帰ってきたあとには、帰ってきた人の仕事がある。
治療を受けること。
話すこと。
謝ること。
そして、待っていた人の言葉を聞くこと。
*
保健室へ入って最初の二時間、ホシノと俺の間には白いカーテンがあった。
同じ部屋。
寝台は二つ隣。
それでも姿は見えない。
「カナタ君」
「いる」
一分後。
「カナタ君」
「いるよ」
さらに二分後。
「カナタ君」
「小鳥遊さん、検査中は会話を控えてください」
救護端末に注意された。
「はぁい」
「ホシノ」
「ん?」
「いる」
「……そっか」
カーテンの向こうで、寝台が小さく軋んだ。
ホシノはそれから七分、呼ばなかった。
七分後にまた呼んだ。
俺は同じ返事をした。
*
ホシノの検査結果は、抑制装置による一時的な神経疲労、脱水、両手首の圧迫痕、左手指の軽い痺れ、睡眠不足。
骨折なし。
ヘイローの輝度は戻り始めている。
点滴と食事、二十四時間の安静で経過観察。
痺れが長引けば再検査。
俺は再撮影で内臓出血なし。
左第九肋骨の亀裂もずれていない。
脳震盪症状は改善傾向。
抜糸まで七日から十日。
肋骨は少なくとも三週間、重量作業と激しい運動を禁止。
「三週間」
カーテンの向こうから、ホシノの低い声がした。
「聞こえてた?」
「聞こえるよ。三週間、工具禁止」
「工具全部は禁止されてない」
「重量作業は禁止でしょ?」
「小さいドライバーは」
「駄目」
「そこは医療端末が決める」
『座位での軽作業は、頭痛消失後、一回十分以内なら許可できます』
「ほら」
「端末君は甘いねぇ」
『回復を妨げる行為が認められた場合、許可を取り消します』
「いい端末君だねぇ」
声に少しだけ笑いが戻る。
俺は目を閉じた。
笑うと肋骨が痛い。
痛いけれど、声が聞こえる。
*
午後二時。
先生が保健室へ戻った。
校舎襲撃と第十八採掘管理区の記録は、すでにシャーレと外部監査窓口へ送られている。
カイザー側の闇銀行口座。
一方的な利率変更。
土地取得過程。
未成年との研究契約。
契約直後の校舎襲撃。
身柄を使った明渡し要求。
別々だった証拠が、一つの連続した行為として保存された。
「緊急保全命令が出ました」
先生が報告する。
「校地区画の管理主体に関する判断が終わるまで、カイザーは追加接収、破壊、立退きを実行できません。懲罰的な利率変更も停止です」
「借金は?」とセリカ。
「残ります。9億6,235万円。元の契約まで消えたわけではありません」
「土地も?」とアヤネ。
「校舎以外のカイザー名義は、すぐには戻りません。ただ、取得過程の再調査が始まります」
「黒服は」とシロコ。
「研究区画から撤収しました。これで関心を失ったとは考えないでください」
勝ったから、全部が戻るわけではない。
借金は残る。
街は砂に埋まったまま。
校門も廊下も壊れている。
それでも、今日より悪くなるのを一度止めた。
「ホシノの退学届と対策委員会退会届は、正式に不受理です」
先生は二枚の紙を持ち上げる。
端に、赤い不受理印。
「本人の意思を無視して所属を強制するためではありません。武力と脅迫の下で出された届けを、自由な意思として処理しないためです」
カーテンが開いた。
ホシノが自分で開けた。
点滴の管が右腕へつながっている。
「先生」
「はい」
「退学しない」
ホシノは言った。
「対策委員会も、辞めない。今度は、自分で決める」
「受け取りました」
先生は新しい紙を渡した。
離脱届の撤回確認。
ホシノは一行ずつ読む。
条件の裏を探すように、最後まで。
署名する。
今度は、誰も急かさない。
*
その場に、シロコ、セリカ、ノノミ、アヤネが残った。
先生は扉の外へ出る。
アヤネがこちら側のカーテンを閉め、救護端末の音声を俺の耳元だけへ切り替える。
俺も聞こうとしない。
これは、五人の話だった。
ホシノは寝台の上で正座しようとした。
アヤネに止められ、脚を下ろして座り直す。
「えっと」
いつもの軽口が出てこない。
四人を順番に見る。
「ごめんなさい」
頭を下げる。
「学校とみんなを守るためだった、とは言わない」
セリカの肩が動く。
「本当は、そう思ってた。でも、みんながどうしたいか聞かなかった。勝手に危険だと決めて、勝手に責任を配って、私だけ数から抜けた」
「分かってるなら、なんでやったのよ」
セリカが言う。
「怖かったから」
「私たちが?」
「失うのが」
ホシノは逃げずに答える。
「ユメ先輩みたいに、間に合わなくなるのが怖かった。学校も、みんなも、カナタ君も。選ばなきゃ全部なくなるって思った」
「それで、自分がなくなるのはいいと思ったの?」
「……思った」
「馬鹿!」
「うん」
「本当に、馬鹿!」
「うん。ごめん」
セリカは泣きながら、ホシノの寝台を一度叩いた。
体には触れない。
「次やったら、屋台の一杯、ホシノ先輩だけ抜きだから!」
「それは困るなぁ」
「困りなさい!」
シロコが近づく。
「私も、一人で追おうとした」
「手紙に書いたでしょ~。一人で来ちゃ駄目って」
「ホシノ先輩にだけは言われたくない」
「それはそう」
「だから次は、どっちかが一人で行こうとしたら、もう一人が止める」
「二人とも行きたくなったら?」
「セリカとノノミとアヤネを呼ぶ」
「うん。そうしよっか」
シロコはホシノの手を握った。
圧迫痕を避ける、弱い握り方。
ノノミは反対側へ座る。
「私、先輩に頼られる人になりたいです」
「もう、なってるよ」
「では、次はちゃんと頼ってください」
「難しい宿題だねぇ」
「期限はありません。何度でも提出してください」
「そっか。ありがと」
アヤネは端末を開いた。
「対策委員会の新しい規則を作ります」
「うへ~。もう?」
「もう、です。第一、黒服、カイザー、未知の研究機関から接触があった場合、二十四時間以内に共有」
「はい」
「第二、退学、退会、単独契約、危険区域への単独行動は、少なくとも委員会全員と先生へ相談」
「退学も相談制なんだ」
「当然です!」
「はい」
「第三、自分を人数から除外する計画は禁止」
ホシノは少し黙った。
「それ、守れるかな」
「守れないと思った時に言ってください。言えたら、規則違反にしません」
「……うん」
「第四」
「まだあるの?」
「あります。謝罪だけで終わったと思わないこと」
アヤネの目から涙が落ちた。
「私たちは、まだ怒っています」
「うん」
「でも、帰ってきてくれて、嬉しいです」
ホシノが手を伸ばす。
アヤネがその手を取る。
ノノミが二人ごと抱きしめる。
セリカが「点滴!」と止めながら、自分も近づく。
シロコは最初から手を離していない。
五人で作る、不格好な輪。
ホシノはその真ん中で泣いた。
声を隠さなかった。
*
便利屋68は、日が落ちる前に出発した。
アルは成功報酬の契約書を置いた。
柴関ラーメン、再開後、ラーメン四杯。
大盛り不可。
賠償債務とは相殺しない。
カヨコが最後の一行を足している。
「完璧な仕事だったわ」
アルが言う。
「西側に入ってないけどね」とムツキ。
「陽動も立派な仕事よ!」
「はい。社長、とても格好よかったです」
ハルカは真剣だった。
アルは胸を張り直す。
「当然よ!」
ホシノは保健室の窓から、四人を見送った。
「ありがとね~」
「次は正式な依頼を持ってきなさい!」
「おじさん、貧乏だからなぁ」
「ラーメンでいいわ!」
「それなら、六人分と先生の分を注文する時にね」
アルは一瞬、言葉を止める。
「七人?」
「先生は大人だから、有料なんだよ」
「そういう数え方!?」
ムツキの笑い声と一緒に、車は砂の道へ消えた。
ヒフミも、装甲救護車を返すため出発する。
「今度は普通に遊びに来ます」
「普通って、銀行を襲わない方?」とシロコ。
「そちらが普通です!」
ヒフミは慌てて否定し、全員へ何度も頭を下げた。
*
午後八時。
保健室には、二人だけが残った。
先生と四人は、交代で校舎の見張りと片付け。
カーテンは開いている。
寝台と寝台の間は、腕一本分より少し遠い。
ホシノは点滴を終え、温かいスープを一杯飲んだ。
俺も少量の食事を取り、鎮痛剤が効いている。
痛みは四。
吐き気は一。
眠気は二。
ホシノは俺の水筒を両手で持っていた。
預けていった一本。
最初に貸した一本は、俺の枕元。
「返す」
俺が言う。
「水筒?」
「手紙も」
胸ポケットから、折り目のついた紙を出す。
血は付いていない。
ホシノは受け取らない。
「捨てていいよ」
「捨てない」
「じゃあ、カナタ君が持ってて」
「俺に別れを持たせたままにしないで」
ホシノの指が水筒の蓋をなぞる。
「怒ってる?」
「怒ってる」
「そっか」
「怖かった」
「うん」
「起きたら、水筒と紙しかなかった。ホシノがどこで何をされてるか分からなかった。俺のためって書いてあって、俺は頼んでないのに、俺の命を使って自分を差し出した」
「うん」
「もう一度やったら、今度はもっと怒る」
「うん」
「だから、手紙を受け取って」
ホシノは紙を受け取った。
四行を見ない。
二つ折りにして、自分の枕元へ置く。
「ごめん」
「すぐ許せるかは分からない」
「それでいいよ」
ホシノが笑おうとする。
「じゃあ、おじさんは三週間くらい反省部屋に――」
「ホシノ」
軽口が止まる。
「まだ、言うことがある」
俺は右手で、寝台の縁を握る。
緊張すると、左手の古いロープ痕へ触れる癖がある。
今は左脇が痛くて、触れない。
「何かな」
ホシノの声が小さくなる。
「好きだ」
言った。
爆発もない。
銃声もない。
返事を急かす警報もない。
ホシノは自由に黙れる。
「ホシノが好きだ」
二度目は、もっとはっきり言う。
「カナタ君、頭を打ったから」
「診断では見当識に問題なし」
「吊り橋の、あれかも」
「最初に会ってから、ずっと砂の上だ」
「おじさん、面倒だよ」
「知ってる」
「重いし」
「知ってる」
「勝手にいなくなる」
「それには怒ってる」
「可愛くないよ」
「それは違う」
俺は息を整える。
笑わないように。
肋骨を庇いながら、約束していた答えを一つずつ出す。
「水族館で鯨の看板を見つけた時、全員を置いていきそうな速さで歩くところ」
「あれは展示時間が」
「鯨の鍵飾りを俺の目の色だって選んだあと、言いすぎた顔をしたところ」
「してないよ」
「眠い時、袖をつかんでから許可を取るところ」
「順番は大事だからねぇ」
「褒めると、おじさんだからって逃げて、少ししてから小さく礼を言うところ」
「……」
「全部、可愛い」
ホシノの耳が赤くなる。
水筒で口元を隠す。
「変わってるねぇ」
「うん」
「否定してよ」
「ホシノを好きになった俺が変わってるなら、それでいい」
「ずるいなぁ」
今日、二度目の言葉。
今度は、少し笑っている。
「可愛いだけじゃない。皆の前へ立つところも、怖いのに戻ってきたところも、ユメ先輩を忘れないところも好きだ。でも、一人でいなくなるところまで好きだから肯定する、とは言わない」
「うん」
「俺はホシノと恋人になりたい。一緒に食べて、眠るまで隣にいて、帰る時は話したい」
ホシノは水筒を下ろした。
涙が一つ、頬を通る。
「返事は、急がなくていい」
「急がないと、誰かに取られるかもしれない」
「取られない」
「分からないよ。カナタ君、ノノミちゃんにも優しいし、アヤネちゃんの言うことちゃんと聞くし、シロコちゃんとは一緒に修理するし、セリカちゃんとよく喧嘩するし」
「全部、対策委員会の仲間としてだ」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「分かってるけど、嫌なの」
ホシノは自分の胸元を押さえる。
「みんなに優しいの、好きだよ。でも、その優しさの一番が私じゃなかったら嫌だ。帰る方法が見つからなければいいって思った。方位磁針を隠したら、カナタ君はずっとここにいるかもって考えた。あの夜、工具も車も壊さなかったけど、考えたことは消えない」
「うん」
「待たないでって書いたのに、本当はずっと待っていてほしかった。水筒を置けば忘れないって思った。灰色の鯨は、私が持ってたかった。カナタ君が帰る場所に、私を入れてほしい」
ホシノは、灰色の鯨を内ポケットから出す。
掌で強く握っていたせいで、金具の跡が赤く残っている。
「こんなに重くても?」
「重いと思う」
ホシノの目が揺れる。
「でも、俺も軽くない。ホシノが待ってると嬉しい。脈を確認されると、ここにいていいと思う。帰ってくる場所の一つに、ホシノを入れたい」
「一つ?」
「父さんと母さんと港を、なかったことにはしない」
「うん」
「ホシノも、対策委員会も、アビドスも、なかったことにしない」
「……うん」
「一番は、比べられない」
「そこは、いつか一番って言わせるからねぇ」
少しだけ、いつもの調子。
「方法は?」
「毎日、おじさんの可愛いところを増やす」
「もう十分ある」
ホシノが水筒で顔を隠した。
「それ、反則だよ」
「返事は?」
「私も、カナタ君が好き」
水筒を下ろす。
青と金の目が、まっすぐ俺を見る。
「帰れないからじゃなくて、役に立つからでもなくて。怖がって、痛いって言って、それでも約束を守るカナタ君が好き。私をユメ先輩の代わりにしないで、私も君を誰かの代わりにしないって言ってくれた君が好き」
声が震える。
「恋人に、なってください」
「はい」
「そこ、もっと格好よく言えない?」
「俺と恋人になってください」
「はい」
二人とも、少し笑った。
肋骨が痛む。
俺は顔をしかめる。
ホシノの笑いがすぐ消えた。
「痛み」
「五。笑った分」
「キスしたら、もっと痛いかな」
空気が止まる。
あの夜の屋上。
忘れないためのキス。
置いていく前の印。
あの時は断った。
「今度は、別れじゃない」
俺が言う。
「うん」
「帰ってきたあと」
「うん」
「キスしてもいい?」
ホシノは一度、唇へ触れる。
照れて逸らしそうになった目を、戻す。
「してほしい」
寝台同士は遠い。
俺は起き上がれない。
ホシノも点滴後で、急に立てない。
「届かないねぇ」
「寝台を寄せてもらう?」
「誰に?」
「アヤネ」
「告白したって分かっちゃうよ」
「明日、言うんだろ」
「明日と今夜は違うの」
ホシノは考える。
床には立たない。
代わりに、二つの寝台の間へ椅子を置く。
手すりを持ち、ゆっくり移る。
「立ってないよ。座っただけ」
「無理してない?」
「ちょっと、どきどきしてる」
「それは俺も」
椅子を俺の右側へ寄せる。
ホシノが顔を近づける。
途中で止まる。
「カナタ君から」
「分かった」
俺は首だけを少し右へ向けた。
右手で、ホシノの頬へ触れる。
拒める距離で、もう一度待つ。
ホシノが目を閉じた。
唇が触れた。
短い。
呼吸一つ分。
離れたあとも、額は近い。
「痛みは?」
ホシノが小声で尋ねる。
「五のまま」
「感想は?」
「もう一回したい」
「うへ」
ホシノの顔が赤くなる。
「おじさん、今日は病人だから、一回まで」
「俺も病人」
「じゃあ、二人で一回。公平だねぇ」
「回復したら?」
「その時、考えよっか」
軽口で逃げた。
けれど、頬へ触れた俺の右手を、自分の手で包む。
「……私も、もう一回したい」
「聞こえた」
「怪我人は耳まで良くなるの?」
「ホシノの声だけ」
「また反則」
今度はキスせず、額を合わせる。
呼吸が混じる。
別れの前より、少しだけ遠い。
帰る場所を残す距離。
*
眠る時、ホシノは自分の寝台へ戻った。
二つの寝台は、まだ離れている。
俺がナースコールを押す。
アヤネが来た。
「どうしました?」
「寝台を、少しだけ近づけてほしい」
アヤネは二人を見る。
ホシノの赤い耳。
俺の枕元へ置かれた水筒二本。
二人の間の椅子。
「何かありました?」
「明日話す」とホシノ。
「今夜は?」
「秘密」
アヤネは目を細めた。
「寝台は十五センチだけです。点滴台と救護動線を塞がない範囲」
「十分」
二つの寝台が近づく。
右手を伸ばせば届く。
ホシノが俺の手を握る。
指を絡める。
初めての、はっきりした手つなぎ。
「恋人なら、これくらいしていい?」
「いいよ」
「寝てる間も?」
「痛くなったら起こす」
「起こしていいの?」
「確認したくなったら、起こして」
「何回でも?」
「何回でも」
「十回かも」
「返事する」
「百回」
「起きてる間にして」
「あはは。そっか」
照明が落ちる。
ホシノは手をつないだまま、俺の脈を取った。
一回。
二回。
三回。
七回目で、指の力が緩む。
眠った。
午前二時十六分。
ホシノは目を覚ました。
透明な檻の夢。
爆発。
血。
右手を握る。
俺の手がある。
「カナタ君」
「いる」
眠った声が返る。
「起こしてごめん」
「起こしていいって言った」
「うん」
「眠れそう?」
「もう少し、待って」
「何を?」
「カナタ君が、また寝るまで」
今まで、俺がホシノを眠るまで待った。
今夜はホシノが待つ。
呼吸がゆっくりになる。
手の中の脈が落ち着く。
「寝た?」
返事はない。
ホシノは、怖くなる前にもう一度脈を取った。
ある。
「おやすみ、カナタ君」
好きな人が眠るまで待ってから、自分も目を閉じた。