凄まじい激闘の熱気が冷めやらぬ深淵の間に、重苦しい沈黙が降りていた。
床に転がったフィランヌの銀の剣が、大理石の床に虚しく転がっている。彼女はぽつりと立ち尽くしたまま、かつての仲間たちの姿を見つめていた。黄金の盾を抱えて息を切らせるテューレ、獅子の姿から人間の女性へと戻りつつあるラトーナ。
フィランヌは深く息を吐き出すと、固く結んでいた唇をゆっくりと開いた。
「……みんな、本当にごめんなさい。あたしの意地を通したせいで、ひどい傷を負わせてしまったわね。……それと、ありがとう。こんなあたしを、見捨てずにいてくれて」
その声には、先ほどまでの峻厳な響きは一切なかった。彼女は自嘲気味に微笑むと、真っ直ぐにテューレを見据えた。
「 ……負けたわ、テューレ。アンタがこれほど立派な『壁』になるなんて、あたしの計算外だった。……少しは『仮』じゃない、リーダーらしい背中になったじゃない 」
フィランヌの言葉に、テューレは目を丸くし、それから照れくさそうに鼻の下を擦った。
「……ひえぇ、フィランヌに褒められるなんて、明日は槍の雨でも降るのかしら」
いつものテューレらしい返答に、フィランヌはふっと表情を和らげ、いつもの不敵で頼もしい笑みを浮かべてみせる。
「ふん。相変わらずあたしのことを鬼か何かのように言ってくれるわね。……でも、いいわ。感動の再会はここまで。まだ迷宮の最奥部への探索は残ってるんだから。さあ、治療を始めましょう」
いつもの凛とした彼女の言葉に、張り詰めていた一同の空気がわずかに和らいだ。レオンやドルドムントが安堵の息を漏らし、ミーアが素早く手当の準備へと取り掛かる。
だが、部屋の隅に目を向けた一同の動きが、ピタリと止まった。
そこには、糸の切れた人形のように倒れ伏したままのダークエルフ――メルヴィーが横たわっていた。
彼女は規則正しい微弱な呼吸を繰り返しているが、その意識は深い闇の底にある。
そんな姿を見て、彼女を「役立たず」と切り捨てて逃げ去った敵リーダーの冷酷な言葉が、重くドルドムントの脳裏に蘇る。
「……救いはないのですかな。誇り高きエルフともあろうお方が、このような無惨な裏切りを噛み締めながら眠り続けるなど、あまりにも非道な仕打ち」
ドルドムントが沈痛な面持ちでメルヴィーを見下ろした。
「ラトーナちゃん、このエルフちゃんの魔法を解くことはできない?」
テューレが尋ねると、ラトーナは困惑した表情で首を振った。
「私のソーサラーの魔法や、ミーアのシャーマンの精神魔法の中には、確かに『スリープ』を解くものもあります。……でも、これはただの眠りじゃありません」
ラトーナはメルヴィーに近づき、その身体から立ち上る異常な魔力の残滓を感じ取って戦慄した。
「このダークエルフ自身の魔力が元々高すぎる上に、私が『魔法の手鏡』で撥ね返してしまったんです。あの魔道具の特性で、術の威力が数倍に跳ね上がって彼女自身に突き刺さっている……。今の私たちの
ミーアも手をかざして診断してみたが、すぐに青ざめて手を引いた。
「ダメだわ……! 精神の深い場所に、強力な魔力の杭が何本も打ち込まれているみたい!」
強力無比な「永劫の眠り」が、自乗されて術者を縛り付けている。救う手立てがないという絶望的な状況に、一同は顔を見合わせた。
「ふふ……。専門家の皆様でも、その『不自由な檻』は壊せませんのね」
鈴を転がすような、しかし背筋が凍るほど滑らかな声が響いた。
場違いな青いドレスを揺らしながら、サリナが歩み寄ってくる。 その手にあるショートスピアの穂先は、まるで眠り姫の心臓を狙うかのように怪しくきらめいていた。
「サリナさん……何か方法があるってわけ?」
テューレが身構えながら問うと、サリナは三日月のような笑みを浮かべ、眠るメルヴィーを見下ろした。
「呪文や祈りで解けぬなら、より深い『夢』で上書きして差し上げればよろしいのですわ。現実の理が通用しない檻であるならば、肉体ごとあの御方の『夢の内側』へ堕ち、そこに巣食う混迷の核を直接撃ち砕くしかありません――そう、かつて皆様がミーア様の精神を救うために、わたくしの背の羽を追って『
サリナはそう言うと、ドレスの大きく開いた背中にそっと手を添えた。すると、その背中からまたあの虹色の胡蝶の羽が伸びる。そしてサリナは、紫色の瞳の奥に、かつて一同を極限の選択へと追い込んだあの妖しい光を灯した。
「胡蝶の鱗粉が現実を塗り潰す、甘美なる混沌の領域。その門を開くのは容易いことですけれど……。お気をつけあそばせ? 彼女の夢は、誇りを踏みにじられた絶望と屈辱の檻。一歩間違えれば、今度は皆様がその悪夢の『生贄』となり、二度と目覚めぬ人形へと成り果てるのですから。……ふふ、それでもこの哀れな迷い子を救いに行く覚悟はおありですか?」
サリナが口ずさんだ「
「……ふむ。ならば、このドルドムントがその『悪夢の檻』へ飛び込みましょう。彼女とは悪趣味な檻で、奇妙な言葉を交わした因縁がありましてね。人間社会への絶望に囚われた彼女の心は、私にも痛いほどよく分かる。……ですが、私はテューレ殿たちに一人の『ドルドムント』として受け入れられ、救われた。今度は私が、彼女の閉ざされた心をピッキングして差し上げる番です」
「……ドルドムントが行くのなら、あたしも行くわ!」
その言葉に導かれるように、ミーアが拳を強く握りしめて立候補した。
「サリナさん、わかってる。かつてあたしが呪いに囚われて絶望の底にいた時、みんなが『
二人の強い決意の言葉を聞き、腕を組んでいたレオンが静かに長剣の柄に手をかけた。
「……ならば、俺も行こう。精神の内側で何が待ち受けているかは分からんが、混迷の核を直接撃ち砕くというのなら、背中を任せられる戦士も必要だろう」
頼もしい三人の立候補が揃う中、最後尾にいた金髪の神官が、ゆっくりと手を上げた。
「……あたしも行くわ。あたしも、潜入メンバーに立候補する」
テューレが「えっ、フィランヌも?」と意外そうに声を上げる。フィランヌはいつもの涼しげな表情のまま、ふっと少し寂しげな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「少しね、あたしなりの『罪滅ぼし』の意味を込めてよ。それに……この子とはちょっと、短い旅の間に色々あってね。神官としての義務だけじゃなくて、個人的な理由よ。……だから、あたしも彼女を放っておけないの」
「罪滅ぼしに……因縁……?」
テューレはフィランヌの言葉を反芻し、ハッと何かを思い至ったように目を見開いた。彼女が先ほど口にしていた、どこか割り切れないような態度――。
「……フィランヌ、ひょっとしてさっきあんたが言ってた『義理』って……そういうことだったの?」
フィランヌはそれには直接答えず、ただ「さあ、どうかしらね」といつものドSな笑みで軽く受け流した。けれど、その瞳の奥にある決意が本物であることを、テューレは誰よりも理解していた。
「分かったわよぅ……。フィランヌ、ドルドムント、ミーア、レオン。メルヴィーというこの人の心を救う役目、あんたたち四人に託すわね。あたしとラトーナちゃんは、この現実の世界で、無防備な肉体をきっちり死守してみせるわ!」
「はい、テューレ様! 私も、テューレ様のおそばでしっかり守ります!」
ラトーナもまた、頼もしく頷いてみせた。
「ふふ……。素晴らしい『不自由な覚悟』ですわね」
サリナが 歪な三日月の笑みを深め、背中の開いたドレスから虹色の羽を大きく広げた。怪しい胡蝶の鱗粉が部屋全体を包み込み、現実の景色を甘美なる混沌へと塗り潰していく――。
「さあ、お行きなさいな。誇り高きエルフのレディが、その薄暗い絶望の檻で、皆様の訪れを待っていますわ――」
サリナの声が遠ざかるとともに、フィランヌ、ドルドムント、レオン、ミーアの四人は深い眠りへと落ち、重力すら曖昧な「無」の回廊へと堕ちていった。
真っ白な空間に降り立った彼らの前に、先頭を舞っていたサリナが静かに舞い降りた。彼女の背中の虹色の羽が、精神世界の霧を払う。
「ここから先は、メルヴィー様の『閉ざされた記憶』の領域。……ですが、このまま進むには皆様の
サリナは虚空に手を伸ばした。そこには、一行が先ほどまで抱いていた「ダークエルフのメルヴィーを救いたい」という強い記憶が、淡い光の塊となって浮遊していた。サリナがその光に指先で触れる。
すると、その記憶は細胞分裂のように、 ふたつの意識の塊 に分かれた。
「ひとつは、メルヴィー様を助けてあげたいというドルドムント様やフィランヌ様の気持ちに感動し、その高潔さに報いたいという思い。 もうひとつは、メルヴィー様というひとりの娘を、ただただ哀れむ気持ち。 ……ふたつの意識の塊は、今、反対方向に離れてゆこうとしています。 さあ、皆様なら……どちらを追いかけますか? その『理由』と共に答えてください 」
真っ先に動いたのは、ドルドムントだった。彼は迷いなく、後者の「哀れむ気持ち」の塊へと手を伸ばした。
「 哀れむ気持ちを追いかけます。 理由? おやおや、そんなもの『アリ』ませんぞ。 ただ、あの檻の中で震えていた彼女の手を引いてあげたい、そう思っただけですな。 紳士として、レディの涙を放っておくなど『ナシ』の選択肢ですぞ」
次にミーアが、魔法のバトンをくるくると回しながら、前者の「感動した思い」の方を指差した。
「 あたしはこっち! 理由はね、 なんとなく、その方が物語として美しい気がしたからよ! 高潔な心の連鎖なんて、あたしの好奇心をそそるには十分すぎるわ」
続いてフィランヌが、銀の剣を肩に預け、後者の「哀れむ気持ち」を追いかけながら吐き捨てるように言った。
「 あたしもこっちよ! 理由はねぇ……まあ、成り行きでこの子とはそんな感じになっちゃったのよ」
最後に残ったレオンが、長剣の柄を握りしめ、眉間に皺を寄せて重々しく口を開いた。前者の「感動した思い」を見据えて答える。
「 俺は、仲間の高潔な気持ちを追いかける。 なぜなら、メルヴィーとかいう女と俺とは、何のつながりもないからだ。そして、これからの冒険を考えた場合、信頼すべき仲間の意志に報いることこそが探索の完遂への最短ルートであり、論理的に考えても、個人の同情より組織の士気を優先すべきだからだ。それに、メルヴィーが見捨てられたのは単なるくだらん仲間割れであって、自業自得というものだ」
サリナは4人の顔を見回して言った。
「合格したのは、ドルドムント様、ミーア様、フィランヌ様―― そしてあなたは不合格ですわ、レオン様 」
サリナの冷徹な一言に、レオンは絶句した。
「な……!? なぜだ、どっちが片方が正解ではないのか!?なのに、ドルドムントやフィランヌとミーアは別の答えを選んでいるのに両方合格になっているし、なぜミーアと同じ答えを選んだ俺だけが失格にならなくてはいけない!?」
サリナは三日月のような笑みを浮かべ、レオンの胸元を指差した。
「理由が『正しすぎ』ます。 この深層心理の世界において、論理や理屈は毒でしかありません。皆様のように、もっと本能や欲求のままに叫べばよろしかったのに……。正論を積み重ねる貴方の精神は、メルヴィー様の混沌とした絶望とは、決して噛み合いませんわ」
レオンが呆然とする中、サリナが羽を羽ばたかせると、彼の足元の空間が黄金色に輝き始めた。
「レオン様、貴方はここまでです。テューレ様たちの元へ戻り、現実を守りなさい。……さあ、あとの皆様。 理屈を捨てた魂だけを、メルヴィー様の闇へとお連れしましょう」
レオンの姿が光の中に消えると同時に、残された三人の視界は一転し、どろどろとした暗黒の感情が渦巻く「メルヴィーの絶望の檻」――彼女が人間に差別され、裏切られた過去の記憶へと繋がっていった。
今回の一番の見どころ(?)は、なんといってもレオンの不合格でしょうか。「論理的に正しいことを言ったのに落とされる」というのは、彼のキャラクターを象徴する場面として、実はかなり最初のプロット段階から決めていた展開です。
レオンは終始「正しい」ことを言っているのに、深層心理の世界ではその正しさこそが弾かれてしまう……という皮肉、少しでも伝わっていたら嬉しいです。次のセッションで、この結果がどういう事件を巻き起こすかも書いていきたいと思います。
次回はいよいよ、メルヴィーが人間に裏切られた過去――絶望の檻の中身に踏み込んでいきます。ドルドムントは果たしてどう彼女の心と向き合うのか、ご期待ください。
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