南クリスタニアの国境沿い。かつて冒険の始まりの地となった、潮風と砂埃の舞うあの懐かしき街に、六人の勇者たちが帰還した。
「……はぁ、ようやく戻ってきたわねぇ。なんだか、一生分歩かされた気分だわぁ……」
テューレが泥だらけの魔法のブーツを引きずりながら、街の大通りで盛大なため息をついた。その背後では、レオンが街並みを懐かしむように目を細め、ドルドムントがシルクハットを整えて、無事に帰りついた感慨を噛みしめている。
一行が向かったのは、その街でも一際立派な石造りの建物―― 『シャイロン商会・南クリスタニア支部』 であった。
建物の入り口には、戦闘用の鎧を纏いながらも、槍を杖代わりにしてぼーっと空を眺めている一人の少女の姿があった。牙の部族のビーストマスターであるその少女は、一行が目の前まで歩み寄ってようやく、焦点の定まらない丸い瞳をゆっくりと動かした。
「……あらぁ? テューレお兄ちゃん……かしらぁ? ぼーっとしててぇ、気づかなかったわぁ……。相変わらず弱そうなのにぃ、よく今まで死なずにぃ、生き残れたわねぇ……。それにミーアお姉ちゃんに、ドルドムントもぉ……」
かつてテューレと共に旅をした、元パーティメンバーの一人である戦士 メモリー だった。
テューレは「ひえっ」と情けない声を上げて、その場で見事にずっこけた。
「……ちょ、ちょっとぉ! 久しぶりの挨拶がそれぇ!? 」
「あ、メモリー! 久しぶりね! っていうか、なんでここにいるのよ?」
ミーアが嬉しそうに微笑みながら問いかけると、メモリーは間延びした声で答えた。
「……んー、ここの商会の護衛としてぇ、雇われたのー。暇だしぃ、給料もいいしぃ……」
メモリーは語尾を頼りなげに伸ばしながら間の抜けた微笑みを浮かべ、ふと一行の中にいるラトーナを見て首を傾げた。
「……そちらの、おっぱいが大きくてぇ、綺麗な人はぁ……だあれ? はじめましてぇ……」
黄金峡の記憶が曖昧なメモリーにとって、ラトーナは初対面の美しい女性にしか見えていなかったのだ。と、その時、商会の重厚な扉が開いた。
「おやおや、入り口が騒がしいと思えば……。まさか、幽霊の集団が押し掛けてきたわけではあるまいな?」
中から現れたのは、立派な法衣を纏った一人の男――かつてテューレと共に旅をした神官戦士 グラント だった。その頭部は、かつての冒険の過失で剃り上げられたままの、見事なスキンヘッドで朝日に輝いている。
「グラント! あんた、ここの支部長になってたの!?」
テューレの絶叫に、グラントは眉間に皺を寄せ、自身の輝くスキンヘッドを撫でながらニヤリと笑った。だが、その視線がテューレの隣に立つラトーナに止まった瞬間、グラントの顔から余裕が消え失せた。
「……ッ!? お、おい……テューレ、何だその女は……?」
グラントは後ずさりし、無意識に防御の構えをとった。黄金峡の記憶は消えたはずだが、ラトーナの顔を見た瞬間、彼の魂に刻まれた「理不尽な試練」への恐怖と、「性格の悪い女に散々振り回された」という拒絶反応が、凄まじい悪寒となって彼の背筋を駆け抜けたのだ。
「あら、はじめまして。私はラトーナ。テューレ様の……ええと、一番の理解者、ですわ!」
ラトーナが頬を染め、テューレの腕に甘えるように抱きついた。その「新妻」のようなあまりに可愛らしく献身的な態度にも関わらず、グラントの表情は恐怖を通り越して戦慄に変わった。
「テュ、テューレ様……だと? お前が、その女に『様』付けで呼ばれているのか!? 嘘を言え! 私の本能が叫んでいる! その女はそんな殊勝なタマじゃない! もっと冷酷で、尊大で、我々を虫けらのように見下して、無理難題なナゾナゾを突きつけてくるような、最高に鼻持ちならない女のはずだ!! 」
「ひえぇ、グラント、何を失礼なこと言ってるのよぅ! ラトーナちゃんはこんなに優しくて献身的な、あたしの天使なのよぅ!」
「天使!? どこがだ! その顔を見るだけで、私の頭皮が『ハゲる』と言っているんだぞ! 」
記憶がないはずなのに、ラトーナの顔を見るだけで「自分をハゲに追いやった元凶」であるかのような怨念が疼き、グラントはガタガタと震えだした。ミーアだけは、その様子を「やっぱりこうなるわよね」と言わんばかりの皮肉な笑みを浮かべて眺めていた。
商会の応接室。豪華なソファに腰を下ろした一行の前で、ようやく動揺を収めたグラントは(しかしラトーナからは極力距離を置いて)、レオンが差し出した 『シェールの混沌輪』 を、鑑定眼鏡越しにじっくりと観察していた。
「……ふむ。不思議なこともあるものだ。ダナーンのチャ・ザ神殿の重鎮、シャイロン様から商会の支部を任されて以来、数々の品を見てきたが……これほどの代物は初めてだ」
グラントは感心したように頷くと、帳簿にペンを走らせた。
「胡蝶の部族に伝わる唯一無二の祭器、確かに本物。良かろう。シャイロン商会の威信にかけて、これは 『12万ゴールド』 で買い取らせてもらおう」
「「「じゅ、12万ゴールドぉぉぉおおおッッ!!?」」」
テューレ、ラトーナ、ミーアの三人の歓喜の声が、商会の高い天井に反響した。
「ひえぇぇ〜っ! 借金を返しても、お釣りが来ちゃうじゃないのよぅ!!」
テューレが椅子から転げ落ちんばかりに喜び、ラトーナがその腕を取って我がことのように微笑む。その喧騒の傍らで、フィランヌはいつもの不敵な笑みを崩さず、その美しい青い瞳に安堵の光を宿していた。
だが、その安堵は、単に金貨が手に入るという世俗的な喜びだけではなかった。
(……ようやく、このバカを『不自由』から解放してあげられるのね)
フィランヌは、隣で無邪気に喜ぶテューレの横顔を、眩しいものを見るかのように目を細めて見つめた。かつて帝国との戦いで冷たくなった彼を抱きしめ、10万ゴールドという法外な蘇生費用を背負わせてまで現世に繋ぎ止めたあの日。あの日からずっと、彼女は自らの「正しさ」を信じて疑わなかった。
けれど、あの大迷宮の深淵でサリナが遺した毒のような言葉が、今も棘となって彼女の胸に刺さっている。
『貴女が彼に授けた借金という名の枷……それは彼にとって一生逃れられぬ重荷でしかない。そしてテューレ様が貴女という
フィランヌは、テューレの腕にそっと触れるラトーナの指先を見つめた。テューレが立派な戦士として、一人のリーダーとして立ち上がったのは、この上なく嬉しい。けれど、借金という「鎖」が消えることは、自分と彼を繋ぐ唯一の確かな絆が消えることでもあった。
(……この精算が終われば、あたしはまた、あの荒野へ一人で戻るのね)
蟻人の新天地を探すという過酷な使命。賑やかで、不器用で、けれど誰よりも自分を信じてくれたこの男の背中を見送る寂しさが、喉の奥までせり上がってくる。けれど、それこそが彼を本当の意味で「救う」ことなのだと、知識神の神官たる理性が彼女に微笑みを強いていた。
フィランヌは一瞬だけ瞳を閉じ、迷いを振り払うように金色の髪を払った。そして、いつもの「ドSな取り立て屋」の仮面を完璧に被り直し、まずは隣の男へと冷ややかに釘を刺した。
「……ねえテューレ、あんた調子に乗りすぎよ。当然の対価だし、あたしの苦労を考えればそれでも安いくらいなんだから。……グラント、手続きをよろしく頼むわね。利息の計算、きっちり正確にお願いするわ」
「あ、ああ、フィランヌ。任せてくれ、すぐに明細を作るよ」
テューレの「ひ、ひえぇぇ、相変わらずあたしにだけおっかないわよぅ、フィランヌ!」という情けない悲鳴が響き、商会にいつもの賑やかさが戻る。フィランヌは、その騒がしさを愛おしむように、けれど自分を律するように、深く、静かに息を吐き出した。
結局、10万ゴールドという巨額の金貨をそのまま持ち運ぶのはあまりに面倒だということになり、シャイロン商会から10万ゴールド分の手形を発行してもらう形でフィランヌへの返済が行われた。
しかし、その為替手形の発行手数料や諸経費が容赦なく差し引かれた結果、あれほどの大金を稼いだはずのテューレの手元には、僅か1000ゴールドばかりの金貨しか残らなかった。
「……うぅ、あれだけの死線を越えて、たったのこれだけぇ……?」
ガックリと肩を落とすテューレの背中を、グラントがガハハと豪快に叩いた。
「気にするなテューレ! 久しぶりにこれだけの面々が揃ったんだ、細かいことは水に流せ! よし、今日はこれから街の酒場に繰り出すぞ! 夜の凱旋記念パーティだ!」
「素晴らしい。やはり旅の締めくくりには、美味い酒と美味い飯に『アリ』つくのが一番の贅沢ですからね」
ドルドムントが優雅にシルクハットに手を当てて触角を揺らし、レオンやラトーナたちも笑顔で賛同する。
「ちょっと待ってよぅ! あたしの財布事情を無視しないでよぅ!」
テューレの必死の抗議など誰の耳にも届くはずはなく、「もちろんテューレの奢りでな!」というグラントの無慈悲な宣言と共に、主役の意志を完全に置き去りにした賑やかな宴の夜が幕を開けた。
――その酒場の片隅。
相変わらずぼーっと焦点の定まらない瞳で、大好物の肉をマイペースに頬張っているメモリーの姿があった。テューレが話しかけても、生返事どころかマトモに言葉すら返ってこない。
その様子を隣で見ていたレオンが、ついに耐えかねたように眉をひそめ、ミーアに小声で耳打ちした。
「……おい、ミーア。あいつ、テューレの昔の仲間だか何だか知らんが、いくら何でも失礼すぎるんじゃないか? 命懸けで帰ってきた元リーダーに対する態度とは思えん」
憤慨するレオンに対し、ミーアは怒る風でもなく、その様子をどこか愛おしそうに眺めながら、やんわりと彼をたしなめた。
「ふふ、いいのよレオン。これで良いの。……彼女たち牙の部族の戦士は、いざという時はすべての神獣の民の盾となって、命を捨てて死ぬ覚悟で戦う人たちなのよ」
ミーアはグラスを傾け、静かに言葉を続けた。
「あの子がこうして何も考えずに怠けていられるのは、逆に言うと、今がそれだけ平和だってこと。私たちが命を懸けて、平和な日常を守り抜いた証拠なのよ。……だからね、これは失礼なことじゃなくて、何よりも喜ぶべきことなのよ」
「……平和の、証拠か」
レオンはメモリーの間の抜けた横顔を改めて見つめ、ふっと小さく笑って納得したように頷いた。
そのやり取りを傍らで聞きながら、フィランヌは手元の酒をあおる。そして、骨付き肉に無邪気にかぶりついているメモリーの顔をじっと観察した。少しそばかすが残っているものの、よくよく見れば、整った顔立ちをした相当な美少女であることに気づく。
フィランヌは、未だにグラントたちから容赦なく追加注文を押し付けられているテューレの服の袖を、ぐいぐいと引っ張って小声で耳打ちした。
「ねえねえ、テューレ。ちょっと聞きづらいんだけどさ……。あのメモリーって子、よく見るとすごい美少女じゃない? あんた、昔一緒に旅してた間、何ていうか……その、いい感じになったりしなかったわけ?」
「へ? メモリーとあたしがぁ?」
テューレはビールジョッキを抱えたまま、心底あり得ないと言いたげに目を丸くした。
「冗談言わないでよぅ! こいつ、あたしのこと『荷物持ち兼マスコット』くらいにしか思ってないわよ! そもそも、お互いに一ミリも異性として認識してないから!」
「……んー、テューレはお兄ちゃんっていうかぁ、なんかぁ……動くぬいぐるみ、みたいなものだからぁ、結婚とかは無理ぃ……」
肉をモグモグと咀嚼しながら、地耳の良いメモリーがのんびりと会話に混ざってきた。
「あっそ……」
あまりにも一刀両断な答えを返され、フィランヌは呆れたように肩をすくめた。けれどその胸の奥では、少し残念なような、それでいてどこかホッとしたような、自分でも整理のつかない複雑な感情が小さく渦巻いていた。
その少し離れた席では、ラトーナがドルドムントの隣へと小さく身を寄せていた。フィランヌたちの会話からふと視線を外し、何かを思い出すようにジョッキを見つめて、いたずらっぽく、けれど少し寂しそうにドルドムントへと声をかける。
「ねえねえ、ドルドムント。あのダークエルフのメルヴィーさんって人、惜しかったね」
大迷宮での熾烈な旅を共に戦い抜き、それぞれの道へと歩んでいった異能の美女。その別れを惜しむようなラトーナの言葉に、ドルドムントは少しも揺らぐことなく、いつものようにジェントルマンの笑みを湛えて静かに首を振った。
「そんなことありませんぞ、ラトーナ殿。同じ空の下、歩む道が同じであるならば、またいつか合流します。それが旅人というものですから」
触角を誇らしげに揺らしながら、少しも未練を感じさせない成熟した大人としての答えを返すドルドムント。その広く深い器に、ラトーナは「すごいなあ……」と感嘆の息を漏らした。そして、賑やかな喧騒の中心でグラントたちに揉まれている情けない想い人の姿をそっと見つめ、胸をきゅっと締め付けられるようにして熱い吐息をこぼす。
「あたしは……もしテューレ様とそんなことになったら、絶対に無理。一日だって耐えられないわ……」
テューレの財布から次々とゴールドが消えていく悲鳴が響き、ラトーナが心配そうにそれを宥める中、かつての仲間と新たな仲間たちの絆が、国境沿いの夜風に溶けて賑やかに培われていくのだった。
大迷宮を攻略し、10万ゴールドの借金もついに完済。
……というわけで、今回は冒険の後の「宴」のお話でした。
かつて旅を共にしたメモリーやグラントとの再会。
失われてしまった記憶の中にも残っている、奇妙な縁。
そして、レオンが父の最期を見届けたことで得た、本当の意味での「平穏」。
大きな戦いが終わったからこそ、こうして仲間たちが笑いながら酒を飲み、肉を食べ、昔話をする。
そんな何気ない時間こそ、彼らが長い冒険を生き抜いた証なのかもしれません。
そしてフィランヌもまた、ようやくテューレを縛っていた10万ゴールドの借金から解放されました。
……なのに、どうしてでしょうね。
借金がなくなったというのに、彼女の心には、どこか寂しさが残っているようです。
メモリーとテューレが付き合っていなかったことに、ちょっと安心してしまったり。
かつての仲間たちとの再会を眺めながら、これから自分はどこへ帰るのかを考えてしまったり。
もしかするとフィランヌにとって、本当に怖かったのは「借金を返せないこと」ではなく、
借金を返した後に訪れる「本当の別れ」だったのかもしれません。
物語はいよいよ、最後の一歩へ。
次回「セッション39(最終回):???」でお会いしましょう!