「……『S地点』、到着」
激しい転送の衝撃が収まった直後、サソリの戦士クライシを肩に担いだリーダーの男は、冷たい石床に膝を突いた。肺に流れ込んできたのは、地下七階の澱んだ魔力を含んだ冷気ではない。それは、どこか懐かしく、そしてひどく無機質な、迷宮の入り口特有の乾燥した空気だった。
男が顔を上げると、そこには見慣れた光景が広がっていた。結晶体に囲まれた不気味にして壮麗な石造りの大扉――数日前、彼らが野心と共に潜り抜けた、モスコスの大迷宮地下一階、そのスタート地点である。
「『
男は自嘲気味に口角を歪めた。合理性を極めた彼にとって、万が一の敗走時に最も確実に安全が保障され、かつ追撃を振り切れる場所は、
直後、頭上の空間が激しく波打ち、凄まじい風切り音と共に一頭のサーベルタイガーが降ってきた。着地の寸前、獣の姿は人間の男へと解け、ラグナスがその場に降り立った。
「……リーダー、無事か」
ラグナスは肩で息をしながら、周囲を鋭く警戒する。彼はタレント「
「ああ。それよりクライシだ。……ひどい有様だな」
リーダーの男が視線を落とした先で、クライシは断続的な呻き声を上げていた。ドルドムントの放った強力な
リーダーの男は迷いなく懐から薬瓶を取り出すと、クライシの口に流し込み、手早く止血の処置を施した。その手つきには一切の感情が籠もっておらず、ただ「貴重な戦力を維持する」ための、機械的な正確さだけがあった。
「……メルヴィーとフィランヌはどうした」
ラグナスが、傷口を抑えるリーダーの手元を見つめながら問いかけた。リーダーの男は、顔を上げることなく冷淡に答えた。
「切り捨てた。メルヴィーの眠りは永劫に解けず、フィランヌは我らを守る盾にはなり得なかった。……戦力外の不純物を抱えて死地を彷徨うのは、プロのすることではない」
その冷酷な決断に、ラグナスは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに無機質な戦士の顔に戻った。このパーティにおいて、情による繋がりなど最初から「損失」でしかなかったからだ。
二人がクライシの応急処置を終え、重苦しい沈黙の中で時を過ごしていると、天井の闇から羽ばたき音が聞こえてきた。現れたのは、ボロボロに傷ついた一羽のハヤブサだった。床に降り立つと同時に人間の姿へと戻ったファルクは、血の気の引いた顔で、壁に背を預けて座り込んでいるリーダーへと歩み寄った。
「……クライシの具合はどうだ?」
ファルクは、力なく横たわるサソリの戦士を見下ろして問いかけた。ドルドムントの蟻酸によって無残に融解された傷口は、今もクライシの呼吸に合わせてかすかに震えている。
「思ったより悪いな」
リーダーの男は、血に汚れた指抜きグローブを締め直し、淡々と答えた。
「命に別状はないが、これ以上迷宮の冒険を続行するのは不可能だ」
「フン……。では、ここにクライシを置いていって、残り三人で奴らに立ち向かうか?」
ファルクが曲刀の柄を弄びながら、自嘲気味な皮肉を口にした。
「冗談だろ」
リーダーは顔も上げず、吐き捨てるように言った。
「たった三人であの手強い連中と戦えるわけがない。レオンの剣技も、あのフィランヌの知略も、もはや我らの合理性では測りきれんものだ。……今回はここで撤退だ。ファルクとラグナスは、クライシを治療のできる村まで連れて行ってやってくれ」
意外な言葉に、ファルクは目を丸くした。
「……撤退だと?効率と勝利のみを求めていたあんたが、随分と聞き分けがいいじゃないか。……で、あんたはどうするんだ?」
「私は、再び迷宮に戻る」
リーダーの男は静かに立ち上がると、野戦服の内側に隠されていた一振りの聖印を、ファルクの前に晒した。それは、クリスタニアのどの有力部族の意匠とも異なる、巨大な双角を持つ野牛(バイソン)を象った、禍々しくも神々しい金属のエンブレムであった。
「……私の正体は、迷宮を司る神獣、モスコスの
ファルクとラグナスの間に、凍りつくような戦慄が走った。
「モスコスの……従者?では、あんたはこの
「そうだ。だが、私は待ち続けるだけのDMとは違う役割を担っている。迷宮を『攻略する側』の、な。……モスコス様は説いておられる。『人生とは挑戦の連続であり、迷宮はその思想を体現するものだ』と。私は、その教えが正しいか否かを証明するために、こうして攻略者として深淵を目指してきたのだ」
男は、暗闇の先へと視線を据えたまま、言葉を強めた。
「最深部に鎮座するDM――。あの方が何を考えているかは、同じ神獣に仕える私には分かる。即ち、モスコス様が投げかける『ゴールのない迷宮のような人生に、いかなる意味を見出すか』という絶望的な問いに囚われ、迷宮の一部と化してしまった者なのだ」
「問いに、囚われた……?」
「そうだ。その問いに答えるためには、単なる武力ではない、確固たる信念を持った知性の持ち主が必要なのだ。私自身ではその答えは出せん。だからこそ、私は私と共に深淵へ至り、正しい『回答』を示せる者を求めていた」
それを聞いたファルクが、何かに気づいたように顔を上げた。
「……だからあんたは、あの女、フィランヌを仲間に引き入れたのか?」
「そうだ」
男は僅かに口角を上げた。
「知恵を司る神ラーダの、しかも高位の神官ともなれば、モスコスの大神官の問いにも良い答えを返せるのではないかと思ったのだ。実際、彼女は想像以上に頭が切れる女だった。あのまま一緒に行動していれば、危うくリーダーの座を奪われるほどにな」
男は瞳を閉じ、自らの内側に眠る魔力を練り上げた。
「さっき三人でも無理だと言ったのはあんただろ。一人で戻って何が出来ると言うんだ」
そのファルクが引き止める声に応えるように、リーダーの男は振り返り、真の「危惧」を口にした。
「……ファルク、止めるな。私には戻らねばならない理由が、もう一つあるのだ」
男は険しい眼差しで、迷宮の深い闇をさらに見据えた。
「この大迷宮には今、不穏な気配が漂っている。モスコス様以外の異物の存在が感じられるのだ。……さっき戦った、あの胡蝶の民の女(サリナ)は何かおかしい」
「あの女が、異物……?」
「ああ。表向きはただの挑戦者を演じていたが、あやつの目論見が何かを突き止める必要がある。モスコス様の試練の場が、あのような不純物に穢されるのを黙って見過ごすわけにはいかんのだ。
……あの連中が、あるいはフィランヌがDMにどのような『答え』を突きつけるのか。そしてあの胡蝶の女が、この深淵で何を咲かせようとしているのか……その結末を見届ける。……タレント発動」
「なっ……よせ!」
ラグナスが手を伸ばすが、リーダーの男の身体はすでに青白い燐光に包まれていた。一度見たことのある場所へ瞬間移動する神獣モスコスのタレント――彼が選んだ座標は、つい先ほどまで死闘を繰り広げていた地下七階、あの「終焉の間」であった。
「さらばだ。……後は頼むぞ」
次の瞬間、リーダーの姿は爆ぜるような光と共に消失し、地下一階の冷たい石壁だけが残された。
翼をもがれ、誇りをも砕かれたファルクたちは、ただ呆然と、迷宮の「真の審判者」へと覚醒し、深淵へと再び跳んでいった男の残響を見送るしかなかった。
そして、地下七階の戦場跡。転送の衝撃と共に音もなく降り立ったリーダーの男は、物陰に身を潜めながら、すでに移動を開始していたテューレたちの後を追い始めた。
第29話をお読みいただき、ありがとうございます! 前回、メルヴィーを救ったレオンの必死の言い訳で大笑いしたのも束の間、今回はガラリと雰囲気が変わり、ライバルパーティのリーダーの男の「真実」に迫る、極めて重厚な回となりました。
ついに明かされた彼の正体。 彼は単なる障害や敵役ではなく、彼自身もまた「迷宮が突きつける人生の問い」に決着をつけるために挑み続けていた一人の挑戦者でした。
フィランヌを引き入れた理由や、撤退を選びつつも一人で深淵へと跳んだ判断。そこには冷徹な計算だけでなく、自らの信仰と誇りをかけた熱い執念が感じられます。さらに「異物」であるサリナの暗躍にいち早く気づき、物語の「審判者」として再び地下七階へ戻るラストは、今後の展開を大いに期待させるものになったのではないでしょうか。
パーティーそれぞれの思惑と、迷宮が持つ真の問い。これらがどのように交錯し、どんな答えへと辿り着くのか、ぜひ次回「審判の扉、分かたれる心」も楽しみにしていただければ幸いです!