたいな救いようのない悪党が、主役面して喋り続けるなんて見てるだけで虫酸が走るわ。その減らず口、あたしが一生分黙らせてあげる。――いいから、身の程をわきまえて黙りなさいッ!」
ミーアの全身全霊を込めた詠唱が、重苦しい空間を震わせる。
「――静寂を司る風の精霊よ、一切の言の葉を、音なき深淵に封じ込めよ! 『
放たれた精霊魔法が、マンティコアの喉元を強引に圧殺した。魔獣の顔が驚愕に歪む。魔法を発動させるための声は出口を失い、喉の奥で虚しく潰れた。マンティコアは必死に呪文を叫ぼうと、まるで酸欠の魚のように口を「パクパク」と動かしたが、そこからは音一つ漏れず、暗黒魔法の揺らぎも霧散していった。
高い知性を誇り、「邪悪な知識」を自慢としていた魔獣にとって、この沈黙は耐え難い屈辱であった。怒りに震えるマンティコアの顔は真っ赤に染まり、ついに「奥の手」を発動する。
蝙蝠の翼を羽ばたかせ、空中へと飛び上がる魔獣。その狙いは、先頭に立つレオン。物理的な破壊力と猛毒を兼ね備えたサソリの尾――必殺の毒針が、急降下の勢いと共に放たれた。
「……来たな、サソリの毒針!」
レオンは長剣を構え、迎撃のタイミングを計る。しかし、魔導を封じられ逆上したマンティコアの突進は、プロの剣士の予測を上回る速度と狂気を孕んでいた。
「なっ……!?」
回避は間に合わない。レオンが歯を食いしばった瞬間、鈍い衝撃と共に、巨大な毒針が彼の胸元へと深く、無慈悲に突き刺さった瞬間――時間は、物理的な現実とは異なる「深淵」へと跳躍した。
◆ ◆ ◆
あらゆる生命の喧騒が霧散した、光さえも吸い込まれる虚無の領域。「モスコスの大迷宮」の最深部、玉座の間である。そこに鎮座する
「ほう。裏街の剣士の生死判定か。期待値からすれば、2個振って合計6以上なら生存。確率は悪くないはずだが……」
DMは楽しげにダイスを放った。石の床を踊り、やがて止まった出目は――「2」と「3」。合計は「5」であった。
「……ハ、外れか。さっきのサソリ男との戦いといい、ほとほと毒に弱い男だ。
DMはどこか自嘲気味に呟き、すぐさま自分の言葉に眉をひそめた。
「
己の記憶の深淵に触れかけたDMの困惑を置き去りにして、運命の歯車は再び現実の戦場へと回帰した。
◆ ◆ ◆
「レオンッ!!」
ミーアの絶叫が響く。毒針を浴びたレオンは、激痛と致死毒の奔流に膝を突き、その場に崩れ落ちた。勝利を確信したマンティコアが、
だがその時、闇を切り裂いて巨大な「壁」が突進してきた。
「あたしの大切な仲間に……手を出すんじゃないわよぉぉ!!」
絶叫と共に走り込んできたのは、戦士テューレだった。フィランヌの『不滅の口伝』により魂を繋ぎ止めた彼は、かつてない覇気を纏い、巨大な大盾を先頭にマンティコアへ全体重を乗せた体当たりを食らわせた。不意を突かれた魔獣が大きくよろめく。
「今よ、ラトーナちゃん!!」
テューレの作った一瞬の隙。後方に控えていたラトーナが、自らの精神力を極限まで燃焼させ、杖を掲げた。
その脳裏をよぎったのは、フィランヌがテューレに授けた「十文」の言葉。
(あの人が十行の言葉でテューレ様を繋ぎ止めたなら……私は、十行の祈りで奇跡を掴んでみせる!)
聖女への猛烈な対抗心を燃やし、ラトーナは神獣ディレーオンのタレント――『ラストチャンス』を、あえて同じ十行の詠唱に織り成して紡ぎ始めた。
1「――巡る
2「――去りゆく魂、その裾を掴まん」
3「――運命の糸を、今一度紡ぎ直し」
4「――絶望の底に、奇跡の火を灯せ」
5「――神獣の眼よ、我が祈りを承認せよ」
6「――消えゆく灯火、再び燃え上がり」
7「――冷えた血潮に、不屈の鼓動を」
8「――冥府の門を、我が愛しき力で閉ざさん」
9「――まだ死なせず、絶対に離さず!」
10「――来たれ、
◆ ◆ ◆
その瞬間。深淵のDMの目の前にあった、止まっていたはずのダイスが、眩いばかりの黄金色に発光した。
「なっ……!?」
DMが驚愕に見開いた瞳の前で、黄金の輝きを放つダイスはまるで意志を持つかのように勝手に跳ね上がり、空中で力強く回転した。そして再び床に落ちたその出目は――眩い光を放つ「6」のゾロ目を示して静止した。
「
◆ ◆ ◆
現実の戦場では、絶命したはずのレオンが黄金のオーラを纏って跳ね起きていた。彼は一瞬で長剣を正眼に構えると、マンティコアの懐へと鋭く踏み込んだ。
「……礼を言うぞ、二人とも!」
レオンの渾身の一撃が、魔獣の喉元を深く切り裂いた。マンティコアは傷を移そうと『スティールライフ』の詠唱を試みるが、ミーアの『ミュート』によって封じられた口からは音一つ漏れず、自己修復の
「仲間を、レオンを殺そうとした罪は重いわよ。……その醜い身体ごと、一生そこで沈黙していることね!」
怒りに燃えるミーアが手を振ると、凝縮された三つの
邪悪な知性を誇った魔獣は、断末魔を上げることも許されぬまま、その巨体を重く地面に沈ませた。二度と動くことのない、物言わぬ巨大な肉塊として、迷宮の闇に永遠に残ることになったのだ。
静寂が戻った通路で、レオンは荒い息を吐きながらも、二人のもとへ歩み寄った。
「テューレ、ラトーナ。……よく来てくれた、感謝する。だが、この複雑な迷宮でよく俺を追ってこれたな」
テューレは照れくさそうに頭を掻きながら、ニヤリと笑った。
「レオン、あんたの教訓を思い出したのよ。万が一の時は、床すれすれの視界で目印を探せって。床から三フィートの位置についた赤い矢印……それを追って、あたしたちはここに来たのよ」
レオンは一瞬、目を丸くしたが、やがて不器用な笑みを浮かべて右手を差し出した。
「……俺の『生還の技術』を信じてくれたのか。裏街で得た知識に、救われたな」
二人の戦士は、固い握手を交わした。
再会したミーアとドルドムント、そして一途な愛で黄金の奇跡を起こしたラトーナ。
かくして、再び5人全員が揃った。彼らの背中には、もう迷いはない。不滅の絆を胸に、一行はさらに深い迷宮の奥、真実の眠る深淵へと足を進めるのだった。
ご拝読いただきありがとうございます!第21話をお届けいたしました。
今回は、一度は別れたテューレとラトーナが、レオンの遺した「床から3フィートの位置の目印(裏街の生還術)」を辿って追いつき、再び5人のパーティとして再結集する胸熱な回となりました!
フィランヌが『レジェンド』で十行の言葉を刻んだのなら、ラトーナもまたテューレへの愛と聖女への対抗心から「十行の祈り」で運命のダイスを黄金に塗り替えてみせる――。
TRPGのシステム(出目5➔出目6ゾロの大逆転)を、二人のヒロインの言葉の対比として物語に昇華させたこの演出を楽しんでいただけていれば幸いです。
再び全員揃った5人の冒険者たち。
フィランヌの追撃、そしてこの迷宮の真実へ向けて、ストーリーはさらに怒涛の展開へと突入していきます!
……でも、フィランヌのことだから、案外向こうでも伸び伸びやってるんじゃないかなあ。というわけで、次回はフィランヌVS敵リーダーの第2ラウンドが始まります。お楽しみに!