――Hoshino side
夢の中で、脈が止まった。
*
透明な壁。
白い照明。
曲がった固定具。
私は両手を動かせない。
壁の向こうで、カナタ君が倒れている。
左脇腹に血。
口が動く。
報告。
破片。
出血。
意識あり。
聞こえない。
「カナタ君」
呼ぶ。
返事がない。
透明な壁を叩く。
手が届かない。
首筋へ触れたい。
脈を取りたい。
壁の向こうへ、灰色の鯨だけが落ちている。
カナタ君の体が砂へ沈む。
「待って」
砂が口元まで上がる。
「今、行くから」
私の声で、目を覚ました。
*
救出から十二日目。
午前一時三十八分。
私は私の寝台にいた。
透明な壁はない。
両手も動く。
濃紺の上着を着ている。
右手には灰色の鯨。
それでも、息ができない。
胸が速い。
喉が乾いている。
廊下二つ向こうに、カナタ君の部屋。
二日前、抜糸を終えた。
傷は閉じている。
内臓出血もない。
肋骨の亀裂は残るが、安静時痛み一。
保健室から自室へ戻った。
全部、知っている。
知っていても、夢の中の砂は消えない。
私は扉へ手をかけた。
止まる。
夜間に相手の個室へ行く時は、同意と所在共有。
危険はない。
会いたいだけ。
前の夜は、朝まで待てた。
今夜は、待てない。
「守れないかもって、先に言う」
私で決めた言葉。
端末を取る。
夜間当番はアヤネちゃん。
『起きていますか』
一分後。
『はい。どうしました?』
『悪い夢を見た。カナタ君の部屋へ行きたい』
送信してから、指が震えた。
駄目と言われるのが怖い。
駄目なら、どうすればいいか分からない。
『カナタさん本人へ入室確認を取ってください。私も廊下まで行きます』
否定ではなかった。
『分かった』
私は上着の前を閉じ、部屋を出た。
*
カナタ君の扉の前。
灯りは消えている。
私は一度だけ、軽く叩いた。
返事がない。
もう一度叩きたい。
強く叩けば起きる。
扉を開ければ、寝顔が見える。
鍵はかかっていない。
けれど、開けない。
廊下の角から、アヤネが来た。
端末と小さな救急箱を持っている。
「返事は?」
「まだ」
「室内呼出を使います」
アヤネが壁の通信盤を押す。
『カナタさん。夜間確認です。応答できますか』
室内で音が鳴る。
寝台が軋む。
『……はい』
眠った声。
『名前、場所、痛みをお願いします』
『汐見カナタ。自室。痛み、一』
息を吐けた。
生きている。
『ホシノ先輩が、悪夢のあとで会いたいと希望しています。入室してもよいですか』
短い沈黙。
私の心臓が一度、大きく鳴る。
『入っていい』
鍵が内側から開いた。
*
カナタ君は寝台へ上体を起こしていた。
薄い寝間着。
左脇腹には、新しい保護布。
傷そのものは見えない。
「走った?」
最初に聞かれた。
「歩いたよ」
「アヤネに言った?」
「言った」
「入る前に聞いた?」
「聞いた」
「じゃあ、来ていい」
私は部屋へ入る。
アヤネは扉の外にいる。
「容体に変化はありませんか?」
「ない。悪夢だけ」
「カナタさんは?」
「痛み一。吐き気なし。眠気は五」
「当然です」
アヤネは時刻と所在を記録した。
「私は廊下の当番席に戻ります。何かあれば室内呼出を。扉は閉めて構いませんが、施錠はしないでください」
「うん。ありがとう、アヤネちゃん」
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
二人になる。
私は寝台の右側へ椅子を置いた。
座る。
「夢は?」
カナタ君が尋ねる。
「檻の中だった」
私は袖口を握る。
「カナタ君が爆発に巻き込まれて、砂に沈んだ。呼んでも返事がなかった。脈を取りたいのに、壁があって届かなかった」
「今は?」
「届く」
カナタ君が右手を出す。
私は、その手首へ指を置く。
一。
二。
三。
速くない。
途切れない。
「もっと」
「いいよ」
十まで数える。
二十。
三十。
指を離せない。
「ホシノ」
「うん」
「俺を起こして」
「もう起きてるよ」
「次から。黙って脈を数えるだけじゃなくて、名前を呼んで起こして」
「眠いでしょ」
「眠い。でも、ホシノが一人で何時間も生存確認する方が嫌だ」
「何時間もって」
「前に、一晩寝ずに見てた」
「気づいてた?」
「途中で起きた時、ホシノの目がずっと開いてた」
救出から戻った最初の夜。
カナタ君が眠ったあとも、私は脈を測り続けた。
一度起きたカナタ君へ「大丈夫」と言い、また眠るのを待った。
私は朝まで眠らなかった。
「確認したら安心できると思ったんだよ」
「できた?」
「次の一拍が来るか、怖くなった」
「じゃあ、確認だけでは終わらない」
カナタ君は、私の指が乗った右手首を少し動かす。
その手で、私の手を握る。
「呼んで。俺が返事する。眠ってたら起こしていい」
「何回でも?」
「何回でも」
「百回かも」
「百回目は、朝の挨拶にする」
「そこまで起きてたら、アヤネちゃんに怒られるねぇ」
「二人とも怒られる」
少し笑う。
カナタ君は顔をしかめなかった。
「痛くない?」
「笑うくらいなら、一」
「よかった」
私は手を離さない。
「今夜、ここで寝たい」
言った。
許される理由を並べない。
恋人だから当然とも言わない。
「一人で戻ったら、また夢を見る気がする。上着だけじゃ、今日は足りない」
カナタ君は部屋を見る。
寝台は一つ。
一人用。
左脇腹の亀裂は残っている。
「同じ寝台は狭い」
「椅子で寝るよ」
「首を痛める」
「床」
「砂が入ってる」
「じゃあ、戻る」
私は立とうとする。
「待って」
カナタ君が呼ぶ。
「折り畳み寝台を借りる」
「いいの?」
「添い寝したい。怪我を悪化させない方法で」
私は一度、瞬きをした。
「カナタ君も、したいの?」
「したい」
「おじさんがお願いしたからじゃなくて?」
「ホシノが近くにいると、俺も眠れる」
「……そっか」
長い袖で口元を隠す。
「じゃあ、アヤネちゃんに聞こっか」
*
折り畳み寝台が、カナタ君の寝台の右側へ置かれた。
高さを合わせる。
間は十センチ。
救護動線を残すため、完全には付けない。
アヤネが救護端末へ条件を入力する。
「カナタさんは仰向けか右向き。左側へ荷重をかけない。ホシノ先輩は自分の寝台から乗り移らない。接触は右手と右肩のみ。痛み増加時は中止」
「はい」
「消灯後も室内呼出は有効。扉は施錠しない。朝六時に状態確認します」
「アヤネちゃん」
「何ですか」
「怒らないの?」
「規則を守って相談した人を、なぜ怒るんですか」
私は黙った。
「相談したら、止められると思っていましたか?」
「少し」
「危険なら止めます。安全な方法があるなら一緒に考えます」
「そっか」
「そのための規則です」
「ありがと」
アヤネは照明を落とし、廊下へ戻った。
*
二つの寝台。
十センチの隙間。
私は濃紺の上着を脱がない。
カナタ君は仰向け。
右手だけを伸ばす。
私も右手を伸ばす。
隙間の上で指が触れる。
「つないでいい?」
「うん」
指を絡める。
「胸の音も、聞いていい?」
「右なら」
私は私の寝台から体を移さない。
上体だけを少し寄せ、十センチの隙間へ枕の端を渡す。
耳をカナタ君の右胸上部へ触れさせる。
体重は私の肘で支える。
鼓動。
脈より大きい。
布と骨の向こうから、確かに鳴っている。
「一分だけ」
「五分」
「三分」
「四分」
「分かった」
四分間。
私は数えないようにした。
数えれば、次が来るか待ってしまう。
代わりに、音の間へ話す。
「カナタ君」
「いる」
「カナタ」
「いるよ」
「好き」
鼓動が一度、少し速くなった。
「俺も好き」
「今、速くなった」
「聞かれてるから」
「可愛いねぇ」
「ホシノに言われたくない」
「どういう意味かなぁ」
四分が終わる。
私は私の枕へ戻った。
手だけはつないだまま。
「キスは?」
「今は眠るために来た」
「覚えてたんだ」
「忘れてないよ。二回目」
「回復後」
「肋骨はまだ」
「あと少し待つ」
「できる?」
「上着も、盾も待てたからねぇ」
少し自慢げ。
「おやすみ、カナタ」
「おやすみ、ホシノ」
*
午前三時十二分。
私は一度目を覚ました。
透明な壁はない。
暗い部屋。
つないだ手。
カナタ君の呼吸。
脈を取りたくなる。
手首へ指をずらす前に、名前を呼ぶ。
「カナタ」
「……いる」
返事。
「痛みは?」
「一。ホシノは」
「怖さ、三」
「夢は?」
「見てない」
「じゃあ、眠ろう」
「うん」
確認は一回で終わった。
*
午前五時四十八分。
二度目の覚醒。
外が少し明るい。
私はまた、脈より先に名前を呼ぶ。
「カナタ君」
「おはよう」
「まだ早いよ~」
「起こしたのはホシノ」
「そうだった」
二人で笑う。
痛みは増えない。
午前六時、アヤネが状態確認へ来た。
「睡眠は?」
カナタ君が記録を読み上げる。
「三時十二分と、五時四十八分に覚醒」
「それ以外は寝てた」と口にした。
「悪夢は?」
「最初だけ。ここでは見なかった」
「接触による痛み増加は?」
「なし」
「規則違反は?」
「なし」と二人。
アヤネが記録する。
「必要時は、今後も同じ手順で申請してください」
「毎晩でも?」
「必要性、双方の同意、医療状態、翌日の予定を確認します」
「毎晩の権利にはならない」
「分かってるよ」
私はつないだ手を見る。
「でも、眠れないって言っていい場所ができた」
「はい」とアヤネ。
「それなら十分です」
*
朝食前。
上着の貸出期限が来た。
私は濃紺の上着を脱ぎ、きちんと畳む。
洗濯はしていない。
汚れる作業にも着ていない。
約束通り、カナタ君へ返す。
「七日間、ありがとうございました」
「どういたしまして」
カナタ君が受け取る。
私の腕から、温かさがなくなる。
返した。
持ち主の手へ戻した。
そのうえで、もう一度尋ねる。
「今日から、また七日間貸してください」
「条件は同じ?」
「同じ。必要なら返す。洗う時は聞く。汚さない」
「分かった。貸す」
上着が、もう一度私へ戻る。
今度は奪わず、返したあとに選んでもらった。
「ただいま、上着君」
「名前を付けないで」
「じゃあ、カナタ君の上着」
「それならいい」
私は袖を通す。
「次に悪い夢を見たら?」
カナタ君が尋ねる。
「アヤネちゃんに言う。扉を叩く。入っていいか聞く」
「それから」
「名前を呼んで、起こす」
「うん」
「百回目は朝の挨拶」
「覚えてた?」
「恋人との約束だからねぇ」
私は長い袖から右手を出す。
カナタ君の手を握る。
「おはよう、カナタ」
「おはよう、ホシノ」