砂の海に、君が流れ着く   作:陽炎帽子

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砂の下の権利書

 翌朝、ホシノは何事もなかったように言った。

「水族館、行こっか」

 

      *

 

「今、この状況で?」

 セリカが真っ先に聞き返した。

 柴関ラーメンは全壊。

 柴大将は入院中。

 土地の名義はカイザー。

 アヤネは夜通し登記資料を照会し、先生はシャーレと連邦生徒会の窓口を往復している。

 遊びに出かける理由は、どこにもない。

「だからだよ~」

 ホシノはソファへ寝転んだまま、パンフレットを顔の上へ乗せた。

「資料が届くのは午後。大将は面会時間まで寝てろって、お医者さんに怒られてる。おじさんたちが朝から暗い顔で座ってても、借金は怖がって逃げないからねぇ」

「でも」

「セリカちゃん」

 パンフレットを少し下げる。

「大将が目を覚ました時、看板娘まで倒れてたら困るでしょ」

 セリカは反論を飲み込んだ。

 昨日からほとんど眠っていない。

 目の下に薄い影がある。

「……昼までよ」

「交渉成立~」

 パンフレットは、自治区の外れに残る小さな水族館のものだった。

 アビドスの砂が今より少なかった頃、遠足先として使われた施設。今は他自治区の運営会社が引き継ぎ、半分ほどの展示だけを維持している。

「ホシノ先輩、こういう場所がお好きなんですか?」

 ノノミが尋ねる。

「魚はいいよ。大声で借金の催促しないし」

「サメは噛む」とシロコ。

「催促より早いねぇ」

 ホシノの視線が、俺へ向いた。

「海の専門家もいるし」

「船の機械なら分かる。魚は専門外だ」

「海にいたんでしょ?」

「港育ちが全員、魚博士だと思うな」

「じゃあ、おじさんが教えてあげる」

 昨夜、袖をつかまなかった人と同じには見えなかった。

 けれど俺は、「また明日」を返さなかったことを覚えていた。

 

      *

 

 水族館の入口には、青い鯨の看板があった。

 ホシノは入って三秒で、その下へ立った。

「カナタ君、写真」

「俺が撮るのか」

「違う違う。一緒に」

 ノノミが待っていたように端末を構える。

 

 隣へ立つと、ホシノは看板と俺を見比べた。

「うん。ちょっと似てる」

「どこが」

「目が眠そう」

「それはホシノだ」

「お揃いだねぇ」

 シャッター音が鳴る。

 一枚目は、二人とも看板を見上げていた。

 二枚目は、俺がホシノを見下ろし、ホシノがカメラを見ている。

 三枚目だけ、二人の視線が合った。

「三枚とも残しますね~」

「二枚目は消して」とホシノ。

「どうしてです?」

「おじさんが小さく見えるから」

「実際、小さい」とシロコ。

「シロコちゃん、今日のお昼抜きかなぁ」

「横暴」

 館内へ入ると、ホシノはさらに速くなった。

 普段の遅い歩幅が嘘のように、案内板から案内板へ移る。

 砂色の小魚が群れで方向を変える水槽。

 岩陰から目だけを出すウツボ。

 海底の砂へ体を半分埋めたエイ。

「見て、カナタ君。あの子、おじさんみたいじゃない?」

「砂に埋まってるから?」

「必要な時だけ動く賢い生き方」

「餌を待ってるだけだ」

「おじさんもご飯待ってるよ」

「自分で作れ」

「作ってくれる人がいるのに?」

 さらりと言って、先へ行く。

 俺が一歩遅れると、ホシノは必ず振り返った。

 人混みでは袖を取らない。

 代わりに、二歩ごとに位置を確認する。

 大水槽の前でだけ、足が止まった。

 天井まで青い。

 ゆっくり泳ぐ鯨の模型が影を落とし、その下を魚の群れが通り過ぎる。水槽の向こう側から入る光が、ホシノの髪へ揺れる模様を作った。

「海って、こんな色?」

「日による」

「便利な答えだねぇ」

「本当だ。朝は灰色で、晴れた昼は青い。嵐の前は緑が濃くなる。夜は黒い」

「カナタ君が流された日は?」

「途中まで黒かった。雷が落ちてから、白くなった」

「海が?」

「海も空も。境目がなくなった」

 ホシノの表情が消える。

「怖かった?」

「怖かった。船が折れる音がした時、死ぬと思った」

「そっか」

 水槽の青が二人の間を通る。

「そのあと、おじさんが拾ったんだね」

「ホシノが見つけなければ死んでた」

「じゃあ、やっぱり拾い物は大事にしないと」

「物みたいに言うな」

「物なら、勝手に帰らないから楽なんだけどなぁ」

 冗談の声だった。

 俺が横を見ると、ホシノもこちらを見ていた。

 笑っていない。

「ホシノ」

「あ、ほら。サメ」

 大きな影が頭上を通る。

 話は切られた。

 

      *

 

 売店で、ホシノは二つの鯨を買った。

 手のひらに収まる、小さな鍵飾りだった。

 一つは青。

 一つは灰色。

「一つでいいんじゃないか」と口にした。

「色を決められなくて」

「青が好きだろ」

「灰色も今日から好きになったかも」

 俺の目と同じ色だった。

 意味に気づいて、言葉が止まる。

 ホシノは青い方を工具巻きの紐へつけた。

 灰色の方を、自分の鞄へつける。

「逆じゃないか」

「何が?」

「普通、自分の好きな色を自分で持つ」

「交換した方が、相手の色を忘れないでしょ」

 答えてから、自分の言葉に驚いたように瞬く。

「……なんてねぇ。お土産の定番だよ」

「誰への土産だ」

「未来のおじさん」

「今持ってる」

「細かいなぁ」

 ホシノは灰色の鯨を指で包んだ。

 今度は離す練習を忘れていた。

 

      *

 

 シロコは、全部見ていた。

 帰りの通路で、ホシノだけを呼び止める。

 

 俺たちは少し先にいた。声は届かない。

「ホシノ先輩、何か隠してる?」

「ん~? お土産なら隠してないよ」

「それじゃない」

「じゃあ、体重?」

「昨日、夕食に来なかった。今日は急に水族館へ連れてきた。カナタの袖もつかまない」

 最後の一つで、ホシノの笑みがわずかに固まる。

「よく見てるねぇ」

「ホシノ先輩が、カナタを見てるのと同じくらい」

「それは困ったなぁ」

「何を隠してる?」

「まだ、何も」

 嘘ではない言い方だった。

 シロコは納得しない。

「何かになったら、言う?」

「言えることなら」

「それも、答えじゃない」

「うん」

 ホシノは否定しなかった。

 先を歩く俺が振り返る。

 その瞬間だけ、ホシノの視線が追う。

 シロコは見逃さなかった。

「置いていくつもり?」

 ホシノは答えず、歩き出した。

 

      *

 

 午後二時。

 水族館の青は、委員会室の地図から消えた。

 壁面モニターに、アビドス自治区の所有権図が映っている。

 アビドス高等学校の色は、中央校舎とその周囲の狭い区画だけ。

 残りはほぼすべて、同じ企業色で塗られていた。

「カイザー建設、カイザー都市開発、カイザー金融」

 アヤネが一つずつ読む。

「名義は分かれていますが、すべてカイザーグループです。商店街、住宅区、旧駅、砂漠、荒野。砂に埋もれず残っている建物も、ほとんどが移転済みです」

「学校は?」とセリカ。

「本校舎と周辺の一部だけは、まだアビドス名義です」

「どうして、こんなことに」

 先生が取引履歴を拡大する。

 最初の売却は、砂漠化が急速に進んだ年。

 大規模な防砂施設と給水網を整えるため、アビドス生徒会は金融機関から巨額の融資を受けた。

 事業は完成しなかった。

 人口が減り、税収と学費収入も減った。

 利息を払うために、土地を売った。

 土地の価格は砂漠化で下がっていた。

 翌年の利息を払うには、前年より広い土地を売る必要があった。

 それを繰り返した。

「借金を返すために土地を売って、土地が減ったから収入も減って、また借りた」

 俺が言う。

「船の穴を塞ぐために、別の場所の板を剥がすようなものだ」

「最後には全部沈む」とシロコ。

「誰がそんな契約に署名したのよ!」

 セリカが机を叩く。

「前の生徒会って、何考えてたの? 学校を守る立場でしょ!」

 ホシノの指が、鞄の灰色の鯨へ触れた。

 俺は見た。

「署名権限を持っていたのは、アビドス生徒会です」

 アヤネの声が小さくなる。

「取引が止まったのは二年前。生徒会が消滅した時期と一致します」

「消滅って……」

 ノノミがホシノを見る。

 ホシノは椅子の背へ体を預けた。

「最後は二人だったんだよ」

 全員が黙る。

「生徒会長と、おじさん。おじさんは副会長」

「ホシノ先輩が?」

 セリカの顔から怒りが抜ける。

「うん」

「じゃあ、さっきのは……その、ごめん」

「いいよ。馬鹿だったのは本当だから」

「そんな言い方してない!」

「似たようなものだよ」

 ホシノは笑う。

「もっと前の生徒会が、砂を止められると思ってお金を借りた。利息が払えなくなって、土地を売った。おじさんたちが入った頃には、前の人たちはみんないなくなってた。書類もほとんど残ってなかったよ」

「ホシノが署名したのか」

 俺が尋ねる。

「してない。最後の売却は、おじさんが入る前。おじさんたち二人は、売る土地も、動かせるお金もなくなった学校を引き継いだ」

「なら」

「でも、取り戻せなかった。借金も減らせなかった」

 柔らかい声で、自分へ有罪を言い渡す。

「それは同じことだと思ってる」

「違う」

 セリカが即座に言った。

「売ったのがホシノ先輩じゃないなら違う」

「結果は同じ」

「それでも違う!」

 机を叩いた手が赤い。

 ホシノは少し目を見開いた。

 ノノミがセリカの手へ冷たい布を当てる。

「まずは、今分かったことを今の皆さんで考えましょう」

 アヤネも頷いた。

「土地の売却を、今のホシノ先輩一人の責任にはできません」

「ん。今いる私たちも当事者」とシロコ。

 ホシノは、すぐに返事をしなかった。

 俺は隣で待った。

 

 今度は肩を差し出さない。

 逃げられないよう腕を取ることもしない。

 ただ、同じ地図を見る。

「そっか」

 ホシノが小さく言った。

「じゃあ、今の皆で調べよっか」

 

      *

 

 ヒナが先生へ残した情報があった。

 カイザーの車両が、アビドス砂漠の奥へ継続的に出入りしている。

 建設資材の量に対し、地上へ建てられた施設は少ない。

 地下で何かを探している可能性が高い。

 先生はその情報と土地図を重ねた。

「売った土地の中で、カイザーが何をしているか確認する。ただし偵察だけ。戦闘になりそうなら戻ります」

「全員で行く?」とシロコ。

「全員で。カナタも同行するなら車両から離れないこと」

 ホシノが口を開くより早く、俺が答える。

「行く。砂漠の旧水路は、俺の漂着経路にもつながる」

「だから危ないんだよ」

 ホシノの声が低くなる。

「手がかりが出ても、俺一人では入らない。先に全員へ見せる。戦闘なら車に残る」

「約束できる?」

「できる」

「帰る道が、目の前にあっても?」

 部屋の空気が変わった。

 俺は少し考える。

「見つけても、何も言わずには行かない」

「行かない、じゃないんだ」

「帰る道なら、確かめたい」

 ホシノの指が、灰色の鯨を強く握る。

「でも、一人では行かない。戻って、話す」

「……うん」

 ホシノは笑った。

「それなら、いいよ」

 いいと言った顔ではなかった。

 

      *

 

 翌朝五時、七人は砂漠へ入った。

 先生が運転。

 アヤネが地図と通信。

 シロコが前方偵察。

 セリカとノノミが左右を警戒。

 ホシノは最後尾側の窓。

 俺は工具と水、救急箱の横へ座った。

 青い鯨の鍵飾りは、工具巻きの紐で揺れている。

 ホシノはそれを何度も見た。

 街を出て一時間、舗装路が砂へ消えた。

 さらに三十分で、地図上の道もなくなった。

 砂丘の間に、建物の上階だけが並んでいる。

 窓の下は砂の中。

 信号機が、地面から一メートルだけ突き出していた。

「昔はここにも街があった」とホシノ。

「覚えてるのか」

「少し。おじさんが一年生の時には、もう半分埋まってたけどね」

 多目的車が傾く。

 先生が速度を落とす。

 その時、俺の胸元で金属が鳴った。

 真鍮の方位磁針。

 針が北を離れ、右へ震えている。

「止めてください」

 先生が車を止めた。

 全員が方位磁針を見る。

「前にも動いた?」とアヤネ。

「漂着した運河跡と、旧線路の近くで少し。ここまで大きくはない」

 針は東と南東の間を揺れていた。

「カイザーの拠点は北東です」とアヤネ。

「逆方向」とシロコ。

 ホシノの顔が強張る。

「行かなくていいよ」

「まだ、何も言ってない」

「行きたい顔してる」

「二十分だけ調べたい。ここから一キロ以内。全員で」

 先生が地図を確認する。

「旧水路の保守施設があるはずです。安全を確認しながら寄りましょう。時間を過ぎたら切り上げる」

 ホシノは反対したかった。

 けれど、俺が一人で行かず、先に話す約束を守ったことも分かっていた。

 

「おじさんが先に入る」

「ホシノ先輩、全員で、です」とアヤネ。

「うへ~。厳しいなぁ」

 軽口へ戻した。

 

      *

 

 旧第七水理観測所は、砂丘の陰に埋もれていた。

 屋上の換気塔だけが見える。

 シロコとノノミが砂を除け、半地下の扉を見つけた。

 内部は乾燥していた。

 古い配電盤。

 水位記録計。

 錆びたポンプ。

 壁には、アビドスの地下水路網が描かれている。

 俺が流れ着いた運河跡へ、一本の太い管路がつながっていた。

「これだ」

 指で線を追う。

「南東の取水槽から、旧中央運河へ。逆流防止弁がある。普通なら、海からここまで流されることはない」

「普通じゃない嵐だった」とシロコ。

「それでも距離と高低差が合わない」

 方位磁針の針は、床下を指していた。

 点検蓋を開ける。

 下には、垂直の保守坑があった。

 

 梯子は途中で折れ、底は見えない。

 冷たい空気が上がってくる。

 塩の臭いがした。

 俺の喉が鳴る。

 故郷の港と同じ臭いだった。

「海水?」とセリカ。

「塩分はある。でも、海へつながってる証拠じゃない」

 俺は蓋の前へ膝をついたまま、動かなかった。

 下りれば何かある。

 そう思う。

 壊れた船の部品。

 海へ続く水。

 家族へ届く通信。

 何でもよかった。

「カナタ君」

 ホシノの声がする。

 袖には触れない。

「二十分」

「分かってる」

「下りないって約束」

「分かってる」

「本当に?」

 俺は方位磁針を閉じた。

「戻って、話す」

 点検蓋も閉める。

「今日は下りない」

 ホシノの肩から、わずかに力が抜けた。

「そっか。えらいえらい」

「子供扱いするな」

「おじさんから見れば、みんな子供だよ~」

「同い年だ」

「知ってる」

 その一言だけ、冗談ではなかった。

 

      *

 

 観測所には、もう一つ残っている物があった。

 防湿箱に入った紙の地図と、古い取引記録。

 データ化前の控えだった。

 砂に埋もれた住宅区、旧駅、水路施設、砂漠の区画が、一枚ずつカイザーへ移されている。

 売却価格は年を追うごとに下がっていた。

 最後の数件の日付は、ホシノが入学するより前だった。

 署名した会長の名は、砂と水で半分消えている。

 その後に提出されたらしい財産一覧には、残った校地区画と負債だけが記されていた。

「本当に、ホシノたちが入る前に売られてたんだな」

 俺が言う。

 ホシノは紙を見ない。

「引き継いだ後も、取り戻せなかった」

「少なくとも、ホシノが売ったんじゃない記録は残ってる」

「紙一枚だよ」

「紙一枚でも、事実だ」

 ホシノは答えない。

 アヤネが地図を重ねた。

「待ってください。この観測所の北東側に、売却後追加された管理路があります」

「今の衛星写真にはない」とシロコ。

「砂の下へ通しているんです。資材搬入路が、カイザーの掘削区域へつながっています」

 先生は記録を撮影し、紙を元の防湿箱へ戻した。

 

「原本は動かさない。位置と状態を記録して、外部の保全命令を取ります」

「持って帰らないの?」とセリカ。

「私たちが盗んだと言われないために」

 闇銀行で得た教訓だった。

 全員が頷く。

 

      *

 

 観測所の屋上から、北東が見えた。

 遠い砂丘の向こうで、規則正しい光が動いている。

 望遠鏡をのぞいたシロコが、息を止めた。

「基地」

 カイザーPMCの装甲車。

 掘削機。

 仮設の塔。

 砂漠の中へ、軍事基地が作られていた。

 地上施設より多くの資材が、巨大な斜坑へ運び込まれている。

「何を掘ってるの?」とセリカ。

「土地を買った目的が、地上じゃなかったのかもしれません」とアヤネ。

 ホシノは望遠鏡を使わなかった。

 もう知っている人の顔だった。

「戻るよ」

 声が硬い。

「ホシノ先輩?」

「位置は確認した。証拠も撮った。見つかる前に帰る」

 判断は正しい。

 先生も即座に同意した。

「撤収します。同じ経路は使わない。シロコ、先行確認。アヤネ、通信を切り替えて」

 七人は観測所を出た。

 方位磁針が、俺の胸元で小さく鳴る。

 海の臭いがする縦坑は、砂の下へ残った。

 帰る手がかりかもしれない。

 

 けれど、今すぐ下りなかった。

 俺はそれを、諦めたとは思わなかった。

 戻って、話すための選択だと思った。

 

 隣を歩くホシノは、その選択を喜んでいるはずだった。

 それでも彼女は、灰色の鯨を握ったまま、一度も俺を見なかった。

 

      *

 

 帰校後、先生は全員へ結論を伝えた。

 

「カイザーの目的は、借金の返済ではありません」

 地図の大部分が、企業色で塗られている。

「土地そのものと、砂の下にある何かです。返済できない状態を作り、土地を安く取得し、最後に学校を明け渡させようとしている」

「じゃあ、私たちが毎月返しても……」

 セリカの声が掠れる。

「終わらせる気がない」とシロコ。

「契約を調べます。違法な資金循環と、土地売却時の圧力も。連邦生徒会へ保全を求める」

 先生は、できることと、まだできないことを分けた。

 今夜すぐ、土地は戻らない。

 

 借金も消えない。

 カイザー基地を攻撃することもできない。

 ただ、敵の目的は見えた。

「前に進んだと思っていいんでしょうか」

 アヤネが尋ねる。

「はい。つらい事実でも、知らないままより選べることが増えます」

 ホシノは窓の外を見た。

「選べる、か」

 

      *

 

 その夜、俺は委員会室のソファへ座った。

 右肩を空けて。

 四十分を測る時計も置いた。

 ホシノは来なかった。

 午後十時。

 十時半。

 十一時。

 端末に一通だけ届く。

『先に寝ていいよ。おじさん、今日はよく眠れそうだから』

 嘘だと分かった。

 ホシノが眠れない時の文は、いつも少し長い。

 軽い言葉を足して、心配させないようにする。

 俺は『分かった』とは返さなかった。

『四十分は明日へ繰り越す』

 送信する。

 一分後、既読がつく。

 返事はない。

 さらに五分後、委員会室の扉が少しだけ開いた。

 ホシノが顔を出す。

「繰り越しって、期限ある?」

「ない」

「利息は?」

「一日一分」

「それ、借金みたいで嫌だなぁ」

「なら今日使え」

 ホシノは扉のところで迷った。

 やがて、俺の隣へ来る。

 肩ではなく、ソファの端へ座った。

 二人の間には、手のひら一枚分の隙間がある。

「海の臭い、したんだよね」

「した」

「帰れるかも?」

「分からない。塩水の溜まりかもしれない」

「もし帰れたら、帰る?」

 水族館では言えなかった問い。

 俺は方位磁針を机へ置く。

「確かめたい」

「うん」

「家族が生きてるなら、無事を伝えたい。港があるなら、帰りたいと思う」

「うん」

 ホシノの手が膝の上で握られる。

「でも、何も言わずには行かない。ここへ戻れる方法も探す」

「戻るの?」

「戻りたいと思ってる」

 初めて、口にした。

 ホシノが俺を見る。

「アビドスに?」

「六人で食べる場所に」

「それって」

 言葉が続かない。

 俺にも、その先の名前は分からない。

「まだ、理由は分からない。でも、戻りたい」

 ホシノの右手が、隙間を越えた。

 袖をつかむ。

 三日ぶりだった。

「四十分」

「使うのか」

「今日は二分だけ」

「短いな」

「残りは繰り越す」

 頭が、右肩へ触れる。

 二分では眠れない。

 ただ、呼吸を一度だけ深くする。

 

「カナタ君」

「何だ」

「戻りたいって、もう一回言って」

「戻りたい」

「どこに?」

「ここに」

 ホシノは目を閉じた。

 時計が二分を告げる。

 彼女は約束通り頭を上げた。

 袖だけは離さなかった。

 

      *

 

 ――Hoshino side

 

 帰りたい。

 

 ここに。

 カナタ君が言った。

 故郷へ帰りたい気持ちを消さずに、アビドスへも戻りたいと言った。

 

 嬉しかった。

 ずっと聞きたかった。

 私がいる場所を、カナタ君の帰る場所にしたかった。

 

 だからこそ、怖くなった。

 

 砂の下の縦坑が、本当に海へ続いていたら。

 私がいなくなった後、カナタ君は故郷へ帰れるかもしれない。

 

 学校の借金がなくなれば、危険なアビドスへ残る理由も減る。

 黒服の提案は、その二つを同時に叶えるように見せている。

 自分一人を差し出せば。

 

 カナタ君は生きて、家族へ帰れる。

 

 後輩たちは学校を残せる。

 そんな都合のいい話を、カナタ君は「守る方法ではない」と言った。

 

 分かっている。

 分かっているのに、数えてしまう。

 五人の未来。

 街の未来。

 カナタ君の命と帰る道。

 

 自分一人。

 

 釣り合わない。

 自分一人の方が、ずっと軽い。

 

 袖をつかむ指へ、少しだけ力を入れる。

 離れる練習は、また失敗した。

 

 でも、二分で肩から離れられた。

 昨日よりは上手になった。

 そう思わなければ、朝まで抱きついてしまいそうだった。

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