午前四時四十七分。
俺は、自分の右手を握った。
誰かの指が、そこにあった気がした。
*
夢では、ホシノが隣にいた。
右肩へ頭を預けていた。
時計は鳴らない。
何時間経っても、朝にならない。
俺が名前を呼ぶと、ホシノは「いるよ」と答えた。
目を開けた時、部屋には一人しかいなかった。
扉が細く開いている。
机の上に、見覚えのある物があった。
鯨の水筒。
自分が借りている一本は、窓際で乾かしてある。
机の物は、ホシノが使っていた対の一本。
その下に、封筒。
表には、俺へ、と書かれていた。
眠気が消えた。
封を開く。
四行しかない。
約束を破って、ごめん。
君が帰ってきたいと言ってくれた場所を、残したかった。
私を待たず、自分で帰る場所を選んで。
私の水筒は、君が持っていて。
一度読んだ。
二度読んだ。
三度目は、途中で文字が見えなくなった。
怒りで手が震えた。
「違う」
誰もいない部屋で言う。
「これは約束じゃない」
自分で帰る場所を選べ。
正しい言葉に見える。
けれど、その選択肢からホシノだけを先に消している。
自由を残したつもりで、未来を一つ決めている。
待たないかどうかは、俺が決める。
水筒を持つかどうかも。
帰る場所に、ホシノを含めるかどうかも。
本人がいないところで、終わりにはできない。
ベッド脇の工具巻きを取る。
方位磁針。
認識票。
水。
救急用品。
そこまで鞄へ入れ、手が止まった。
昨日、ホシノへ言った。
先生と皆に話す。
一人で決めるな。
今ここで一人で追えば、同じことをする。
俺は鞄を床へ置いた。
端末を取る。
最初にアヤネを呼んだ。
「ホシノがいない」
*
午前五時二分。
委員会室に五人が集まった。
ホシノの席だけが空いている。
机には、対策委員会宛ての封筒があった。
アヤネの端末には、先生宛ての予約文が届いている。
俺は、自分宛ての手紙も机へ置いた。
「それ、個人宛てでしょ」
セリカが言う。
「黒服の条件や、行き先が書いてあるかもしれない。全部共有する」
声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
中では何かが燃えている。
シロコが、対策委員会宛ての手紙を読んだ。
退会。
退学。
最後の生徒会責任者として、カイザーと黒服の契約を受ける。
後輩四人を責任から切り離す。
一人で追わないで。
「勝手」
読み終えたシロコが言った。
紙を持つ指が白い。
「自分は一人で行ったのに、私には一人で追うなって」
「追うつもりだった?」とセリカ。
「今も追いたい」
「なら、私も行く」
「私もです」とノノミ。
「待ってください!」
アヤネの声が裏返る。
全員が見る。
彼女は泣いていた。
それでも端末から手を離さない。
「ホシノ先輩は午前四時頃に北口を出ています。もう一時間経っています。車両の位置も、敵の数も分かりません。今ばらばらに出れば、次に探す人が増えるだけです」
「でも!」
「私だって追いたいです!」
アヤネが机を叩く。
「今すぐ、何も持たずに、走ってでも! でも、駄目です。ホシノ先輩が間違えたからって、私たちまで同じ間違いをしてはいけません!」
部屋が静かになる。
シロコは目を閉じた。
「ん。分かった」
「本当に?」とセリカ。
「一人では行かない。皆で追う」
「それなら、私も」
「私もです~」
「最初から、全員で行きます」
アヤネが涙を拭く。
五人の中に、俺も数えられていた。
「先生へ連絡します」
「もう向かっています」
端末から先生の声がした。
予約文を受信した直後、アヤネが通信を開いていた。
『十五分で着きます。それまで校外へ出ないで。手紙、監視記録、持ち出した装備、全て確認してください』
「先生、ホシノは」
セリカの声が震える。
『連れ戻します』
迷いのない返事だった。
『でも、急ぐことと、無計画に飛び出すことは違います。今は、ホシノが残したものから場所を探しましょう』
*
監視記録。
午前三時五十八分、北側カメラが砂で白くなる。
四時一分、旧北口の開閉信号。
四時三分、校外道路の振動センサーが大型車一台を記録。
映像はない。
「私の巡回が南へ移った時刻」とシロコ。
「ホシノ先輩、全部知ってたのね」とセリカ。
「私の監視切替もです」とアヤネ。
「知ってたから、避けた」
ノノミが静かに言う。
「信頼を、置いていくために使ったんですね」
責める声ではない。
だから余計に痛かった。
持ち出した物。
ショットガン。
盾。
予備弾。
救急用品。
制服。
「灰色の鯨がない」
俺が言った。
全員が俺を見る。
「水族館で買った鍵飾りだ。俺の工具巻きには青い方が残ってる。ホシノの鞄にあった灰色はない」
「持っていった」とシロコ。
「うん」
胸の奥の火が、少し形を変える。
全部を切り捨てたわけではない。
俺の色を、一つ持っていった。
嬉しいと思ってしまう自分にも腹が立った。
「個人宛ての手紙を読んでいい?」
アヤネが確認する。
「いい」
四行を、全員で読む。
セリカは途中で顔を背けた。
「何よ、これ」
「待つなって、言ってますね」とノノミ。
「命令?」とシロコ。
「命令じゃない」
俺が答える。
「ホシノが、自分に言い聞かせたかったことだと思う」
「待たないの?」
シロコが尋ねる。
「待つだけにはしない。迎えに行く」
「ん」
「でも、一人では行かない」
アヤネが頷く。
「それが、今の私たちの決定です」
*
午前五時十七分。
先生が到着した。
昨日の服のまま、息を切らしている。
それでも、最初に全員の顔を見た。
「怪我は?」
「ありません」とアヤネ。
「ホシノ以外、全員います」
その言葉で、先生の表情が一瞬だけ歪んだ。
「分かりました。まず、話を聞きます」
手紙を読む。
特に先生宛ての文を、二度。
「二年前から」
低い声が落ちる。
「ホシノは、二年間も一人でこの提案を断っていた」
「先生も知らなかったの?」とセリカ。
「知りませんでした」
言い訳をしない。
「気づけなかった。でも、今は知った。ここからは私の責任です」
先生は契約文面の抜粋を拡大した。
「未成年の生徒が、学校と仲間への武力威圧を受け、自分の身体を研究対象として差し出す。自由な同意ではありません。この契約が有効だという前提では動かない」
アヤネが、対策委員会宛ての手紙と登記図を並べた。
「それだけではありません。ホシノ先輩は、退学すれば私たちを旧生徒会の契約責任から切り離せると書いています。でも……」
指が震える。
「アビドスの校地区画は、まだアビドス生徒会の管理財産です。対策委員会は校内組織ですが、正式な生徒会としての届け出は途中のまま。最後の副会長だったホシノ先輩が退学すれば、生徒会の在籍者がゼロになります」
「何が起きるの?」とセリカ。
「学校の資産管理主体が消える。カイザーは、維持不能になった学園都市の土地として、所有権移管を要求しやすくなります」
「守るどころか、最後の土地を取りやすくなる」とシロコ。
「はい」
アヤネの声が掠れた。
「黒服は、そこを説明していません。ホシノ先輩は、騙されています」
セリカが椅子を蹴って立つ。
「何が契約よ! 最初から、ホシノ先輩も学校も取るつもりじゃない!」
「そうです」
先生は否定しなかった。
「ホシノが退学を選べば後輩を切り離せる、という部分だけを見せ、その結果として生徒会が消えることを伏せた。本人の罪悪感を使った契約です」
俺は、ホシノの四行を見た。
君が帰ってきたいと言ってくれた場所を、残したかった。
「本人は、条件が曖昧だと分かってた」
「先生宛ての手紙にも、保証ではないと書いてあります」とノノミ。
「それでも、自分が向こうにいる間は俺たちへ手を出さないと思った」
「でも、守らない」とシロコ。
まだ契約後の攻撃は起きていない。
それでも、退学させながら学校を残すという二つの条件が最初から両立しない。約束には、破るための隙間が作られていた。
「でも、黒服は法律を守る?」とシロコ。
「守らないでしょう」
「じゃあ」
「だから、法だけでなく場所を突き止めて迎えに行きます」
先生は全員を見る。
「ただし、ホシノの手紙に一つだけ従います」
「何ですか?」
「一人で追わない」
誰も反対しなかった。
*
黒い車の痕跡は、校外に残っていた。
シロコが北口から百メートル先で、太いタイヤ跡を見つける。
俺と先生、セリカ、ノノミが同行し、アヤネは校内から通信。
全員で動いた。
「四輪駆動。後輪だけ荷重が深い」
俺が跡を見る。
「装甲車ほど重くない。人を乗せる黒い車なら一致する」
「北東へ向かってる」とシロコ。
「カイザー基地?」
「途中で旧線路側へ曲がる道もあります」とアヤネの声。
砂へ残った跡は、二キロ先で消えた。
地面へ金属板を敷いた搬入路に入ったためだ。
「ここから先は、カイザー所有地です」とアヤネ。
「行く」とシロコ。
「今は戻ります」
先生が止めた。
「場所は絞れました。相手は私たちが追うことを予想している。学校の守りも空けられない」
俺は北東を見る。
今走れば、少しでも近づける。
足は動かなかった。
「戻ろう」
自分で言う。
「次に出る時は、連れ帰る準備をして出る」
*
学校へ戻り、作戦盤へ情報を並べた。
カイザー砂漠基地。
旧線路。
水理観測所。
地下搬入路。
黒服が過去に使った通信中継点。
先生はシャーレの照会権限で、黒い車の登録情報を追う。
アヤネが基地周辺の電波を監視。
シロコとセリカが救出路を検討。
ノノミが武器・弾薬・救急品を数える。
俺は多目的車の荷台へ、担架を固定した。
「まだ、怪我してると決まったわけじゃない」とセリカ。
「使わないなら、それでいい」
「……そうね」
鯨の水筒は二本とも持っていく。
一つは自分の水。
一つは、ホシノのため。
帰ってきた時、返すため。
*
朝食は五人分だった。
誰も食欲がなかった。
それでも、五人で席についた。
ホシノの椅子は片づけない。
空のまま、俺の隣にある。
「六人で食べる場所」
ノノミが呟く。
「今は五人ですね」
「違う」とシロコ。
「一人、迎えに行く途中」
セリカがパンを割る。
「戻ったら、絶対怒る」
「ん。皆で怒る」
「その後、ラーメンを食べてもらいましょう」
「大将の最初の六杯」とアヤネ。
五人が、空の椅子を見る。
俺は手紙を折り、胸ポケットへ入れた。
この四行を、別れの言葉にはしない。
ホシノが帰ってきた時、本人へ返す。
その時に言うことがある。
昨日、喉まで来て言えなかった言葉。
好きだ。
ようやく、自分の中では名前がついた。
ホシノが可愛いと思う。
眠るまで隣にいたい。
帰ってきてほしい。
それを全部まとめて、好きと呼ぶのだと分かった。
本人がいない朝に気づいたことが、悔しかった。
「帰ってきたら、言う」
「何を?」
セリカが聞く。
「本人に先に言う」
ノノミが、泣きながら笑った。
「それがいいと思います~」
その時、アヤネの端末が警報を鳴らした。
北、東、南。
三方向から、カイザーPMCの車列が校地区画へ入ってくる。
ホシノがいない最初の朝に、学校を奪いに来た。