交際二日目の朝。
小鳥遊ホシノは、恋人の手を握ったまま寝坊した。
*
「午前七時です!」
アヤネの声で、俺が目を覚ました。
保健室。
右手が温かい。
指が動かない。
視線を下げると、二つの寝台の間で、ホシノの指がしっかり絡んでいる。
「ホシノ」
「ん~」
「朝」
「あと五時間……」
「長い」
「じゃあ、三時間」
「交渉になってない」
ホシノは目を開けない。
握る力だけを少し強くする。
「カナタ君が離してくれないから、おじさん起きられないなぁ」
「握ったのはホシノ」
「証拠は?」
「アヤネが見てる」
「うへ」
片方の目が開いた。
寝台の足元に、アヤネ。
その後ろに、シロコ、セリカ、ノノミ。
四人とも見ている。
「おはようございます、ホシノ先輩」
「お、おはよ~」
「手」
セリカが指す。
「これはねぇ、医療行為だよ」
「指、絡んでるけど」
「精密な脈拍測定には必要で」
「脈を測る指、そこじゃない」とシロコ。
「そうだったかなぁ」
ホシノは手を離さない。
俺も離さない。
アヤネが端末を開いた。
「昨夜、何かありましたね?」
「尋問?」
「生活管理上の確認です」
「黙秘権は」
「あります。ただし、寝台を寄せた理由は説明していただきます」
ノノミがにこにこしている。
シロコは二人の手を観察している。
セリカは、もう答えを知った顔で赤くなっている。
「カナタ君」
ホシノが呼ぶ。
「うん」
「一緒に言う?」
「何を」
「あれだよ。せーので」
「言葉を決めてない」
「じゃあ、おじさんに任せて」
ホシノは上体を起こす。
寝癖が一房、横へ飛び出している。
真面目な顔を作る。
「えー、昨日の夜をもちまして、小鳥遊ホシノは汐見カナタ君の恋人に就任しました」
「就任!?」
セリカの声が保健室へ響いた。
「委員長みたいに言わないでよ!」
「おじさん、恋人は初めてだからねぇ。役職なのかなって」
「違うわよ!」
「たぶん違いますね~」
ノノミが穏やかに訂正する。
「カナタさんも、同じ認識ですか?」
アヤネの確認。
「同じです。昨日、互いに告白して、恋人になると決めました」
「どっちから?」とシロコ。
「俺から」
「返事は?」
「私も好きって言ったよ」
ホシノが答えた。
言った直後、耳が赤くなる。
「へぇ」
シロコは一度だけ瞬きをした。
「ホシノ先輩が、ちゃんと言えた」
「どういう意味かなぁ」
「そのまま」
「キ、キスは!?」
セリカが勢いで聞く。
全員がセリカを見る。
「な、何よ! 確認しておいた方がいいでしょ!」
「確認してどうするの?」とシロコ。
「どうもしないけど!」
ホシノは水筒を取って、口元を隠した。
「一回」
「答えるの!?」
「セリカちゃんが聞いたから」
「聞いたけど!」
「同意は?」
アヤネが尋ねる。
声は真面目だった。
「俺が、してもいいか聞いた。ホシノが、してほしいと答えた」
「はい。そこは問題ありません」
アヤネが記録する。
「そこまで書くの!?」とセリカ。
「詳細は書きません。相互同意を確認した事実だけです」
ホシノが寝台から手を伸ばし、アヤネの端末を覗く。
「恋愛台帳?」
「生活規則案です!」
*
朝食後、第一回恋人生活会議が開かれた。
命名はホシノ。
議事録上の名称は「共同生活における交際関係の確認」。
修正したのはアヤネ。
場所は保健室。
俺とホシノは寝台。
四人は椅子。
先生は大人として同席するが、恋愛の細部には口を出さない。
「まず、交際関係によって対策委員会内の権限は変わりません」
アヤネが読み上げる。
「カナタさんは引き続き、保護対象兼生活・設備補助です。ホシノ先輩の恋人だから作戦参加や機密閲覧が増えることはありません」
「はい」と口にした。
「おじさんの特別権限は?」
「ありません」
「即答だねぇ」
「私的な関係を、委員長権限に持ち込まないでください」
「はい」
「次に、医療制限。カナタさんの重量作業・激しい運動禁止は最低三週間。ホシノ先輩は本日まで安静。恋人になっても変わりません」
「抱きつくのは重量作業?」
「今のカナタさんには負担です」
「右側へ、体重をかけない場合は?」
ホシノの質問が具体的になる。
先生が救護端末へ確認する。
『右肩への短時間の接触は、双方が痛みと姿勢を確認する場合に限り許可』
「端末君、分かってるねぇ」
『痛みが一段階以上増加した場合、即時中止』
「厳しいねぇ」
「当然です」
アヤネが次へ進む。
「接触は、どちらもいつでも断れること。眠っている相手へ、新しい種類の接触を始めないこと。手つなぎなど事前に合意したものも、嫌な時は離していい」
「うん」とホシノ。
「分かった」と口にした。
「共有空間では、通路、作業、食事を妨げない範囲。夜間に相手の個室へ行く時は、緊急時を除き同意と所在共有が必要」
「恋人なのに?」
「恋人だからです」
アヤネは揺れない。
「交際は、相手の部屋へ無断で入る権利ではありません」
「はぁい」
「ホシノ」
「分かってるよ。ちょっと言ってみただけ」
「最後に、危険情報と帰還情報。二人だけで隠さず、委員会と先生へ共有。どちらかの安全を理由に、本人へ相談せず契約や作戦を決めない」
保健室が静かになる。
昨日までの傷へつながる規則。
「守る」
俺が先に言う。
「私も」
ホシノは端末を見る。
「守れないくらい怖くなったら、守れないかもって先に言う」
「はい。それで十分です」
アヤネが保存する。
「会議終了です」
「質問」とシロコ。
「はい」
「手をつなぐと、ホシノ先輩の睡眠は改善する?」
「昨夜は、途中で一回起きたよ」
「普段より少ない」
「そうだねぇ」
「カナタの睡眠は?」
「一回起こされた。でも、すぐ寝た」
「総合的には有効」
シロコが真顔で結論を出す。
「医療的な手つなぎでも間違ってない」
「ほら~」
「でも、脈を測る位置は違う」とシロコ。
「そこは忘れてくれないかなぁ」
*
恋人生活会議の次は、校舎復旧会議だった。
甘い話が終わっても、割れた窓は塞がらない。
アヤネが被害一覧を投影する。
北校門、全損。
東渡り廊下、屋根と外壁の一部崩落。
地下指令室、設備路側の壁と配管破損。
食堂、窓ガラス十二枚。
旧校内電話、北棟と東棟は使用可能。地下指令室回線は断線。
「まず、雨と砂を防ぐ仮補修です」
アヤネが優先順位をつける。
「食堂の窓、東廊下の開口部、地下への侵入口。校門は車止めだけ先に置きます」
「雨、降らないけど」とシロコ。
「だからこそ、降った時の準備がありません。塞げる時に塞ぎます」
「ん。合理的」
「材料は?」とセリカ。
「カイザーの攻撃記録を添えて緊急支援申請を出しました。先生がシャーレから防水板、固定金具、ガラス代替材を運んでくださいます」
「賠償請求もします」と先生。
「支払われるまで修理を待つ必要はありません。領収と作業記録を全て残してください」
ホシノが寝台の上から手を上げる。
「おじさんは?」
「安静です」
「委員長なんだけどなぁ」
「だから、判断をしてください。作業はしないでください」
「厳しいねぇ」
「カナタさんもです」
先に釘を刺される。
「まだ何も言ってない」
「工具箱を見ていました」
俺は視線を戻す。
「寸法と手順なら出せる」
「十分です」とアヤネ。
シロコが東廊下の映像を拡大する。
「仮板を内側から当てる?」
「外側の支柱が曲がってる。先に立入禁止線。板を当てるなら、支柱から一・二メートル離して独立枠を作る」
「材料の長さは」
「縦二・四、横三・六。余裕を二十センチ」
「私とノノミで運ぶ」
「私は固定しますね~」
「じゃあ私は食堂!」とセリカ。
「私も窓の寸法を――」
ホシノが立とうとする。
「ホシノ先輩は座ってください!」
「はい」
すぐ座る。
昨日までなら、適当に返事をして、後で一人で動いたかもしれない。
今日は、本当に座った。
「委員長の仕事、あるよ」と口にした。
「何?」
「作業の中止基準を決める。風速、気温、支柱の変位。皆が頑張りすぎた時に止める人が必要」
「おじさん、止めるの苦手なんだけどなぁ」
「自分以外なら止められる」
「よく知ってるねぇ、恋人君」
「恋人になる前から知ってた」
ホシノは端末を受け取る。
風速十二メートル以上で高所作業中止。
外気温と休憩間隔。
東支柱のずれを一時間ごとに撮影。
指示を一つずつ記録する。
「カナタ君は、図面だけでいいからね」
「ホシノも、判断だけ」
「恋人になって最初の共同作業が、互いを働かせないことかぁ」
「難しい?」
「かなり」
でも、二人とも寝台を下りなかった。
シロコたちが作業へ出たあと、保健室の画面へ進捗写真が届く。
ホシノが中止基準を確認し、俺が枠材の向きを答える。
自分で持たない。
一人で直さない。
それでも、学校を守る仕事から外れたわけではなかった。
*
昼前、ホシノの点滴が外れた。
短距離歩行も許可される。
俺はまだ保健室から出られない。
ホシノは退室許可をもらったあとも、寝台の横に座っている。
「校門の片付け、行かないの?」
「おじさんは本日まで安静ですので」
「さっき短距離歩行の許可が出た」
「短距離だねぇ。保健室から廊下の端まで」
「一人で行って戻ってきてもいい」
「カナタ君、おじさんを追い出したいの?」
「違う。待てるか聞いてる」
ホシノの指が止まる。
昨夜、俺が眠るまで待った。
今度は、目を覚ましている俺を置いて、短い時間だけ離れる。
何も起こらないと信じて戻る。
「何分?」
「十五分」
「長いなぁ」
「七分は呼ばずに待てた」
「朝のあれ、数えてたの?」
「うん」
「じゃあ、八分」
「十五分」
「十」
「十二」
「十一」
「分かった」
「交渉成立だねぇ」
ホシノが立つ。
扉まで行く。
戻ってくる。
「忘れ物?」
「行ってきます、を忘れた」
「行ってらっしゃい」
今度こそ出ていく。
俺は時計を見ない。
救護端末の指示で目を閉じる。
眠りかけたところで、足音が戻った。
「ただいま~」
「おかえり」
時計を見る。
十時四十九分から十一時ちょうど。
十一分。
「何してきた?」
「廊下の窓を三枚数えて、校門を見て、セリカちゃんに安静にしろって追い返された」
「できた?」
「待つの?」
「うん」
「うへ~。難しかったよ」
ホシノは寝台の右側へ座る。
「でも、戻ってきた時の、おかえりは好き」
「俺も、ただいまを聞くのが好き」
「じゃあ、また練習してもいいかな」
「毎回、戻る時間を話してから」
「はい、恋人君」
「その呼び方なの?」
「駄目?」
「カナタ君の方がいい」
「ふうん」
ホシノはわざと考える。
「じゃあ、カナタ」
君がない。
柔らかい声。
俺は返事が一拍遅れた。
「何?」
「呼んだだけ」
ホシノが笑う。
「顔、赤いよ~」
「ホシノも」
「おじさんは歩いたからだよ」
「十一分で?」
「病み上がりだからねぇ」
嘘だった。
青と金の目が、嬉しそうに細くなる。
*
午後、ノノミが写真機を持ってきた。
「前に先生から出された、残したいものの宿題を、まだ終えていませんでしたから」
「六人の写真」と口にした。
「はい」
「今日は全員います」
「ちょうどいいです」
保健室の窓辺へ、六人が集まる。
俺は寝台を起こすだけ。
左にアヤネ。
後ろにノノミ。
セリカは右端。
シロコは前へしゃがむ。
ホシノは俺の右隣へ椅子を置く。
「もっと近く」とノノミ。
「肋骨が」とアヤネ。
「体は近づけないよ~」
ホシノは椅子を動かさず、寝台の下で俺の右手を握った。
写真には、手が写らない。
けれど、二人には分かる。
「撮りますね~」
十秒。
ノノミが走って戻る。
「ホシノ先輩、寝ないで!」
「起きてるよ~」
「カナタ、笑って」とシロコ。
「笑うと痛い」
「少しでいい」
「無理させないでください!」
アヤネが言う。
セリカが呆れる。
「もう、普通にしてればいいでしょ!」
その瞬間、写真機が光った。
誰も作った笑顔ではない。
ノノミは目を閉じて笑い、セリカは怒った顔のまま、アヤネは端末を持ち、シロコは真顔。俺は痛みを避けた小さな笑み。ホシノは俺の方を見ている。
「私、カメラ見てないねぇ」
「撮り直しますか?」
「ううん。これがいい」
ノノミの空だった写真立てへ、六人の写真が入った。
恋人になった証拠ではない。
六人で帰ってきた証拠。
*
夜。
ホシノは自分の部屋へ戻る許可が出た。
俺は保健室に残る。
「夜は別々ですね」とアヤネ。
「うへ~」
「不満そうな顔をしても駄目です」
「カナタ君、夜中に痛くなるかもしれないよ」
「救護端末と当番がいます。今夜は私です」
「アヤネちゃん、強いなぁ」
「規則です」
ホシノは俺の寝台へ行く。
「おやすみ」
「おやすみ」
「何か忘れてない?」
「脈?」
「それも」
ホシノは俺の手首へ触れる。
一、二、三。
「他は?」
「キスは回復後」
「覚えてたんだ」
「忘れない」
「じゃあ、今日のところは」
ホシノは右肩へ、体重をかけずに額を当てる。
三秒。
離れる。
「明日の朝、七時に来る」
「六時半に起きる」
「六時二十分にする?」
「早くなってる」
「会いたいからねぇ」
言ってから、冗談で隠さない。
「本当に」
「俺も会いたい」
「そっか」
ホシノは今度こそ扉へ向かう。
「行ってきます」
「十一時間後?」
「長いねぇ」
「待てる?」
「恋人一年生だから、練習するよ」
扉の前で振り返る。
「おやすみ、カナタ」
「おやすみ、ホシノ」
ホシノは一人で部屋へ戻った。
午前六時二十分に帰ってくるために。