砂の海に、君が流れ着く   作:陽炎帽子

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海のない岸辺

 水の中では、方角が分からなかった。

 上も下も、暗かった。

 砕けた船板が腕をかすめ、白い泡が視界を埋める。伸ばした指の先で、真鍮の鎖が一度だけ光った。

 俺は反射的にそれをつかんだ。

 父から譲られた方位磁針だった。

 そんなものより浮かぶ板を探せ、と頭のどこかで分かっていた。けれど手は鎖を離さない。針は硝子の内側で狂ったように回り、やがて北ではない一点を指した。

 海の底に、光があった。

 あり得ない。

 光は水面から差すものだ。沈んだ先で待っているものではない。

 

 それでも肺はもう限界だった。俺は回らない腕で水をかき、光へ向かった。

 遠くで、誰かが名前を呼んだ気がした。

 次の瞬間、世界から水が消えた。

 

      *

 

 ――Hoshino side

 

 砂嵐の翌日は、落とし物が多い。

 看板。自転車。どこかの家の屋根。持ち主が十年以上前に街を出ていった洗濯物まで、砂は律儀に掘り返してくれる。

「いやぁ、今日も豊作だねぇ」

 私は、半分まで砂に埋まった道路標識を見下ろした。

 色の剥げた矢印は、右へ三百メートル行けばアビドス中央水族館があると主張している。もちろん、今そこにあるのは砂丘だけだ。水族館は閉館し、建物も数年前に砂へ呑まれた。

 右手に持った散弾銃を肩へ預け、左手の端末へ目を落とす。

『ホシノ先輩、聞こえますか?』

「聞こえてるよ~、アヤネちゃん」

『旧第七排水路の水位計が、一時的に作動した記録があります。砂嵐で配線がつながっただけだとは思うのですが……』

「水なんて残ってたら大発見だねぇ。借金も一気に返せちゃったりして」

『飲用可能な水量なら、ですが。あ、それと、単独で地下へ入らないでくださいね。昨日の砂嵐で崩落している可能性があります』

「はいはい。おじさん、危ないことはしない主義だからさ」

 通信の向こうで、小さなため息が聞こえた。

『その言葉、昨日も聞きました』

「昨日は昨日、今日は今日だよ~」

『意味が分かりません!』

 私は端末を少し耳から離した。

 いつものやり取りだった。

 いつもと違うのは、風の匂いだ。

 

 乾いた砂と、錆びた鉄と、熱を持ち始めたアスファルト。その中に、ほんのわずかに塩の匂いが混じっていた。

 私の足が止まる。

 海は遠い。

 少なくとも、今のアビドスから歩いて行ける場所にはない。

「アヤネちゃん」

 声から眠気を抜く。

『はい』

「水位計が動いた時刻、もう一度お願い」

『午前四時十三分です。反応は約七秒。場所は先輩の現在地から南東へ百八十メートル、旧運河の合流部です』

「了解。地上から確認する。五分ごとに連絡するよ」

『……分かりました。どうか気をつけてください』

 崩れたガードレールを越え、古い運河へ下りる。

 かつては街の中央まで水を運んでいた水路も、今では深い砂の溝だった。両岸のコンクリートはひび割れ、底には枯れた草と空薬莢が積もっている。

 だが今日は、その砂が一部だけ濡れていた。

 私はしゃがみ、手袋の指先で触れる。

 冷たい。

 舐めるまでもなく、匂いで分かった。

「海水……?」

 濡れた跡は、運河の壁に開いた保守用の排出口から続いていた。人一人が這って通れるほどの穴だ。入口の金網は内側から押し破られ、ねじれた鉄線に黒い布が引っかかっている。

『ホシノ先輩?』

「妙なものを見つけた。塩水の跡と、壊れた排出口」

『塩水? そんなはずは……。その地下水路は、とっくに閉鎖されています。海へ接続していた記録もありません』

「だよねぇ」

 軽く返しながら、銃を構える。

 濡れた砂には、引きずったような跡があった。

 排出口から数メートル。古い橋脚の陰へ続いている。

 獣の足跡ではない。二本の腕で進もうとして、途中で力尽きた人間の跡だ。

「アヤネちゃん。救護の準備をお願い。人がいるかもしれない」

『人、ですか? すぐに皆さんへ連絡します!』

 私は橋脚を回り込んだ。

 最初に見えたのは、砂の上へ投げ出された手だった。

 指に細かな切り傷がある。手首から先は濡れ、皮膚が青白い。

 その向こうに、一人の少年が倒れていた。

 

 見慣れない濃紺の上着。砂と海水を吸った髪。肩から胸へ細い鎖が伸び、先には真鍮の方位磁針が握られている。

 頭上にヘイローは見えない。

 眠っているからか。それとも――。

「聞こえる?」

 返事はない。

 私は銃を手の届く位置へ置き、少年の首へ指を当てた。

 脈が分からない。

 

 一秒。

 二秒。

 奥歯を噛み、顎を上げて気道を確保する。胸が動いていない。口元には泡と砂がついていた。

「アヤネちゃん、意識なし。呼吸なし。これから蘇生する」

『はい。救護車両を出します。現在地を固定しました』

 胸の中央へ両手を重ねる。

 押す。

 戻す。

 

 一定の速さで繰り返す。

 少年の体は、驚くほど普通だった。

 キヴォトスの生徒なら、もう少し強引に扱っても壊れない。訓練中に吹き飛ばされ、校舎の壁へ頭から突っ込んでも、しばらくすれば文句を言いながら起きる。

 だが、この胸は違う。

 

 骨の感触が近い。力を誤れば、簡単に折れる。

 私は押す深さを調整しながら回数を数えた。

 三十回。

 口の中の砂を拭い、息を送る。

 反応はない。

 もう一度。

 胸骨圧迫を続ける。

 脳裏に、乾いた砂の上へ横たわる別の手が浮かんだ。

 今より小さかった私の手が、それに触れる。冷たい。どれほど名前を呼んでも、もう――。

「戻って」

 私の声が、知らないほど硬かった。

 押す。

「まだ、何も聞いてない」

 押す。

「勝手に終わらないで」

 少年の喉が鳴った。

 次の瞬間、体が大きく跳ねる。

 私は素早く横向きにした。少年は激しく咳き込み、濁った水と砂を吐き出した。浅いが、呼吸が戻る。

『ホシノ先輩?』

「呼吸再開。意識は――」

 少年の瞼が震えた。

 灰青色の目が、焦点の合わないまま私を見る。

「……ここ」

 ひび割れた声だった。

「海、じゃ……」

「残念。見渡す限り、砂漠だよ」

「砂漠……?」

 少年は首を動かそうとして、顔を歪めた。

「動かない方がいいね。名前、言える?」

「しおみ……カナタ」

「シオミ・カナタ君?」

 かすかに頷く。

「船が……嵐で。みんな、は」

 そこまでで声が途切れた。

「カナタ君。目を閉じないで。こっち見て」

「……眠い」

「うんうん。分かるよ。おじさんも昼寝は大好きだけどさ。今は我慢しよっか」

「おじ……?」

「気になるなら、起きてから説明してあげる」

 少年の目が閉じる。

 呼びかけには、もう反応しなかった。

 だが呼吸はある。脈も、今度は触れた。

 

 速く、弱い。

 生きている。

 

 私はそこでようやく、止めていた息を吐いた。

 

      *

 

『救護車両が旧中央通りの陥没で足止めされています!』

「迂回は?」

『北側から回ると四十分以上かかります。シロコさんが自転車で先行していますが、担架を運ぶには……』

「近くの保守小屋へ移すよ。第七排水路の管理棟、まだ地図に残ってる?」

『はい。東へ二百二十メートルです。ただ、建物の状態が確認できません』

「外で砂をかぶるよりはいいかな。移動を始めるね」

 私は端末をしまい、倒れた少年を見る。

 濡れた服のままでは体温を奪われる。日が高くなれば砂漠は急速に熱くなるが、今は砂嵐が運んだ冷たい空気が残っていた。

 銃を背負い、少年の背と膝裏へ腕を入れる。

 持ち上げた体は軽かった。

 ノノミより背が高いのに、抱えた重さは頼りない。濡れた上着から水が落ち、私の制服へ染みた。

「本当に海から来たのかなぁ」

 返事はない。

 少年――カナタ君の右手は、まだ方位磁針を握っていた。

 指を一本ずつ開こうとしても、最後の二本が固い。

「大事なもの?」

 意識のない相手へ聞き、私はやめた。

 鎖ごと首へ戻してやる。

 

 そのとき、遠くで何かが軋んだ。

 風向きが変わる。

 西の空が黄土色に染まり、砂の壁が街を呑み込みながら近づいていた。

「アヤネちゃん、二度目が来る。急ぐよ」

『こちらでも確認しました。到達予測、十二分後です!』

 私はカナタ君を抱え直し、走った。

 崩れた運河の斜面を上る。一歩ごとに靴が砂へ沈む。普段なら負担にもならない重さが、今はひどく気になった。

 腕の中の呼吸が浅い。

 

 走る振動で止まってしまわないか、何度も顔を見た。

 管理棟は、低いコンクリートの建物だった。窓の半分は砂に埋まり、扉は歪んでいる。

 私は肩で扉を押し開けた。

 内部に敵影なし。天井の崩落なし。非常用電源は死んでいる。奥に古い毛布と救急箱があったが、どちらも砂をかぶっていた。

「まあ、星一つかなぁ」

 床の比較的きれいな場所へカナタ君を寝かせる。

 濡れた上着を脱がせようとすると、カナタ君の手が動いた。

「……触るな」

 弱い声だったが、目は開いていた。

「おや、お目覚めだねぇ」

 私は両手を見せた。

「濡れたままだと冷えるよ。上着だけ脱がせたいんだけど、いい?」

 カナタ君は荒い呼吸の間から周囲を見た。

 

 砂の積もった部屋。壁に残るアビドス自治区の古い標章。私の制服と、背中の銃。

 最後に、彼女の頭上へ視線を止める。

「それ……光って」

「ん?」

「頭の、輪」

 私の目がわずかに細くなる。

「ヘイローを見るの、初めて?」

「ヘイロー……?」

「そっか」

 軽く返したが、胸の内側では警戒を一段上げた。

 私はカナタ君の頭上をもう一度見る。

 意識が戻った今も、そこには何もない。

 

「カナタ君のは?」

「俺の?」

「ヘイロー」

「そんなもの、ない」

 嘘をついている様子はなかった。

 私は笑みを崩さず、カナタ君の手元と腰を確認する。武器はない。胸元の認識票、方位磁針。ベルトに工具巻き。敵意より困惑が強い。

「じゃ、質問は後にしよっか。まず服を乾かす。嫌なら自分で脱いでね」

「……分かった」

 カナタ君は起き上がろうとし、腕に力が入らず倒れかけた。

 私が肩を支える。

「無理無理。ほら、ゆっくり」

「悪い」

「謝るの早いねぇ。これからもっと迷惑かけるかもしれないのに」

「その時は、働いて返す」

「へぇ」

 言葉に迷いがなかった。

 助けられた直後の人間が、最初に考えることではない。

「変わってるね、カナタ君」

「知らない人間を拾う方も、十分変わってる」

「おじさんは親切だからさ~」

「さっきから、そのおじさんっていうのは」

「細かいことを気にすると長生きできないよ」

「俺は今、長生きについて説教されてるのか?」

「うん。わりと真剣に」

 カナタ君は少しだけ目を見開いた。

 すぐ、疲れたように息を吐く。

「……分かった」

 私は私の予備シャツを荷から出し、毛布の砂を払った。体格差があるのでシャツは小さいが、濡れた上着よりましだ。

 背を向けている間に、布が擦れる音がする。

「終わった」

 振り返ると、カナタ君は乾いたシャツを肩へかけ、毛布にくるまっていた。胸元には銀色の認識票がある。

「汐見カナタ。……港の名前かな、これ」

「読めるのか」

「文字は同じみたいだね」

「ここは、どこなんだ」

 私は壁の古い標章を親指で示した。

「アビドス自治区。キヴォトスの端っこ。砂と借金なら、たくさんあるよ」

「キヴォトス」

 カナタ君はその名を口の中で確かめるように繰り返した。

「知らない?」

「聞いたことがない」

「そっかぁ」

 今度の相槌には、少し長い間が混じった。

 カナタ君はそれを聞き逃さなかったらしい。

「困るか」

「まあ、簡単ではないかな」

「なら、俺を置いていっていい」

 私の笑みが止まった。

 ほんの一瞬だけだった。

「救助が来るまでここにいる。水を少し分けてくれれば――」

「何言ってるの?」

 柔らかい語尾は残っていたが、声は低かった。

 カナタ君が黙る。

「外はもうすぐ砂嵐。君はまともに歩けない。ここへ置いていく理由、ある?」

「俺が怪しいから」

「怪しいね」

「即答か」

「海のない砂漠に、海水まみれの男の子が流れ着いた。ヘイローもない。怪しくない方が無理でしょ」

「だったら」

「だから見張る。連れて帰って、話を聞く。簡単だね」

 私は水筒を差し出した。

「それとも漂流者君、おじさんの目を盗んで何か悪いことする予定?」

「……ない」

「じゃ、飲んで」

 カナタ君は受け取ろうとした。

 指が震え、水筒が傾く。

 私は手を添えた。

「ゆっくり。少しずつね」

 一口。

 カナタ君の喉が動く。

 二口目の前に、私が水筒を引いた。

「もっと」

「急に飲むと吐くよ」

「平気だ」

「大丈夫って言う人は、だいたい大丈夫じゃないんだよねぇ」

 私で言いながら、胸の奥に小さな棘が刺さる。

 カナタ君は反論しなかった。

 代わりに、部屋の隅を見た。

「あの箱、非常用電源か」

「たぶんね。残念ながら動かないけど」

「工具を」

「だーめ」

「直せるかもしれない」

「今にも倒れそうな人へ仕事を頼むほど、おじさんは人使いが荒くないよ」

「暖房がないと、俺だけじゃなく、あんたも冷える」

「私は平気」

「大丈夫って言う人は、大丈夫じゃないんだろ」

 私は目を瞬いた。

 カナタ君の口元が、ごくわずかに上がる。

「……言うねぇ、漂流者君」

「工具を取ってくれ。寝たまま見る」

「見るだけ?」

「手が動いたら、少し触る」

「取引が下手だなぁ」

 それでも、私は工具巻きを拾った。

 

      *

 

 非常用電源は、砂で吸気口が詰まり、燃料管の接続が外れていただけだった。

 カナタ君は毛布にくるまったまま、どの蓋を開け、どの線を確かめるかを指示した。私が作業し、最後の接続だけをカナタ君が行った。

 震える指が、細い金具を正確にはめる。

 起動紐を引くと、古い発電機は何度か咳き込み、低い音を立てて回り始めた。

 天井の照明が一つだけ灯る。

 送風口から、温い空気が出た。

「おお~。これは本当に助かっちゃったね」

 私が振り返る。

 カナタ君は答えなかった。

 壁にもたれたまま、目を閉じている。

「カナタ君?」

 呼吸はある。

 

 ただ眠っただけだ。

 分かっているのに、私はすぐ隣へ膝をついた。

 首へ指を当てる。

 脈を一つ、二つ、三つ。

 

 速いが、先ほどより強い。

 外で砂嵐が管理棟へぶつかった。

 壁が震え、明かりが揺れる。

 カナタ君の体が小さく強張った。眠ったまま左手を動かし、何かを探すように砂を掻く。

「船が……」

 掠れた寝言。

「父さん……みんな……」

 私は少し迷ってから、その手を取った。

 冷たい指が、反射的に握り返す。

「帰らないと」

「うん」

 誰に返事をしたのか、私でも分からなかった。

「でも今は、少し休みなよ」

 握られた手へ、もう片方の手を重ねる。

「戻ってきたばかりなんだからさ」

 

      *

 

 人の呼吸は、こんなに静かだっただろうか。

 

 砂嵐の音が大きいせいだ。

 きっと、そうだ。

 私は壁へ背を預け、眠っているカナタ君を見下ろした。

 救護が来るまで、あと二十分ほど。シロコが先行しているが、風が強くなり、自転車では速度を出せないらしい。

 それまで状態を見る。

 委員長として当然のことだった。

 だから、十数えるたびにカナタ君の胸が上下しているか確かめるのも、手首へ触れるのも、何もおかしくない。

 一、二、三。

 呼吸。

 

 四、五、六。

 呼吸。

 

 七、八。

 少し間が空いた。

 私の指に力が入る。

 九で、カナタ君が息を吐いた。

「……驚かせないでよ」

 眠っている相手へ文句を言う。

 返事はない。

 握られた右手だけが温まり始めていた。

 離そうと思えば、いつでも離せる。

 強さなら、私の方がずっと上だ。眠っている少年の指など、わずかに動かすだけでほどける。

 けれど、ほどかなかった。

 カナタ君の頭上には、やはり何もない。

 目覚めてもヘイローは現れなかった。

 銃弾一発。

 爆発の破片一つ。

 水を飲む量を間違えるだけでも、カナタ君は死ぬかもしれない。

 

 そんな人間を、私は知らなかった。

 正確には、知っている。

 昔、知っていた。

 強いとか弱いとか、ヘイローがあるとかないとか。そんなこととは関係なく、目を離した間にいなくなる人がいることを、よく知っている。

 だから見ている。

 それだけだ。

「怪しすぎるんだよねぇ、君」

 声にいつもの柔らかさを戻す。

 

「帰るところがあるって顔をしてるのに、置いていけなんて言うし。助けられたばかりなのに働こうとするし」

 カナタ君の左手には、古い縄のような痕があった。仕事でついたものだろう。硬くなった指先は、工具を使い慣れた手だった。

「うちの学校に来たら、アヤネちゃんに怒られるよ。働きすぎだって」

 少し想像する。

 カナタ君が委員会室の壊れた窓を直すところ。

 セリカが身元の分からない男を置くなんて反対だと怒るところ。

 ノノミが着替えを用意し、シロコがどれくらい走れるのか尋ねるところ。

 アヤネが食費と寝る場所を計算して、頭を抱えるところ。

 そして私は、ソファで昼寝をしながら、それを見ている。

 悪くないと、一瞬だけ思った。

 私は目を伏せる。

「……まあ、起きてからだね」

 帰る方法が見つかれば、帰る。

 

 素性を調べて危険なら、追い出す。

 ここへ残る理由なんて、まだ一つもない。

 分かっている。

 それでもカナタ君の呼吸が少し乱れると、私はまた数え始めた。

 

 一、二、三。

 指先に脈がある。

 

 今度は十を過ぎても、手を離さなかった。

 

      *

 

 ――Kanata side

 

 俺が次に目を覚ました時、砂嵐は遠ざかっていた。

 最初に見えたのは、低い天井と、弱い照明。

 次に、自分の右手を両手で包んだまま眠る少女だった。

 桃色がかった髪が頬へ落ち、普段より幼い顔が半分隠れている。頭上のヘイローは、淡い光を保っていた。

 背中には銃がある。

 すぐ手の届く場所にも、もう一丁。

 眠っているのに、入口と自分の間へ体を置いていた。

 俺は、濡れた記憶をたどった。

 船が沈んだ。

 光へ向かった。

 砂の上で、この少女に起こされた。

「……ありがとう」

 小さく言う。

 閉じていた瞼が開いた。

「うへ。起きてたの?」

「今、起きた」

「そっかそっか。気分は?」

「体中が痛い。喉も。頭も」

「よろしい。正直で大変よくできました」

 ホシノは笑った。

 手を離そうとする。

 けれど、俺の指が無意識に動き、彼女の指先を追った。

 二人とも、それを見た。

 俺が先に手を引く。

「悪い」

「別にいいよ。漂流者君は寂しがり屋さんみたいだからねぇ」

「違う。たぶん、まだ感覚がおかしい」

「はいはい。そういうことにしとこっか」

 外から、風とは違う音がした。

 

 自転車のブレーキ。続いて、扉を叩く音。

「ホシノ先輩、いる?」

 短い少女の声。

 通信端末からも、別の声が重なる。

『先輩、シロコさんが到着しました! こちらもあと十分ほどです!』

「うん。こっちは大丈夫だよ」

 ホシノは立ち上がり、扉へ向かう。

 二歩進んだところで振り返った。

「ああ、そうだ。まだ名乗ってなかったね」

 光の輪を背負った少女が、眠そうに目を細める。

「小鳥遊ホシノ。アビドス高等学校、対策委員会の委員長だよ。よろしくね、カナタ君」

「小鳥遊、ホシノ」

「ホシノでいいよ。同い年みたいだし」

「同い年?」

「うん。おじさん、こう見えて十七歳だから」

 俺はしばらく彼女を見た。

「……冗談じゃなく?」

「失礼だなぁ」

 ホシノは頬を膨らませるふりをして、それから扉を開けた。

 朝の光が差し込む。

 砂の向こうに、白い髪の少女と自転車が見えた。そのさらに先から、古い救護車両がこちらへ向かってくる。

「ようこそ、アビドスへ」

 ホシノが言った。

「海はないけど、しばらく退屈はしないと思うよ。漂流者君」

 俺は胸元の方位磁針を握った。

 針は北を示していない。

 開いた扉の向こうでも、砂漠の奥を指したままだった。

 帰るべき方角は分からない。

 

 それでも今は、握った真鍮よりも、離れたばかりの少女の手の温度の方が確かだった。

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