アビドス高等学校の全校生徒は、五人だった。
夕食の皿は、いつからか六枚になった。
誰が決めたわけでもない。
アヤネの食費表には最初から一人分が追加され、ノノミは買い出しの量を増やし、セリカは食器棚の奥から欠けていない皿を探した。
シロコは長机の端へ椅子を一つ運んだ。
ホシノは、その椅子を自分の隣へ置いた。
*
便利屋68の襲撃から五日。
俺の左腕から糸が抜かれた。
傷は細い赤い線になっている。まだ強く押せば痛むが、腕を吊る必要はなくなった。
「重い物は、あと一週間禁止です」
アヤネが最後の注意を読む。
「何キロから重い?」
「診断結果では五キロ以上」
「なら鍋は」
「中身を入れたら五キロを超える可能性があります」
「両手なら半分ずつだ」
「合計は変わりません!」
「おじさんが運んであげるよ~」
診断台の横でホシノが手を上げる。
「ホシノが?」
「失礼だなぁ。おじさん、力持ちなんだよ」
「知ってる。料理中に寝ないか心配してる」
「火の前では寝ないよ。たぶん」
「たぶんを付けた」
「では、カナタさんが調理、ホシノ先輩が重量物。ほかの皆さんも分担してください」
ノノミが笑顔で決める。
「今日は六人で作りましょう~」
「台所に六人は狭い」とシロコ。
「シロコちゃんとセリカちゃんは、食堂の片づけをお願いします。アヤネちゃんは材料の計量。私とホシノ先輩が調理補助です」
「私は?」と口にした。
「監督です~」
「作るのは俺のはずだ」
「傷が開かないよう監督される役、ですね」
役割が逆だった。
*
献立は、缶詰の魚と豆の煮込み、焼いた平たいパン、乾燥野菜のサラダになった。
俺が家で作っていた、港の簡単な夕食に近い。
「凪津では、魚が安かった?」
アヤネが豆を量りながら尋ねる。
「港だからな。売り物にならない小さな魚や、網で傷ついた魚を分けてもらうことがあった」
「海から直接?」
「朝に揚がったものを、昼か夜に食べる」
シロコが食堂から顔を出す。
「釣る?」
「たまに。仕事で疲れた後は、岸壁で糸を垂らすだけだった」
「自転車と似てる」
「どこが」
「進むためじゃなく、止まるためにする」
俺は少し考えた。
「そうかもしれない」
「今度、砂漠で釣る?」
「何を釣るんだ」
「砂魚」
「いるのか?」
「たぶん」
「シロコちゃんまで、たぶんを使い始めたねぇ」
ホシノは鍋の前で大きな匙を持っている。
「カナタ君。これ、もう入れていい?」
「まだ。玉ねぎが透き通ってから」
「もう透けてるよ」
「それは匙の穴から見えてるだけだ」
「うへぇ。料理って難しいなぁ」
待つ間、ホシノは鍋ではなく俺を見ていた。
左腕を動かすたび、傷へ視線が落ちる。
重い物へ手を伸ばす前に、自分が先に取る。
何度も痛みを聞く代わりに、行動を見ている。
俺はその視線に気づいていたが、何も言わなかった。
「カナタさん」
ノノミが皿へ少量の煮汁を取る。
「味見をお願いします」
「まだ塩を入れてない」
「その前の味を見てほしいんです」
匙を差し出す。
俺が受け取ろうとすると、ノノミは一度引いた。
「右手は包丁を持っていますよ」
「置く」
「落としたら危ないですから、このままどうぞ~」
匙が口元へ来る。
食べさせようとしている。
「自分で持てる」
「さっきホシノ先輩も、そう言ってましたよ」
「私?」
ホシノの声が一段高くなる。
「はい。鍋を一人で持てる、と」
「持てるよ」
「でも皆で作る夕食ですから、助けてもらってもいいんです」
ノノミは微笑んだまま、匙を差し出している。
俺は諦めて、一口飲んだ。
「豆の味が薄い。もう少し煮てから塩」
「分かりました~」
「……ふうん」
ホシノが鍋を混ぜる。
さっきより少し速い。
「焦げる」と口にした。
「焦げないよ~」
「底を削る音がしてる」
「おじさん、丁寧に混ぜてます」
「怒ってる?」
「全然?」
笑っている。
匙だけが鍋の底を何度も叩いていた。
ノノミがそれを見て、目を細める。
「ホシノ先輩も味見しますか?」
「おじさんはいいよ~」
「本当に?」
「うん」
「カナタさんからでも?」
鍋を叩く音が止まった。
「……どういう意味かなぁ」
「匙を持ってもらうだけです」
「自分でできるよ」
「ホシノ」
俺はノノミから匙を受け取った。
煮汁を少しすくう。
「塩を入れる前に、味を覚えておけ」
ホシノの前へ差し出す。
自分で持つと思っていた。
ホシノは匙へ手を伸ばさず、少し身を屈めた。
そのまま、俺の持つ匙から飲む。
俺の手が止まる。
「薄いねぇ」
「……そう言った」
「でも、魚の味はちゃんとするよ」
「もう少し煮れば出る」
「うん」
ホシノは満足したように鍋へ戻る。
耳が赤い。
俺も匙を持ったまま、次に何をするか一瞬忘れた。
「私も味見する」とシロコ。
「私も!」とセリカ。
「では順番にどうぞ~」
ノノミが別の匙を人数分用意した。
ホシノだけが、俺の持った匙から飲んだことになる。
ノノミは何も指摘しなかった。
*
夕食の前に、先生から調査結果が届いた。
便利屋68への報酬は、ブラックマーケットにある金融機関を経由していた。
アビドスが毎月返済している口座も、複数の名義を通った後、同じ市場へ流れている。
決定的な証拠ではない。
だが、ヘルメット団、便利屋68、借金の三つをつなぐ場所が初めて見つかった。
「ブラックマーケット」
セリカが嫌そうに繰り返す。
「名前からして危なそう」
「危ないです」
アヤネが地図を表示する。
「複数の自治区の境界にまたがる無法地帯。違法武器、盗品、偽造証明、闇金融。どの学園の規則も十分に届きません」
「銀行がある」とシロコ。
「ありますが、普通の銀行ではありません」
「返済金を取り戻す?」
「それは駄目です!」
アヤネが即答する。
「まだ何も言ってない」とシロコ。
「言う前に分かります!」
「見るだけ」
「銃を持って銀行を見る人がいますか!」
「キヴォトスには、いるかもしれない」と口にした。
「汐見さんまで乗らないでください!」
先生からの文面は、翌朝アビドスへ戻り、全員で調査方法を決めるというものだった。
単独行動は禁止。
俺をブラックマーケットへ同行させるかは、安全条件を確認して判断する。
「同行させないでいいよ」
ホシノが言った。
「まだ危ない場所へ連れていく必要はないでしょ」
「俺のことも話に入ってるのか」
「入れないでほしいって話」
「地図や車両を見る人間は要る」
「先生とアヤネちゃんがいる」
「アヤネも現地へ?」
「行くなら全員だよ」
ホシノの声が少し硬くなる。
「だからカナタ君は待ってて」
「先に決めるな」
「危険な場所だって、今アヤネちゃんが言ったよね」
「聞いた」
「君は銃弾より脆い」
「それも聞いた」
「だったら」
「明日、先生と全員で決めるんだろ」
ホシノが黙る。
「今日、二人で決めない」
以前、自分が言った言葉を返した。
ホシノの視線が泳ぐ。
「……覚えてたんだ」
「何度も言われたことは覚える」
「おじさんに都合の悪いところまで?」
「特に」
「うへぇ。困った子に育っちゃったなぁ」
声は柔らかく戻る。
「じゃあ、明日みんなで決めよう。でも、おじさんは反対だからね」
「分かった」
結論は持ち越された。
それでも、以前のようにホシノが一人で決め、俺が抜け道を探す形ではなかった。
*
煮込みが出来上がった。
食堂の長机へ、六枚の皿が並ぶ。
焼いたパンが六つ。
水の入った杯も六つ。
シロコが運んだ六脚目の椅子は、いつものようにホシノの隣にあった。
「カナタ。ここ」
シロコが椅子を引く。
「決まってるのか」
「うん」
「誰が決めた」
全員の視線が、ホシノへ向いた。
「おじさん?」
「どうして疑問形なんですか」とアヤネ。
「いやぁ、空いてたから置いただけで」
「ほかにも空いてる」とシロコ。
食堂には、使われていない椅子がいくつもある。
かつて生徒が多かった頃の名残だった。
「窓から遠い方が安全でしょ?」
「反対側も窓から同じ距離です」とアヤネ。
「おじさんの隣なら、何かあっても守れるし」
「向かいでも届く」とシロコ。
「シロコちゃん、今日はよくしゃべるねぇ」
「事実」
ホシノは困ったように笑う。
俺は椅子へ座った。
「ここでいい」
ホシノが横を向く。
「いいの?」
「もう皿も置いてある」
「そっか」
それだけで、嬉しそうに座る。
食事が始まった。
最初にシロコが煮込みを食べる。
「おいしい」
「本当?」とセリカ。
「うん。魚と豆」
「それは見れば分かる!」
ノノミが一口食べ、頷く。
「ほっとする味ですね~」
「塩気もちょうどいいです」とアヤネ。
「カナタが作ったなら、まあ悪くないんじゃない?」
セリカは二口目をすぐ食べた。
「ホシノは?」
俺が隣を見る。
ホシノはまだ匙を持ったまま、俺の皿を見ていた。
「食べないのか」
「食べるよ~」
一口。
ゆっくり噛む。
「どうだ」
「おいしい」
「それだけ?」
柴関ラーメンでセリカに言われた言葉を、そのまま返す。
「うへぇ。厳しいなぁ」
ホシノはもう一口食べる。
「明日も食べたい味」
「同じ材料はない」
「違う料理でもいいよ」
「毎日俺が作るのか」
「当番の日だけでいいから」
「なら、また作る」
「うん」
ホシノは満足して、今度こそ自分の皿へ集中した。
ノノミが二人を見ていた。
俺と目が合うと、柔らかく笑う。
その後、ホシノを見る。
ホシノは一瞬だけ、ノノミと俺の間へ視線を動かした。
すぐ煮込みへ戻す。
だが、匙を持つ手が少し速くなった。
*
――Hoshino side
夕食後、カナタ君とセリカが食器を洗った。
アヤネは調査計画の資料を整理し、シロコは直った自転車を確認する。
ノノミは食堂に残った私の隣へ座った。
「おいしかったですね」
「うん。カナタ君、料理もできるんだねぇ」
「ホシノ先輩、ずっと見ていましたね」
「鍋を?」
「カナタさんを」
私が止まる。
「怪我が治ったばかりだからだよ~」
「はい」
「重い物を持たないようにね」
「はい」
「また無茶しないか心配で」
「そうですね」
ノノミは全部肯定する。
そのため、私の方が落ち着かなくなった。
「……何かなぁ」
「何でもありませんよ」
「絶対、何か思ってる顔だよ」
「ホシノ先輩は、カナタさんを見ている時、とても分かりやすいんだなぁと思っただけです」
「カナタ君にも言われた」
「では、本当なんですね」
ノノミがくすくす笑う。
「おじさん、そんなに見てる?」
「数えてみますか?」
「数えてたの?」
「いいえ。でも、カナタさんがノノミと話した時だけ、鍋を混ぜる音が大きくなりました」
私は机へ顔を伏せる。
「違うよ。焦げそうだったから」
「はい」
「本当に」
「分かっています」
「分かってない返事だよぉ」
ノノミは少しだけ声を落とした。
「嫌でしたか? 私がカナタさんに味見をお願いしたこと」
「嫌じゃないよ」
すぐ答える。
嘘ではない。
ノノミがカナタ君へ親切にするのは嬉しい。
対策委員会のみんながカナタ君を受け入れてくれることも。
「ただ」
「ただ?」
「おじさんがやりたかっただけ」
声が机へ吸われる。
「味見を?」
「うん」
「カナタさんに食べさせる方ですか。それとも、カナタさんから?」
私は答えない。
耳が熱い。
「どちらも、でしょうか」
「ノノミちゃん、意地悪だねぇ」
「少しだけです~」
認めた。
私は顔を上げる。
「カナタ君には言わないで」
「言いません」
「本当に?」
「ホシノ先輩が自分で言えるまで」
「何を?」
「それも、自分で決めてください」
ノノミは立ち上がる。
「でも、今日の夕食は六人で作りました。ホシノ先輩だけでなく、私たちもカナタさんにいてほしいと思っています」
「うん」
「だから、安心してくださいね」
何を安心するのか。
聞かなくても分かった。
カナタ君の居場所を、自分一人で守らなくてよい。
カナタ君がノノミやシロコやセリカやアヤネと近づいても、そこから私が押し出されるわけではない。
「ありがと、ノノミちゃん」
「どういたしまして」
ノノミは食堂を出る。
――Kanata side
ノノミと入れ替わるように、食堂へ戻った。
「眠いならソファへ行け」
「寝てないよ」
「机に跡がついてる」
額へ触れる。
食堂の長机の木目が、薄く残っていた。
「取って」
「どうやって」
「撫でたら消えるかも」
「消えない」
「試してみないと分からないよ~」
ホシノが額を差し出す。
俺は少し迷い、右手を上げた。
前髪を避け、指の腹で額の跡を一度なぞる。
ホシノが目を閉じた。
「消えた?」
「薄くなった」
「じゃあ、もう一回」
「十分だ」
「けちだなぁ」
俺が手を下ろす。
ホシノは、その袖をつまんだ。
「明日、ブラックマーケットへ行く?」
「まだ決まってない」
「おじさんは反対だよ」
「聞いた」
「でも、みんなで決める」
「ああ」
「もし残ることになったら、待っててくれる?」
「おかえりを言う」
「もし一緒に行くことになったら?」
「勝手に前へ出ない」
「怪我したら?」
「隠さない」
「帰る時は?」
「一緒に帰る」
ホシノの指が止まる。
「……うん」
その答えだけ、何度も繰り返すように頷いた。
*
――Hoshino side
六人分の夕食。
カナタ君の椅子。
私の隣。
最初は、安全のためだった。
何かあれば守れる。
呼吸がおかしければ気づく。
怪我をした腕も見える。
今は、それだけではない。
隣から料理の感想を聞きたい。
私を最初に見てほしい。
ノノミちゃんに味見をさせてもらうカナタ君を見た時、胸の奥が少しだけ狭くなった。
ノノミちゃんが嫌なのではない。
カナタ君に親切にしてくれることは嬉しい。
その親切を、私もしたかった。
私の分だけ、別にほしかった。
カナタ君が持つ匙から飲んだ時、それがもらえたような気がした。
子どもみたいだと思う。
おじさんなのに。
でも、ノノミちゃんは笑わなかった。
カナタ君の居場所はみんなで作る。
その中に、私の隣という場所もある。
六人分の皿が並ぶたび、明日もここにいると分かる。
だから、毎日六枚であってほしい。
五人の学校のままでも。
夕食だけは、ずっと六人分で。