夜番の騒動を終え、さらに山岳地帯を数刻ほど登り詰めたテューレたちの前に、それは突如として姿を現した。
「――あれが、モスコスの大迷宮……」
レオンの低く張り詰めた声に、全員が息をのんだ。
険しい岩山の裂け目に埋め込まれるようにして鎮座していたのは、幾何学的な結晶体に囲まれた不気味にして壮麗な石造りの大扉だった。
それは、あまりにも巨大だった。何世紀もの風雨に晒されながらも、その結晶体は内側からかすかな群青色の光を放ち、周囲の空間を厳かに支配していた。
「ひえぇ……何よこれ……。ちょっと大きすぎて、見上げてるだけで目眩がしてきちゃうわよぅ……」
テューレは気の弱そうな顔をますます引きつらせ、愛用のタワーシールドを地面に突き立て、呆然とその威容を見上げていた。
門から漂ってくるのは、生者を拒絶する冷気だけではない。それは、途方もない年月を生き抜いてきた建造物だけが持つ、圧倒的な「気高さ」だった。その意志の重さが、一枚の石扉を通じてテューレの肌にビリビリと伝わってくる。
「……怖い、わね。でも……それ以上に、なんだか凄いわ。こんなものをこの世に遺した人たちに、なんだか『ありがとう』って頭を下げたくなっちゃうじゃないのよぅ……」
テューレが涙目を拭いながら漏らした呟きに、フィランヌが深く頷いた。金髪の美しい髪を風に揺らし、腰の細身の剣にそっと手を添える。
「ええ。至高神ラーダの神殿にも劣らない、神聖なまでの職人の執念を感じるわ。悪意で満ちた罠の巣窟というよりは、大切な何かを護るための『聖域』ね。テューレ、今のあなたの敬意は、戦士としてとても正しいものよ」
「ふん、単なる古い石塊かと思ったけれど……精霊たちもこの門の前では静まり返っているわ。ただの悪趣味な迷路ではなさそうね」
ミーアもいつものニヤニヤ笑いをやめ、真剣な眼差しで門の紋様を見つめている。ラトーナもまた、壮大な魔力の残滓に圧倒されながら静かに唾を飲み込んでいた。
そんな中、レオンだけは一人、門の表面に刻まれた不自然な溝や、結晶の接合部を冷徹な目で見つめていた。その目つきは、単に初めての遺跡に驚嘆する冒険者のそれではない。
「……一般的なクリスタニアの様式とは違うな。地下への通気口を確保しつつ、侵入者の重量を分散させるための、極めて高度な『
その極めて具体的な言葉に、ミーアの美しい眉がピクリと跳ねた。
「へぇ……レオン。あなた、ただのしがない旅の剣士にしては、こういう人工的な地下迷宮の構造に、随分と詳しいのね?」
レオンは一瞬、指先をピタリと止め、瞳の奥の影を濃くした。ミーアは要するに、昨夜彼女にした話をみんなにもするべきだ、とせかしているのだ。その意図に気づいたレオンだったが、すぐにまたいつものような冷淡な表情に戻り、長剣の柄に手をかけ、ごまかすように答えた。
「……裏街で生き延びるために、あらゆる古い要塞の図面を頭に叩き込んだだけさ。……それより、感傷に浸るのはここまでだ。先行した連中が中にいる以上、ここからは一歩一歩が死線になる。入る前の『準備』を始めるぞ」
レオンの鋭い指摘により、パーティは一気に「探索モード」へと切り替わった。
「まずは『明かり』の確保だ。ドルドムント殿、すまないが松明の用意を」
「おやおや、お任せあれ。迷宮ハックの基本ですな」
ドルドムントがバックパックから取り出したのは、上質な油をたっぷりと染み込ませた松明だった。
「大迷宮の内部は完全な暗黒空間。魔法の光は便利ですが、万が一魔力遮断の罠を受けたらその瞬間、全員が盲目になりますからな。物理的な火種と松明を最低でも一人2本、予備の油をボトルで3本。これが鉄則です」
「あら、あたしの極上の
ミーアが皮肉げに、けれどドルドムントの慎重さを認めるように肩をすくめる。
「それと、ラトーナ。お前の火球の魔術は強力だが、狭い通路でぶっ放せば、熱気と煙で俺たちが窒息する。室内での迎撃は、俺とテューレの間合いに引き込んでからの各個撃破に留めてくれ」
レオンの的確な戦術指示に、ラトーナは引き締まった表情で「は、はい! 了解です!」と少し緊張気味に頷く。
「次に『
レオンは地面に小枝で簡単な図を描いた。
「テューレが左側に立ち、
「ひえぇ、あたしが一番前なのね……! でも、ラトーナちゃんやみんなの盾になるわよぅ!」
テューレがゴクリと息を呑みながらも、気が弱そうな表情に戦士の戦意を滲ませ、しっかりと盾を握り直す。
「
「完璧な布陣ね。まるで教科書通りだわ」とミーアが強気な笑みを浮かべる。
「最後に、もっとも重要なのは『
レオンは懐から、粘着性の強い赤色の顔料が塗られた小さな木製の手札を取り出した。
「通路の分岐点に出るたび、必ず通り過ぎた側の壁の『床から3フィート(約90センチ)』の位置に、進行方向を示す矢印をこの赤顔料で書き残していく。万が一敵の攻撃で前衛が倒れ、這いつくばって退却せざるなくなった時……血煙と砂塵に塗れた床すれすれの視界でも、確実に目印を捉えて生きて入り口に帰るためだ。死線における歩幅と視線は、常に低くなる」
その、あまりにも生々しい言葉の重みに、一同は一瞬沈黙した。レオンがこれほどまでに生還の技術に執着しているのは、その血塗られた歴史を自らの身体に刻み込んでいるからに他ならなかった。
「……フッ、やはりあなた、ただの裏街の住人にしては、少し『泥水の味』を知りすぎているわね」
ミーアが強気な瞳の奥を光らせて小さく呟いたが、レオンはそれに答えることなく、松明の火を静かに灯した。
「準備は整った。ドルドムント殿、扉の罠の最終チェックを。……モスコスの大迷宮、攻略を開始する」
「さて皆様、この『闇』に包まれた迷宮……まさに『やみ(闇)』くもな探索にならないよう、慎重に進むといたしましょうぞ!」
ドルドムントの軽妙なダジャレが反響する中、テューレたちは門の威容への敬意と、これから始まる未知の恐怖をしっかりと胸に抱きながら、赤々と燃える松明の光を先頭に、ついに伝説の大迷宮へとその第一歩を踏み上げていった。
第六話を読んでいただき、ありがとうございます。
ついにテューレたち一行は、モスコスの大迷宮へと足を踏み入れました。
今回は戦闘ではなく、「迷宮に挑む前の準備」を中心にした回です。
明かり、隊列、地図作成……派手な必殺技とは違いますが、こういう地道な積み重ねこそが冒険者の生存率を分けるのではないかと思っています。
まさかこれだけで3000文字使っちゃうとは思いませんでしたが⋯