砂の海に、君が流れ着く   作:陽炎帽子

2 / 6
六人目ではない居候

 扉の向こうにいた少女は、最初にホシノを見た。

 次に、床へ横たわる俺を見る。

 白い髪の上に、青白いヘイローが浮かんでいた。首元の青いマフラーが風にはためき、背中にはライフルがある。

「その人?」

「うん。汐見カナタ君。十七歳。海から来たらしいよ」

「ここに海はない」

「おじさんもそう思う」

 少女は砂の積もった床へ膝をついた。

「砂狼シロコ。救助に来た」

「汐見、カナタだ」

 名乗り返しただけで、喉が焼けるように痛んだ。

 シロコは短く頷き、俺の胸元から足先まで視線を動かす。

「武器は?」

「持ってない」

「ヘイローもないみたい」

 ホシノが付け加えると、シロコの視線が俺の頭上へ戻った。

 

「ん。本当にない」

「だから運ぶ時は気をつけてね。たぶん、私たちと同じ感覚で扱うと壊れちゃう」

「分かった」

 壊れる。

 人間へ使うには妙な表現だった。

 だがホシノもシロコも、脅すために言っているわけではないらしい。シロコは担いでいた折り畳み式の布担架を床へ広げ、固定具に破損がないか一本ずつ確かめた。

「自転車に牽引具をつけた。揺れるけど、車両と合流するまでなら運べる」

「お疲れさま、シロコちゃん。じゃあ、おじさんが後ろから支えるよ」

「私が運べる」

「うん。でも今日は私がやる」

 柔らかい声だった。

 シロコは数秒だけホシノを見て、それ以上は言わなかった。

 二人が担架を俺の横へ寄せる。

「自分で移れる」

 腕をついた瞬間、胸の中央に鋭い痛みが走った。

 息が詰まり、力が抜ける。

 倒れる前に、ホシノの腕が背中へ回った。

「ほらね」

「……今のは、少し失敗した」

「漂流者君の『少し』は信用ならないなぁ」

 ホシノが背を支え、シロコが脚を持つ。二人は声を掛け合うまでもなく、俺の体をまっすぐ担架へ移した。

 固定帯が胸へ触れると痛んだ。

 俺が顔をしかめるより先に、ホシノの指が留め具を緩める。

「ここ?」

「大丈夫だ」

「場所を聞いたんだけど」

「……胸の真ん中」

「救命処置のせいかもね。ごめん」

「謝るな。あれがなければ死んでた」

 ホシノの手が止まった。

 眠そうな目が、一度だけまっすぐ俺を見る。

「うん。じゃあ、ちゃんと診てもらおう」

 それだけ言い、固定帯の下へ畳んだ布を挟んだ。

 管理棟を出ると、砂嵐の名残が街を黄色く霞ませていた。

 海はなかった。

 古びたビル。砂へ沈む道路。屋上だけを残して埋まった家。遠くに見える巨大な校舎。

 昨夜まで海の上にいたはずなのに、世界を丸ごと取り替えられたようだった。

 胸元の方位磁針は、担架が向きを変えても同じ方角を指し続けている。

 北ではない。

 砂漠のさらに奥。

 俺は針を見つめたまま、また意識を失った。

 

      *

 

 夢の中で、誰かが喧嘩をしていた。

「ですから、患者さんの前で大声を出さないでください!」

「あたしだって好きで出してるんじゃないわよ! 身元不明の男を学校に運び込むなんて、警戒するのが普通でしょ!」

「うんうん。でも今はまだ眠ってますし~」

「眠ってるふりかもしれないじゃない!」

「呼吸と脈拍に意識的な変化はない。たぶん本当に寝てる」

「シロコ先輩はどっちの味方なんですか!?」

 瞼を開けると、白い天井があった。

 管理棟より清潔だが、新しくはない。壁紙は日焼けし、薬品棚の硝子には細いひびが入っている。

 学校の保健室らしい。

 ベッドの周りに、四人の少女がいた。

 管理棟へ来たシロコ。

 眼鏡をかけ、端末を胸へ抱いた少女。

 長い金髪の、おっとりした雰囲気の少女。

 そして、黒い髪を二つに結び、こちらを警戒した目で見る小柄な少女。

「起きた」

 シロコの一言で、全員の視線が集まった。

 黒髪の少女が半歩下がり、腰の銃へ手を近づける。

 俺は両手を毛布の上へ出した。

「武器はない」

「そんなこと見れば分かるわよ」

「じゃあ、手を上げなくていいか」

「……好きにすれば?」

「セリカちゃん、病人を脅かさないの~」

 聞き覚えのある声が、ベッドの反対側からした。

 カーテンの陰に置かれた椅子で、ホシノが眠っていた。

 目を閉じたまま、片手だけ軽く上げる。

「寝てたんじゃないの?」と黒髪の少女。

「うん。今も半分くらい寝てるよ」

「それなら黙っててください!」

「カナタ君、紹介するねぇ」

 ホシノは抗議を聞き流し、椅子から立った。

「自転車で迎えに来てくれたのが、砂狼シロコちゃん。こっちの優しそうなお嬢さんが十六夜ノノミちゃん」

「十六夜ノノミです。よろしくお願いします、カナタさん」

 ノノミは柔らかく微笑み、ベッド脇の水差しを整えた。

「端末を持ってるのが、奥空アヤネちゃん。対策委員会の書記で、うちの生命線」

「奥空アヤネです。先ほど外部の医療センターに診断データを送信しました。質問は後にしますので、痛みや息苦しさがあれば先に教えてください」

「分かった。ありがとう」

「それから、怒ると元気な子が黒見セリカちゃん」

「紹介が雑すぎます!」

 セリカがホシノをにらむ。

 それから、少しだけ言いにくそうに俺を見た。

「……黒見セリカ。言っとくけど、まだ信用したわけじゃないから」

「それが普通だと思う」

「何よ。素直ね」

「反対された方が安心する。全員が知らない人間を簡単に信じる場所だったら、そっちの方が心配だ」

 セリカは返事に詰まり、顔をしかめた。

「やっぱり変な奴」

「それ、ホシノにも言われた」

「ホシノ先輩を呼び捨て!?」

「私がそう呼んでいいって言ったんだよ」

 ホシノが横から答える。

 なぜか少しだけ機嫌がよさそうだった。

「同い年だからねぇ」

「同い年……?」

 セリカが俺とホシノを見比べる。

「嘘でしょ」

「セリカちゃんまで失礼だなぁ」

「だって、どう見ても――」

「セリカさん」

 アヤネの静かな声で、セリカは口を閉じた。

 アヤネが端末を操作する。ベッドの横にある古い診断機から、淡い光の板が立ち上がった。

「医療センターから回答です。肺に少量の水分が残っていますが、現時点で呼吸状態は安定。胸部は打撲、骨折所見なし。脱水と低体温は改善しています。二日間は安静、発熱や呼吸困難があれば搬送するように、とのことです」

「骨折してなかったんだ」

 ホシノの肩から、わずかに力が抜けた。

「ホシノの処置が上手かったんだろ」

「うへ。褒めても何も出ないよ~」

「礼を言ってるだけだ」

「……そっか」

 ホシノは目を逸らした。

「なら、まあ。どういたしまして」

 その声だけ、少し小さかった。

 アヤネが咳払いをする。

「もう一つ、重要なことがあります。汐見さんの生体反応には、ヘイローの保護が確認できません」

「本人もないって言ってたよ」

「自己申告だけでは分かりませんでしたが、診断装置でも同じ結果です。衝撃耐性も治癒速度も、私たちとは大きく異なる可能性があります」

 部屋の空気が変わった。

 セリカが腰の銃から手を離す。

 シロコは俺の腕の細い切り傷を見た。

 ノノミの笑みも、心配を含んだものになる。

「つまり」と口にした。「撃たれたら普通に死ぬ」

「その可能性が高いです」

「車に轢かれても?」とシロコ。

「死ぬ」

「爆発は?」

「もっと死ぬ」

「高いところから落ちたら?」

「高さによるけど、死ぬ時は死ぬ」

 シロコは真剣な顔で考え込んだ。

「すごく危ない」

「俺から見ると、撃たれても平気な方が不思議なんだけど」

「平気ではない。痛い」

「問題はそこなのか」

「はいはい、質問会は元気になってからにしよっか」

 ホシノが二人の間へ入る。

 何気ない動作に見えたが、俺から銃を持つ四人を遠ざける位置だった。

「カナタ君は二日間安静。セリカちゃんは病人に怒鳴らない。シロコちゃんは耐久実験しない。いいね?」

「しない」

「するつもりだったんですか!?」

「してない」

「ノノミちゃんは、買ってきたものをお願い」

「はい~。カナタさん、着替えと消化に良い食べ物を用意しました。サイズが合うか分かりませんけど」

 ノノミが大きな紙袋を持ち上げる。

「そこまでしてもらう理由がない」

「理由ならありますよ。今、必要だからです」

「金は」

「心配しないでください」

「心配する。返せる当てがない」

「うんうん。では、元気になってから一緒に考えましょう」

 柔らかいが、押し返せない言い方だった。

 俺が何か言おうとすると、ホシノが毛布を胸元まで引き上げる。

「そういうわけで、今日は寝るのがお仕事だよ」

「ずっとここにいたのか」

「ん~?」

「俺が運ばれてから」

「まあ、委員長だからねぇ。怪しい漂流者君の監視は必要でしょ」

「ホシノ先輩、救護車両でもずっと脈を見てた」とシロコ。

「シロコちゃん」

「管理棟でも見てた」

「それはもういいから」

 ホシノがシロコの頬を両手で挟み、ぐいと横へ向けた。

「はい、解散解散。カナタ君を休ませよ~」

 セリカは納得していない顔をしていたが、アヤネに背を押されて出ていく。ノノミも水差しと紙袋を置き、シロコはホシノに顔を挟まれたまま連れていかれた。

 最後にホシノだけが扉のところで振り返る。

「何かあったら、枕元のボタン。すぐ来るから」

「ホシノ」

 初めて名前を呼んだ。

 ホシノの足が止まる。

「ありがとう」

「……うん」

 少し間があった。

 それから、いつもの眠そうな笑みに戻る。

 

「どういたしまして、カナタ君」

 扉が閉まる。

 俺は水差しの横に置かれた水筒を見た。

 管理棟で、ホシノが口元へ運んでくれたものだった。

 

      *

 

 二日目の午後、俺は保健室のベッドに座って事情を話した。

 窓際の長机に対策委員会の五人が並んでいる。

 ホシノは中央ではなく、少し離れたソファに横になっていた。目を閉じているが、眠ってはいない。俺が船の沈没を話し始めた時、毛布の下の指が動いた。

「船の名前は白鴎丸。小型の貨客船だ。俺は機関室の見習いで、凪津港から三つ先の島へ向かっていた」

 アヤネが内容を端末へ記録する。

「乗っていた人数は?」

「乗員が六人。客が十一人。俺が知ってる限りでは」

「救命艇は?」

「二隻。嵐が来る前に準備した。でも、波が急に変わった。海面が割れたみたいに船が傾いて……そこから先は、水の中だ」

 俺は胸元の方位磁針を握った。

「これが海底を指していた。下に光が見えた。泳いだら、気づいた時には砂の上にいた」

「空間転移でしょうか」とアヤネ。

「古い地下水路が海まで続いていた可能性は?」とシロコ。

「現在の地図では、最も近い海岸まで相当な距離があります。閉鎖された水路を通ったとしても、溺水状態の人が流れ着ける範囲ではありません」

「じゃあ、やっぱりワープ?」

 セリカは疑いながらも、初日ほど尖った目をしていなかった。

「分からない」と口にした。「俺の知ってる場所にも、そんな技術はない」

「凪津港、白鴎丸、認識票の登録番号。すべて検索しましたが、キヴォトスの交通・学籍・住民データには該当がありませんでした」

 アヤネは言葉を選ぶように一度止まった。

「連邦生徒会にも緊急保護を申請しました。ただ、現在は各地の混乱で、回答まで少なくとも数週間かかるそうです」

「数週間」

「はい」

「その間、ここに置くっていうの?」

 セリカがアヤネへ向く。

「別に追い出せって言いたいわけじゃないわよ。でも、うちには余裕なんてないでしょ。食費も水も増える。もし本当に外の人間なら、どこへ連絡すればいいかも分からない。問題が起きた時、責任は誰が取るの?」

「委員長のおじさんかなぁ」

 ソファからホシノが手を上げた。

「そんな軽く決めないでください!」

「じゃあ、外に捨てる?」

「だから、そうは言ってません!」

「うん。セリカちゃんは優しいねぇ」

「話を逸らさないで!」

「でしたら、私の――」

「ノノミ先輩の個人資金で解決するのも違います」

 アヤネが先回りした。

 ノノミは困ったように笑う。

「まだ何も言ってませんよ~?」

「言おうとはしましたよね」

「うんうん」

「認めないでください……」

 五人の会話を聞きながら、俺は窓の外を見た。

 校庭の半分は砂に埋もれている。遠くの校門は錆び、塀には弾痕があった。

 保健室へ運ばれる途中で、巨大な校舎のほとんどが使われていないと聞いた。

 残った生徒は五人だけ。

 それでも、水も薬も服も使わせてもらった。

「俺が出る」

 会話が止まった。

「二日休んだ。歩ける。街までの地図と水だけ貸してくれれば、あとは自分で――」

「却下」

 ホシノの声だった。

 目を開け、ソファから起き上がっている。

「でも」

「君はまだ、廊下を一往復しただけで息が上がる。街に身元も仕事もない。銃を持った不良生徒に会ったら、逃げる前に終わり。そんな状態で外へ出すのは、追い出すんじゃなくて殺すのと同じだよ」

 語尾は伸びなかった。

 俺は言葉を失う。

 

「ホシノ先輩の言う通りです」

 アヤネが静かに続けた。

「今すぐ退去させる案はありません。問題は、安全に滞在する方法と期間です」

「なら、働く」

「病み上がりで?」とセリカ。

「できることだけだ。さっきから、壁の中でポンプが空回りしてる音がする」

 アヤネの耳が動いた。

「分かるんですか?」

「一定の間隔で配管が鳴ってる。羽根車に砂か何かが噛んでるか、吸い込み側から空気が入ってる。水が来てないのに回し続けたら、焼きつく」

 五人が黙った。

 セリカが最初にアヤネを見る。

「心当たりは?」

「……あります。旧貯水槽から校舎へ水を上げる補助ポンプです。数日前から流量が落ちていて、来週点検業者を頼む予定でした」

「費用は?」

「出張費を含めて、最低でも二十万円ほど」

「二十万!?」

 セリカの声が保健室に響く。

「直せるの?」

 シロコが俺へ尋ねた。

「見てみないと分からない。ただ、壊れ切る前なら可能性はある」

「ダメだよ」

 ホシノだけが即座に反対した。

「診断では二日安静。まだ二日目だね」

「横で指示するだけなら、管理棟と同じだ」

「管理棟でも途中で気を失ったでしょ」

「寝ただけだ」

「君の寝ただけは信用できないなぁ」

「作業するのは明日でいい。今日のうちに電源だけ止めてくれ。焼けたら本当に交換になる」

 アヤネはすぐ端末を操作し、補助ポンプを停止した。

「点検は明日。私が立ち会います。汐見さんは座ったまま、無理をしない。少しでも体調が変わったら中止。それでどうでしょう」

「アヤネちゃんまで」

「二十万円です、ホシノ先輩」

「うへぇ。借金持ちはつらいねぇ」

「借金って」

 俺が聞く。

 セリカが顔をしかめた。

「九億六千万以上」

「……何の話だ?」

「だから、うちの借金」

「通貨の単位が違う?」

「同じよ!」

「学校が?」

「そうよ!」

 俺はもう一度、窓の外を見た。

 広すぎる校舎。砂に埋まった街。五人だけの生徒。

「二十万は大きいな」

「反応するところ、そこなの!?」

「九億は今の俺には想像できない」

 シロコが頷いた。

「私も時々、分からなくなる」

「シロコ先輩まで慣れないでください!」

 張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。

 ホシノは額へ手を当て、長く息を吐く。

「明日だけだよ。座って見るだけ。工具を持とうとしたら、おじさんが取り上げるからね」

「分かった」

「返事が素直すぎて怪しいなぁ」

「見張ってればいい」

「そのつもり」

 ホシノはまたソファへ横になった。

 けれど今度は目を閉じず、俺を見ていた。

 

      *

 

 三日目の朝。

 補助ポンプは、校舎裏の地下機械室にあった。

 俺はノノミが用意した灰色のシャツと黒い作業ズボンを着て、錆びた階段をゆっくり下りた。サイズは少し大きい。裾はアヤネが仮縫いしてくれている。

 胸の痛みは残るが、呼吸は昨日より楽だった。

 

 先頭をアヤネが歩き、シロコが工具箱を持つ。セリカは交換部品の入った籠、ノノミは水と救急用品。

 最後尾にホシノがいた。

「全員で来る必要はないだろ」

 俺が振り返る。

「万が一、怪しい機械を爆発させられたら困るから」とセリカ。

「それなら離れていた方がいい」

「そういう意味じゃないわよ!」

「私は重いもの担当」とシロコ。

「私は皆さんの応援です~」とノノミ。

「私は設備資料と停止手順を確認します」とアヤネ。

「おじさんは監視役」

 ホシノが眠そうに言う。

「一番いらないんじゃない?」とセリカ。

「ひどいなぁ。委員長だよ?」

「それなら仕事してください!」

 機械室の扉を開けると、湿った鉄と古い油の匂いがした。

 壁沿いに太い配管が走り、中央に青い塗装の剥げたポンプが据えられている。床には少量の水が漏れ、砂と混じって泥になっていた。

 俺は音を聞き、配管へ手を当てた。

「電源は切れてるな」

「昨日、停止しました」

「圧が残ってる。先に抜く。そこのバルブを少しずつ」

 自分で手を伸ばす前に、ホシノが間へ入った。

「どれ?」

「赤い印のある方。急に開けるなよ」

「はいはい。ゆっくりね~」

 ホシノがバルブを回す。

 配管から空気が長く吐き出され、少し遅れて濁った水が受け皿へ落ちた。

「次は外装を外す。ボルトが六本」

「任せて」

 シロコが工具箱を開けた。

 俺も自分の工具巻きを広げる。

 海水で錆が浮き始めたレンチ。細いドライバー。ワイヤー。折れた測定器。

 本来あるはずの長いレンチと、寸法を測るノギスがない。嵐の中で失ったらしい。

 

 家族写真は、防水布の内側に残っていた。紙の端は濡れ、三人の顔が滲んでいる。

 俺は一度だけ指で触れ、工具巻きの奥へ戻した。

 

「足りない?」

 隣にしゃがんだホシノが聞いた。

「二つなくした。測定器も壊れた」

「大事なもの?」

「仕事道具だ。買い直せるなら、それでいい」

「そっか」

 ホシノの視線が、工具巻きの奥へ一瞬落ちた。

 写真には何も触れなかった。

 外装を外すと、原因はすぐに分かった。

 羽根車の隙間に、細い金属片と砂が詰まっている。軸の密閉材もひび割れ、そこから空気を吸い込んでいた。

「完全に直すなら、密閉材を交換。軸も研磨が必要だ」

「部品は?」とアヤネ。

「この型に合うものは籠にない。応急処置なら、耐油ゴムと密封剤で一か月くらいは持たせられる」

「一か月あれば、交換部品を探せます」

「じゃあそれでいこう」

 作業を分ける。

 シロコが重い外装を支え、セリカが金属片と砂を取り除く。アヤネは資料を照合しながら部品を並べ、ノノミが泥を拭き取る。

 ホシノは俺の横で、言われた工具を渡した。

「十二ミリ」

「これ?」

「それは十」

「うへぇ。二ミリくらい誤差じゃない?」

「ボルトを潰したいなら使っていい」

「漂流者君、機械には厳しいねぇ」

「機械は言葉にしないから、見る側が合わせるしかない」

「人間は?」

「言葉にしてくれれば助かる」

「なるほどねぇ」

 ホシノは十二ミリのレンチを渡した。

 俺は座ったまま、ひび割れた密閉材を外す。指先に力を込めると胸が痛んだが、顔には出さなかった。

 三本目のボルトを締めたところで、目の前が暗くなる。

 体が傾いた。

 肩が床へぶつかる前に、柔らかいものへ受け止められる。

「そこまで」

 耳元で、ホシノの声がした。

 背中を抱え、反対の手で額へ触れている。

「熱はない。息は?」

「少し、立ちくらみ」

「座ってたのに?」

「じゃあ、座りくらみ」

「冗談を覚えるのが早いなぁ」

 ホシノは笑わなかった。

「休んで」

「あと三本」

「シロコちゃんができるよ」

「締める順番と強さが――」

「説明して。手は出さない」

 声から、語尾の伸びが消えていた。

 俺はホシノを見る。

 眠そうな表情は残っている。だが腕は離れず、立ち上がることを許さない。

「……分かった」

「うん」

 そこでやっと、ホシノの肩から力が抜けた。

 俺は壁際へ座らされ、ノノミから水を受け取る。シロコが指示通りの順番でボルトを締めた。

「対角に。次は右下。止まったところから四分の一」

「ん」

 外装を戻し、バルブを閉める。

 

 アヤネが制御盤の前へ立った。

「起動します」

 低い唸りが機械室へ響く。

 一度、配管が大きく震えた。

 セリカが身構える。

 二度目は小さい。

 やがて空回りの甲高い音が消え、水の流れる一定の音だけが残った。

 壁の流量計の針が、ゆっくり上がる。

「正常値です!」

 アヤネの声が弾んだ。

「やった!」

 セリカが両手を上げ、すぐに我に返って咳払いをする。

「まあ、これくらい当然よね」

「セリカちゃん、さっきすごく喜んでたよ~」

「ノノミ先輩!」

「修理完了」

 シロコは満足そうにポンプを見た。

「カナタ、役に立つ」

「シロコさん、その言い方は少し……」

「褒めた」

「分かってる。ありがとう」

 俺は立とうとした。

 ホシノの手が肩へ置かれる。

「まだだよ」

「もう平気だ」

「さっき何て言ったっけ?」

「大丈夫じゃなくても、大丈夫と言う人がいる」

「よくできました」

「でも今は本当に」

「もう少し休憩」

 肩の手は軽い。

 振り払おうと思えばできるはずだった。

 けれど俺は、そのまま壁へ背を預けた。

「これで、少しは返せたか」

 水の音を聞きながら言う。

 ホシノの表情から、笑みが薄れた。

「返さなくていいよ」

「でも」

「助けた代金を請求した覚え、ないからさ」

「俺が何もしない理由にはならない」

「じゃあ、恩返しじゃなくて、君がやりたいからやったことにしよっか」

「違いがあるのか?」

「あるよ」

 ホシノはポンプを見る。

「返し終わったら出ていく人と、ここで一緒に直してくれる人の違い」

 機械室には水音が満ちていた。

 セリカたちの話し声が、少し遠く聞こえる。

「それに、借金はうちだけで十分だからねぇ」

 ホシノがいつもの笑い方へ戻る。

 

 俺はすぐには答えられなかった。

 ここに残ると決めたわけではない。

 帰る道を諦めたわけでもない。

 

 それでも「出ていく人」と呼ばれた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。

 

      *

 

 その日の夕方、対策委員会は臨時会議を開いた。

 場所は委員会室。

 長机を囲む椅子は五つだった。

 俺の分だけ、隣の教室から折り畳み椅子が運び込まれている。

「それでは、汐見カナタさんの一時滞在について決を採ります」

 アヤネが議長役を務める。

「期間はまず一週間。居住場所は旧進路指導室。食事と水は委員会の管理下で支給。校外へ出る場合は必ず誰かが同行。武器の所持は禁止。設備作業は私の許可を得て、体調を優先すること」

「監視はおじさんが担当しま~す」

 ソファに寝転んだホシノが手を上げた。

「ホシノ先輩は自分の仕事もしてください」

「監視も立派な仕事だよ、アヤネちゃん」

「ずっと寝てるつもりでは?」

「まさかまさか」

「目を逸らさないでください」

 アヤネはため息をつき、端末へ何かを書き足した。

「監視担当は日替わりとします」

「えぇ~」

 不満を口にしたのはホシノだけだった。

「私は賛成です」

 ノノミが最初に手を上げる。

「カナタさんには、まずゆっくり休んでいただきたいです。それから帰る方法も、みんなで探しましょう」

「賛成」

 シロコが続く。

「修理ができる。危険な人にも見えない」

「危険な人は自分で危険だと言わないわよ」

 セリカは腕を組んだ。

「でも、まあ……ポンプは本当に助かったし。外に出したら死ぬっていうのも、その、寝覚めが悪いし」

「つまり賛成?」とシロコ。

「条件付き! 一週間だけよ。少しでも怪しいことしたら、すぐ追い出すんだから」

「ありがとう、黒見」

「セリカでいい」

 口から出た後で、セリカ自身が驚いた顔をした。

「いちいち名字で呼ばれると、よそよそしくて気になるだけだから!」

「分かった。ありがとう、セリカ」

「……どういたしまして」

 セリカは顔を背けた。

「私も賛成です。ただし、申請と身元照会は継続します。帰還可能な経路が判明した場合も、汐見さん本人と相談します」

 アヤネが手を上げる。

「ホシノ先輩は?」

「もちろん賛成だよ」

「理由を記録します」

「拾った人には最後まで責任があるから」

 ホシノは軽く言った。

 俺はその横顔を見る。

 委員長だから。

 監視だから。

 拾った責任だから。

 ホシノは、自分が何かをする理由へ必ず名前をつける。

 名前がないことは、しない人のように。

「全員賛成。汐見さんの一週間の滞在を認めます」

 アヤネが端末を閉じた。

「本人から何かありますか?」

 俺は五人を見た。

 疑いながら席を用意したセリカ。

 重い外装を支えたシロコ。

 服と食事を用意したノノミ。

 身元と居場所を調べ続けているアヤネ。

 そして、拾った責任だと言うホシノ。

「世話になります」

 頭を下げる。

「できることはする。でも、勝手なことはしない。帰る方法が分かった時も、黙っていなくなることはしない」

 なぜ最後の一文を加えたのか、自分でも分からなかった。

 顔を上げる。

 ホシノだけが、目を見開いていた。

 すぐに細め、眠そうな笑顔を作る。

「うん。それならよろしい」

 ソファから起き上がり、俺の前へ来る。

「じゃあ今日から、アビドスの居候だね。六人目の委員じゃないから、会議の議決権はないけど」

「別にいらない」

「でもお掃除当番はあるよ」

「それはやる」

「食いつくところ、そこなんだ」

 ホシノが笑う。

 五人分しかなかった委員会室に、六つ目の椅子がある。

 同じ形ではない。長く置く予定もなかった、借り物の席だ。

 それでも会議が終わって皆が立った後、誰もその椅子を元の教室へ戻そうとはしなかった。

 

      *

 

 旧進路指導室は、委員会室から廊下を挟んだ向かいにあった。

 机と書棚を端へ寄せ、簡易ベッドを置いてある。窓の隙間には新しい布が詰められ、床の砂も掃かれていた。

「ノノミちゃんとシロコちゃんが準備したんだよ」

 案内役のホシノが扉を開ける。

「セリカちゃんは枕カバーを洗って、アヤネちゃんは照明を直した」

「ホシノは?」

「おじさんは総監督」

「何もしてないんだな」

「そんなことないよ。ちゃんと見守ってた」

「寝ながら?」

「効率的でしょ~」

 ホシノは机の上へ水筒を置いた。

 見覚えのある水筒だった。

「これは?」

「しばらく貸してあげる。水分補給、大事だからね」

「ホシノのじゃないのか」

「予備があるから平気平気」

「返す」

「今はいいよ」

「でも」

「救助代の一部」

「払う方と受け取る方が逆じゃないか?」

「おじさん式ではこれで合ってるの」

 俺は水筒を手に取った。

 管理棟で見た時は気づかなかったが、底に小さな鯨のシールが貼られている。端が擦れ、長く使われているのが分かった。

「大事なものじゃないのか」

「水筒だよ?」

「そうじゃなくて」

「……なくさないでくれれば、それでいいよ」

 ホシノは目を逸らした。

 廊下からアヤネの声がする。

「ホシノ先輩、今日の返済分の確認が残ってます!」

「あー。おじさん、急に眠気が……」

「さっきまで寝てたでしょう!」

「というわけで、カナタ君。何かあったら呼んでね」

「ホシノ」

 扉から出ようとした背中を呼び止める。

 ホシノが振り返る。

「明日も、ここにいるか」

 聞いてから、おかしな質問だと思った。

 彼女はこの学校の生徒で、委員長だ。いるに決まっている。

「いや、何でもない」

「いるよ」

 ホシノは笑わなかった。

「明日も、明後日も。たぶん君が思ってるより、ずっとね」

 一拍置いて、いつもの調子へ戻る。

 

「だから安心して休みなよ、居候君」

 扉が閉まる。

 机の上には、鯨の水筒。

 廊下の向こうから、アヤネに捕まったホシノの情けない声と、セリカの怒鳴り声が聞こえた。

 俺は簡易ベッドへ腰を下ろした。

 一週間。

 借り物の服。借り物の部屋。借り物の椅子。

 ここにあるものは、何一つ自分のものではない。

 それでも、水筒だけは手元に置いた。

 窓の外で砂が流れている。

 海の音には似ていない。

 けれど廊下の向こうに人の声があるだけで、目を閉じることへの恐怖は少し薄くなった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。