一億円あれば、アビドスの借金は一億円減る。
残りは、八億六千二百三十五万円になる。
それだけだった。
*
銀行から持ち出した現金袋は、全部で五つ。
アビドスへ戻ると、委員会室の中央へ並べられた。
扉を施錠。
窓の鎧戸を閉鎖。
監視記録を開始。
先生、対策委員会5人、ヒフミ、俺の全員がいる前で開封する。
「一袋、二千万円です」
アヤネが紙幣計数機の表示を読む。
五袋。
合計、一億円。
机の上へ積まれた紙の束は、思っていたより小さかった。
九億六千万円という借金も、同じ紙が積み重なったものだと考えると現実感がなくなる。
「一億」
セリカが呟く。
「これを返済に使えば」
「一億円減る」とシロコ。
「残りは八億六千二百三十五万円です」
アヤネが計算する。
誰も喜ばなかった。
「それでも、一億よ」
セリカが札束を見る。
「何年分のバイト代だと思ってるの。校門も直せる。ポンプの部品も買える。弾薬も、水も」
「多目的車のベルトも」と口にした。
「そう! あれだって、このままじゃ止まるんでしょ」
「交換は必要だ」
「だったら」
「でも、俺たちの金じゃない」
俺は紙幣から目を離す。
セリカが睨む。
「銀行だって、私たちの返したお金を勝手に使った」
「全部がアビドスの返済金とは限らない」
「同じ銀行に入ってた!」
「ほかの人間の金もある」
「犯罪者のよ」
「証拠はない」
「カナタは悔しくないの?」
「悔しい」
「じゃあ!」
「悔しいから取っていいなら、工具を売っていいと言われた時、ホシノに止められた意味がなくなる」
ホシノが俺を見る。
工具と一億円は同じではない。
それでも、自分の痛みを理由に何かを手放し、埋め合わせたつもりになる点は似ていた。
「先生は、どう思いますか」
アヤネが尋ねる。
先生は札束を見ず、5人の生徒を見た。
「私が決めることではありません」
「責任は先生が取るって言ったじゃない」
セリカが言う。
「侵入を認めた責任、皆さんを連れていった責任は私が取ります。でも、このお金で学校を守るかどうかは、アビドスが決めることです」
「ずるい」とセリカ。
「そうかもしれません」
「そこは否定してよ!」
声を荒らげた後、セリカは椅子へ座った。
紙幣へ手は伸ばさない。
「ヒフミは?」とノノミ。
ヒフミはペロロの紙袋を膝へ抱えていた。
「私は……使わない方がいいと思います」
「どうして?」
「欲しい物を買えるお金だからこそ、使った後に何を思うか考えてしまいます」
紙袋を少し強く抱く。
「限定ペロロ様を買う時も、私は自分のお小遣いを貯めました。もし誰かから奪ったお金で買っていたら、見るたびに思い出してしまうと思うんです」
「学校とぬいぐるみは違う」とシロコ。
「はい。でも、大切だからこそ、というところは同じかもしれません」
シロコは一億円を見る。
「私は、返済に使いたい」
迷わず言った。
「このお金で、皆が働く時間を減らせる。学校を守れる」
「うん」とノノミ。
「でも?」とシロコ。
「私は、持ち主の分からないお金を使いたくありません」
ノノミは柔らかく続ける。
「私たちが苦しいことと、誰かのお金を取ってよいことは、同じではないと思います」
「アヤネは?」
「法的には、返還または捜査機関への提出です」
「アヤネ自身は」
問われ、眼鏡の位置を直す。
「……使えば、毎月の計算が少し楽になります。皆さんのアルバイトも減らせる。だから、使いたいです」
正直に言った。
「でも、帳簿にどう書けばいいか分かりません。『銀行強盗収入、一億円』と書いた予算で学校を守りたくありません」
最後に、全員がホシノを見る。
委員長。
最終判断を避けられない人。
ホシノは一億円の束をしばらく見ていた。
「おじさんも、使いたいよ」
笑わなかった。
「校舎を直して、セリカちゃんたちのバイトを減らして、カナタ君の帰る方法を調べる機械も買えるかもしれない」
俺が顔を上げる。
「でも、使わない」
「どうして」とシロコ。
「これを使って学校を残したら、毎日この机を見るたび、奪ったお金で残したんだって思うから」
机へ手を置く。
「アビドスを襲った子たちも、お金のためだって言ってた。便利屋68も、お仕事だから来た。私たちも学校のためなら同じことをしていいって言ったら、何が違うのか分からなくなる」
「向こうが先にやった」とシロコ。
「うん。だから、向こうと同じにならないって決められるのは、私たちだけだよ」
シロコはすぐには頷かなかった。
セリカも唇を噛んでいる。
ホシノは答えを急がせない。
「多数決にします」とアヤネ。
「使う。返す。保留。自分の意見で手を上げてください」
最初の投票。
使うに、シロコとセリカ。
返すに、ノノミとホシノ。
アヤネは保留。
もう一度、記録端末の内容を確認することになった。
*
銀行から回収した端末には、三か月分の資金移動が残っていた。
アビドスの返済口座。
複数の名義貸し会社。
ブラックマーケット銀行。
ヘルメット団への装備購入。
便利屋68への依頼料。
同じ金が形を変え、アビドスへ銃弾として戻ってくる。
先生とアヤネが記録を三つの媒体へ複製し、時刻証明を付ける。
原本はシャーレへ提出。
複製一つはアビドス。
もう一つは、外部の安全な保管先へ。
「この記録があれば、借金は消える?」とセリカ。
「消えません」と先生。
「どうしてよ!」
「不正な資金利用と、アビドスが結んだ債務契約は、別の争いになります。契約自体の不正や強要を証明する必要があります」
「じゃあ、何のために銀行を襲ったの」
「襲撃の資金源を止めるためです。これ以上、返した金で皆さんが撃たれないように」
「借金は残る」とシロコ。
「はい」
現実は変わらない。
それでも、何も得なかったわけではない。
借金を返す相手が、ただの数字ではなくなった。
敵の形が少し見えた。
俺は車両記録を開いた。
「多目的車のベルトは、学校の倉庫にある旧発電機の物を加工すれば使える」
「お金を使わず直せる?」とセリカ。
「幅が少し違う。予備としては持つ。左腕の制限が終わってからやる」
ホシノが、わずかに笑う。
「待てるんだねぇ」
「今止まってはいない」
「うん。それなら、待とう」
セリカは、現金袋を見る。
「……返しても、車は直せる」
「工夫すれば」と口にした。
「バイトは減らないけど」
「それは、ほかの方法を考える」と先生。
「先生の方法、時間かかる」
「すみません」
「謝らないで」
セリカは長く息を吐く。
「返す。私は」
シロコを見る。
シロコは紙幣を一枚手に取り、光へ透かした。
「これで学校を守っても、銀行を襲ったことは残る」
「うん」とホシノ。
「返しても、襲ったことは消えない」
「それも、うん」
「なら、次はもっと計画する」
「次はない!」
全員の声が重なった。
シロコは少しだけ目を丸くする。
「冗談」
「今の間は冗談じゃなかったでしょ!」
セリカが怒る。
その後、シロコも返すへ票を変えた。
アヤネも続く。
全員一致で、一億円を使わないことが決まった。
*
返還は、翌朝に行われた。
市場管理者へ匿名で連絡し、銀行が申告した損失額と紙幣番号を照合させる。
現金袋は封印し、受取記録を残す。
銀行へ直接渡せば証拠を消される可能性があるため、先生が市場管理者と外部監査窓口の立ち会いを手配した。
アビドスの多目的車で、引き渡し地点まで運ぶ。
先生が運転。
対策委員会5人が護衛。
ヒフミはトリニティへ戻り、必要なら証言すると約束して別れた。
俺は助手席で、エンジンの回転を見ていた。
「ベルト、持ちそう?」
後部座席からホシノ。
「往復なら。急加速しなければ」
「左腕は?」
「痛みはない。制限は守る」
「今日も先に言われた」
「毎回聞くからだ」
「聞かれなくても言ってね」
「分かった」
一億円は、引き渡し地点で車を降りた。
封印番号、袋数、紙幣番号、受取時刻。
アヤネが一つずつ確認する。
五つ目の袋が運ばれる。
車の後部が軽くなった。
借金残高は、軽くならない。
「終わった」とシロコ。
「はい。受領証もあります」
アヤネが紙を掲げる。
「これで、銀行強盗の後始末は完了です」
「言い方が重い」とノノミ。
「事実です!」
セリカは空になった荷室を見る。
「一億円、なくなった」
「元からなかったお金だよ」とホシノ。
「分かってる。でも、少しくらい惜しんでもいいでしょ」
「うん。おじさんも惜しい」
全員で、空の荷室を一度だけ見た。
それから扉を閉めた。
*
帰路の途中、先生が車両の様子を見るため休憩を取った。
砂漠の端にある古い休憩所。
対策委員会の4人と先生は、日陰で水を飲んでいる。
ホシノと俺は、車の後ろに残った。
エンジンは切らない。
滑るベルトの音が、一定に続いている。
「カナタ君」
「何だ」
「一億円あったら、帰る方法を探せたかもしれないね」
「かもしれない」
「通信機とか、調査とか」
「偽造身分も買えた」
「それは買わないで」
「例えだ」
ホシノは鯨の水筒を開ける。
一口飲み、蓋を閉じる。
「惜しかった?」
「惜しい」
「返さなければよかったと思う?」
「思わない」
「そっか」
隣へ座る。
肩は触れない距離。
「ねえ、カナタ君」
「何だ」
「君は、どうしてまだここにいるの?」
質問の意味が分からないふりはできなかった。
「帰る方法がないから」
「それだけ?」
「保護してもらってるから」
「それだけ?」
「設備を見る人間が必要だから」
「それだけ?」
一つずつ、理由を外される。
帰る方法が見つかったら。
保護が終わったら。
設備が全部直ったら。
その後に残る答えを聞かれている。
ホシノがいるから。
言葉が、喉まで上がった。
それが何を意味するか、自分で分からない。
分からないまま言えば、ホシノを縛る気がした。
「分からない」
選んだ答えは、それだった。
「そっか」
ホシノは笑う。
少しだけ、寂しそうに。
「ごめん」
「謝らなくていいよ。おじさんも、どうして聞いたのか全部は分かってないから」
右袖をつまむ。
「でも、分かったら教えて」
「いつになるか分からない」
「待つよ」
「帰る方法が先に見つかるかもしれない」
指が一瞬だけ強くなる。
「それでも、聞く」
「分かった」
俺は袖をつまむ手を見る。
何も答えられなかった代わりに、その上へ右手を置こうとする。
途中で止めた。
触れれば、答えになる気がした。
ホシノは気づいていた。
止まった手を見て、何も言わない。
「そろそろ戻ろっか」
「ああ」
二人で立つ。
袖は、つままれたままだった。
車へ戻れば、5人と先生がいる。
学校へ帰れば、六人分の夕食がある。
奪った一億円では買えないものが、そこに待っていた。
*
――Hoshino side
「ホシノがいるから」
そう言ってほしかった。
質問した瞬間には、もう答えを望んでいた。
帰れないからでもなく。
保護されているからでもなく。
仕事があるからでもなく。
私がいるから。
カナタ君がアビドスへ残る理由の一番になりたかった。
それが、どれほど重い願いか分かっている。
カナタ君には父親と母親がいる。
港がある。
学校がある。
帰る権利がある。
その全部より私を選んでほしいとは、まだ言えない。
言ってはいけない。
だから「分からない」を受け取った。
嘘の理由を言われるより、ずっとよかった。
カナタ君の右手が、私の手の上で止まった。
触れなかった。
でも、触れようとした。
それだけを覚えておく。
一億円を手放した日。
代わりに何も買わなかった日。
それでも、六人分の夕食へ一緒に帰った日。
答えはまだない。
待つと決めた時間だけが、少し増えた。