探査機へ刻む文章は、最後まで二度書き直された。
*
耐圧球の外殻。
上半分には、白鴎丸の非常信号形式。
下半分には、文字。
『汐見カナタ。凪津港、汐見宗一・澪の子。小型貨客船・白鴎丸の遭難者。現在生存。アビドス高等学校に保護されている』
シャーレの通信識別。
アビドスの位置情報。
キヴォトス標準時。
そして、小さな追記。
『発見者・小鳥遊ホシノ。アビドス高等学校三年。汐見カナタの恋人』
「恋人、必要かなぁ」
ホシノは完成品を見て、今さら尋ねた。
「入れてって言ったのはホシノ」とセリカ。
「そうだけど、文字になるとねぇ」
「削る?」
俺が聞く。
ホシノは耐圧球を両手で抱える。
直径二十センチ。
少し重い。
「削らない」
「即答」とシロコ。
「向こうでカナタ君を待ってる人が見つけたら、私のことも知ってほしいから」
「何を?」
「一人じゃないって」
俺は追記へ指を置いた。
「俺も、それを伝えたい」
ホシノは耐圧球で口元を隠した。
「重いから、置いてください」とアヤネ。
「はぁい」
*
救出から三十一日目。
予測窓の初日。
旧第七水理観測所へ、二台の車で入る。
先生、対策委員会五人、俺。
俺の重量作業制限は十日前に解除されている。
再診では、肋骨の圧痛なし。深呼吸、歩行、軽い押し引きで痛みなし。急な全力作業と銃撃区域だけは避ける。
だからといって、一人で探査装置を運ばない。
耐圧球はシロコ。
巻揚機はノノミと先生。
食料と水はセリカ。
端末と観測器はアヤネ。
ホシノは盾とショットガン。
俺は工具巻きと白鴎丸の信号資料。
濃紺の上着は、四度目の貸出中でホシノが着ている。
俺は砂色の作業用カーディガン。
「私たち、服が逆じゃない?」
セリカが言う。
「逆?」とホシノ。
「漂着者が学校の備品で、ホシノ先輩が漂着者の服」
「生活が混ざったってことだよ~」
「それ、いい言葉みたいに言ってるけど、ただ借り続けてるだけだからね」
「毎週返してるよ」
「一分後に借り直してるでしょ!」
話しながら、観測所へ入る。
前回は調査だけだった場所。
今度は先生の立入許可、崩落調査、救護計画、地上監視を揃えている。
カイザーの仮設基地は閉鎖され、遠くに監視車両が一台あるだけ。
緊急保全命令があるため、近づいてはこない。
シロコが屋上と周囲を確認する。
「監視一。武装反応なし」
「記録だけ残してください」と先生。
「追い払わないの?」
「相手にも観測する権利はあります。妨害された時だけ対処します」
ホシノは盾を少し下げた。
「了解」
*
縦坑は、仮設柵で囲まれていた。
前回見つけた梯子は途中で切れている。
底は見えない。
塩と錆の匂い。
アヤネが三脚へ測定器を置く。
「現在、気圧998。磁気偏差は平常範囲。坑内上昇流なし。塩分反応は微量」
「探査機を下ろすのは?」
「平常時の地形記録を取ります。切離しはしません」
先生が役割を再確認する。
安全線より内側は、先生、シロコ、アヤネの三人。
俺は線の外から機体の状態を見る。
ホシノは入口と退路。
セリカ、ノノミは巻揚機と救護。
「カナタ君、おじさんの隣ね」
「分かってる」
ホシノの左手が、上着の袖越しに俺の右袖をつまむ。
「作業中は手をつなげないから」
「袖ならいい?」
「俺が動く時に離して」
「うん」
耐圧球をワイヤへ接続。
映像。
温度。
圧力。
音響。
無線。
全て正常。
「下降開始」
アヤネの声。
巻揚機が回る。
探査機が暗い縦坑へ消える。
十メートル。
二十。
壁は古いコンクリート。
三十二メートルで水面。
「水があります!」
アヤネが映像を拡大する。
黒い水。
静かで、探査機の光だけを返す。
温度十二度。
塩分はアビドス地下水より高い。
「海水よりは低い」と口にした。
「地下水と混ざってる」
四十メートル。
壁のコンクリートが終わる。
自然岩。
五十三メートル。
横穴が一つ。
流れなし。
六十八メートル。
ワイヤが岩へ触れる。
「これ以上は絡む危険があります」とアヤネ。
「平常時記録はここまでです」
先生が引上げを指示する。
探査機が戻る。
壊れていない。
ホシノは息を吐いた。
安堵したのか、残念なのか、自分でも分からなかった。
*
予測窓、四日目。
何も起きない。
気圧は高い。
方位磁針の針も、小さく揺れるだけ。
観測所で寝泊まりするのは、先生、対策委員会、俺の全員。
一日二交代。
夜間は最低三人。
縦坑へ単独で近づかない。
ホシノと俺も、同じ交代へ固定しない。
「恋人なのに?」
ホシノが聞いた。
「恋人だからです」とアヤネ。
「睡眠と判断を相手一人に依存させないよう、別の組を経験してください」
ホシノはセリカ、先生と前半夜。
俺はシロコ、ノノミと後半夜。
離れる時間は六時間。
最初の夜、ホシノは三度、後半組の部屋へ行きかけた。
行かない。
代わりに交代記録へ書く。
『怖さ4。カナタ君の容体確認希望』
後半組が起きた時、俺が返事を書く。
『睡眠5時間12分。痛み0。怖さ3。ホシノの睡眠確認希望』
セリカがその下へ書いた。
『ホシノ先輩、4時間48分。途中覚醒1。見張ったから間違いなし』
「なんでセリカちゃんが書くの」
「確認希望ってあったからでしょ!」
ホシノは記録を折って、濃紺の上着のポケットへ入れた。
*
予測窓、七日目。
午前二時十一分。
気圧が下がり始めた。
「991、989、986」
アヤネが全員を起こす。
「低下速度、過去記録に近いです!」
外で風が鳴る。
空には雲がない。
それでも、観測所の壁が内側へ押されるように軋む。
方位磁針の針が回る。
北。
南。
縦坑。
方向を決められず震える。
「坑内上昇流、確認!」
塩分計の数値が上がる。
縦坑の奥から、水の音。
下から上へ。
黒い水面が、三十二メートルから二十九メートルへ上がる。
「全員、配置へ」
先生の指示。
眠気も軽口も消える。
シロコとノノミが巻揚機。
アヤネが観測。
セリカが電源と予備線。
ホシノは入口と縦坑の間へ盾を置く。
俺は白鴎丸信号器を起動する。
「探査機、全機能正常」
「下降」と先生。
耐圧球が縦坑へ入る。
十。
二十。
二十九メートルで水面。
水へ入った瞬間、映像が乱れる。
「磁気偏差、測定上限!」
「ワイヤ張力、上向き!」
下へ降ろしているのに、探査機は押し戻される。
「速度を落として」と口にした。
「巻揚機、一秒十センチ」
シロコが調整する。
四十メートル。
壁が流れて見える。
五十三メートルの横穴。
水が、そこから噴き出している。
「流入口は横穴!」
アヤネが叫ぶ。
「探査機を向けます」
姿勢制御噴射。
耐圧球が横穴へ寄る。
映像の奥に、岩ではない直線が見えた。
金属。
古い管路。
その先は、白い光で潰れている。
「カナタ」
ホシノの声。
危機の短い呼び方。
「見えてる」
白い光。
白鴎丸が沈む直前、海の下で見たものと似ている。
雷が水中へ落ちたような光。
「切離し判断は、カナタに委ねます」
先生が言う。
「今なら機体を流せます。残せば、現象が終わった後に回収できる可能性が高い」
機体を放せば、失う。
誰かへ届くかもしれない。
何もない場所で壊れるかもしれない。
「全機能は?」
「正常です」とアヤネ。
「識別文」
「固定確認済み」
「外部受信網」
「シャーレ、アビドス、トリニティ、ゲヘナ外縁局、全て待機中」
ホシノを見る。
盾の向こうで、青と金の目が揺れている。
「行かないで」と言いたい顔。
それでも、言わない。
「ホシノ」
「うん」
「切り離したい」
ホシノは一度、目を閉じた。
開く。
「届くように、守る」
盾を縦坑側へ固定する。
「やって」
「切離します」
俺が操作器を押した。
ワイヤの先が軽くなる。
探査機は上昇流へ乗り、横穴へ吸い込まれた。
映像が激しく回る。
圧力、急低下。
温度、測定不能。
音響に、低い連続音。
白い光。
一秒。
二秒。
三秒。
通信が切れた。
*
逆流は十一分後に止まった。
水面は三十二メートルへ戻る。
方位磁針の針も、また縦坑側へわずかに偏るだけになった。
探査機からの無線はない。
音響信号もない。
外部受信網にも、応答なし。
アヤネは最後の三秒を繰り返し解析する。
位置記録は、横穴へ入ったところで同じ座標を示したまま途切れている。
圧力低下は、上昇したのか、測定器が乱れたのか分からない。
白い光の先に、海面も港も映っていない。
「失敗?」
セリカが尋ねる。
「判断できません」
アヤネは答える。
「機体は予定通り放流。横穴と人工管路、異常領域までは確認。接続先と生存は不明。外部受信なし」
「成功でも失敗でもない」とシロコ。
「次の手がかりは増えた」
「でも、探査機は帰ってこない」
俺が言った。
自分の名前。
家族の名前。
白鴎丸。
ホシノの名前。
全てを刻んだ球が、どこかへ消えた。
届くかもしれない。
永遠に見つからないかもしれない。
膝から力が抜ける。
座る。
ホシノが盾を保管架へ置いてから来る。
先に武器を安全へ戻す。
それから、俺の右隣へ座る。
「触っていい?」
「うん」
手を握る。
「残念?」
「残念だ」
「そっか」
「少し、今日分かると思ってた」
「うん」
「父さんか母さんから信号が返るかもしれないって」
「うん」
ホシノは、よかったと言わない。
帰れなくて安心した自分を、俺へ重ねない。
「次も探す?」
「探したい」
「手伝うよ」
即答。
「怖くても?」
「怖いから、みんなに言う。それで、手伝う」
俺は握る手へ力を返した。
*
予測窓は、さらに六日続いた。
二度目の逆流は起きなかった。
外部受信網にも信号なし。
先生は監視を継続する。
観測所には、横穴・人工管路・白い異常領域の記録が残った。
帰還方法は、見つからなかった。
帰還不可能とも、確定しなかった。
*
撤収日の朝。
空は青い。
砂は冷たい。
皆が宿営道具を車へ積んでいる。
俺は観測所の入口に立ち、縦坑の仮設柵を見る。
ホシノが隣へ来る。
濃紺の上着。
四度目の貸出期限は、観測期間中に延長申請済み。
「これから、どうする?」
ホシノが尋ねる。
「学校へ帰る」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
俺は真鍮の方位磁針を開く。
針は縦坑へ寄る。
蓋を閉じる。
「故郷は探す。探査機の信号も待つ。次の現象も調べる」
「うん」
「でも、今住んで、食べて、直して、帰る場所はアビドスだ」
ホシノが息を止める。
「帰れないからじゃない。調査が失敗したから、仕方なくでもない」
学校の六脚目。
整備庫。
食堂。
古いソファ。
壊れた校門。
五人。
先生。
ホシノ。
「俺が、今ここへ帰りたい」
「私がいるから?」
「ホシノがいるから。皆がいるから。俺の仕事と、待ってる食事があるから」
「一番は?」
「また聞く?」
「毎日、可愛いところ増やしてるからねぇ」
「今日の一番はホシノ」
ホシノが固まる。
「今日だけ?」
「明日は明日言う」
「ずるいなぁ」
長い袖で、顔を隠す。
少しして、袖を下げる。
「カナタ君」
「うん」
「もし、いつか道が見つかって、向こうへ行くことになっても」
声が震える。
命令したい。
行くなと言いたい。
代わりに、願う。
「帰ってきて」
初めて、自分から言った。
「私のところにも、帰ってきてほしい」
俺は、すぐ永遠を約束しない。
ホシノも、急かさない。
「帰れる道なら、帰ってくる」
「片道だったら?」
「行く前に話す。戻る方法を一緒に探す」
「それでも、戻れなかったら?」
「連絡する。待たせたまま消えない」
「……うん」
完全ではない。
それでも、嘘ではない。
「おじさん、もう一つお願いがあるんだけど」
「何?」
「二回目」
ホシノが自分の唇へ指を当てる。
俺の肋骨は治った。
待つと決めた時間も過ぎた。
「今、キスしていい?」
「うん。してほしい」
観測所の入口。
皆は車の反対側で積込み中。
隠れてはいない。
見せるためでもない。
俺はホシノの頬へ触れる。
濃紺の襟が風で揺れる。
ホシノが目を閉じる。
二度目のキス。
今度は、呼吸二つ分。
離れたあと、ホシノの額が俺の右肩へ来る。
「痛くない?」
「痛くない」
「ほんと?」
「本当」
「じゃあ、もう一回」
「二回目は終わった」
「三回目だよ」
「学校へ帰ってから」
「うへ~。また待つの?」
「待てる?」
ホシノは俺の右袖をつまむ。
「帰る場所までなら」
*
夕方。
二台の車が、アビドス校へ戻る。
仮の車止めをシロコが開ける。
セリカが食堂の在庫を確認しに走る。
ノノミは宿営道具。
アヤネは観測記録を地下の新しい保管庫へ。
先生はシャーレへ第一報を送る。
ホシノと俺は、少し遅れて校門を通る。
透明な代替窓が夕日を反射している。
完全には直っていない学校。
それでも、帰ってきた。
「せーので言う?」
ホシノが尋ねる。
「言葉は決めなくていい?」
「今度は同じだから」
「分かった」
「せーの」
「ただいま」
二人の声が重なった。
学校は答えない。
食堂の方から、セリカの声がする。
「二人とも遅い! 荷物、まだ残ってるわよ!」
「おかえり、だって」とホシノ。
「違うと思う」
「おじさんには、そう聞こえたよ~」
濃紺の袖から右手が出る。
俺の右手を握る。
二人分のただいまを、六人の食卓へ持っていった。