三十八分後、俺はホシノを起こした。
ホシノは目を開けると、最初に俺の顔を見た。
「カナタ君」
「ホシノ」
一度ずつ名前を呼ぶ。
それから腕を離した。
約束通りだった。
翌朝、その約束では足りないものが届いた。
*
カイザー金融からの緊急通知。
債務契約に付随する危険管理条項を適用し、今月分の管理利率を従来比三千パーセントへ変更する。
理由は、債務者によるカイザー所有地への不法侵入、業務妨害、施設情報の窃取。
納付期限は七十二時間後。
「こんなの払えるわけないでしょ!」
セリカが通知書を握り潰しかける。
「待って。原本です」
アヤネが慌てて取り上げ、平らに伸ばした。
「三千パーセントって、元の三十倍?」
「表記上はそうです。ただ、どの金額へ掛けるのか意図的に曖昧で……」
「詐欺」とシロコ。
「はい。少なくとも、一方的な変更として争えます」
先生は通知を複写し、シャーレと連邦生徒会の法務窓口へ送った。
「観測所はカイザー名義の土地でしたが、アビドスの旧行政記録を保管する公共施設でもあります。立ち入りだけを理由に、この利率を課す合理性はない」
「じゃあ、無視していいの?」とセリカ。
「法的には停止を求めます。でも、相手が裁定を待つとは限りません」
窓の外で、低い音がした。
無人飛行機が一機、校門の上へ停止していた。
大型の投影装置を吊っている。
「全員、窓から離れて」
ホシノの声が変わる。
盾を取り、前へ出る。
壁面へ、巨大な機械の顔が映った。
カイザーPMC理事。
砂漠基地で部隊を率いる責任者だった。
『通知は受け取ったか、アビドスの諸君』
「ずいぶん趣味の悪い手紙ね!」
セリカが言い返す。
『債務者が債権者の資産へ忍び込み、機密を盗んだ。追加担保を求めるのは当然だ』
「旧生徒会の記録を私物化する権利は、カイザーにはありません」
先生が投影へ向き直る。
「利率変更の停止を申請しました。武力による回収も認めません」
『シャーレの先生か。生徒の借金へ首を突っ込むのが、よほど好きらしい』
「生徒を食い物にする大人を止めるのが仕事です」
理事の機械顔に、表情はない。
それでも、不快になったことは声で分かった。
『ならば教えてやろう。我々が欲しいのは九億程度の端金ではない』
投影が切り替わる。
砂漠基地の斜坑。
地下へ続く巨大な掘削機。
『この砂の下には、古い時代の遺産が眠っている。都市一つを買うより価値のある宝だ。アビドスの旧生徒会は、それを知らずに土地を売った』
「何があるの?」とノノミ。
『知る必要はない。最後の校地区画を明け渡し、退去しろ。それで債務は処理してやる』
「断る」とシロコ。
「同じく!」とセリカ。
アヤネもノノミも、先生を見る。
ホシノだけは、投影を見たままだった。
『小鳥遊ホシノ。君には別の窓口からも話が届いているはずだ』
俺は、ホシノの肩が固くなるのを見た。
「何の話?」
セリカが振り向く。
「知らないね」
ホシノの声は平らだった。
『そうか。なら、期限までに考えることだ』
「待って」
先生が止める。
「ホシノへ誰が接触した」
投影は答えず消えた。
無人機が上昇する。
シロコが銃を持つ。
「落とせる」
「撃たないで」
先生とホシノの声が重なった。
「追跡用かもしれない」とシロコ。
「街の上で落ちれば危険です」と先生。
「それに、帰らせた方がいい」
ホシノが続ける。
「こっちが困ってるって、思わせておこっか」
笑った。
誰も笑わなかった。
*
「別の窓口って何ですか」
アヤネが尋ねた。
「知らないよ」
「ホシノ先輩」
「本当に。変な広告なら来たけどねぇ」
「見せて」
シロコが手を出す。
「消しちゃった」
嘘だった。
俺には分かる。
端末を伏せた夜の画面を見ている。
「ホシノ」
「何?」
「後で話してくれ」
「何を?」
「何を隠してるか」
全員の前だった。
ホシノの笑みが薄くなる。
「何も隠してないよ」
「昨日、待つと言った」
「うん」
「今日が、話す日じゃないのか」
「違うかな」
「いつだ」
「そのうち」
俺の言葉が止まる。
問い詰めれば、彼女を囲むことになる。
引けば、どこかへ行く。
その間の答えが分からない。
先生が間へ入った。
「ホシノ。今すぐ全てを話せとは言いません。でも、安全に関わる接触なら、大人の私には共有してください」
「先生にも言えないことって、あるよ」
「あります。それでも、言えないと伝えることと、何もないと嘘をつくことは違う」
ホシノの目が、わずかに揺れた。
「……そっか」
けれど、話さなかった。
*
午後、先生はシャーレへ戻った。
利率変更の停止、観測所記録の保全、カイザー基地の調査命令。
三つを同時に進めるためだ。
「明日の朝には戻ります。校外へ出ないでください。カイザーから連絡があれば、一人で応じないこと」
全員へ向けた言葉だった。
ホシノは、一番明るく返事をした。
「は~い。おじさん、いい子で待ってるよ」
先生はしばらくホシノを見た。
「待つことも、助けを求めることも、大人へ任せることも、生徒がしていい選択です」
「先生は説教が好きだねぇ」
「先生なので」
先生が去った後、対策委員会は校門を閉じた。
シロコは巡回。
アヤネは監視網。
セリカとノノミは食料と救急品の確認。
俺は、多目的車の燃料とベルトを見た。
逃げるためではない。
誰かを迎えに行くための準備だと思った。
*
夕方、ホシノが俺の部屋へ来た。
「散歩しない?」
「先生は校外へ出るなと言った」
「校内散歩」
「どこへ」
「屋上」
断る理由はなかった。
屋上には、砂混じりの風が吹いていた。
西の空が赤い。
商店街の向こうに、完成した柴関の屋台が小さく見える。
まだ火は入っていない。
ホシノは貯水槽の影へ座った。
「カナタ君の話、聞かせて」
「何の話だ」
「故郷。家族。学校。船」
「急だな」
「ユメ先輩の話をしたから、交換」
交換と言われると、断れなかった。
俺は隣へ座る。
濡れた家族写真を取り出した。
乾かして透明袋へ入れてある。顔は滲んでいるが、三人の輪郭は残っている。
「父さんは、汐見宗一。凪津港で修理工場をやってる」
写真の左。
肩幅の広い男。
「工具の使い方を教えた人?」
「最初は。工具を勝手に使って、何度も怒られた」
「カナタ君にも、そんな時期があったんだ」
「今も勝手に使うなとは言われる」
「おじさんと同じだねぇ」
「ホシノは使い方を覚えた」
「褒められた?」
「褒めた」
ホシノは少し俯く。
「そっか。ありがと」
写真の右。
「母さんは、汐見澪。港の近くの診療所で働いてる」
「カナタ君が怪我を隠したら怒る?」
「ホシノより怖い」
「へぇ。それは会ってみたいなぁ」
言った後で、息を止める。
未来の話をしてしまったから。
「会えたら、ホシノのことを話す」
「何て?」
「命を助けてくれた。同い年なのに、おじさんだと言い張る。俺が怪我を隠すと、母さんと同じくらい怖い」
「最後はいらないよ」
「一番伝わる」
「もっと可愛いところもあるでしょ」
俺はホシノを見る。
本人が言ってから照れた。
「ある」
「……あるんだ」
「自分で言っただろ」
「そうだけど」
「何を話すかは、まだ決めてない」
「じゃあ、ちゃんと考えておいて」
「分かった」
それは、再会後の話だった。
ホシノは嬉しそうに写真を見た。
「兄弟は?」
「いない」
「おじさんと同じ」
「ホシノも一人っ子か」
「たぶんね」
「たぶん?」
「家族の話は、あまり覚えてないから」
軽く言った。
そこへ踏み込むのはやめた。
「学校は凪津海洋技術校。二年。船機関科」
「制服は?」
「紺の作業服」
「似合いそう」
「今とあまり変わらない」
「写真ない?」
「ない」
「残念」
「どうして」
「見たいから」
ホシノは写真袋の端を指でなぞる。
「船は?」
「白鴎丸。小型貨客船。乗員六人、乗客十一人」
名前を口にすると、胸の奥が冷えた。
「俺は機関室にいた。異常な雷で発電機が落ちて、予備を起こそうとした。船体が折れた」
「他の人は」
「分からない」
「そっか」
「俺だけ助かったのかもしれない。全員、別の場所へ流れたのかもしれない。今も海で探してる人がいるかもしれない」
毎晩、考える。
父と母は、港で待っているのか。
葬式をしたのか。
白鴎丸の乗客家族へ、何と説明されたのか。
「帰れないと、終わったかどうかも分からない」
初めて、声にした。
ホシノは慰めなかった。
大丈夫とも、きっと生きているとも言わない。
ただ、写真を俺の手へ戻した。
「待ってる人がいるかもしれないね」
「いると思う」
「帰りたいよね」
「帰りたい」
ホシノの顔に、痛みが走る。
それでも目を逸らさない。
「うん。帰らないと」
「ホシノは、帰れないのか」
「おじさん?」
「ユメがいた頃へ」
赤い空が、少しずつ暗くなる。
「帰れないよ」
答えは早かった。
「先輩は死んだ。砂漠へ一人で行って、帰ってこなかった。見つかった時には、もう何もできなかった」
俺は黙って聞く。
「最後に話した時、また無理な計画だった。私は反対した。言い合いになった。勝手にすればいいって、言った」
ホシノの爪が、膝へ食い込む。
「それが最後」
「ホシノが行かせたわけじゃない」
「止めなかった」
「追いかけなかったことを、ずっと罰にしてるのか」
「罰じゃないよ」
「じゃあ何だ」
「責任」
その言葉を、ホシノは疑わなかった。
「先輩が守ろうとした学校を残す。後輩を一人も失わない。今度は、ちゃんと止める」
「そのために、自分がいなくなってもいい?」
ホシノが俺を見る。
「別の窓口って、黒い服の大人か」
返事はない。
「俺の安全を条件にした人」
「どうして」
「ホシノの顔を見てれば分かる」
「分からないでよ」
「無理だ」
「君にだけは、分かられたくなかった」
「どうして」
「止めるから」
認めた。
俺は立ち上がらない。
端末を奪わない。
ただ、距離を詰めた。
「止める」
「ほら」
「でも、ホシノを縛れない」
「じゃあ、どうするの」
「話す。先生と皆に」
「できない」
「何で」
「選択肢がなくなるから」
「自分を差し出す選択肢か」
ホシノは否定しない。
「それは、なくしていい」
「私が決めることだよ」
「ホシノ一人の命なら、そうかもしれない」
俺の声も硬くなる。
「でも、俺の安全を理由に使うなら、俺にも決める権利がある。俺は、その取引を望まない」
ホシノの唇が震える。
「死ぬかもしれないよ」
「怖い」
「なら」
「怖いから、ホシノに消えてほしいとは思わない」
「どうして」
昨日と同じ問い。
答えは、もう喉まで来ている。
好きだから。
まだ、その言葉だけが出ない。
「帰ってきてほしいから」
代わりに言った。
ホシノの目が濡れる。
「それは、ずるいよ」
「ホシノも、俺に戻りたいと言わせた」
「うん」
「同じだ」
「同じじゃない。君には、帰る家がある」
「ホシノにもある」
「どこ?」
「六人で食べる場所」
ホシノが首を横に振る。
「それは皆の場所。私だけのじゃない」
「それでいい」
「君が帰ってきてほしいのは、対策委員会の委員長だからでしょ」
「違う」
「じゃあ、何」
また、答えが詰まる。
ホシノは待っている。
別離の前に、何か一つでも欲しい顔で。
俺は、彼女の額へ自分の額を寄せた。
触れる直前で止まる。
「嫌なら離れる」
「嫌じゃない」
ホシノが最後の距離を詰めた。
額が触れる。
互いの呼吸が近い。
目を閉じれば、唇までの距離が分からなくなりそうだった。
「ホシノだから」
俺が言う。
「委員長じゃなくて?」
「昼寝ばかりして、鯨が好きで、工具の順番を覚えて、怪我を隠すと怒るホシノ」
「可愛いところは?」
「今、それを聞くのか」
「大事だよ」
「ある」
「どこ?」
「言わない」
「うへ~。けち」
額をつけたまま、少しだけ笑う。
涙は落ちなかった。
「今、キスしたら」
ホシノが小さく言う。
俺の呼吸が止まる。
「忘れないかな」
「何を」
「君のこと」
「忘れるつもりで言うな」
俺は額を離した。
ホシノの顔に、一瞬だけ後悔が浮かぶ。
「置いていく前の話し方をするな」
「……鋭くなったねぇ」
「ホシノが嘘をつくから」
「ごめん」
「謝るなら、話してくれ」
「明日」
「本当に?」
「明日の朝、みんなに話す」
ホシノはそう約束した。
俺は信じたかった。
*
――Hoshino side
夜。
私は自室の机へ便箋を広げた。
一枚目の宛名は、対策委員会のみんなへ。
二枚目は、先生へ。
三枚目は、カナタ君へ。
カナタ君には一番短く書くつもりだった。
長く書けば、行けなくなるから。
最初の一行に、二十分かかった。
――助けてくれて、ありがとう。
違う。
紙を丸める。
――ここを、帰る場所にしてくれて、ありがとう。
それも違う。
また丸める。
灰色の鯨が、机の上で揺れる。
私は、額へ残る温度を手で覆った。
「明日の朝、か」
約束した。
だから、朝が来る前に出る。