砂の海に、君が流れ着く   作:陽炎帽子

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眠れる場所

 一億円を返しても、朝は来た。

 借金は減らず、校舎は古いまま、砂は昨日と同じように廊下へ入った。

 それでも、その朝は静かだった。

 警報が鳴らなかった。

 

      *

 

 闇銀行から回収した記録は、シャーレと外部監査窓口で正式に受理された。

 資金洗浄に使われた口座は凍結。

 ヘルメット団への新しい装備供給も、一時的に止まった。

 便利屋68への依頼主は、名義を何度も変えている。

 その先には企業の影があるが、名前を断定できる証拠はまだない。

 借金の契約も残ったまま。

 事件は終わっていない。

 ただ、次の銃声までに、少しだけ時間ができた。

「休むのも仕事です」

 先生はそう言って、二日間の調査中止を決めた。

 シャーレへ戻る前に、対策委員会へ宿題を一つだけ残す。

 

「学校を守るために、戦うことと返済すること以外で、何を残したいか考えてください」

「宿題まで出すんですか」とセリカ。

「先生なので」

「その言葉、便利に使ってない?」

「少しだけ」

「認めた!」

 先生は笑い、また来ると約束して帰った。

 

      *

 

 二日間の休みで、対策委員会が本当に休むことはなかった。

 シロコは朝から自転車で自治区を一周した。

 セリカは柴関ラーメンへ行き、休んだ分の勤務を取り返そうとした。

 アヤネは銀行事件の報告書を三十七ページ書いた。

 ノノミは空になった食料棚を確認し、買い出し表を作った。

 ホシノはソファで昼寝をした。

 少なくとも、昼寝をしているように見えた。

 俺は地下機械室で、多目的車の交換用ベルトを作っていた。

 左上腕の重量制限が終わる日だった。

 再診で傷の閉鎖と筋力を確認し、重い物も段階的に許可された。

「いきなり最大負荷へ戻さないこと」

 アヤネの注意を、今度は最後まで聞いた。

 旧発電機から外したベルトは、車の物より幅が広い。

 端を少し落とし、張りを合わせる。

 切る作業はセリカ。

 車体を持ち上げるのはノノミ。

 車の下へ入るのはシロコ。

 アヤネが手順と交換時刻を記録する。

 俺は張力を測り、最後の固定だけを行った。

「終わり」

 エンジンを始動する。

 以前の鳴き音が消えた。

 回転を上げても滑らない。

「直った」とシロコ。

「暫定だ。専用品じゃないから、走行ごとに確認する」

「どれくらい持つ?」とセリカ。

「使い方次第。無理をさせなければ数か月」

「人間みたいですね~」

 ノノミが笑う。

「無理をさせなければ長く持つ」

 全員の視線が俺へ集まる。

「何だ」

「自分にも適用してください」とアヤネ。

「分かってる」

「本当に?」とセリカ。

「前よりは」

「進歩」とシロコ。

 地下階段の上で、ホシノが見ていた。

 いつからいたのか分からない。

 手を出さず、作業が終わるまで待っていた。

 

「痛みは?」

 最後に、それだけ尋ねる。

「ない」

「痺れは?」

「ない」

「疲れは?」

「少し」

「じゃあ、今日は終わりだねぇ」

「片づけがある」

「みんなでやればすぐだよ」

 以前なら、勝手に片づけまで終えただろう。

 俺は工具を布へ置いた。

「頼む」

 セリカが驚く。

「今、頼んだ?」

「聞こえただろ」

「もう一回言って」

「聞こえたなら必要ない」

「けち!」

 皆が工具と部品を分けて運ぶ。

 ホシノは最後まで何も持たず、俺の横を歩いた。

 監視ではない。

 隣にいるためだけの歩幅だった。

 

      *

 

 その日の夕食は、六人分の焼き飯だった。

 冷蔵庫に残った野菜を細かく刻み、缶詰肉と一緒に炒める。

 

 俺の当番ではない。

 セリカが鍋を振り、ノノミが味を整えた。

 アヤネが一人分ずつ量り、シロコが皿を運ぶ。

 

 ホシノは味見係を名乗って、三度つまみ食いした。

「働いてない人が一番食べてる」とセリカ。

「味見は大事なお仕事だよ~」

「三回とも同じ味でしょ!」

「変化がないことを確認しました」

「もっと悪い!」

 俺はホシノの隣へ座る。

 六脚目の椅子。

 もう、誰も位置を説明しなかった。

 そこにあるのが普通になっていた。

「カナタ君」

「何だ」

「今日の宿題、考えた?」

「何を残したいか?」

「うん」

「ポンプの本修理記録」

「そういう設備の話じゃないと思う」とシロコ。

「図書室を開けたいです」とアヤネ。

 全員が見る。

「昔の本が砂を被ったままです。授業はほとんどできていませんが、学校として使える場所を一つずつ戻したいです」

「いいと思う」とノノミ。

「私は商店街の掃除」とセリカ。

「店が減っても、住んでる人はいるから」

「自転車道」とシロコ。

「それはシロコ先輩が走りたいだけでしょ」

「皆も走れる」

「走らない!」

「ノノミは?」

「皆さんで写真を撮りたいです~。今の校舎と街を、なくなる前提ではなく、残すための記録にしたいですね」

 最後にホシノ。

「おじさんは、お昼寝できる場所かなぁ」

「もうある」とシロコ。

「ソファだけじゃ足りないよ」

「学校全部で寝るつもり?」とセリカ。

「いいねぇ。教室、図書室、屋上、体育館」

「全部掃除しないと寝られない」とアヤネ。

「じゃあ、おじさんが寝るために掃除する?」

 軽口だった。

 けれど、ホシノは学校の先を口にした。

 なくなるまででなく、これから使う場所を。

 俺はそれを聞き、少し安心した。

「カナタは?」

 ホシノがもう一度尋ねる。

 設備以外の答えを求めている。

「六人で食べる場所」

 言ってから、全員の動きが止まった。

 セリカが最初に顔を逸らす。

「もうあるじゃない」

「だから残す」

 アヤネが小さく頷く。

 ノノミは嬉しそうに笑う。

 シロコは焼き飯を一口食べる。

「残す」

 ホシノだけは、すぐ返事をしなかった。

 隣で、俺の横顔を見ていた。

「うん」

 やがて、静かに言う。

「絶対、残そっか」

 

      *

 

 夜十時。

 委員会室には、俺とホシノだけが残った。

 アヤネは報告書の続き。

 シロコは早朝の自転車に備えて就寝。

 セリカも翌日のバイトがある。

 ノノミは買い出し表を持って、自分の部屋へ戻った。

 

「ホシノ先輩を、あまり遅くまで起こしておかないでくださいね」

 最後にそう言い残した。

「立場が逆じゃないか」と口にした。

「ホシノ先輩は、カナタさんがいると起きていようとしますから」

「寝る方だろ」

「最近は両方です」

 意味を説明せず、ノノミは笑って扉を閉めた。

 ホシノはソファへ横になっている。

 古い毛布を腰までかけ、置き時計を見ていた。

「十時三分」

「時計は読める」

「カナタ君が直した時計、ちゃんと動いてるねぇ」

「毎日見てるだろ」

「今日は、止まらないなぁと思って」

 俺は椅子へ座り、多目的車の交換記録をまとめていた。

 ベルトの寸法。

 張力。

 走行後に確認する項目。

 ホシノがソファから見ている。

「寝ないのか」

「寝ようとしてるよ」

「目が開いてる」

「カナタ君がまだ仕事してるから」

「終わった」

 記録を閉じる。

「部屋へ戻る」

 立ち上がると、毛布から手が出た。

 袖をつかむ。

「もう少しいて」

 いつもの軽口がなかった。

「眠れない?」

「眠いよ」

「なら寝ろ」

「君が戻ったら、起きると思う」

「向かいの部屋だ」

「分かってる」

「扉も開けておく」

「分かってる」

 それでも袖を離さない。

 俺は、ソファの横へ椅子を移した。

「寝るまで」

「うん」

 座る。

 ホシノは袖をつかんだまま目を閉じる。

 一分。

 三分。

 五分。

 呼吸は浅いままだった。

 

「寝ないな」

「寝てるよ」

「返事した」

「寝言」

 以前と同じやり取り。

 俺はソファへ背を預ける。

「肩、使うか」

 ホシノの目が開く。

「いいの?」

「前にも寝た」

「朝まで?」

「一時間四十三分」

「時計が正確だねぇ」

 ホシノは起き上がる。

 椅子とソファの間を詰める。

 俺の右肩へ、ゆっくり頭を預けた。

 前より迷いが少なかった。

「重くない?」

「少し」

「正直だなぁ」

「軽いと言っても信じないだろ」

「うん」

 袖をつかんでいた手が、俺の右腕へ回る。

 抱きしめるほどではない。

 逃げないように、腕を両手で挟む。

「これなら?」

「もっと重い」

「うへぇ」

「でも、いい」

 ホシノが黙る。

「寝ろ」

「……うん」

 呼吸が少しずつ深くなる。

 

 十分後には、置き時計の音でも起きなかった。

 

      *

 

 午前零時。

 俺は動かなかった。

 右肩は痺れ始めている。

 ホシノは、腕を両手で挟んだまま眠っている。

 夢を見ている様子はない。

 午前二時。

 廊下を風が通る。

 窓枠が鳴る。

 ホシノは起きない。

 俺は左手で毛布を引き上げ、肩までかけた。

 午前四時。

 遠くで銃声が二度鳴った。

 いつもなら、ホシノが最初に目を開ける音。

 今夜は、少し眉を寄せただけだった。

 俺の腕をつかむ指が強くなる。

「いる」

 小さく言う。

 指の力が戻る。

 

 午前五時三十六分。

 窓の外が明るくなり始める。

 ホシノが目を開けた。

 最初に時計を見る。

 次に、自分の頭がある場所を見る。

 最後に、俺の腕を両手で抱えていることを見る。

「……うへ?」

「おはよう」

「お、おはよ~」

「よく寝てたな」

「何時?」

「五時三十六分」

「朝?」

「窓を見ろ」

 ホシノは朝焼けを見る。

 それから、俺を見上げた。

「ずっといたの?」

「朝まで、って聞いただろ」

「聞いたけど……本当に?」

「時計は正確だ」

 ホシノは腕を離さない。

「肩、痛い?」

「痛い」

「腕は?」

「痺れてる」

「ごめん」

 すぐ手を離す。

 俺は右腕をゆっくり動かした。

 血が戻る感覚が痛い。

 

「次は、途中で起こして」

「起こす理由がなかった」

「カナタ君が痛いなら、理由になるよ」

「でも、眠れた」

「うん」

 ホシノは毛布を握る。

「夢、見なかった」

「なら、よかった」

「どうして、そこまでしてくれるの?」

 前日に、自分がされた質問と似ていた。

「分からない」

 俺は同じ答えを返す。

 ホシノは少し驚き、笑った。

「そっか」

「でも、嫌じゃない」

 その先だけを足す。

 ホシノの笑みが止まる。

「肩を貸すのが?」

「ホシノが眠るまでいるのが」

 朝の光が、委員会室へ入る。

「それって、何ていうんだろうねぇ」

「見張り」

「違うと思う」

「昼寝番」

「それも違うかなぁ」

「じゃあ、何だ」

 ホシノは少し考える。

「眠れる場所」

「場所は俺じゃなくて、ここだろ」

「カナタ君がいるところ」

 答えになっていない。

 けれど、俺は否定しなかった。

「そっか」

 ホシノの言い方を真似る。

「うん」

 二人とも、それを恋とは呼ばなかった。

 まだ呼べなかった。

 それでも朝まで動かなかった肩と、夢を見なかった眠りは、名前がなくても残っていた。

 

      *

 

 ――Hoshino side

 

 朝まで眠った。

 警報も、風も、遠い銃声も聞かなかった。

 目を開けた時、カナタ君がいた。

 約束だから残ったのではない。

 見張りだからでもない。

 嫌ではないから。

 私が眠るまでいることを、嫌ではないと言った。

 それだけで、胸の奥へ温かいものが広がった。

 もし毎晩こうして眠れたら。

 もし毎朝、同じ肩で目を覚ませたら。

 六人分の夕食を食べて、カナタ君の隣で眠って、朝に「おはよう」と言えたら。

 帰る方法が見つからなくてもよいと思ってしまう。

 

 その願いは、まだ隠す。

 帰る道は探す。

 

 工具も方位磁針も残す。

 そのうえで、ここを選んでほしい。

 私が眠れる場所としてだけではなく。

 カナタ君が帰りたい場所として。

 

 それまでは、肩を借りる。

 朝になれば離す。

 離した後も、カナタ君がまだ隣にいることを確かめる。

 名前のない関係は、少しだけ不安だった。

 でも、今すぐ名前をつければ壊れそうで。

 だから今日も、おじさんのふりをして笑う。

「カナタ君」

「何だ」

「お腹空いた」

「六人分、作るか」

「うん」

 それが、対策委員会編第1章の終わった朝だった。

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