――Hoshino side
手紙を書くのは苦手だ。
書いた言葉は、冗談だったことにできない。
*
一枚目。
対策委員会のみんなへ。
書き出しを三度変えた。
最初は、長い間お世話になりました。
卒業の挨拶みたいで破った。
二つ目は、おじさんはちょっと遠くへ行ってきます。
帰るように見えるから破った。
三つ目は、皆へ。
それだけ残した。
アビドス生徒会の最後の責任者として、カイザーと黒服の提示した契約を受ける。
対策委員会を退会し、アビドス高等学校からも退学する。
私が生徒でなくなれば、後輩四人は旧生徒会の契約責任から切り離される。
カイザーは債務の執行を止め、校舎と周辺区画を残す。
そう説明された。
信じてはいない。
でも、私の価値を欲しがっている間は交渉できる。
理事が欲しいのは土地。
黒服が欲しいのは、私の神秘。
その二つが同じ方向を向いている今だけ、自分一人で四人の未来を買える。
紙へ書くと、ひどく簡単な計算に見えた。
シロコちゃん。
一人で追わないで。
それでは自分と同じになる。
セリカちゃん。
大将の屋台を手伝って。
怒っていい。でも、壊れた物を直す手を止めないで。
ノノミちゃん。
皆を見ていて。
優しい人ほど、私の痛みを最後にするから。
アヤネちゃん。
帳簿と学校をお願い。
委員長は、四人で決めて。
そこまで書いて、ペンが止まった。
四人。
対策委員会は五人だった。
私が抜ければ四人。
食卓は六人だった。
私が抜ければ五人。
昨日、私で言った通りになる。
一人いなくても、五人で食べられる。
紙へ涙が一滴落ちた。
慌てて拭く。
字が滲んだ。
最初から書き直した。
*
二枚目。
先生へ。
こちらは事実だけを書くつもりだった。
黒服から最初に声をかけられたのは、二年前。
ユメ先輩がいなくなり、生徒会が自分一人になった頃。
指定する企業へ所属すれば、借金の半分以上を肩代わりする。
私の身体と神秘の研究へ協力する。
研究内容は開示しない。
何度も断った。
当時は、断っても失うものが自分しかないと思っていたから。
そのあと、シロコちゃんが来た。
ノノミちゃん、セリカちゃん、アヤネちゃんが来た。
失うものが増えた。
今は、カナタ君までいる。
黒服は、そこを知っていた。
今回の条件は、債務執行の停止、校地区画への干渉中止、後輩四人の安全。
そして、カナタ君の安全と帰還経路調査への協力。
文書には「最大限考慮する」としか書いていない。
保証ではない。
先生なら、そんな契約は無効だと言う。
カナタ君なら、守る方法ではないと言う。
分かっている。
それでも、カイザーの部隊が校門へ来てからでは遅い。
銃弾一発で、カナタ君は死ぬ。
私が前へ立っても、全方角は塞げない。
先生へ書くべきお願いは、一つだった。
私を助けるより先に、五人を守ってください。
書いて、破った。
先生は、順番をつけない。
私も生徒だと言う。
だから別の文章にした。
皆をお願いします。
カナタ君の帰る道を探し続けてください。
私の選択を、後輩たちの責任にしないでください。
先生を騙すことへの謝罪は、書けなかった。
謝れば許してほしいように見える。
許されるつもりはなかった。
*
三枚目。
カナタ君へ。
白い紙のまま、三十分が過ぎた。
伝えたいことが多すぎる。
書いてはいけないことも多すぎる。
好き。
最初に浮かんだ。
書けない。
書けば、返事を待ってしまう。
帰ってきて。
それも書けない。
帰るのは私ではなくカナタ君で、私は帰らない。
待っていて。
一番、書いてはいけない。
カナタ君なら待つ。
方位磁針が海を指しても、縦坑の底に故郷があっても、私を待つためにアビドスへ戻ってくる。
だから、反対を書く。
待たないで。
故郷へ帰って。
お父さんとお母さんへ無事を伝えて。
白鴎丸の人たちを探して。
学校へ戻って。
私のいない場所で、生きて。
書いた文字が、知らない人の命令に見えた。
全部消した。
カナタ君の自由を守るためと言いながら、最後まで行き先を決めようとしている。
「ずるいなぁ」
私で言って、笑えなかった。
新しい紙へ、四行だけ書いた。
約束を破って、ごめん。
君が帰ってきたいと言ってくれた場所を、残したかった。
私を待たず、私で帰る場所を選んで。
私の水筒は、君が持っていて。
好きとは書かなかった。
帰ってきてとも書かなかった。
それでも、四行すべてが同じ意味に見えた。
*
午前一時四十分。
三通の手紙を封筒へ入れた。
対策委員会宛ては委員会室の机。
先生宛てはアヤネちゃんの端末へ、午前五時に送信される予約を入れる。
カナタ君宛ては、カナタ君の机へ。
まだ置かない。
先に、四人の寝顔を見た。
アヤネちゃんは端末を抱えたまま眠っていた。
画面には監視映像が四つ。
校門、整備庫、商店街へ続く道、北側の砂漠。
電池が切れないよう、充電器へつなぐ。
毛布を肩までかける。
「ごめんね」
聞こえない声で言った。
セリカちゃんの部屋には、柴関屋台の開店予定表が貼ってあった。
最初の六杯。
横へ小さく、「先生は有料」と書き足されている。
机には、便利屋68から届いた賠償一覧。
眠りながらも眉間にしわが寄っていた。
「ちゃんと食べてね」
ノノミちゃんは、六人で撮る予定の写真配置を考えていた。
枕元に、空の写真立てがある。
まだ撮っていないから、空。
撮る前にいなくなる。
胸が痛んだ。
「五人で撮って」
それは言えなかった。
シロコちゃんの部屋の扉は、少し開いていた。
ベッドは空だった。
銃もない。
心臓が跳ねる。
窓の外を見る。
校庭の端で、シロコちゃんが巡回している。
こちらを見上げた気がして、身を隠した。
シロコちゃんは気づいている。
水族館で聞かれた。
置いていくつもり、と。
答えなかった。
今なら答えられる。
置いていきたいわけではない。
連れていけないだけ。
*
午前二時二十八分。
カナタ君の部屋へ行った。
扉の前で、五分動けなかった。
ノックすれば起きる。
起きれば、止められる。
止められたかった。
扉は、少しだけ開いていた。
カナタ君は眠る前に出口と窓を確認する。
最近は、私が来ても声をかけられるよう、扉を細く開けている。
そのことを知っていた。
中へ入る。
カナタ君はベッドで眠っていた。
枕元に工具巻き。
青い鯨が紐で揺れている。
その隣に真鍮の方位磁針。
家族写真。
認識票。
帰るための物を、一つも失っていない。
全部、持っていてほしい。
一瞬だけ、方位磁針を隠そうと思った。
海への道を見つけなければ、アビドスに残る。
私が戻るまで、ここにいるかもしれない。
手を伸ばさなかった。
工具も壊さない。
車のベルトも外さない。
端末の通信も切らない。
カナタ君が追ってくる可能性を奪えば、安全になる。
同時に、選ぶ自由を奪う。
それでは、黒服と同じだった。
机へ手紙を置く。
その上に、鯨の水筒を置いた。
最初に出会った日、運河跡で飲ませた一本。
今はカナタ君が借りている水筒とは対になる、私の一本。
これで二本とも、カナタ君の部屋に残る。
私が戻らなければ、返さなくていい。
ベッドの横へ座った。
呼吸を数える。
一。
二。
三。
遅く、安定している。
頬へ触れようとして、止める。
昨日、額を合わせた。
今日も触れたら、明日も欲しくなる。
それでも手は下がらなかった。
指先で、前髪へ一度だけ触れた。
「可愛いところ、教えてもらってないよ」
返事はない。
「けち」
笑おうとした。
声が震えた。
カナタ君の右手が動く。
眠ったまま、私の指をつかんだ。
強くない。
逃げられる程度の力。
「……ホシノ」
寝言で名前を呼んだ。
胸が壊れると思った。
ここで起こす。
全部話す。
先生が戻るまで、腕を抱いて眠る。
カイザーが来たら、一緒に逃げる。
故郷への縦坑へ、七人で下りる。
そんな未来が、一息の間に浮かんだ。
指を抜けなかった。
「カナタ君」
呼び返す。
カナタ君は起きない。
呼吸だけが続く。
この呼吸を止めないために行く。
そう決めたはずだった。
左手で、つかまれた指を一本ずつ外した。
最後まで触れていた小指が離れる。
カナタ君の手を、毛布の上へ戻した。
私の額を、その手の甲へつける。
キスはしなかった。
昨日、忘れるためのキスを止められたから。
「また明日」
返せなかった言葉を、今さら言う。
明日はいない。
嘘だった。
*
午前三時十五分。
自室へ戻り、装備を取った。
ショットガン。
盾。
予備弾。
救急用品。
アビドスの制服。
退学するからといって、別の服はなかった。
灰色の鯨を外す。
机へ置こうとした。
置けなかった。
鞄の外ではなく、制服の内ポケットへ入れた。
見つかれば、カナタ君の存在を知られる。
だから隠す。
持っていくことだけは、やめられない。
端末を開く。
黒服への返答。
指定場所へ向かう。
条件をもう一度確認する。
後輩四人へ危害を加えない。
アビドス校地区画の差押えを停止。
債務執行を停止。
先生の活動を妨げない。
カナタ君の安全を保証し、本人が希望する場合は帰還調査へ協力。
最後の一項だけ、黒服は「保証」という言葉を避け続けた。
最大限考慮する。
可能な範囲で協力する。
直接の危害を意図しない。
どれも、逃げ道のある言葉。
分かっている。
それでも、私が手元にいる間は、彼らもカナタ君を殺さない。
そう信じるしかなかった。
*
午前四時。
旧北口の門を出た。
シロコちゃんの巡回が南へ移る三分間。
アヤネちゃんのカメラが砂で一瞬白くなる時刻。
皆の癖を知っているから、誰にも見つからず出られた。
知っていることを、守るためでなく置いていくために使った。
砂漠の手前に、黒い車が待っていた。
黒服が一人で立っている。
「お待ちしていました、小鳥遊ホシノさん」
「条件は」
挨拶はしない。
「すでにお伝えした通りです。あなたが指定企業の管理下へ入り、我々の研究へ協力する。その対価として、カイザーへ債務・校地問題の調整を求めます」
「後輩たちと先生へ手を出さない」
「善処しましょう」
「善処じゃない。契約に入れて」
黒服は、少し首を傾けた。
「二年前より、交渉がお上手になりましたね」
「時間がない」
「四名の生徒と先生については、直接的な危害を加えないと明記できます」
「カナタ君も」
名前を出した瞬間、後悔した。
黒服の顔には表情がない。
それでも、興味が向いたのが分かる。
「あの外来の少年ですか」
「名前を呼ばないで」
ショットガンの安全装置へ指がかかる。
「失礼。彼についても、我々から直接危害を加えない。帰還経路の情報を得た場合は、本人の意思を確認する。これでいかがです?」
「カイザーにも守らせる」
「努力しましょう」
「書いて」
黒服は端末上の契約へ条項を追加した。
直接危害の禁止。
帰還情報の通知。
カイザーへの同等条件要請。
保証ではない。
それでも、ないよりはよい。
「最後に確認します」
黒服が言う。
「一度契約すれば、あなたはアビドスの生徒として扱われません。我々の観測対象であり、研究協力者となる。あなたの神秘の奥にあるものを調べるため、相応の負荷が生じるでしょう」
「分かってる」
「命の保証もできません」
「分かってる」
「それでも?」
内ポケットの灰色の鯨を握る。
カナタ君の目の色。
工具の順番。
右肩。
胸の音。
五回呼ばれた名前。
額の温度。
可愛いところは、まだ聞いていない。
「それでも」
署名した。
*
黒い車の扉が開く。
乗る前に、学校を振り返った。
砂の向こうに、校舎の上だけが見える。
あそこに五人いる。
起きれば、怒る。
追ってくる。
カナタ君は手紙を読んで、きっと「おかえり」を言う準備をする。
それが嬉しい。
それが怖い。
待ってほしくない。
待っていてほしい。
帰らないつもりなのに、帰る場所だけは失いたくない。
最後まで、矛盾していた。
「出して」
車が動く。
アビドスが遠ざかる。
灰色の鯨を、制服の上から押さえた。
「ただいま、言いたかったな」
誰にも聞こえなかった。