柴関ラーメンは、屋台になった。
*
店を失って四日後。
柴大将は左腕を吊ったまま、病院から戻ってきた。
医者には、まだ仕事をするなと言われている。
だから仕事ではない、と本人は主張した。
「これは再出発の見学だ」
「椅子に座って見てるだけよ!」
セリカが店主を折り畳み椅子へ押し込む。
商店街の空き地には、古い荷車が一台あった。
便利屋68が売却を免れた車台と、壊れた事務所の棚を送りつけてきたものだ。アルの長い手紙には「悪の移動要塞建設協力」と書かれていた。
カヨコの追記で、「屋台用の車台です。寸法は別紙」と訂正されている。
ムツキは爆薬を同封しようとして、全員に止められたらしい。
ハルカからは、曲がった釘まで一本ずつ分けた箱と、便箋八枚の謝罪文が届いた。
「使える」とシロコ。
「釘は半分以上曲がってるわよ」
「直せる」
シロコが金槌で伸ばし始める。
屋台の設計は俺と柴大将。
火床は既存の携帯コンロを使い、ガス管を短くする。湯を張った鍋の重心を車軸より少し低く置き、移動中は固定具で留める。カウンターはアルの事務机を半分に切った。
「この傷、残すんですか?」
アヤネが机の端を指す。
金色の塗装で、便利屋68の社章が描かれている。
「残しましょう」
柴大将が言った。
「どうして?」とセリカ。
「誰が壊して、誰が直したか。忘れない方がいい」
「見るたび腹立つと思うけど」
「それも味だ」
「ラーメンの味には入れないでよね」
ノノミが材料費を記録し、アヤネが安全検査表を作る。シロコとセリカが木を切り、先生が商店街の使用許可を取った。
ホシノは、俺の横でねじを選んでいた。
「これ?」
「一つ短い」
「じゃあ、こっち」
「それは太い」
「工具屋さんは厳しいなぁ」
「三日前にも説明した」
「おじさんの記憶容量は、お昼寝の予定でいっぱいだから」
そう言いながら、三つ目は正しいねじを取った。
「覚えてるだろ」
「偶然偶然」
次も正しい。
工具巻きの順番も、いつの間にか覚えていた。
レンチを返す時、大きさ順の空いた場所へぴたりと置く。
「練習したのか」
「何を?」
「工具の順番」
「毎日見てたら覚えるよ」
「毎日?」
ホシノの手が止まる。
「うへ~。細かいところを拾うねぇ」
「ホシノが言った」
「そうだっけ」
目を逸らし、また正しい位置へドライバーを戻す。
灰色の鯨が、彼女の鞄で揺れていた。
*
屋台の側板を外した時、薄い紙が一枚出てきた。
便利屋68の机に入っていた物ではない。
柴関ラーメンの瓦礫から回収した板へ、焦げた紙が貼りついていた。
水で濡らして慎重に剥がす。
古い祭りの広告だった。
青い湖。
並んだ屋台。
水上を走る小舟。
砂漠になる前のアビドスを描いた絵。
上部に大きく、アビドス砂祭り復活計画、とある。
下には、手書きの名前。
「梔子、ユメ」
アヤネが読んだ。
ホシノの手から、ねじが落ちた。
砂の上で小さく跳ねる。
「前の生徒会長?」とシロコ。
ホシノは拾おうとしない。
俺が代わりに拾った。
「ホシノ」
「うん」
返事だけは早い。
「最後の生徒会長。梔子ユメ先輩」
初めて、本人の口から名前が出た。
「この広告、知ってるの?」とセリカ。
「知ってるよ。何百枚も刷ろうとして、お金が足りなくて百枚になったやつ」
「祭りを復活させるつもりだったんですか?」
「本気だったねぇ。砂に埋まったオアシスを掘り返して、水を戻して、昔みたいに人を呼ぶんだって」
ホシノは焦げた絵を見る。
「できるわけないって言った。ポンプも水源も予算もない。祭りなんて、学校がなくなれば終わりだって」
「それでも作った」とシロコ。
「先輩は、人の話を聞かないから」
口では呆れている。
声は、広告を傷つけないように柔らかかった。
「どんな人だったの?」
ノノミが尋ねる。
「成績は学校で一番下。計算すると桁を一つ間違える。予定表は作るけど、予定通りに動いたことがない。砂嵐の中へ看板を立てに行って、看板より先に自分が飛ばされる」
「すごいですね~」
「褒めるところじゃないよ」
「でも、ホシノ先輩は一緒に行ったんですね」
ノノミは見抜いていた。
「放っておくと、本当に帰ってこないから」
その言葉で、俺はホシノを見る。
放っておくと、帰ってこない。
今の彼女が、俺へ抱いている恐怖と同じ形だった。
「おじさんは当時、すごく真面目だったんだよ。先輩の計画の穴を数えて、危険な場所へ行くのを止めて、毎日怒ってた」
「今と逆」とシロコ。
「今も真面目よ、たぶん」とセリカ。
「たぶんはいらないなぁ」
皆が笑った。
ホシノも笑った。
祭りの広告だけが、笑わなかった。
*
広告は、学校へ持ち帰った。
アヤネが乾燥させ、薄い保護板へ挟む。
図書室を開ける時、地域史資料として置くことになった。
屋台は夕方に形になった。
火入れは柴大将の腕が治ってから。
それまでは、セリカが掃除と仕込みの準備だけをする。
「開店したら、最初の六杯は無料にする」
柴大将が言った。
「六杯?」
「君たちの分だ」
セリカが指を折る。
「私、シロコ先輩、ホシノ先輩、ノノミ先輩、アヤネ……五人よ」
「カナタ君がいるだろう」
数えられた本人が、少し遅れて顔を上げる。
「先生は?」とシロコ。
「先生は大人なので払ってもらう」
「厳しい」
「店を直した者の特権だ」
先生は笑って了承した。
ホシノは、俺を六杯目として数えた店主を見ていた。
嬉しそうに。
それから、少しだけ寂しそうに。
*
夕食後、俺は旧生徒会室へ行った。
今は使われていない、北棟二階の小部屋。
前日にアヤネから鍵を借りた。
ユメのことを調べるためではない。
方位磁針が反応した観測所の資料を探すためだった。
そう自分へ言い訳した。
扉を開けると、ホシノがいた。
「先客」
「うへ~。見つかる日だなぁ」
床へ古い帳簿を広げている。
彼女の膝には、祭りの広告と同じ図柄の冊子があった。
「それは?」
「ユメ先輩の宝物」
冊子には、砂祭り復活の計画が書かれていた。
必要な水量。
予算。
参加校の候補。
会場の絵。
数字は途中から合わなくなり、最後のページには大きな鯨が描かれている。
「何で鯨なんだ」
「オアシスに鯨を呼ぶって」
「無理だろ」
「そう言ったよ」
「ホシノも?」
「毎日」
同じ答えが出て、二人とも少し黙った。
「それで、鯨が好きになったのか」
「分からない」
ホシノは冊子の角を撫でる。
「先輩が好きだったものを、あとから好きになったのか。最初から好きだったのか。もう混ざってる」
「今の話し方も?」
質問した瞬間、踏み込みすぎたと思った。
けれどホシノは怒らなかった。
「昔のおじさんは、もっと嫌な子だったからねぇ」
「ヒナから聞いた」
「何でも敵だと思ってた。奇跡なんてない。助けなんて来ない。だったら、一人で全部倒した方が早いって」
「今も、一人で全部背負おうとする」
「耳が痛いなぁ」
「笑うところじゃない」
「笑わないと、痛いままでしょ」
その言い方は、今のホシノだった。
同時に、ユメから借りたものかもしれなかった。
「先輩がいなくなってから、気づいたんだよ」
ホシノの語尾から、ゆっくり伸びる音が消える。
「無計画でも、馬鹿みたいでも、先の話をする人が一人いるだけで、皆が次の日を考えられた。私はずっと否定してた。自分では何も作れないのに」
「ユメは、死んだのか」
言葉を選べなかった。
ホシノの指が止まる。
「いなくなった」
「それは、死んだという意味か」
「今日は、そこまで」
はっきりした境界だった。
俺は頷く。
「分かった」
「怒らないんだ」
「話すかどうかはホシノが決める」
「知りたくない?」
「知りたい」
「じゃあ、聞けばいいのに」
「聞いた。今日はそこまでって答えをもらった」
ホシノは目を伏せる。
「君は、ずるいね」
「どうして」
「待ってくれる人からは、逃げにくい」
「逃げるつもりなのか」
「言葉の話」
また、嘘ではない言い方をした。
*
部屋の奥から、一枚の写真が出てきた。
二人の生徒が写っている。
一人は、今より短い髪のホシノ。
背筋を伸ばし、カメラへ不機嫌そうな目を向けている。
もう一人は、背の高い少女。
砂だらけの看板を抱え、笑っていた。
「ユメ先輩」
ホシノが教える。
俺は写真の少女を見る。
似ていない。
顔も、背丈も、立ち方も。
けれど、看板を抱えたまま笑う無防備さの中に、今のホシノが時々見せる何かがあった。
「おじさん、昔は可愛くないでしょ」
「今より怖そうだ」
「正直だねぇ」
「でも、ホシノだ」
「どこが?」
「隣の人が転ばないよう、服の端をつかんでる」
写真の下端。
短髪のホシノの左手が、ユメの制服の裾をつかんでいる。
ホシノ本人も、今気づいたように見つめた。
「本当だ」
「昔から同じだな」
「カナタ君の袖は、転ばないためじゃないよ」
「何のためだ」
答えは返ってこない。
代わりに、今の右手が俺の袖へ伸びた。
「似てると思う?」
「誰と誰が」
「君と、ユメ先輩」
「似てない」
即答する。
ホシノの指が少し緩む。
「そんなに早く?」
「俺は祭りを計画しない。成績も最下位じゃない。鯨をオアシスへ呼ぼうとも思わない」
「そこじゃなくて」
「分かってる」
俺は写真を保護袋へ戻した。
「いなくなるかもしれないところは、似てると思ってる?」
ホシノが黙る。
「だから俺を見て、ユメを守れなかった続きをしようとしてるのか」
「違う」
声が短い。
「じゃあ、俺も違うと思う」
「どうして信じられるの」
「ホシノが、俺の工具の順番を覚えたから」
「それだけ?」
「ユメの物じゃない。俺の物だ」
灰色の鯨が揺れる。
「それも、俺の目の色で選んだ」
「気づいてたんだ」
「途中で」
「言わないでよ。恥ずかしいから」
ホシノは顔を背けた。
耳が赤い。
「じゃあ、何色だと思ったことにする」
「もう遅いよ~」
ようやく、いつもの声が戻った。
*
資料を戻し終えたのは、午後十時を過ぎてからだった。
ホシノは旧生徒会室の椅子へ座ったまま、目を閉じた。
「寝るなら委員会室へ戻るか」
「五分だけ」
「昨日の残りは三十八分ある」
「ちゃんと覚えてるんだ」
「時計を置いてある」
「じゃあ、五分だけ前借り」
「残りから使え」
「おじさん、借金の計算は苦手だから」
「アヤネに頼むぞ」
「それは困るなぁ」
俺は隣の椅子へ座った。
ホシノは袖をつかむ。
頭を肩へ乗せない。
机へ頬をつけ、指だけを残した。
呼吸はすぐ深くなった。
今日一日、屋台で笑い、皆の前でユメを語り、旧生徒会室で過去へ触れた。
疲れていた。
「……ユメ、先輩」
寝言だった。
俺は動かない。
「行かないで」
つかむ指が強くなる。
次の呼吸が止まった。
ホシノの目が開く。
まだ夢の中にいる目。
「先輩――」
俺を見る。
灰青色の目。
濃い藍色の髪。
ユメではない。
「カナ、タ」
椅子が倒れた。
ホシノが立ち上がり、俺へ抱きついた。
両腕が背中へ回る。
額が胸へぶつかる。
盾を持つ腕の力で、息が詰まるほど強かった。
「ホシノ」
「いる」
「いる」
「本当に?」
「ここにいる」
ホシノの手が背中を探る。
脈を取れる場所ではない。
代わりに、呼吸で動く胸へ耳を押し当てる。
俺は両手を上げたまま待った。
「触れていいか」
ホシノが小さく頷く。
背中へ腕を回す。
初めて、正面から抱きしめ返した。
制服越しの背中は小さい。
戦場で盾を支える体とは思えないほど、今は震えている。
「離すか」
「まだ」
「苦しい」
腕の力が少し緩む。
「これなら?」
「大丈夫」
「……ごめん」
「謝らなくていい」
「間違えた」
「最後は俺の名前を呼んだ」
「途中まで、先輩だと思った」
「起きたばかりだった」
「嫌じゃないの?」
「何が」
「死んだ人と間違えられるの」
死んだ、と初めて言った。
俺はそれを急いで拾わない。
「今、抱きついてる相手は分かるか」
「分かる」
「なら、今はそれでいい」
ホシノの額が、胸へもう一度押しつけられる。
「カナタ君」
「何だ」
「名前、呼んで」
「ホシノ」
「もう一回」
「ホシノ」
呼ぶたび、震えが少しずつ止まる。
「あと三回」
「回数を決めるのか」
「五回なら、お願いの範囲かなって」
「誰が決めた」
「おじさん」
「ホシノ」
三回目。
「ホシノ」
四回目。
「ホシノ」
五回目。
「……うん」
返事は、泣き声に近かった。
*
抱擁は、時計で測らなかった。
ホシノが自分から腕を緩めるまで続いた。
離れた後も、両手は俺の制服をつかんでいた。
「残り三十八分」
俺が言う。
「今ので使った?」
「抱きつく時間は別だ」
「別料金?」
「無料」
「うへ~。太っ腹だねぇ」
目元を擦る。
「じゃあ、三十八分も使う」
二人で委員会室へ戻った。
ソファへ座り、俺が時計を置く。
ホシノは今度こそ右肩へ頭を預けた。
両手で右腕を抱える。
「三十八分経ったら起こして」
「起きなかったら?」
「カナタ君が決めて」
「起こす」
「きっちりしてるなぁ」
「また繰り越せる」
「期限ないんだっけ」
「ない」
「じゃあ、ずっと残しておけるね」
「使ってもいい」
「うん」
ホシノは目を閉じた。
今度は、俺の名前を間違えなかった。
*
――Hoshino side
ユメ先輩だと思った。
起きた瞬間だけ。
いなくなる前の先輩が戻ってきたと思った。
違うと分かった時、二度目の喪失が来た。
でも、そのあとにカナタ君がいた。
代わりではない。
先輩とは背丈も違って、手が大きくて、胸の音が速い。
撃たれれば死ぬ。
工具を大きさ順に並べる。
お願いを五回までにしようとする私へ、文句を言いながら五回呼んでくれる。
ユメ先輩には、そんなことを頼んだことがない。
カナタ君だから、頼んだ。
抱きしめたかった。
生きていることを、腕の中で確かめたかった。
ずっと前から。
夢と間違えたからではない。
夢が終わった後にも、カナタ君がいてほしかったから。
抱き返された瞬間、離れられなくなると思った。
このまま朝まで。
明日の朝も。
次の日も。
黒服のところへ行く日を、永遠に先へ延ばしたかった。
端末には、返事を待つ通知がある。
猶予は、あと二日。
断り続ければ、カイザーは学校を奪いに来る。
応じれば、カナタ君は生きる。
三十八分の時計が動き始める。
一秒ずつ、離れる日が近づく。
それでも今は、カナタ君の腕を抱えた。
あと二日で、一生分を覚えるように。