地下八階の「蝶の扉」をくぐり抜けた瞬間、テューレたちを包み込んだのは、迷宮の冷気ではなく、春の陽だまりのような柔らかな温もりであった。
「……え? なにこれ、あたしたち外に出ちゃったのぉ?」
テューレが目を瞬かせると、そこには信じられない光景が広がっていた。薄暗い石造りの回廊は消え失せ、視界の先には、虹色の霧に包まれた美しい村が姿を現していた。家々は白磁のような輝きを放ち、道端にはクリスタニアのどこにも咲いていないはずの、淡く発光する花々が咲き乱れている。
「……懐かしい匂い。わたくしの故郷、『胡蝶の村』へようこそ」
いつの間にか案内人となっていたサリナが、優雅にドレスを翻して微笑んだ。彼女の背後から伸びる巨大な虹色の羽が、村に漂う霧と共鳴し、宝石を砕いたような鱗粉を周囲に振りまいている。
「胡蝶の村……。サリナさんの、故郷なの?」
ラトーナが夢見るような心地で呟いた。かつての殺伐とした戦いが嘘のように、村には穏やかな音楽が流れ、どこからか楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「ええ。ここでは、誰もが望むものを手に入れ、不自由な現実から解き放たれますの。……ほら、テューレ様。あちらをご覧なさいな」
サリナが指し示した村の広場には、山のように積み上げられた金貨の山と、眩いばかりの宝石が溢れかえっていた。
「ひ、ひえぇぇ〜っ!? 何よこれ、本物のゴールドじゃないのぉ!!」
テューレの瞳が、見たこともないようなギラギラとした欲望で輝き始めた。彼は巨大なタワーシールドをその場に放り出すと、よだれを垂らさんばかりの勢いで金貨の山へと駆け寄った。
金貨の山に埋もれながら、テューレは恍惚とした表情で叫んだ。
「あはは、これで10万ゴールド……いや、100万ゴールドだってあるわよぉ! これだけあれば、フィランヌに借金を返したって、あたしは一生遊んで暮らせるわぁ!」
テューレの手から、戦士としての力が急速に抜けていく。フィランヌから授かった「不滅の口伝」という名の鎖が、この溢れんばかりの黄金を前にして急速にその重みを失い、甘美な誘惑のささやきへと書き換えられていった。
「もう、重い盾を持って震える必要なんてない……。あたし、もう頑張らなくていいのねぇ……」
テューレの表情から覇気が完全に消え失せ、その姿はまるで、甘い毒に酔いしれた腑抜けそのものであった。
一方、ラトーナもまた、別の「至宝」に囚われていた。彼女の目の前に、いつの間にか一人の男が立っていた。それはテューレだった。しかし、いつも彼女を「大親友」と呼んで距離を置く、あの鈍感な男ではない。
「ラトーナ、愛しているよ。君だけが僕の宝物だ。フィランヌのところへなんて、もう行かない。ずっと、僕の隣で愛らしく笑っていてくれ」
幻影のテューレが甘い声で囁き、ラトーナの細い肩を抱き寄せた。ラトーナの瞳から、静かに涙がこぼれ落ちる。
「あぁ……テューレ様……。ラトーナがずっと、ずっと欲しかったのは、この言葉だったんです……っ!」
ラトーナは魔法使いの杖を落とした。彼女にとっての「至宝」――テューレの隣という安息が、ここでは何の苦労もなく、完璧な形で与えられていた。彼女はテューレの胸に顔を埋め、現実の過酷さも、フィランヌへの嫉妬も、すべてを忘却の彼方へと追いやっていった。
サリナは、広場の中心で腑抜けとなって黄金と愛を貪る二人を、満足げに眺めていた。彼女が持つアーティファクト『シェールの混沌輪』により、ある「装置」が見ている絶望の夢を魔力に変え、二人を甘い夢へといざなうこの「停滞した楽園」を生み出しているのだ。
「ふふ……。借金も、届かぬ恋も、ここではすべて過去の遺物。不自由な現実に帰る必要なんて、どこにもありませんわ」
だが、そんな停滞の風景の中で、たった一人だけ理性を保ち続けている女性がいた。その女性・フィランヌは、銀の剣を肩に担いだまま村の広場に仁王立ちしていた。彼女の美しい顔は、いつになく険しい。その周囲にも、ラーダの失われた古文書や、至高の知恵を授けるという幻影たちが群がっていたが、彼女はそれを一瞥するだけで、近寄らせようともしなかった。
「……あらあら、ラーダの神官様。貴女は、これらすべての知恵を拒むのですか? まだ、その不自由な『現実』にしがみつくおつもりで?」
サリナが怪訝そうに、そして憐れむように問いかけると、フィランヌは鼻でせせら笑い、一歩前へ踏み出した。
「やっぱりね。アンタ、最初から怪しいと思ってたわよ。道端で拾われた迷子のフリをしてたけど、この階層の仕掛け……っていうより、この『村』そのものがアンタの作品なんでしょう?」
フィランヌの青い瞳が、鋭くサリナを射抜く。
「一体何者なのよ。ただのビーストマスターにしては、やってることが悪趣味すぎるわ。アンタ、この迷宮で何を企んでいるの?」
サリナは三日月のような笑みを深め、背中の虹色の羽をゆっくりと羽ばたかせた。
「わたくしはサリナ。神獣レスフェーンに仕える、胡蝶の民。……企んでいる、だなんて心外ですわ。わたくしはただ、失われたものをあるべき姿へ戻し、救済を与えているだけ。ここは、かつてベルディアの軍勢によって無残に滅ぼされたわたくしの故郷――『胡蝶の村』なのですから」
サリナの声には、揺るぎない確信と、深い哀切が混ざり合っていた。
「わたくしはこの大迷宮の最深部に、村から奪われたアーティファクト『シェールの混沌輪』を据えました。それにより、この迷宮の最下層を、わたくしの記憶にある『滅びる前の美しい村』として
「悪魔の夢を苗床にして村を再生させたっていうの……? 吐き気がするわね」
フィランヌは銀の剣の柄を握り直し、一歩詰め寄った。
「それに、さっきから聞いてれば『神獣モスコスの迷宮の主』がどうだとか……。アンタ、この迷宮を司る神の意志を利用していると言うけれど、ラーダの知識に照らせば、神獣がそのような不浄な真似を許すはずがないわ」
「ふふ……。ラーダの知識、ですか。やはり『新しき民』の神官様は、何もご存じないのですね」
サリナは憐れむような視線をフィランヌに向け、残酷な真実を口にした。
「フィランヌ様。貴女がたが『迷宮を司る神獣』と信じているモスコスなど、このクリスタニアには最初から存在しませんわ。……あれの正体は、神話の時代の戦いに乗じて夢幻界から侵入してきた、強大な『
「……モスコスが、神獣ではなく……『混沌』ですって?」
フィランヌの顔が驚愕に強張った。クリスタニアの秩序において、神獣は絶対の守護者であり、混沌はその対極にある排除すべき「澱み」である。その常識を根底から覆す言葉に、彼女の知性が激しく拒絶反応を起こした。
「どういうことよ、サリナ! モスコスを信奉する部族だって存在するし、その力は現にこの迷宮を形作っている。それが神獣の奇跡でなくて、何だと言うの!?」
サリナは、フィランヌの混乱を愉しむように、ゆっくりと解説を始めた。
「かつて、その混沌の主格は、礎の神獣王ウルスの族長によって歴史から抹消される形で封印されました。あまりにも強大で、あまりにも狡猾な不純物だったからですわ」
サリナは空中に指で円を描いた。そこから漏れ出す魔力は、神聖な神獣の力とは似て非なる、どこか粘り気のある暗黒の波動を帯びていた。
「しかし、『覚醒の鐘』によってその封印は解かれました。解き放たれたモスコスという名の混沌の主格は、神の座に擬態し、再び現世を侵食し始めたのです。……彼らは人間の執着や絶望を苗床にして『迷宮』を生成し、挑戦者を飲み込むことで、物質界に自らを定着させようとしているのですわ」
「つまり……この迷宮自体が、世界を飲み込むための『胃袋』だっていうの?」
フィランヌの問いに、サリナは優雅に頷いた。
「左様。モスコスは『人生とは、出口のない無限の苦しみの連鎖』という絶望の問いを投げかけ、それに屈した者の精神を核として取り込む。今のDMも、その犠牲者の一人に過ぎません。……わたくしは、その混沌が持つ『物理法則すら書き換える自由度』を利用して、自らの悲願を叶えただけ。偽りの神が求める絶望の夢と、わたくしが求める故郷の再生――。この迷宮は、二つの欲望が合致して生まれた、美しき共犯の檻なのですわ」
「……狂ってるわ。神を騙る混沌と、それに魂を売った案内人……。アンタの言う『救済』がどんなに綺麗でもね、あたしにとっては、あのバカが自分の足で稼ぐ予定の10万ゴールドより、価値がないわ!!」
フィランヌの瞳に宿る、強烈なまでの「現実への執着」。フィランヌの銀の剣がサリナの喉元を鋭く突き刺そうとする。しかし、サリナはその切っ先を恐れる様子もなく、むしろ憐れむような、慈愛に満ちた微笑みを深めただけだった。
「……ふふ。威勢が良いのは結構ですけれど、ラーダの神官様。貴女はご自分の行いが、本当に彼らのためになっているとお思いなのですか?」
サリナの声は、広場に降り注ぐ虹色の鱗粉と共に、甘い毒のようにフィランヌの鼓膜に絡みついた。
「貴女が彼に授けた、『10万ゴールドの借金』という名の
「何ですって……?」
「それだけではありませんわ。貴女という巨大な太陽が、彼の魂をその『恩義』という名の光で焼き続けている限り、その隣にいるあの方――ラトーナ様の恋心は、永遠に報われることはありません。テューレ様が貴女という
サリナはドレスの裾を優雅に揺らし、腑抜けとなって黄金の山に埋もれるテューレと、幻影の愛に涙するラトーナを指し示した。
「貴女が『現実』という名の鎖で彼らを縛り付けているからこそ、彼らは苦しんでいる。……テューレ様の明日を奪い、ラトーナ様の心を殺しているのは、他ならぬ貴女の存在そのものなのですわ、フィランヌ様」
「あたしの……存在が……」
フィランヌの手から、力が抜けた。銀の剣の切っ先が、わずかに震えて下がる。
彼を生き返らせ、明日を生きる理由を与えたつもりでいたその「正しさ」が、実は仲間たちの幸福を根底から阻害する、残酷な暴力であったのではないか。今までテューレに投げかけられた数々の愚痴が、呪いのように蘇る。
「さあ、その不自由な知性を捨てなさいな。わたくしが、貴女もろともすべてを救って差し上げますわ」
サリナの差し出した手が、フィランヌの視界を覆うように、ゆっくりと近づいてくる。
不屈の精神と鋭い知性を誇ったフィランヌだったが、サリナが突きつけた「救いの裏側にある残酷さ」に対し、返す言葉を何一つ見つけることができなかった。ついに、銀の剣が手から滑り落ち、地面に力なく転がった。
虹色の鱗粉が舞い散る楽園の静寂の中で、銀の剣を手放した指先だけが、力なく虚空を彷徨っていた。
今回は、フィランヌが発明した、「テューレを支配するシステム」について解説します。
フィランヌはかつて帝国との戦いにおいて、テューレが槍に貫かれて冷たくなった姿を実際に目の前で看取り、その身体を自らの手で抱きしめています。彼女にとって「テューレの死」は、「二度と繰り返してはならない最悪の現実」なのです。
しかし、生き返ったテューレは「史上最弱の主役」と呼ばれるほどのヘタレ戦士です。普通に自由にしてしまえば、またいつ、自分の手の届かないところで死んでしまうか分からない。だからこそ、フィランヌは「10万ゴールドを返すまでは、私の許可なく絶対に死ぬことは許さない」という、「生き残らなくてはいけない呪い」をテューレの魂に植え付ける必要があったのです。
「フィランヌとの約束がある」=「俺はまだ死んではいけない」というわけです。
もちろん、だからと言って「ただ生きているだけの人間」になど、何の価値もありません。フィランヌは莫大な借金をテューレに課すことで、「死なないギリギリのレベルでの冒険を続け、自らを鍛え続ける」というもう一つの呪いを与えました。
生き残る ⇒ 仲間を守る ⇒ リーダーとして成長する ⇒ 強くなる ⇒ いつか10万ゴールドを返す
つまり、テューレを立派なリーダーへ覚醒させるというプログラムだったわけです。
そして、さらに恐ろしいのが「フィランヌという存在」がテューレの人生にとっての全てになることです。
テューレの目的は、単に金を稼ぐのではなく、「借金を返済する=フィランヌとの約束を果たす」になっています。
だからテューレは10万ゴールドを返済するまで、フィランヌへの精神的な負い目から逃げられません。
そして、10万ゴールドというお金は、現代日本で言うと1億円もの価値があります。つまり、「テューレは一生フィランヌに報いることだけを考えて生き続ける」ことになる恐れが高い。
実際、テューレは「黄金伝説」の最後で借金を返すことをディレーオンに申し出て、その願いを承認されています。10万ゴールドの借金という義務が、いつしか彼自身の意志となっていたわけです。
つまりこのシステムは、フィランヌ自身すら気づかないまま、テューレが一生自分を見つめ、自分を愛し続けるように仕向けている、恐るべき独占システムでもあったのです。
だから「フィランヌがテューレを支配するシステム」の正体は一言で言うなら、
「借金」を「生存理由」に変え、
「生存理由」を「責任」に変え、
「責任」を「誇り」に変え、
最後には「自分自身の意志(と愛)」に変えてしまうシステム
です。
これが10万ゴールドという莫大な投資でフィランヌが得た「テューレとのつながり」の全てです。