虹色の鱗粉が静かに舞い散る「胡蝶の村」の広場。そこには、かつて帝国を震撼させた救国の英雄であるとは思えぬほど、無残に打ちひしがれたフィランヌの姿があった。
彼女は白大理石の石畳の上に力なく膝を突き、焦点の定まらない瞳で床を見つめたまま、ぴくりとも動かない。そのすぐ目の前には、彼女の魂の象徴でもあり、数々の死線を共にしてきた「銀の細身の剣」が、まるで持ち主に見捨てられた無機質な鉄塊のように、冷たく転がっていた。
フィランヌの耳には、先ほどサリナが囁いた甘い毒のような言葉が、不滅の呪いとなって、今なお彼女の脳裏を焼き尽くすように響き続けている。
彼女がテューレを救うために授けた「10万ゴールドの借金」という名の
これは幻影が見せた嘘ではない。フィランヌが最も信頼し、拠り所としてきた「ラーダの知恵」によっても導き出される、逃れられぬ正論であった。彼女は自らの「正しさ」が、愛すべき仲間たちの幸福を根底から阻害する暴力であったという事実に耐えきれず、自ら戦う意志を、そして聖女としての仮面を脱ぎ捨てたのである。
勝利を確信したサリナは、三日月のような笑みをさらに深め、ひざまずくフィランヌを見下ろした。
「左様ですわ、神官様。貴女の『正しさ』は、ここではただの毒。……さあ、その不自由な知性を捨て、わたくしが用意したこの完璧な停滞の中に溺れなさいな」
――ズズズ……ッ!!
その時、楽園の静寂を根底から引き裂くような、不気味な地鳴りが大地を揺るがした。
「なっ……!?」
サリナの優雅な動きが止まる。地震ではない。空間を構成していた魔力の糸が、物理的な悲鳴を上げながら、目に見える亀裂となって大気に走り始めたのだ。
「……何事ですの? DMの絶望が、揺らいでいる……?」
サリナが狼狽した表情で虚空を睨む。次の瞬間、次元の壁を越えて、迷宮の最深部から決定的な「金属の破壊音」が響き渡った。
「馬鹿な……! 玉座の『シェールの混沌輪』が外されたというのですか!? 誰が……一体誰が、あの方を絶望の淵から救い出したというの!!」
レオンたちが混沌輪を取り外した衝撃は、魔力源を絶たれた「サリナの故郷」に、一瞬にして致命的な崩壊をもたらした。
白磁のように輝いていた村の家々に、蜘蛛の巣のような亀裂が一斉に走り、砂となって崩れ落ちていく。淡く発光していた花々は瞬時に枯れ果て、春の陽だまりのようだった温もりは、深淵の凍てつく冷気にかき消されていった。
「ひ、ひえぇぇ〜っ!? 何よこれ、あたしのゴールドが……石っころになっちゃったじゃないのよぅ!!」
金貨の山に埋もれていたテューレが、絶叫と共に意識を現実へと引き戻された。彼の腕の中にあった眩いばかりの財宝は、今やただの冷たい瓦礫へと姿を変え、彼の欲望を無慈悲に裏切っていた。
「あ……。テューレ様……?」
幻影のテューレに抱かれていたラトーナもまた、虚空を抱きしめる形となって冷たい床に倒れ込んだ。甘い愛の言葉は霧散し、そこにはただ、崩れゆく村の残骸だけが残されていた。
「何が起きてるのよぅ、サリナさん! 説明してちょうだい!!」
テューレが慌てて立ち上がり、崩壊していく周囲を見回す。その視線が、広場の中央で抜け殻のようになっているフィランヌのところで止まった。彼女はそばで瓦礫が次々と落ちているというのに、うつろな瞳で床を見つめているだけで、動こうともしない。
「フィランヌ!? ちょっと、どうしたのよ! 『無敵』のアンタが、そんな情けない顔して……!」
テューレが駆け寄り、彼女の肩を揺さぶるが、フィランヌはピクリとも反応しない。その目は、現実の崩壊すら認識していないかのように、ただ自らの内側の絶望だけを見つめていたのだ。
その様子を見ていたサリナが、故郷を再び喪失するという恐怖と憤怒に顔を醜く歪め、吐き捨てるように言い放った。
「無駄よ、テューレ様。その女の心は、わたくしが完璧にへし折って差し上げましたわ」
「へし折った……? アンタ、フィランヌに何をしたのよ!!」
テューレの剣幕に、サリナは三日月のような瞳を細め、残酷な真実を教えた。
「教えて差し上げただけですわ。彼女が貴方に課した『借金』という名の恩義が、どれほど貴方を不自由にし、安息を奪い、そして隣にいるラトーナ様の心を殺してきたかという事実を。……彼女は、自らの『正しさ』が貴方たちを壊していたという真実に耐えきれず、自ら銀の剣を捨てたのですわ!」
サリナの言葉を聞き、テューレは絶句した。隣にいたラトーナもまた、自分の中にある「嫉妬」という醜い感情を言い当てられたかのような言葉に、唇を震わせ、フィランヌに声をかけることもできなかった。
崩壊は止まらない。虹色の霧が晴れ、偽りの空の天井が剥がれ落ちると、そこには元の薄暗く湿った、地下回廊の姿が露わになり始めていた。
「……何が正しさよ、バカバカしいわねぇ」
轟音の中、テューレの低く、重みのある声が響いた。彼はサリナを無視し、フィランヌの前に膝を突くと、その繊手を力強く握りしめた。
「ねえ、フィランヌ。聞きなさいよ。アンタの理屈が正しかろうが間違ってようが、あたしが今ここに生きてるのは、アンタがあたしを『助けたい』って願って、全財産を投げ打ってくれたからなのよ」
テューレの頭の中には、フィランヌが授けた『不滅の口伝』がいまだに鳴り響いている。
「10万ゴールドの借金? 鎖? ……上等じゃないの! あたしはね、アンタにその金をきっちり返すまでは、地獄の底でも楽園の隅でも、どこへだってお供してやるんだからぁ!!」
「……テューレ……?」
フィランヌの瞳に、わずかな、けれど確かな光が戻った。テューレはそのまま、彼女のすぐ横に転がっている銀の剣を拾い上げ、無理やりその冷えた手に握らせた。
「いいから立ちなさいよ! あたしがアンタの盾になる。アンタは、あたしを導く
テューレは黄金の盾を構え、フィランヌを庇うようにサリナへと背を向けた。その姿には、かつてのヘタレ戦士の面影はなく、仲間を守る「壁」としての覚悟が宿っていた。
「逃げるわよ、ラトーナちゃん! フィランヌはあたしが守る! この場所が完全に消えてなくなる前に、元の二つの扉があった部屋まで全力疾走よぅ!!」
「はい、テューレ様!!」
瓦解する「胡蝶の村」。テューレは魂の抜けたようなフィランヌを抱えるようにして、崩落する瓦礫を潜り抜けながら、冷たい現実が待つ「出口」へと向かって、力強く駆け出した。
脱出を目指して、崩壊する胡蝶の村を駆けるテューレとラトーナ、そして、テューレにされるがままに抱えられているフィランヌ。
砂となって崩れ落ちていく白大理石の破片が、虚空で虹色の鱗粉と混ざり合い、この世のものとは思えぬほど幻想的で、しかし残酷な終焉の光景を描き出している。
と、扉を目指すテューレの行く手に、その虹色の羽根から禍々しい鱗粉を放ちながら、サリナが音もなく舞い降りた。
「……行かせませんわ。二度も、私から故郷を奪うというのですか!?」
サリナの声は、悲痛な絶叫となって響き渡る。彼女は夢幻のタレントの力を強引に絞り出し、テューレの精神を直接砕こうとする。だが、その必死な拒絶を切り裂いたのは、テューレの泥臭くも力強い叫びだった。
「どきなさいよ、サリナさん! あんたが作ったこの場所は、確かに綺麗だったわよ。でもね、あたしたちには…… 返さなきゃいけない借金も、守らなきゃいけない絆も、全部あっちの汚い現実にあるのよ!死んでもこのフィランヌは離さないって、あたしの魂がそう言ってるんだからぁ!!」
「…………っ!」
サリナの動きが、ピタリと止まった。 彼女はフィランヌを抱えて立つテューレの瞳の奥に、レスフェーンが説くところの「混沌の中で自己を保つ強固な意志」――すなわち不滅の「心の城」を見出したのだった。
サリナは悟った。この男にとっては、彼女が用意した「完璧な停滞」よりも、フィランヌと培った「不自由な絆」の方が、遥かに強く、遥かに美しく輝いているのだと。
サリナはふっと力を抜き、三日月のような瞳を細めて自嘲気味に微笑んだ。
「……そう。あなたたちにとっての『心の城』は、わたくしの作ったこの偽物の楽園よりも、ずっと頑丈だったというわけね」
彼女は静かに、最後となるレスフェーンへの祈りを捧げた。
「――舞いなさい、夢蝕の胡蝶。現実を塗り潰す光はもういらない。……今度は、愛おしき迷い子たちを『あるべき明日』へと導きなさいな。『
サリナが全霊を込めて羽ばたかせた瞬間、空間に眩いばかりの純白の門が現れた。それは、肉体を持ったまま夢幻の迷宮から現実世界へと帰還するための、唯一の次元の道標だった。
「さあ、行きなさい! ここはもうすぐ、ただの『何もなかった場所』に戻りますわ。……あなた方の、醜くて愛おしい現実へ帰りなさい!」
サリナの力強い言葉に背中を押され、テューレたちは眩い光の門へと飛び込んだ。
一行の姿が光の中に消えるのを見届けた後、サリナはただ一人、完全に崩壊しつつある村の残骸の中に立ち尽くしていた。彼女は最初から、現実へ戻るつもりなどなかった。
「……さよなら、夢を捨てた勇者様たち」
サリナの身体が、ゆっくりと光の粒子へと解けていく。 彼女はその最期の瞬間に、光り輝く一羽の「ナイトパピヨン」へと姿を変えた。
サリナは、村を彷徨っていた同胞たちの魂や、レオンの父から解き放たれた混沌の残滓たちを、その美しい虹色の羽の中に優しく包み込んだ。そして、神獣レスフェーンが待つ、穏やかで静かな夢幻界の深淵を目指して、高く、高く羽ばたいていったのである。
やがて、迷宮の最下層から、最後の一片の輝きが消えた。
後に残されたのは、ただの古びた石造りの地下回廊と、不自由な明日を選び取った勇者たちが床に残した「足跡」だけであった。
「正しさ」という毒に敗れ、銀の剣を落としたフィランヌ。
そんな彼女を救い上げたのは、緻密な理屈でも神の教えでもなく、テューレが言い放った「借金を返すまで、どこまでもお供する」という圧倒的なエゴと絆でした。
サリナの提示した「完璧な停滞」を拒み、不自由で傷つけ合う現実を選ぶテューレたちの意志。それを受け止め、最後は彼らを現実へと送り出し、自身は夢幻界へと還っていったサリナの去り際もまた、切なくも美しい幕引きとなりました。
DMの呪縛を破ったレオンたちと、偽りの楽園を脱出したテューレたち。
崩れ去る迷宮のなか、分かたれていた二つのパーティは、また巡り合うこととなります。
次回「セッション35:七人の生還者、聖女の黄昏」――ついに全員合流! 長かった迷宮攻略の果てに、彼らが遭遇する最後の試練とは。ぜひお楽しみに!