帰る方法が見つかるかもしれない。
先生は、その言葉を全員の前で話した。
*
救出から十八日目。
委員会室の窓は、仮板から透明な代替材へ変わっていた。
北校門には仮の車止め。
東廊下は独立枠で塞がれ、地下指令室の壁も応急補強を終えている。
完全には直っていない。
それでも、砂は前より入らない。
俺は長机の六脚目へ座っていた。
左第九肋骨の痛みは、安静時にはほぼない。
深く息を吸うと一。
重量作業の禁止は、あと三日。
右隣にはホシノ。
濃紺の上着を着ている。
二度目の貸出、六日目。
机の下で、右手を握っている。
「先に、確定していないことを伝えます」
先生が資料を投影する。
「これは帰還路の発見ではありません。人が通れる保証も、カナタの故郷へつながる保証もありません」
「可能性は?」
俺が尋ねる。
「あります」
画面に、旧第七水理観測所の断面図。
塩臭のした縦坑。
その地下へ続く、記録にない空間。
「カイザーの基地から回収した旧水理記録を、シャーレで解析しました。過去十二年に三回、この縦坑で通常と逆向きの水流が観測されています」
「砂漠から海へ?」とセリカ。
「方向は断定できません。流量計は下から上への流れを示し、水にはアビドス地下水より高い塩分と、地域記録にない微量成分が含まれていました」
アヤネが資料を拡大する。
「カナタさんが漂着した時の衣服から採取した塩分試料と、一部が一致しています」
「一部だけ?」
「海水なら共通する成分があります。決定的な一致ではありません」
先生が次の記録を出す。
観測時刻。
気圧。
地磁気。
通信障害。
「逆流の三回とも、アビドス上空で強い気圧低下と磁気偏差が起きています。カナタが遭難した異常雷、方位磁針の偏りと似ています」
俺は、真鍮の方位磁針を机へ置いた。
針が北でなく、旧観測所の方向へわずかに寄る。
「次はいつ?」
「予測値では十九日後。ただし誤差は前後六日」
「幅が広いですね」とノノミ。
「現象そのものが三例しかありません。人を待機させるには危険です」
「だから、無人機」とシロコ。
「はい」
先生は小型探査機の図面を出す。
直径二十センチの耐圧球。
温度、圧力、塩分、磁気、映像、音響、位置記録。
細い有線を百メートル。
線が切れた後は、一定間隔で無線と音響信号を出す。
「まず、縦坑の安全な深度まで探査機を下ろします。逆流が起きた場合は、機体だけを切り離す。どこかへ到達して信号が拾われれば、接続先を絞れます」
「拾う人がいなかったら?」
「機体へ識別文を刻みます。カナタの名前、白鴎丸、凪津港、アビドス、シャーレの連絡方法。外部へ出れば、誰かが見つける可能性がある」
父。
母。
白鴎丸の乗員と乗客。
生きているかもしれない。
探しているかもしれない。
俺は方位磁針の蓋へ手を置いた。
「やりたい」
声はすぐ出た。
「人が通らなくても、連絡だけでも」
「分かりました」
先生は頷く。
「ただし、準備と現地判断は全員で行います。カナタ一人を縦坑へ近づけません」
「うん」
「機体の製作はシャーレが担当。アビドス側は、観測所までの経路、地上支援、旧設備との接続を確認してください」
「おじさんも協力するよ」
ホシノが言った。
いつもの柔らかい声。
「観測所の警戒と、縦坑の安全確保。カナタ君の帰る場所、探さないとねぇ」
机の下で、握る力が強くなる。
痛くはない。
けれど、離せない力。
俺は握り返した。
*
役割が決まる。
アヤネは過去の気圧・磁気記録を監視し、観測期間を絞る。
シロコは観測所までの砂丘変化と新しいカイザー監視網を確認。
セリカは七日分の水・食料・燃料を見積もる。
ノノミは医療と宿営用品。
ホシノは警備・撤退基準。
先生は探査機、外部受信網、法的立入許可。
俺は白鴎丸の非常信号形式と、故郷で識別できる文面を作る。
話し合いが終わっても、ホシノは手を離さなかった。
「先輩、次は巡回です」とアヤネ。
「うん」
返事だけ。
「手」
「これはねぇ、重要な精神安定作業で」
「巡回へ行けません」
「カナタ君も一緒に」
「重量制限が終わっていません」
「歩くだけなら」
「今日は検査があります」
俺が言う。
「午後一時に戻る」
「今、十一時二十分だよ」
「一時間四十分」
「長いなぁ」
「予定を話した」
「分かってる」
ホシノは指を一本ずつ離す。
最後に小指が残る。
それも離す。
「行ってらっしゃい、カナタ君」
「行ってきます」
*
――Hoshino side
巡回路へ出る。
シロコちゃん、セリカちゃん、ノノミちゃん。
アヤネちゃんは校内から通信。
全員いる。
カナタ君だけがいない。
検査へ行っただけ。
午後一時には戻る。
分かっている。
濃紺の上着も着ている。
それでも、胸の中に冷たい穴がある。
帰る方法が見つかるかもしれない。
嬉しい。
よかったと思う。
父親と母親へ、生きていると伝えられるかもしれない。
白鴎丸の他の人の安否も分かるかもしれない。
カナタ君が、終わったか分からない時間から進める。
全部、本当に望んでいる。
同じ胸の中で、探査機が壊れればいいと思った。
縦坑が塞がればいい。
逆流が二度と起きなければいい。
方位磁針を砂の中へ捨てたい。
外部受信網へ、白鴎丸など存在しないと嘘を送りたい。
一つも、実行しない。
でも、考えた。
「ホシノ先輩」
シロコちゃんが止まる。
「遅い」
「おじさん、病み上がりだから」
「もう歩行制限はない」
「詳しいねぇ」
「カナタの検査日も覚えてる」
「……そっか」
「何を考えてる?」
誤魔化せる。
眠い。
面倒。
帰ったら昼寝。
いつもの言葉が並んでいる。
「邪魔したいって、考えてる」
私は言った。
三人が止まる。
通信のアヤネちゃんも黙る。
「探査機を壊して、方位磁針を捨てて、帰る場所をなくしたい」
「やるの?」
シロコちゃんが尋ねる。
「やらない」
「私たちが止めたから?」とセリカちゃん。
「違う。カナタ君の自由だから」
「じゃあ、どうして言ったの?」
「守れないかもって、先に言う約束だから」
声が震える。
「私、協力するよ。邪魔もしない。でも、怖い。帰れるって分かった瞬間、カナタ君がいなくなるのが、すごく怖い」
ノノミちゃんが、隣へ来る。
濃紺の袖へ触れる。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「引かないの?」
「少し驚きました。でも、言わずに一人で決めるより、ずっといいです」
『探査機の部品と方位磁針は、個人の部屋へ置かず、準備室で共同管理しましょう』
アヤネちゃんの声。
『ホシノ先輩を疑って没収するためではありません。怖くなった時、一人で触れなくてよいようにするためです』
「うん」
「私も見張る」とシロコちゃん。
「探査機を?」
「ホシノ先輩を」
「それ、疑ってない?」
「一人で怖がらないように」
「……そっか」
セリカちゃんが腕を組む。
「帰るかどうか、まだ何も決まってないでしょ。無人機を飛ばす前から別れた顔しないでよ」
「してた?」
「してる!」
「ごめん」
「謝るより、午後一時にちゃんとおかえりって言いなさい」
「うん」
巡回を続ける。
胸の穴は消えない。
でも、四人が穴の位置を知っている。
*
――Kanata side
午後零時五十七分。
俺は予定より三分早く戻った。
ホシノは校門で待っていた。
一人ではない。
シロコ、セリカ、ノノミもいる。
アヤネは委員会室から見ている。
「おかえり、カナタ君」
「ただいま」
俺が近づく。
ホシノは抱きつかない。
肋骨の検査結果を先に聞く。
「どうだった?」
「亀裂は埋まり始めてる。三日後、重量制限解除予定。痛みが出たら延長」
「よかった」
首筋へ三拍。
手を握る。
「話がある」
ホシノが言う。
「探査機のこと?」
「私のこと」
「聞く」
「委員会室で、みんなと」
俺は四人を見る。
「分かった」
*
ホシノは、巡回で話したことを繰り返した。
探査機を壊したい。
方位磁針を捨てたい。
帰る場所をなくしたい。
実行しない。
でも、怖い。
俺は途中で止めない。
聞き終えてから、真鍮の方位磁針を机の中央へ置いた。
「一人で持たない」
「いいの?」
「準備中は共同管理。使う時は全員の前。ホシノが怖くなったら、触らないでいい」
「私が壊すかもしれないから?」
「違う。壊したくなるほど怖い物を、一人で守らなくていいから」
アヤネと同じ答え。
ホシノは上着の袖を握る。
「カナタ君は、帰りたい?」
「帰りたい」
即答。
胸が痛む。
「父さんと母さんが生きてるか知りたい。白鴎丸の十六人も。俺が生きてるって伝えたい」
「うん」
「でも、明日帰るとは言ってない。探査機がどこかへ出るかも分からない」
「もし、道ができたら?」
「その時、全員で情報を確認する。片道か、戻れるか、安全か。俺は一人で決めない」
「帰らないって約束は?」
言ってほしい。
今すぐ。
永遠に。
俺は嘘をつかない。
「できない」
ホシノは目を伏せる。
「うん。知ってた」
「黙って消えない。結果を隠さない。ホシノの怖さを理由に調査をやめない代わりに、調査を理由にホシノを置いて決めない」
「私が、行かないでって泣いたら?」
「聞く。すぐ答えを出さない」
「それでも帰りたいって思ったら?」
「そう言う」
「そっか」
残酷で、優しい答え。
ホシノを安心させるために、家族を捨てる嘘をつかない。
家族を理由に、ホシノへ別れを先に渡さない。
「私も、協力する」
ホシノは顔を上げる。
「探査機を守る。縦坑の前も守る。カナタ君の名前が向こうへ届くようにする」
「ありがとう」
「ただし」
「条件?」
「向こうへ送る文章に、私の名前も入れて」
「どう書く?」
ホシノは考える。
「小鳥遊ホシノ。アビドス高等学校三年生。カナタ君を拾った人」
「恋人は?」
「書くの?」
「嫌なら書かない」
ホシノの耳が赤くなる。
「……書く」
「何て?」
「汐見カナタ君の、恋人」
声が小さい。
セリカが机へ突っ伏した。
「なんで私たちまで聞かされてるのよ!」
「全員で話すって言ったから」とシロコ。
「そこだけ二人で決めてもよくない!?」
ノノミが笑う。
アヤネは識別文の欄へ、本当に入力した。
「確定前に、全員で校正します」
「本当に入れたの?」とホシノ。
「共有情報ですから」
「うへ~」
濃紺の袖で顔を隠す。
俺が、その袖の上から手を重ねた。
*
夜。
ホシノは一人で自室へ戻った。
探査機の図面と方位磁針は、鍵付き準備室。
鍵はアヤネと先生。
誰かを疑うためでなく、一人で背負わないため。
濃紺の上着を着たまま、寝台へ入る。
帰る方法が、見つかるかもしれない。
胸の穴はまだある。
ホシノは端末を取る。
『怖さ、今は七』
俺へ送る。
『俺も七。期待と怖さが両方』
『会いに行っていい?』
返事を待つ。
『いい。アヤネにも送って』
『送った』
今夜は、悪夢を見てからではない。
怖いと分かっているうちに頼った。
折り畳み寝台を借りに行く。
帰る方法を探す明日のために、今夜は二人で眠る。