テューレたちがマンティコアとの死闘を繰り広げ、黄金のダイスによって奇跡的な生還を果たす数刻前のことである。
地下六階のさらに深部。先行する「神獣の従者」一行は、合理性を極めたリーダーの男の指揮のもと、早くも地下七階へと続く下り階段を発見していた。冷気が吹き上がる奈落の入り口を前に、一行が足を進めようとしたその時、最後尾のフィランヌが足を止めた。
彼女は腰に帯びた銀の細身の剣を抜き放つと、白大理石の壁面に向かって、迷いなくその切っ先を走らせた。
(……何をしている?)
リーダーの男は、ついに救国の英雄が後方の仲間に向けた具体的な「策」を弄し始めたかと、ニヤリと口角を上げて歩み寄った。彼女が残すのは、合流地点の指示か、あるいは自分たちを陥れるための魔法的な罠の起動条件か。男は好奇心と警戒を孕んだ瞳で、刻まれた文字を覗き込んだ。
だが、そこに刻まれていたのは、男の予想を遥かに裏切る奇妙な一文だった。
『テューレへ。これ以上待たせるなら、利息として借金を一割増やすわよ』
「…………なんだ、これは」
あまりに迷宮探索の文脈からかけ離れたその言葉に、男は目を白黒させた。暗号にしては支離滅裂であり、何らかの隠語だとしても「利息」という単語の必然性が見当たらない。男は困惑を隠せぬまま、探りを入れるようにフィランヌへ声をかけた。
「テューレというと、あの情けない顔をしていた戦士のことか。……もう一人の剣士(レオン)の方はともかく、あのような男に、我らの後を追ってここまで来る気概があるとは思えんがな」
フィランヌは剣を鞘に収めると、肩越しに男を鋭く睨みつけた。
「盗み見とは感心しないわね。……でも、あたしには確信があるわ。あのバカは、途中でくたばりさえしなければ、必ずここまで来る」
その言葉を聞いた瞬間、リーダーの男は心中でほくそ笑んだ。
(なるほど、そういうことか……)
この難解な文字列は暗号でも何でもない。ただの、恋に落ちた愚かな女が残した支離滅裂な「ラブレター」に過ぎなかったのだ。いくら帝国を倒した英雄と言えど、所詮は女か。男は初めて、精神的な意味でフィランヌに対して高みに立ったような全能感を覚えた。
「君が主観でそう信じるのは勝手だが、確率論で言えば感心はしないな。あんな見込みのない男に賭けるなんて、あまりに馬鹿げている」
「そうかもしれないわね」
フィランヌは冷淡に、しかしどこか誇らしげに鼻で笑った。
「でもね、あたしはあいつに「
リーダーの男は、哀れみすら含んだ嘲笑を漏らした。
「それでは、いつか破産するぞ。ラーダの神官ともあろう者が、損切りのタイミングも分からんとは」
「あら、よくご存じね。確かにあたしは、かつてテューレを生き返らせるために10万ゴールドもの大金を費やして、スッカラカンになったわ」
そしてフィランヌは男の横を通り過ぎる際、耳元で氷のように冷たく、けれど確かな熱を帯びた声で付け加えた。
「――ま、その分は必ず、あいつの人生を丸ごと使ってでも取り返してみせるけどね」
男は仰天し、思わずフィランヌの書き置きを二度見した。確かに「借金を返せ」という、身も蓋もない執念がそこには刻まれている。王侯貴族ならいざ知らず、あの凡庸な戦士一人の命に「10万ゴールド」という巨額を投じた点も驚きだが、それ以上に理解不能なのは彼女の態度だった。
恋は人を盲目にさせ、無償の愛を捧げさせるものだと思っていた。しかしフィランヌの場合は、「一銭たりともまけるつもりはない」という冷徹なビジネスライクな姿勢が同居している。
(……わけがわからん。愚かな男に貢いでいるのか、それとも残酷に取り立てているのか……。いや、これを普通だと考える彼女の方が異常なのか、それとも俺の常識が足りないのか?)
合理性の化身であったはずのリーダーの男は、首を左右に振り、混乱を振り切るようにフィランヌのそばを離れた。
だが、そのやり取りを傍らで静かに聞いていたダークエルフのメルヴィーだけは、フィランヌの言いたいことが分かるような気がしていた。
(……あの男、ドルドムントと言ったか。あのアリも、同じようなことを雄弁に語っていたわね……)
「種族」や「能力」ではなく、ただの「テューレ」という存在を信じ、その価値に全てを委ねる者たち。メルヴィーは、壁に刻まれた文字を見つめ、自分たちが追われているのは単なる「敗残兵」ではなく、自分たちの合理性では決して測ることのできない「未知の怪物」なのかもしれないと、かすかな戦慄を覚えるのだった。
◆ ◆ ◆
地下七階へと続く冷たい階段を下りながら、リーダーの男はフィランヌの「合理性を超えた執着」に苛立ちを募らせていた。そして、その後方を歩くメルヴィーは、先ほどフィランヌが壁に刻んだ文字が、脳裏から離れずにいた。
「……何をそんなに、あの下俗な書き置きを気にしている、メルヴィー」
リーダーの男が、振り返りもせずに冷淡に問いかけた。スカウトである彼の索敵に集中を欠くことは、このパーティにとって「損失」でしかないからだ。
メルヴィーは一瞬、銀髪を揺らして視線を伏せたが、隣を歩くフィランヌの、すべてを見透かすような青い瞳とぶつかった。
「……リーダー。あの壁の文字を見た時、思い出しただけよ。地下四階の『差別檻』で、あの巨大な蟻――ドルドムントと過ごした時間のことを」
フィランヌの眉が、微かに跳ねた。
「あら? アンタ、あのキザな蟻と二人きりだったの?」
メルヴィーは、重い口を開いた。
「ええ。あそこは、亜人種を徹底的に痛めつけることだけを目的にした絶望の檻だった。……私は、あいつに言ってやったのよ。『人間はいつかアンタを裏切る。今は便利だから飼われているだけだ』とね」
「ふふ、いかにもアンタたちが考えそうな、つまらない『合理性』ね」
フィランヌの嘲笑にも、メルヴィーは表情を変えなかった。
「……でも、あいつは笑ったわ。自分を大きく見せようとする見栄っ張りで情けない男に救われたと……誇らしげに語っていた」
メルヴィーの声は、静かだが確かな熱を帯びていた。
「その時は、冗談だと思った。人格も能力もない者と命を預け合う関係になるなんて……。でも、フィランヌ、貴女がさっき言った『ずっと彼の目に賭け続ける』という言葉を聞いて、少しだけ分かった気がしたのよ」
フィランヌは歩みを止め、メルヴィーの顔を真っ直ぐに見つめた。その表情からいつもの毒気が消え、一人の「ラーダの神官」としての慈愛が滲む。
「……そう。あいつは、そういうバカなのよ。そして、そのバカさを信じて背中を預けるドルドムントも、同じくらい救いようのないバカ。……でもね、メルヴィー。この奈落の底で最後に笑うのは、計算高い天才じゃなくて、信じることをやめなかったバカの方なのよ」
◆ ◆ ◆
地下七階を進み続ける一行の前に、開けた部屋が姿を見せた。その床には五人のぼろをまとった男たちと、でっぷり太った豪華な服装をした男が描かれており、その部屋の奥には、重厚な彫刻が施された門が一行の前に立ち塞がっていた。
「何だ、この床の絵は?」
一行の一人、ハヤブサのビーストマスターのファルクが不審げに床を見る。罠ではないかと警戒しているのだ。
「どうやら、罠ではないようだな。これは五人の飢えた旅人と、資産家の絵だ」
リーダーの男はそう言い、床の絵を恐れずどんどん先に進む。
「なぜそこまで分かる?」
ファルクの問いに対し、リーダーの男は、門の傍らにある天秤を掲げた賢者の石像を指で示した。その石像の下の台座には、古の文字でこう刻まれている。
『五人の飢えた旅人の前に、百枚の金貨をあげようという資産家が現れた。ただし、リーダーが分配案を提示し、その案に過半数が反対すれば、金貨はあげられないと言う。欲深きリーダーは、己の取り分を何枚にすべきか?』
「……ふん、古典的な『海賊分配問題』の変奏か」
リーダーの男は、眉ひとつ動かさずに冷笑した。彼は空中に数式を描くように指先を動かし、瞬時に「合理的な正解」を導き出す。
「この問いの論理的解は明白だ。他の四人のうち、過半数の賛成――つまり二人を味方につければいい。反対すれば一銭も得られないのだから、合理的な人間なら、一枚でも貰えれば賛成に回るはず。……ならば答えは、自分に98枚、賛成させる二人に各1枚、残る二人には零枚だ」
男は自信満々に、石像の手元の天秤にあった数字のダイヤルを回し「98」に合わせようとした。
「ちょっと考えが甘いんじゃない、リーダーさん。その計算、致命的に間違っているわよ」
背後からフィランヌの涼やかな、しかし冷徹な声が響いた。リーダーの男は、不愉快そうに振り返る。
「……何だと? これは純粋な数学的最適解だ。救国の英雄は算術もできんのか?」
「算術は得意よ。でも、あたしが言っているのは『人間の感情』の話」
「バカな。飢えて何か食べ物を得なくてはいけないという旅人に、それ以上に大事なものなどあるはずがない!」
リーダーの男はフィランヌの警告を「敗残兵の負け惜しみ」と切り捨て、「98」という数字をセットする。
と、その瞬間――。
石像の眼窩が、不吉な紅蓮の光を放った。天秤が激しく揺れ、その部屋全体にただ事とは思えない地響きの音が轟く。
「なっ……正解ではないというのか!?」
男は狼狽した。計算は完璧なはずだった。だが、彼の精緻な合理性の計算式には、ある不確定要素が最初から排除されていたのだ。フィランヌは銀の剣の柄に手をかけ、嘲笑うように目を細めた。
「98枚独り占めしようとするリーダーなんて、残りの連中は『自分が飢えて死んででも』道連れにして殺そうとするわよ。人間はね、自分が得をすることより、『不当な扱いをする相手に報復すること』にカタルシスを感じる生き物なの。……そんなことも分からないなんて、本当にアンタ、知性が足りないわね――『不当な配分は、死による浄化を招く』。……来るわよ!」
フィランヌが叫ぶと同時に、天井から無数の槍衾が飛び出し、分配を「零」とされ、切り捨てられた旅人の絵の位置にいたメルヴィーの頭上へと降り注いだ。合理性を追求し、メルヴィーを「切り捨てても良いコスト」と計算した報いだ。
リーダーは、自らの計算ミスと予期せぬ罠の起動に完全に硬直していた。
「どいて!!」
フィランヌは呆然としているリーダーの男を突き飛ばすと、石像の手元の天秤に、新たな別の数字をセットする。と、天井の槍衾は間一髪、メルヴィーに突き刺さる寸前にぴたりと止まり、ゆっくり上へと戻っていって、元の天井に収まった。
我に返ったリーダーは、フィランヌの後ろから彼女が刻んだ数字を覗き込む。そこには「20」と書かれてあった。
「そんな馬鹿な!」リーダーは、その答えが正解だとは信じられなくて叫んだ。「問題は『欲深きリーダー』なんだぞ!? 自分に20枚ということは、全部で100枚だからほかの4人にも同じ数、20枚を配ったということだ。それでは、パズルの前提である『己の取り分を最大化したい』という目的からは最も遠ざかるではないか!」
フィランヌはその金の巻毛をかき揚げ、腰を抜かしているメルヴィーの方へ近づきながら答えた。
「でもその代わり、『いじられ役』という無敵の盾を手に入れたわ……よいしょっと、大丈夫?」
フィランヌに助け起こされたメルヴィーは、まだわが身に起きたことに呆然としながらも、頷いてその問いに答える。
「す、すまない、助けられた……」
「いえいえ、どういたしまして……それで、答えの解説の続きだけど、全員に20枚を配った瞬間、あなたは『分配の権力者』から『ちょっと頼りないけど、取り分をケチらなかった良いやつ兼おもちゃ』に降格するの。旅の道中、何かにつけて『またビビってるのか? リーダー』『20枚しか取れない人だしね』とバカにされるだろうけど、それはあなたに敵意がない証拠よ? 旅の間に何かあれば、きっとあなたを助けてくれる。しかも、あなたのポケットにはしっかり20枚の金貨が入っている。飢えをしのぎ、次の街で美味いものを食べるには十分な額でしょ?『プライドは捨てる、でも旅の実利はきっちり貰う』。これこそが、本当の意味での『したたかな欲深さ』ってわけ」
フィランヌが語った言葉に、リーダーは声も出ない。彼は、自分の基準とは違う「合理性」がこの世に存在することを認めざるを得なかった。
「そうか……だからこそ、君はあの男に惚れ込んでいるのか……」
フィランヌは、リーダーの言葉に初めて精神的ダメージを受けたかのように顔をゆがませて、両手をブンブンと振って否定した。
「惚れ込んでいるわけじゃないって!あんな、男のくせに自分のことを『あたし』なんて言うヤツのことなんか!」
その様子に、メルヴィーがぷっと吹き出す。いや、メルヴィーだけではない。ファルクも、フィランヌに手を差し出して握手を求めた。
「見事な手並みだった。救国の英雄の力、見せてもらったよ」
フィランヌはにっこり笑ってその手を取りながら言った。
「ま、たまたまだけどね」
◆ ◆ ◆
数刻後。地下七階へと続く階段の入り口に、ようやく辿り着いた五人の影があった。
「ひえぇぇ!! 出たわぁぁ!! 待たせただけで利息を一割も乗せるなんて、やっぱりあの人、地獄の取り立て屋だわぁぁ!!」
レオンが見つけた「床から三フィート」のところに刻まれた、フィランヌの無慈悲なメッセージ。テューレの情けない絶叫が奈落に響き渡る。
「あのねえ、こうなっちゃったのは自業自得でしょ、テューレ。上の階でしょぼーんってなっちゃって、いや、あたしはもう進めないってさんざん駄々をこねてたのは、いったい誰だったっけ?」
ミーアがニヤニヤ笑いながら、テューレの痛いところを突く。
「ひどい!? あたし一応リーダーよ!? ほら、こういう時はみんなで『大丈夫ですかリーダー』って労うのが義務でしょ!?」
その声を聞いた4人は、一斉にどっと笑った。その顔には、リーダーへの尊崇の念などはかけらもないが、どこか晴れやかな、そして不滅の絆への確信が満ち溢れていた。
彼らは迷いなく、深淵へと、力強く足を踏み出していくのだった。
壁に刻まれた「利息一割」のメッセージを「愚かなラブレター」と切り捨て、海賊分配問題で計算通りの98枚をセットして自滅しかけた敵リーダー。
それに対し、「人間は損をしてでも、自分を蔑んだ奴に報復する生き物だ」と切って捨て、全員に20枚ずつ配って「頼りないけど愛されるいじられ役」に収まるという真の解答を導き出したフィランヌの立ち回りを楽しんでいただけたでしょうか。
(リーダーが、今やリーダーの座を奪われそうになってるのは、かわいそうですが……)
計算上の最適解よりも、愚かでも信じ合える仲間(テューレ)に「一点賭け(ストレート・アップ)」し続けること。
その生き方が、かつて心に傷を負ったダークエルフのメルヴィーの中にも、小さな光を灯すことになりました。
次回、第23話「黄金の残響、胡蝶の誘い」。 迷宮の深淵が、彼らの絆をさらなる試練へと誘う……
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