――Hoshino side
「ホシノちゃん! お宝だよ!」
古い生徒会室の扉が、壁へぶつかった。
砂の積もった窓。
空席ばかりの長机。
止まった時計。
その全部を揺らすように、梔子ユメが一枚の紙を掲げていた。
*
二年前。
まだ一年生だった私は、長机の端で三冊の帳簿を照合していた。
借入金。
設備維持費。
砂害で停止した水道区画。
数字はどれも赤い。
窓の外も、赤茶けた砂ばかりだった。
「扉は静かに開けてください、ユメ先輩。蝶番が歪んでいます。交換する予算はありません」
「ご、ごめんね」
ユメは扉をそっと閉め直した。
今度は、取っ手が外れた。
「あ」
「触らないでください」
「はい……」
私は帳簿を閉じ、取っ手を拾った。ねじ山が砂で削れている。針金で固定すれば、しばらくは使える。
「それで、何が宝なんですか」
「これ!」
ユメが机へ広げたのは、古い大オアシスの見取図だった。
水域を示す青色は、半分以上が薄れている。
端には、前の生徒会役員らしい筆跡で短い覚え書きがあった。
記念祭用花火。
希少鉱物を使用。
大オアシスの底へ保管。
「昔の生徒会が、すごく高価な鉱物で花火を作ったんだって。百グラムで百万円くらいするらしいよ」
「その数字の出所は?」
「えっと……昔の雑誌?」
「花火の総量は」
「いっぱい!」
「保管場所の座標は」
「大オアシス!」
「大オアシスは広いです」
「だから、二人で探そう!」
ユメは胸を張った。
理屈が一つもつながっていない。
私は見取図の紙質を確かめた。古いが、偽物と決めつける材料もない。覚え書きに署名はなく、日付も薄い。何より、記録された当時と現在では地形が違いすぎる。
「仮に実在しても、火薬が劣化しています。掘り当てて爆発すれば終わりです」
「慎重に掘ろう」
「運搬方法は」
「見つけてから考えよう」
「売却先は」
「それも見つけてから」
「計画とは呼べません」
「でも、本当にあったら借金を返せるかもしれないよ」
ユメの指が、帳簿の赤い数字へ伸びる。
「校舎も直せる。水道も戻せる。新入生が来た時に、歓迎会だってできるよ。花火を全部売らないで、少しだけ残して――」
「新入生は、来ると決まっていません」
「来るよ」
「根拠は?」
「来てほしいから」
「それは根拠ではありません」
「じゃあ、ホシノちゃんがいるから」
私は言葉を止めた。
ユメは、難しい話を理解していない時ほど、まっすぐ笑う。
「ホシノちゃんが残ってくれた学校なら、きっと誰か来てくれるよ」
「……話をすり替えないでください」
「すり替えてないよ?」
「もういいです。行くなら、日の高いうちに帰れる範囲だけです。先に水と測量杭を用意します」
「一緒に来てくれるの?」
「先輩一人で行かせる方が、後の損失が大きいので」
「ありがとう、ホシノちゃん!」
「同意したわけではありません」
そう言いながら、私は帳簿の余白へ必要物資を書き始めていた。
*
大オアシスは、名前だけを残していた。
かつて水底だった地面は白くひび割れ、塩の結晶が日差しを返している。
風が吹くたび、乾いた窪地へ砂が流れ込む。
「水着、必要でしたか」
私は制服の下へ着せられた水着の肩紐を指で戻した。
「オアシスだからね」
「干上がっています」
「途中で水が出るかもしれないよ?」
「出ません」
「お宝を掘ったら、温泉が湧くかも」
「花火と温泉を同時に掘り当てるつもりですか」
「それは危ないね……」
「今気づいたんですか」
ユメは笑い、測量杭を一本抱えて先へ進んだ。
私はその半歩後ろを歩く。
地図の推定位置を四区画へ分けた。
旧護岸の残骸を基準点にする。
表土の硬さを調べ、危険な空洞を避ける。
午前に二か所。
昼食後に三か所。
夕方までに、十一の穴を掘った。
出てきたのは、錆びた空き缶、割れた案内板、片方だけのサンダル。
花火も、希少鉱物もなかった。
「このサンダル、まだ使えるかな」
「片方だけを誰が使うんですか」
「記念品とか」
「ゴミです」
十二個目の穴へスコップを入れたところで、刃先が岩盤に当たった。
ユメはもう一度、位置を変えた。
「終わりです」
「あと一か所だけ」
「さっきも言いました」
「今度こそありそうな気がするの」
「気がする、で日没は延びません」
西の空は赤い。
帰路に砂嵐の予報はない。それでも暗くなれば、崩れた道路と旧水路の境目が見えなくなる。
私はユメの手からスコップを取った。
「帰ります」
「でも」
「帰ります」
声が硬くなる。
ユメの肩が小さく下がった。
「……ごめんね。無駄足だったね」
「そうですね」
「ホシノちゃんの帳簿も、途中だったのに」
「先輩は、いつもそうです」
止めるつもりだった。
けれど、一度出た言葉は戻らない。
「出所の分からない話を信じて、準備も足りないまま走る。失敗してから謝る。奇跡を前提にしても、借金は減りません」
「うん」
「学校を残したいなら、夢より先に数字を見てください」
「……うん」
ユメは反論しなかった。
それが余計に腹立たしかった。
私は荷物を背負い、先に窪地を上がった。
二十歩。
足音がついてこない。
振り返ると、ユメは穴のそばにしゃがんで、いつものノートへ何かを書いていた。
「何をしているんですか」
「今日、掘った場所」
「見つからなかった記録を残す意味がありますか」
「あるよ。次に探す時、同じ場所を掘らなくて済むから」
「まだ探す気ですか」
「それにね、失敗したことも書いておけば、誰かが続きを考えられるかもしれないでしょう?」
ユメはページへ十一の丸を描いた。
その横へ、十二個目を書き足す。
「一人の失敗で終わりじゃないよ。次の人が、もう一歩先から始められるから」
「都合のいい考えです」
「そうかな」
「そうです」
私はユメの前へ水筒を置いた。
「飲んでください。帰りに倒れられると困ります」
「ホシノちゃんは?」
「残っています」
「一緒に飲もう」
「先輩が先です」
ユメは二口だけ飲んだ。
水筒を返しながら、また笑う。
「次は見つかるといいね」
「次はありません」
「じゃあ、その次」
「ありません」
「そのまた次」
「ユメ先輩」
叱る声と笑い声が、夕方の窪地へ落ちた。
十二個の穴だけが残った。
*
夢の中では、帰り道がなかった。
気づくと私は、古い生徒会室へ戻っていた。
空席。
砂の積もった窓。
止まった時計。
「ユメ先輩」
返事はない。
机の上に、ノートだけがある。
私は手を伸ばす。
指先が届く直前、机が遠ざかる。
「待ってください」
走っても近づかない。
「先輩」
扉の向こうで、砂が鳴った。
白い髪が見えた気がした。
「行かないで」
過去の私は、そんな言葉を使わなかった。
だから、今の声だけが広い部屋へ残る。
「置いていかないで」
時計が動く。
一秒。
一秒。
規則正しい音が、別の場所から聞こえた。
*
「ホシノ」
名前を呼ばれた。
私は目を開けた。
薄暗い部屋。
古い生徒会室ではない。
カナタ君の部屋だった。
窓には補修した遮光布。壁際には工具箱。机の上には真鍮の方位磁針と、灰色の鯨が描かれた水筒。
ベッドの上で、カナタ君がこちらを見ている。
私の右手は、カナタ君の寝間着の袖を強く握っていた。
「……いる?」
「いる」
「名前」
「汐見カナタ」
「ここは?」
「アビドス校、俺の部屋」
「今は?」
「午前四時九分」
返答を聞いてから、私は息を吐いた。
旧観測所から戻った翌朝。
約束していた三度目のキスは、整備室で交わした。
それから何度も、帰ると言って外へ出た。
空が壊れたような日もあった。
学園都市全体が消えてしまいそうな夜を越え、先生と多くの生徒が、戻れないはずの場所から明日を連れ帰った。
カナタ君はアビドスの後方で避難設備と非常電源を守った。
私も、四人も戦った。
全員が同じ時刻に帰れたわけではない。
それでも、一人ずつ「ただいま」を言った。
数か月が過ぎた。
二人はもう、キスへ番号をつけていない。
同意を省くようになったのではない。
尋ね方が、生活へ溶けただけだ。
今夜も私は、眠る前に「隣にいて」と頼んだ。
カナタ君は「おいで」と答えた。
アヤネへ所在を伝え、扉の鍵は掛けていない。
医療制限は、もうない。
それでも、名前を呼んで返事を聞く約束だけは残っている。
「夢?」
「うん」
「檻の?」
「違うよ」
私は袖を離さないまま、身体を少し起こした。
カナタ君の灰青色の目が、眠気の中でこちらを見ている。
「古い生徒会室。ユメ先輩がいた」
カナタ君は、すぐに慰めなかった。
何を言うべきか決めるより先に、右手を出す。
「手、握っていい?」
「ん」
袖をつかんでいた指が、カナタ君の指へ移る。
「どんな夢だった?」
「お宝を探しに行って、何も見つからなくて。おじさんが怒った日の夢」
「楽しかった?」
「怒ったって言ったよねぇ」
「それだけじゃなさそうだから」
「……変な水着を着せられた」
「それは見たかった」
私は、つないだ手を持ち上げてカナタ君の額へ押し当てた。
「今の、夢の中でユメ先輩に報告しとくね」
「謝る」
「おじさんにも?」
「ホシノにも」
「じゃあ、半分だけ許す」
声が少し戻った。
けれど胸の奥には、まだ古い部屋がある。
*
カナタ君の体温が、指から分かる。
呼吸も聞こえる。
今なら、名前を呼べば返事が来る。
それでも夢の扉を閉めると、次はこの部屋が空になる気がした。
工具箱だけ。
方位磁針だけ。
上着だけ。
持ち主がいない物だけが残る。
そうなったら、旧水路を壊す。
方位磁針を砂の底へ沈める。
カナタ君を連れていこうとする道を、全部なくす。
何かが起きる前から、そんなことを考える。
かわいくない。
正しくもない。
でも、考えなかったことにはしない。
「カナタ」
「うん」
「怖さ、六」
前なら黙って脈を数えた。
今は、先に言う。
「朝になったら、いなくなる気がする」
「朝までいる」
「朝のあとは?」
「一緒に朝食へ行く」
「そのあと」
「委員会室。午前は北側ポンプの点検」
「午後は?」
「ホシノと昼寝」
「予定表にないよ」
「今、入れた」
「どこで?」
「いつものソファ」
「何分?」
「ホシノが起きるまで」
「それだと一日終わっちゃうなぁ」
「じゃあ三十分」
「短い」
「四十分」
「交渉成立」
明日の形が、少しずつ置かれる。
朝食。
委員会室。
ポンプ。
ソファ。
永遠ではない。
だから、信じられる。
「もう一つ、いい?」
「何?」
「近くに行きたい」
今夜は隣の折り畳み寝台ではなく、最初から同じベッドへ入っている。
それでも、触れ方は勝手に決めない。
カナタ君が腕を開く。
「おいで」
私は身体を寄せた。
頬を胸へつける。
耳の下に、鼓動。
数えない。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「重くない?」
「軽い」
「それはそれで失礼だねぇ」
「ちょうどいい」
「ん。よろしい」
背中へ腕が回る。
逃がさない力ではない。
ここにいていいと分かる力。
私は、夢の中でユメ先輩を呼んだ。
今は、カナタ君を呼んだ。
どちらかを消さなくても、名前は二つ置ける。
失くした人を覚えたまま、今いる人へ行かないでと言っていい。
「カナタ」
「いる」
「好き」
「俺も好き」
「おじさんの方が重いよ」
「重さを量った?」
「うん。たぶん、百グラムで百万円」
「高いな」
「希少だからねぇ」
胸が揺れる。
カナタ君が笑っている。
「キスしていい?」
聞かれて、少し顔を上げる。
「一回じゃ足りないかも」
「眠れるまで?」
「朝まで」
「唇が痛くなる」
「じゃあ、一回で我慢してあげる」
短く唇が触れる。
離れてから、もう一度頬を胸へ戻す。
「一回って言ったの、間違いだったなぁ」
「もう一回?」
「あとで」
「いつ?」
「夢の続きが、怖くなくなったら」
背中を撫でる手が、ゆっくり動く。
止まった時計は、もうない。
一秒ずつ、朝へ進む音がする。
*
午前七時二分。
私とカナタ君が食堂へ入ると、四人はすでに席へ着いていた。
セリカが二人を見る。
「遅い」
「二分だよ~」
「七時集合」
「誤差の範囲かな」
「朝からくっついてたんでしょ」
「よく分かったねぇ」
「否定しなさいよ!」
ノノミが笑いながら、二人分のスープをよそう。
シロコは私の顔を見てから、カナタ君を見る。
「中途覚醒、一回?」
「一回」
「再入眠まで?」
「二十七分」
「改善してる」
「その報告、食事中に必要かなぁ」
「必要。午後の昼寝は四十分」
私がカナタ君を見上げた。
「もう共有されてる」
「委員会の予定だから」とアヤネ。
「仕事が早いなぁ」
「それどころではありません」
アヤネの声が変わった。
食卓の中央へ、端末が置かれる。
カイザーグループ。
債権市場。
アビドス高等学校名義の債務。
「昨日深夜、カイザーが保有する債権の一部が市場へ出されました。額面は、私たちの債務残高のおよそ四十五パーセントです」
セリカのスプーンが止まる。
「売ったってこと?」
「正確には、複数に分割して債券化しました。土地の所有権はカイザーに残っています。でも買い手は、対象施設の運営や開発へ一定の権利を持つ可能性があります」
「買い戻せる?」とシロコ。
「そのつもりで夜明けから注文を出していました」
「過去形ですね」とノノミ。
アヤネが唇を結ぶ。
「市場が開いてから、ほとんど時間がありませんでした。私たち以外の一社が、出された分を全て買い集めています」
私の右手が、テーブルの下でカナタ君の左手へ触れた。
一拍だけ握る。
すぐに離し、端末へ身を乗り出した。
眠そうな声は残っている。
目だけが、もう眠っていない。
「買ったのは、誰?」
アヤネが会社名を表示した。
ノノミの顔から、笑みが消えた。
「セイント・ネフティスカンパニーです」
夢の中の古い帳簿が、現在へページをめくった。