扉の向こうにいた少女は、最初にホシノを見た。
次に、床へ横たわる俺を見る。
白い髪の上に、青白いヘイローが浮かんでいた。首元の青いマフラーが風にはためき、背中にはライフルがある。
「その人?」
「うん。汐見カナタ君。十七歳。海から来たらしいよ」
「ここに海はない」
「おじさんもそう思う」
少女は砂の積もった床へ膝をついた。
「砂狼シロコ。救助に来た」
「汐見、カナタだ」
名乗り返しただけで、喉が焼けるように痛んだ。
シロコは短く頷き、俺の胸元から足先まで視線を動かす。
「武器は?」
「持ってない」
「ヘイローもないみたい」
ホシノが付け加えると、シロコの視線が俺の頭上へ戻った。
「ん。本当にない」
「だから運ぶ時は気をつけてね。たぶん、私たちと同じ感覚で扱うと壊れちゃう」
「分かった」
壊れる。
人間へ使うには妙な表現だった。
だがホシノもシロコも、脅すために言っているわけではないらしい。シロコは担いでいた折り畳み式の布担架を床へ広げ、固定具に破損がないか一本ずつ確かめた。
「自転車に牽引具をつけた。揺れるけど、車両と合流するまでなら運べる」
「お疲れさま、シロコちゃん。じゃあ、おじさんが後ろから支えるよ」
「私が運べる」
「うん。でも今日は私がやる」
柔らかい声だった。
シロコは数秒だけホシノを見て、それ以上は言わなかった。
二人が担架を俺の横へ寄せる。
「自分で移れる」
腕をついた瞬間、胸の中央に鋭い痛みが走った。
息が詰まり、力が抜ける。
倒れる前に、ホシノの腕が背中へ回った。
「ほらね」
「……今のは、少し失敗した」
「漂流者君の『少し』は信用ならないなぁ」
ホシノが背を支え、シロコが脚を持つ。二人は声を掛け合うまでもなく、俺の体をまっすぐ担架へ移した。
固定帯が胸へ触れると痛んだ。
俺が顔をしかめるより先に、ホシノの指が留め具を緩める。
「ここ?」
「大丈夫だ」
「場所を聞いたんだけど」
「……胸の真ん中」
「救命処置のせいかもね。ごめん」
「謝るな。あれがなければ死んでた」
ホシノの手が止まった。
眠そうな目が、一度だけまっすぐ俺を見る。
「うん。じゃあ、ちゃんと診てもらおう」
それだけ言い、固定帯の下へ畳んだ布を挟んだ。
管理棟を出ると、砂嵐の名残が街を黄色く霞ませていた。
海はなかった。
古びたビル。砂へ沈む道路。屋上だけを残して埋まった家。遠くに見える巨大な校舎。
昨夜まで海の上にいたはずなのに、世界を丸ごと取り替えられたようだった。
胸元の方位磁針は、担架が向きを変えても同じ方角を指し続けている。
北ではない。
砂漠のさらに奥。
俺は針を見つめたまま、また意識を失った。
*
夢の中で、誰かが喧嘩をしていた。
「ですから、患者さんの前で大声を出さないでください!」
「あたしだって好きで出してるんじゃないわよ! 身元不明の男を学校に運び込むなんて、警戒するのが普通でしょ!」
「うんうん。でも今はまだ眠ってますし~」
「眠ってるふりかもしれないじゃない!」
「呼吸と脈拍に意識的な変化はない。たぶん本当に寝てる」
「シロコ先輩はどっちの味方なんですか!?」
瞼を開けると、白い天井があった。
管理棟より清潔だが、新しくはない。壁紙は日焼けし、薬品棚の硝子には細いひびが入っている。
学校の保健室らしい。
ベッドの周りに、四人の少女がいた。
管理棟へ来たシロコ。
眼鏡をかけ、端末を胸へ抱いた少女。
長い金髪の、おっとりした雰囲気の少女。
そして、黒い髪を二つに結び、こちらを警戒した目で見る小柄な少女。
「起きた」
シロコの一言で、全員の視線が集まった。
黒髪の少女が半歩下がり、腰の銃へ手を近づける。
俺は両手を毛布の上へ出した。
「武器はない」
「そんなこと見れば分かるわよ」
「じゃあ、手を上げなくていいか」
「……好きにすれば?」
「セリカちゃん、病人を脅かさないの~」
聞き覚えのある声が、ベッドの反対側からした。
カーテンの陰に置かれた椅子で、ホシノが眠っていた。
目を閉じたまま、片手だけ軽く上げる。
「寝てたんじゃないの?」と黒髪の少女。
「うん。今も半分くらい寝てるよ」
「それなら黙っててください!」
「カナタ君、紹介するねぇ」
ホシノは抗議を聞き流し、椅子から立った。
「自転車で迎えに来てくれたのが、砂狼シロコちゃん。こっちの優しそうなお嬢さんが十六夜ノノミちゃん」
「十六夜ノノミです。よろしくお願いします、カナタさん」
ノノミは柔らかく微笑み、ベッド脇の水差しを整えた。
「端末を持ってるのが、奥空アヤネちゃん。対策委員会の書記で、うちの生命線」
「奥空アヤネです。先ほど外部の医療センターに診断データを送信しました。質問は後にしますので、痛みや息苦しさがあれば先に教えてください」
「分かった。ありがとう」
「それから、怒ると元気な子が黒見セリカちゃん」
「紹介が雑すぎます!」
セリカがホシノをにらむ。
それから、少しだけ言いにくそうに俺を見た。
「……黒見セリカ。言っとくけど、まだ信用したわけじゃないから」
「それが普通だと思う」
「何よ。素直ね」
「反対された方が安心する。全員が知らない人間を簡単に信じる場所だったら、そっちの方が心配だ」
セリカは返事に詰まり、顔をしかめた。
「やっぱり変な奴」
「それ、ホシノにも言われた」
「ホシノ先輩を呼び捨て!?」
「私がそう呼んでいいって言ったんだよ」
ホシノが横から答える。
なぜか少しだけ機嫌がよさそうだった。
「同い年だからねぇ」
「同い年……?」
セリカが俺とホシノを見比べる。
「嘘でしょ」
「セリカちゃんまで失礼だなぁ」
「だって、どう見ても――」
「セリカさん」
アヤネの静かな声で、セリカは口を閉じた。
アヤネが端末を操作する。ベッドの横にある古い診断機から、淡い光の板が立ち上がった。
「医療センターから回答です。肺に少量の水分が残っていますが、現時点で呼吸状態は安定。胸部は打撲、骨折所見なし。脱水と低体温は改善しています。二日間は安静、発熱や呼吸困難があれば搬送するように、とのことです」
「骨折してなかったんだ」
ホシノの肩から、わずかに力が抜けた。
「ホシノの処置が上手かったんだろ」
「うへ。褒めても何も出ないよ~」
「礼を言ってるだけだ」
「……そっか」
ホシノは目を逸らした。
「なら、まあ。どういたしまして」
その声だけ、少し小さかった。
アヤネが咳払いをする。
「もう一つ、重要なことがあります。汐見さんの生体反応には、ヘイローの保護が確認できません」
「本人もないって言ってたよ」
「自己申告だけでは分かりませんでしたが、診断装置でも同じ結果です。衝撃耐性も治癒速度も、私たちとは大きく異なる可能性があります」
部屋の空気が変わった。
セリカが腰の銃から手を離す。
シロコは俺の腕の細い切り傷を見た。
ノノミの笑みも、心配を含んだものになる。
「つまり」と口にした。「撃たれたら普通に死ぬ」
「その可能性が高いです」
「車に轢かれても?」とシロコ。
「死ぬ」
「爆発は?」
「もっと死ぬ」
「高いところから落ちたら?」
「高さによるけど、死ぬ時は死ぬ」
シロコは真剣な顔で考え込んだ。
「すごく危ない」
「俺から見ると、撃たれても平気な方が不思議なんだけど」
「平気ではない。痛い」
「問題はそこなのか」
「はいはい、質問会は元気になってからにしよっか」
ホシノが二人の間へ入る。
何気ない動作に見えたが、俺から銃を持つ四人を遠ざける位置だった。
「カナタ君は二日間安静。セリカちゃんは病人に怒鳴らない。シロコちゃんは耐久実験しない。いいね?」
「しない」
「するつもりだったんですか!?」
「してない」
「ノノミちゃんは、買ってきたものをお願い」
「はい~。カナタさん、着替えと消化に良い食べ物を用意しました。サイズが合うか分かりませんけど」
ノノミが大きな紙袋を持ち上げる。
「そこまでしてもらう理由がない」
「理由ならありますよ。今、必要だからです」
「金は」
「心配しないでください」
「心配する。返せる当てがない」
「うんうん。では、元気になってから一緒に考えましょう」
柔らかいが、押し返せない言い方だった。
俺が何か言おうとすると、ホシノが毛布を胸元まで引き上げる。
「そういうわけで、今日は寝るのがお仕事だよ」
「ずっとここにいたのか」
「ん~?」
「俺が運ばれてから」
「まあ、委員長だからねぇ。怪しい漂流者君の監視は必要でしょ」
「ホシノ先輩、救護車両でもずっと脈を見てた」とシロコ。
「シロコちゃん」
「管理棟でも見てた」
「それはもういいから」
ホシノがシロコの頬を両手で挟み、ぐいと横へ向けた。
「はい、解散解散。カナタ君を休ませよ~」
セリカは納得していない顔をしていたが、アヤネに背を押されて出ていく。ノノミも水差しと紙袋を置き、シロコはホシノに顔を挟まれたまま連れていかれた。
最後にホシノだけが扉のところで振り返る。
「何かあったら、枕元のボタン。すぐ来るから」
「ホシノ」
初めて名前を呼んだ。
ホシノの足が止まる。
「ありがとう」
「……うん」
少し間があった。
それから、いつもの眠そうな笑みに戻る。
「どういたしまして、カナタ君」
扉が閉まる。
俺は水差しの横に置かれた水筒を見た。
管理棟で、ホシノが口元へ運んでくれたものだった。
*
二日目の午後、俺は保健室のベッドに座って事情を話した。
窓際の長机に対策委員会の五人が並んでいる。
ホシノは中央ではなく、少し離れたソファに横になっていた。目を閉じているが、眠ってはいない。俺が船の沈没を話し始めた時、毛布の下の指が動いた。
「船の名前は白鴎丸。小型の貨客船だ。俺は機関室の見習いで、凪津港から三つ先の島へ向かっていた」
アヤネが内容を端末へ記録する。
「乗っていた人数は?」
「乗員が六人。客が十一人。俺が知ってる限りでは」
「救命艇は?」
「二隻。嵐が来る前に準備した。でも、波が急に変わった。海面が割れたみたいに船が傾いて……そこから先は、水の中だ」
俺は胸元の方位磁針を握った。
「これが海底を指していた。下に光が見えた。泳いだら、気づいた時には砂の上にいた」
「空間転移でしょうか」とアヤネ。
「古い地下水路が海まで続いていた可能性は?」とシロコ。
「現在の地図では、最も近い海岸まで相当な距離があります。閉鎖された水路を通ったとしても、溺水状態の人が流れ着ける範囲ではありません」
「じゃあ、やっぱりワープ?」
セリカは疑いながらも、初日ほど尖った目をしていなかった。
「分からない」と口にした。「俺の知ってる場所にも、そんな技術はない」
「凪津港、白鴎丸、認識票の登録番号。すべて検索しましたが、キヴォトスの交通・学籍・住民データには該当がありませんでした」
アヤネは言葉を選ぶように一度止まった。
「連邦生徒会にも緊急保護を申請しました。ただ、現在は各地の混乱で、回答まで少なくとも数週間かかるそうです」
「数週間」
「はい」
「その間、ここに置くっていうの?」
セリカがアヤネへ向く。
「別に追い出せって言いたいわけじゃないわよ。でも、うちには余裕なんてないでしょ。食費も水も増える。もし本当に外の人間なら、どこへ連絡すればいいかも分からない。問題が起きた時、責任は誰が取るの?」
「委員長のおじさんかなぁ」
ソファからホシノが手を上げた。
「そんな軽く決めないでください!」
「じゃあ、外に捨てる?」
「だから、そうは言ってません!」
「うん。セリカちゃんは優しいねぇ」
「話を逸らさないで!」
「でしたら、私の――」
「ノノミ先輩の個人資金で解決するのも違います」
アヤネが先回りした。
ノノミは困ったように笑う。
「まだ何も言ってませんよ~?」
「言おうとはしましたよね」
「うんうん」
「認めないでください……」
五人の会話を聞きながら、俺は窓の外を見た。
校庭の半分は砂に埋もれている。遠くの校門は錆び、塀には弾痕があった。
保健室へ運ばれる途中で、巨大な校舎のほとんどが使われていないと聞いた。
残った生徒は五人だけ。
それでも、水も薬も服も使わせてもらった。
「俺が出る」
会話が止まった。
「二日休んだ。歩ける。街までの地図と水だけ貸してくれれば、あとは自分で――」
「却下」
ホシノの声だった。
目を開け、ソファから起き上がっている。
「でも」
「君はまだ、廊下を一往復しただけで息が上がる。街に身元も仕事もない。銃を持った不良生徒に会ったら、逃げる前に終わり。そんな状態で外へ出すのは、追い出すんじゃなくて殺すのと同じだよ」
語尾は伸びなかった。
俺は言葉を失う。
「ホシノ先輩の言う通りです」
アヤネが静かに続けた。
「今すぐ退去させる案はありません。問題は、安全に滞在する方法と期間です」
「なら、働く」
「病み上がりで?」とセリカ。
「できることだけだ。さっきから、壁の中でポンプが空回りしてる音がする」
アヤネの耳が動いた。
「分かるんですか?」
「一定の間隔で配管が鳴ってる。羽根車に砂か何かが噛んでるか、吸い込み側から空気が入ってる。水が来てないのに回し続けたら、焼きつく」
五人が黙った。
セリカが最初にアヤネを見る。
「心当たりは?」
「……あります。旧貯水槽から校舎へ水を上げる補助ポンプです。数日前から流量が落ちていて、来週点検業者を頼む予定でした」
「費用は?」
「出張費を含めて、最低でも二十万円ほど」
「二十万!?」
セリカの声が保健室に響く。
「直せるの?」
シロコが俺へ尋ねた。
「見てみないと分からない。ただ、壊れ切る前なら可能性はある」
「ダメだよ」
ホシノだけが即座に反対した。
「診断では二日安静。まだ二日目だね」
「横で指示するだけなら、管理棟と同じだ」
「管理棟でも途中で気を失ったでしょ」
「寝ただけだ」
「君の寝ただけは信用できないなぁ」
「作業するのは明日でいい。今日のうちに電源だけ止めてくれ。焼けたら本当に交換になる」
アヤネはすぐ端末を操作し、補助ポンプを停止した。
「点検は明日。私が立ち会います。汐見さんは座ったまま、無理をしない。少しでも体調が変わったら中止。それでどうでしょう」
「アヤネちゃんまで」
「二十万円です、ホシノ先輩」
「うへぇ。借金持ちはつらいねぇ」
「借金って」
俺が聞く。
セリカが顔をしかめた。
「九億六千万以上」
「……何の話だ?」
「だから、うちの借金」
「通貨の単位が違う?」
「同じよ!」
「学校が?」
「そうよ!」
俺はもう一度、窓の外を見た。
広すぎる校舎。砂に埋まった街。五人だけの生徒。
「二十万は大きいな」
「反応するところ、そこなの!?」
「九億は今の俺には想像できない」
シロコが頷いた。
「私も時々、分からなくなる」
「シロコ先輩まで慣れないでください!」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
ホシノは額へ手を当て、長く息を吐く。
「明日だけだよ。座って見るだけ。工具を持とうとしたら、おじさんが取り上げるからね」
「分かった」
「返事が素直すぎて怪しいなぁ」
「見張ってればいい」
「そのつもり」
ホシノはまたソファへ横になった。
けれど今度は目を閉じず、俺を見ていた。
*
三日目の朝。
補助ポンプは、校舎裏の地下機械室にあった。
俺はノノミが用意した灰色のシャツと黒い作業ズボンを着て、錆びた階段をゆっくり下りた。サイズは少し大きい。裾はアヤネが仮縫いしてくれている。
胸の痛みは残るが、呼吸は昨日より楽だった。
先頭をアヤネが歩き、シロコが工具箱を持つ。セリカは交換部品の入った籠、ノノミは水と救急用品。
最後尾にホシノがいた。
「全員で来る必要はないだろ」
俺が振り返る。
「万が一、怪しい機械を爆発させられたら困るから」とセリカ。
「それなら離れていた方がいい」
「そういう意味じゃないわよ!」
「私は重いもの担当」とシロコ。
「私は皆さんの応援です~」とノノミ。
「私は設備資料と停止手順を確認します」とアヤネ。
「おじさんは監視役」
ホシノが眠そうに言う。
「一番いらないんじゃない?」とセリカ。
「ひどいなぁ。委員長だよ?」
「それなら仕事してください!」
機械室の扉を開けると、湿った鉄と古い油の匂いがした。
壁沿いに太い配管が走り、中央に青い塗装の剥げたポンプが据えられている。床には少量の水が漏れ、砂と混じって泥になっていた。
俺は音を聞き、配管へ手を当てた。
「電源は切れてるな」
「昨日、停止しました」
「圧が残ってる。先に抜く。そこのバルブを少しずつ」
自分で手を伸ばす前に、ホシノが間へ入った。
「どれ?」
「赤い印のある方。急に開けるなよ」
「はいはい。ゆっくりね~」
ホシノがバルブを回す。
配管から空気が長く吐き出され、少し遅れて濁った水が受け皿へ落ちた。
「次は外装を外す。ボルトが六本」
「任せて」
シロコが工具箱を開けた。
俺も自分の工具巻きを広げる。
海水で錆が浮き始めたレンチ。細いドライバー。ワイヤー。折れた測定器。
本来あるはずの長いレンチと、寸法を測るノギスがない。嵐の中で失ったらしい。
家族写真は、防水布の内側に残っていた。紙の端は濡れ、三人の顔が滲んでいる。
俺は一度だけ指で触れ、工具巻きの奥へ戻した。
「足りない?」
隣にしゃがんだホシノが聞いた。
「二つなくした。測定器も壊れた」
「大事なもの?」
「仕事道具だ。買い直せるなら、それでいい」
「そっか」
ホシノの視線が、工具巻きの奥へ一瞬落ちた。
写真には何も触れなかった。
外装を外すと、原因はすぐに分かった。
羽根車の隙間に、細い金属片と砂が詰まっている。軸の密閉材もひび割れ、そこから空気を吸い込んでいた。
「完全に直すなら、密閉材を交換。軸も研磨が必要だ」
「部品は?」とアヤネ。
「この型に合うものは籠にない。応急処置なら、耐油ゴムと密封剤で一か月くらいは持たせられる」
「一か月あれば、交換部品を探せます」
「じゃあそれでいこう」
作業を分ける。
シロコが重い外装を支え、セリカが金属片と砂を取り除く。アヤネは資料を照合しながら部品を並べ、ノノミが泥を拭き取る。
ホシノは俺の横で、言われた工具を渡した。
「十二ミリ」
「これ?」
「それは十」
「うへぇ。二ミリくらい誤差じゃない?」
「ボルトを潰したいなら使っていい」
「漂流者君、機械には厳しいねぇ」
「機械は言葉にしないから、見る側が合わせるしかない」
「人間は?」
「言葉にしてくれれば助かる」
「なるほどねぇ」
ホシノは十二ミリのレンチを渡した。
俺は座ったまま、ひび割れた密閉材を外す。指先に力を込めると胸が痛んだが、顔には出さなかった。
三本目のボルトを締めたところで、目の前が暗くなる。
体が傾いた。
肩が床へぶつかる前に、柔らかいものへ受け止められる。
「そこまで」
耳元で、ホシノの声がした。
背中を抱え、反対の手で額へ触れている。
「熱はない。息は?」
「少し、立ちくらみ」
「座ってたのに?」
「じゃあ、座りくらみ」
「冗談を覚えるのが早いなぁ」
ホシノは笑わなかった。
「休んで」
「あと三本」
「シロコちゃんができるよ」
「締める順番と強さが――」
「説明して。手は出さない」
声から、語尾の伸びが消えていた。
俺はホシノを見る。
眠そうな表情は残っている。だが腕は離れず、立ち上がることを許さない。
「……分かった」
「うん」
そこでやっと、ホシノの肩から力が抜けた。
俺は壁際へ座らされ、ノノミから水を受け取る。シロコが指示通りの順番でボルトを締めた。
「対角に。次は右下。止まったところから四分の一」
「ん」
外装を戻し、バルブを閉める。
アヤネが制御盤の前へ立った。
「起動します」
低い唸りが機械室へ響く。
一度、配管が大きく震えた。
セリカが身構える。
二度目は小さい。
やがて空回りの甲高い音が消え、水の流れる一定の音だけが残った。
壁の流量計の針が、ゆっくり上がる。
「正常値です!」
アヤネの声が弾んだ。
「やった!」
セリカが両手を上げ、すぐに我に返って咳払いをする。
「まあ、これくらい当然よね」
「セリカちゃん、さっきすごく喜んでたよ~」
「ノノミ先輩!」
「修理完了」
シロコは満足そうにポンプを見た。
「カナタ、役に立つ」
「シロコさん、その言い方は少し……」
「褒めた」
「分かってる。ありがとう」
俺は立とうとした。
ホシノの手が肩へ置かれる。
「まだだよ」
「もう平気だ」
「さっき何て言ったっけ?」
「大丈夫じゃなくても、大丈夫と言う人がいる」
「よくできました」
「でも今は本当に」
「もう少し休憩」
肩の手は軽い。
振り払おうと思えばできるはずだった。
けれど俺は、そのまま壁へ背を預けた。
「これで、少しは返せたか」
水の音を聞きながら言う。
ホシノの表情から、笑みが薄れた。
「返さなくていいよ」
「でも」
「助けた代金を請求した覚え、ないからさ」
「俺が何もしない理由にはならない」
「じゃあ、恩返しじゃなくて、君がやりたいからやったことにしよっか」
「違いがあるのか?」
「あるよ」
ホシノはポンプを見る。
「返し終わったら出ていく人と、ここで一緒に直してくれる人の違い」
機械室には水音が満ちていた。
セリカたちの話し声が、少し遠く聞こえる。
「それに、借金はうちだけで十分だからねぇ」
ホシノがいつもの笑い方へ戻る。
俺はすぐには答えられなかった。
ここに残ると決めたわけではない。
帰る道を諦めたわけでもない。
それでも「出ていく人」と呼ばれた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。
*
その日の夕方、対策委員会は臨時会議を開いた。
場所は委員会室。
長机を囲む椅子は五つだった。
俺の分だけ、隣の教室から折り畳み椅子が運び込まれている。
「それでは、汐見カナタさんの一時滞在について決を採ります」
アヤネが議長役を務める。
「期間はまず一週間。居住場所は旧進路指導室。食事と水は委員会の管理下で支給。校外へ出る場合は必ず誰かが同行。武器の所持は禁止。設備作業は私の許可を得て、体調を優先すること」
「監視はおじさんが担当しま~す」
ソファに寝転んだホシノが手を上げた。
「ホシノ先輩は自分の仕事もしてください」
「監視も立派な仕事だよ、アヤネちゃん」
「ずっと寝てるつもりでは?」
「まさかまさか」
「目を逸らさないでください」
アヤネはため息をつき、端末へ何かを書き足した。
「監視担当は日替わりとします」
「えぇ~」
不満を口にしたのはホシノだけだった。
「私は賛成です」
ノノミが最初に手を上げる。
「カナタさんには、まずゆっくり休んでいただきたいです。それから帰る方法も、みんなで探しましょう」
「賛成」
シロコが続く。
「修理ができる。危険な人にも見えない」
「危険な人は自分で危険だと言わないわよ」
セリカは腕を組んだ。
「でも、まあ……ポンプは本当に助かったし。外に出したら死ぬっていうのも、その、寝覚めが悪いし」
「つまり賛成?」とシロコ。
「条件付き! 一週間だけよ。少しでも怪しいことしたら、すぐ追い出すんだから」
「ありがとう、黒見」
「セリカでいい」
口から出た後で、セリカ自身が驚いた顔をした。
「いちいち名字で呼ばれると、よそよそしくて気になるだけだから!」
「分かった。ありがとう、セリカ」
「……どういたしまして」
セリカは顔を背けた。
「私も賛成です。ただし、申請と身元照会は継続します。帰還可能な経路が判明した場合も、汐見さん本人と相談します」
アヤネが手を上げる。
「ホシノ先輩は?」
「もちろん賛成だよ」
「理由を記録します」
「拾った人には最後まで責任があるから」
ホシノは軽く言った。
俺はその横顔を見る。
委員長だから。
監視だから。
拾った責任だから。
ホシノは、自分が何かをする理由へ必ず名前をつける。
名前がないことは、しない人のように。
「全員賛成。汐見さんの一週間の滞在を認めます」
アヤネが端末を閉じた。
「本人から何かありますか?」
俺は五人を見た。
疑いながら席を用意したセリカ。
重い外装を支えたシロコ。
服と食事を用意したノノミ。
身元と居場所を調べ続けているアヤネ。
そして、拾った責任だと言うホシノ。
「世話になります」
頭を下げる。
「できることはする。でも、勝手なことはしない。帰る方法が分かった時も、黙っていなくなることはしない」
なぜ最後の一文を加えたのか、自分でも分からなかった。
顔を上げる。
ホシノだけが、目を見開いていた。
すぐに細め、眠そうな笑顔を作る。
「うん。それならよろしい」
ソファから起き上がり、俺の前へ来る。
「じゃあ今日から、アビドスの居候だね。六人目の委員じゃないから、会議の議決権はないけど」
「別にいらない」
「でもお掃除当番はあるよ」
「それはやる」
「食いつくところ、そこなんだ」
ホシノが笑う。
五人分しかなかった委員会室に、六つ目の椅子がある。
同じ形ではない。長く置く予定もなかった、借り物の席だ。
それでも会議が終わって皆が立った後、誰もその椅子を元の教室へ戻そうとはしなかった。
*
旧進路指導室は、委員会室から廊下を挟んだ向かいにあった。
机と書棚を端へ寄せ、簡易ベッドを置いてある。窓の隙間には新しい布が詰められ、床の砂も掃かれていた。
「ノノミちゃんとシロコちゃんが準備したんだよ」
案内役のホシノが扉を開ける。
「セリカちゃんは枕カバーを洗って、アヤネちゃんは照明を直した」
「ホシノは?」
「おじさんは総監督」
「何もしてないんだな」
「そんなことないよ。ちゃんと見守ってた」
「寝ながら?」
「効率的でしょ~」
ホシノは机の上へ水筒を置いた。
見覚えのある水筒だった。
「これは?」
「しばらく貸してあげる。水分補給、大事だからね」
「ホシノのじゃないのか」
「予備があるから平気平気」
「返す」
「今はいいよ」
「でも」
「救助代の一部」
「払う方と受け取る方が逆じゃないか?」
「おじさん式ではこれで合ってるの」
俺は水筒を手に取った。
管理棟で見た時は気づかなかったが、底に小さな鯨のシールが貼られている。端が擦れ、長く使われているのが分かった。
「大事なものじゃないのか」
「水筒だよ?」
「そうじゃなくて」
「……なくさないでくれれば、それでいいよ」
ホシノは目を逸らした。
廊下からアヤネの声がする。
「ホシノ先輩、今日の返済分の確認が残ってます!」
「あー。おじさん、急に眠気が……」
「さっきまで寝てたでしょう!」
「というわけで、カナタ君。何かあったら呼んでね」
「ホシノ」
扉から出ようとした背中を呼び止める。
ホシノが振り返る。
「明日も、ここにいるか」
聞いてから、おかしな質問だと思った。
彼女はこの学校の生徒で、委員長だ。いるに決まっている。
「いや、何でもない」
「いるよ」
ホシノは笑わなかった。
「明日も、明後日も。たぶん君が思ってるより、ずっとね」
一拍置いて、いつもの調子へ戻る。
「だから安心して休みなよ、居候君」
扉が閉まる。
机の上には、鯨の水筒。
廊下の向こうから、アヤネに捕まったホシノの情けない声と、セリカの怒鳴り声が聞こえた。
俺は簡易ベッドへ腰を下ろした。
一週間。
借り物の服。借り物の部屋。借り物の椅子。
ここにあるものは、何一つ自分のものではない。
それでも、水筒だけは手元に置いた。
窓の外で砂が流れている。
海の音には似ていない。
けれど廊下の向こうに人の声があるだけで、目を閉じることへの恐怖は少し薄くなった。