砂の海に、君が流れ着く   作:陽炎帽子

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おじさんの昼寝番

 アビドスで迎えた四日目の朝、俺は銃声で目を覚ました。

 乾いた破裂音が三回。

 間を置いて、さらに二回。

 簡易ベッドから転げ落ちそうになりながら身を起こす。胸の痛みに顔をしかめ、机へ手をついた。

 避難するべきか。

 窓は危険だ。廊下へ出て、建物の中心へ――。

 扉を開けると、向かいの委員会室からホシノが顔を出した。

 寝癖のついた髪。片目はほとんど閉じている。片手には散弾銃。

「おはよ~、カナタ君」

「襲撃か」

「ん?」

「今の銃声」

「ああ。シロコちゃんの朝練だよ」

 窓の外から、今度は連続した発砲音が聞こえた。

 ホシノは大きく欠伸をする。

「今日も元気だねぇ」

「学校で銃を撃つのが朝練なのか」

「走る日もあるよ」

「そういう問題じゃない」

「キヴォトスでは普通普通。慣れたら目覚まし代わりになるからさ」

「慣れる前に心臓が止まりそうだ」

 俺が胸を押さえると、ホシノの目が開いた。

 銃を廊下の壁へ立て、二歩で距離を詰める。

「痛む?」

「例えだ」

「本当に?」

「本当に」

 ホシノの指が胸元へ伸びかけ、途中で止まった。

「なら、まあ……よかった」

 手を引っ込め、代わりに俺の顔を覗き込む。

「熱は?」

「ない」

「息苦しさ」

「ない」

「立ちくらみ」

「今はない」

「朝ご飯は食べられそう?」

「食べられる」

「うん。じゃあ合格」

「何の試験だ」

「本日の生存確認」

 冗談のように言い、ホシノは委員会室へ戻っていった。

 

 俺は廊下に残る。

 本日の、ということは、明日もやるつもりなのだろうか。

 机へ戻り、鯨の水筒から水を飲む。

 

 寝る前に満たした量が、少しだけ増えていた。

 自分が眠った後、誰かが補充したらしい。

 

      *

 

 朝食は対策委員会室で取った。

 長机の上に、パン、豆のスープ、薄く切った果物が並んでいる。量は多くない。全員が席につくまで、誰も手をつけなかった。

 俺の折り畳み椅子は、昨日と同じ場所にあった。

 ホシノのソファに最も近い、長机の端。

「今日から監視当番を正式に始めます」

 アヤネが壁へ紙を貼る。

 曜日ごとに、五人の名前が書かれていた。

「本日は私。明日がシロコさん、次がノノミさん、その次がセリカさん、最終日はホシノ先輩です」

「異議あり~」

 ソファで毛布にくるまったホシノが手を上げる。

「却下します」

「まだ何も言ってないよ?」

「昨夜、私の名前を消して自分の名前を書いたのは先輩ですよね」

 予定表の下には、消しゴムで何度も擦った跡があった。薄くなった「アヤネ」の上へ、丸い字で「おじさん」と書かれている。

「証拠はあるのかなぁ」

「先輩以外に、自分をおじさんと書く人はいません!」

「シロコちゃんかも」

「私は書いてない」

「セリカちゃん」

「何であたしが!」

「ノノミちゃん?」

「ホシノ先輩の筆跡ですね~☆」

「味方がいない……」

 ホシノは毛布を頭までかぶった。

「監視される側の意見は?」と口にした。

「参考程度に聞きます」とアヤネ。

「一人で十分だ」

「ほら~。カナタ君も私一人でいいって」

「日替わりで一人という意味だ」

「裏切られた」

「出会って四日で使う言葉じゃない」

 セリカがパンをちぎりながら、呆れた目を向けた。

「ホシノ先輩、あんたのことになると変じゃない?」

「そう?」

「いつも変だから、分かりにくいですけど」

「セリカちゃん、先輩への敬意が足りないなぁ」

「敬意が欲しかったら仕事してください」

 いつもの応酬らしかった。

 ノノミが笑い、シロコは黙々とスープを食べている。アヤネは予定表の「おじさん」をきれいに消そうとして諦めた。

 俺もパンへ手を伸ばす。

 六人分の食事。

 自分の分だけ増えた費用を考えると、喉を通りにくい。

「足りませんか?」

 ノノミが尋ねた。

「いや。十分だ」

「でしたら、どうぞ。カナタさんの分ですよ」

 最後の果物をこちらへ寄せる。

「ノノミの分じゃないのか」

「私はもういただきました」

「それ、さっきから残してたよね」とシロコ。

「シロコちゃん」

 ノノミが困ったように笑う。

 俺は果物を半分に切り、片方を戻した。

 

「これならいい」

「でも~」

「一人分を六つに増やすことはできない。半分なら、二人で食べられる」

 ノノミは少し考え、頷いた。

「うんうん。では、半分ずつにしましょう」

 向かいで、ホシノが毛布の隙間からこちらを見ていた。

「何だ」

「いやぁ。馴染むのが早いなと思って」

「まだ四日目だ」

「うん。だからだよ」

 ホシノはそれ以上説明せず、スープの器を持ち上げた。

 

      *

 

 アヤネの監視当番は、監視というより事務手続きだった。

 俺は委員会室の端へ机を借り、連邦生徒会へ提出する追加書類に答えた。

 氏名、年齢、出身、家族、在籍していた学校、船の航路。

 何度書いても、検索結果は該当なしになる。

「お父さまのお名前は、汐見宗一さん。お母さまが汐見澪さん。ご兄弟はいない、で間違いありませんか?」

「ああ」

「学校名は凪津海洋技術校」

「二年。午前は授業、午後は港で働いてた」

「ご家族は船に?」

「乗ってない。父は港の整備所。母は診療所で働いてる」

 だから、生きているはずだ。

 

 嵐が港まで届いていなければ。

 白鴎丸が戻らないと知り、今も捜しているはずだ。

 

「帰還経路の調査は続けます」

 アヤネが言った。

「確実なことが分かるまで、希望だけをお伝えすることはできません。でも、調べることはやめません」

「ありがとう」

「いえ。書記として当然のことです」

 アヤネは端末へ視線を戻した。

 

 委員会室では、ほかの四人もそれぞれの仕事をしていた。

 シロコは窓際で銃を分解し、砂を払っている。ノノミは返済用の封筒を束ね、セリカは領収書を日付順に並べる。

 ホシノはソファで眠っていた。

 少なくとも、そう見える。

 シロコが金属部品を机へ置く。

 小さな音。

 ホシノの耳が動いた。

 セリカが椅子を引く。

 ホシノの瞼がわずかに開く。

 廊下を風が抜け、窓枠が鳴る。

 毛布の下で、散弾銃を持つ手が動く。

 眠っていないわけではない。

 だが、深くもない。

「ホシノ先輩は、昔からああなんですか」

 俺は声を落としてアヤネへ尋ねた。

「ああ、というのは?」

「よく寝る」

「それはもう」

 セリカがすぐ会話へ入ってきた。

「授業中も会議中も、見回りの休憩中も。起こさなかったら一日中寝てるんじゃない?」

「一日中は言いすぎだよ~」

 目を閉じたまま、ホシノが答える。

「起きてたの!?」

「今起きたところ」

「絶対嘘!」

 俺はホシノを見る。

 よく寝るのに、何かあるたび目を覚ます。

 矛盾しているようで、両方とも本当なのだろう。

「何か直したいものはあるか」

「話を変えましたね」とアヤネ。

「書類は終わった。安静の範囲でできることが欲しい」

「安静の範囲という言葉、覚えてたんだねぇ」

 ホシノが起き上がる。

 セリカは委員会室を見回し、窓を指した。

「あそこ。風が吹くとずっと鳴るの。夜うるさいから、直せるなら直して」

「窓枠なら見られる」

「では、私が立ち会います」

 アヤネが工具と脚立を準備した。

「おじさんも見守ろっかな」

「本日の監視担当は私です」

「委員長として作業を監督するだけだよ」

「邪魔はしないでくださいね」

「信用ないなぁ」

 十分後。

 ホシノは窓際の床へ座り、壁にもたれて眠っていた。

「やっぱり寝てるじゃないですか」

「寝かせておこう」

 俺は窓枠のねじを外しながら答えた。

「作業の邪魔にはなってない」

「汐見さんは甘いです」

「起こす理由がないだけだ」

 窓枠の中には、砂で削れた密閉材が残っていた。交換品はないので、薄いゴム板を切って隙間へ入れる。完全ではないが、風鳴りは止まるはずだ。

 ドライバーがねじを回す音に合わせ、ホシノの呼吸が続く。

 

 一定ではない。

 廊下で足音がすれば浅くなり、遠くで銃声がすれば一瞬止まる。

 眠ることが好きなのではなく、眠ろうとし続けているように見えた。

 

      *

 

 五日目の監視役はシロコだった。

「歩く」

 朝食後、シロコはそれだけ告げた。

「どこへ」

「校内。避難経路を教える」

「分かった」

 俺が上着を取ろうとすると、別の手が先に持ち上げた。

 ホシノだった。

「今日は風が強いから、襟まで閉めた方がいいよ」

「自分で着られる」

「知ってる知ってる」

 そう言いながら上着を渡し、前を閉じるところまで見ている。

「ホシノ先輩。今日は私の担当」

 シロコが指摘する。

「うん。だから見送ってるだけ」

「昨日も一緒にいた」

「委員長は忙しいからねぇ」

「暇そうでしたけど」とアヤネ。

「心が忙しかったの」

「意味が分かりません」

 シロコは校舎の安全な区画を一つずつ教えた。

 銃撃があった時に壁として使える柱。窓から離れた階段。地下へ下りる非常口。外から侵入者が来やすい場所。

「警報が三回なら、委員会室へ。五回なら地下。通信が切れていたら、この線より前に出ない」

 床に引かれた黄色い線を指す。

「分かった」

「走れる?」

「まだ全力は無理だ」

「どれくらい?」

「試すのか」

「安全確認」

 廊下の端から端まで、二人でゆっくり走った。

 シロコにとっては歩くのと変わらない速度だろう。それでも俺の呼吸に合わせ、半歩前を保った。

 折り返す頃には胸が痛み、息が上がった。

「遅い」

「知ってる」

「でも、昨日よりは動けてる」

「褒めてるのか?」

「ん」

 委員会室へ戻ると、扉の前にホシノがいた。

 

「おかえり~。どうだった?」

「遅いけど、昨日より動ける」とシロコ。

「息が上がってるね」

 ホシノの手が俺の背へ触れる。

「座ろっか」

「そこまでじゃない」

「うんうん。歩ける人を座らせるのも監視のお仕事だから」

「今日はシロコの担当だろ」

「私は走らせた。ホシノ先輩は休ませる。役割分担」

「シロコちゃん、賢い」

 ホシノは満足そうに俺をソファへ押し込んだ。

 そのまま隣へ座る。

 肩が触れそうな距離だった。

「近くないか」

「ソファが小さいんだよ~」

 反対側には、人一人分以上の空間があった。

 

 俺は指摘しようとして、やめた。

 

      *

 

 六日目の夜、俺はまた海へ沈んだ。

 今度は光がない。

 暗い水の中で、誰かが扉を叩いている。

 白鴎丸の機関室。

 浸水で歪んだ扉の向こうから、機関長が叫ぶ。

 開けろ。

 早く。

 俺は取っ手を引く。動かない。水が胸まで上がる。肩まで。口まで。

 扉の音が止まる。

 代わりに、自分の心臓だけが鳴る。

 生き残った心臓が。

 

「――っ!」

 目を開けた時、床にいた。

 簡易ベッドから落ち、鯨の水筒を倒していた。蓋は閉まっている。中身はこぼれていない。

 扉が勢いよく開く。

「カナタ!」

 ホシノが銃を構えたまま入ってきた。

 髪は乱れ、靴も片方しか履いていない。

 室内を一度見回し、敵がいないと分かると銃口を下げた。

「どうしたの」

 声が短い。

「夢を見ただけだ」

「怪我は?」

「ベッドから落ちた。たぶん、それだけ」

 ホシノは銃を壁へ立て、俺の前へしゃがんだ。

 額、後頭部、腕、胸元。

 触れる前に一度ずつ目で確認し、それから指を置く。

「頭は打ってない?」

「覚えてない」

「吐き気」

「ない」

「目、見せて」

 近い距離で、左右の瞳を確かめる。

 薄暗い部屋でも、ホシノの目だけははっきり見えた。

「大丈夫そうだね」

 ようやく、声へ柔らかさが戻る。

 

「ごめん。起こした」

「おじさんはたまたま夜の巡回中だったからさ」

「片方、靴がない」

 ホシノが自分の足を見る。

 右足は靴下のままだった。

「最近の巡回は片足が流行りなんだよ~」

「委員会室で寝てたのか」

「……うん」

 誤魔化すのを諦め、床へ座る。

「向かいの部屋で音がしたから、ちょっと驚いただけ」

「銃まで持って?」

「アビドスは物騒だからねぇ」

「そうか」

 俺は倒れた水筒を拾った。

 手がまだ震えている。

 蓋を開けようとして、うまく回らない。

 ホシノが水筒を受け取り、開ける。

「ゆっくりね」

 初日に管理棟で聞いたのと同じ声だった。

 一口だけ飲む。

 水が喉を通ると、ここが海の底ではないと少しずつ分かった。

「船の夢?」

「ああ」

「話したくなければ、話さなくていいよ」

「機関室の扉が開かなかった」

 言葉が先に出た。

「向こうに機関長がいた。俺は開けられなかった。実際にあったことか、夢で作ったのか分からない」

 ホシノは何も言わず聞いていた。

「俺だけが、あの光を見たのかもしれない」

「うん」

「父と母は港にいる。帰らないといけない。俺が生きてるって伝えないと」

「うん」

「でも、帰る方法がない」

「……うん」

 同じ相槌だった。

 励ましも、根拠のない約束もない。

 ただ最後の一度だけ、返事までの間が長かった。

「ホシノは、怖い夢を見ないのか」

 俺が聞く。

 ホシノは水筒の鯨を親指でなぞった。

「おじさんは寝るのが上手だからねぇ」

「嘘だな」

「ひどい」

「音がするたび起きてる」

 ホシノの指が止まる。

「窓を直してる時、見てた。銃声、足音、風。全部で目を覚ましてた」

「監視中だったから」

「昨日、ソファでも同じだった」

「よく見てるねぇ」

「機械は言葉にしないから、見る側が合わせるしかない」

「私は機械じゃないよ」

「人間は言葉にしてくれれば助かる」

 機械室で交わした言葉を返す。

 ホシノはしばらく俺を見ていた。

 やがて、困ったように笑う。

「漂流者君、恩返しがしつこいなぁ」

「恩返しじゃない」

「じゃあ、何?」

 すぐには答えられなかった。

 命を救われたから。

 水筒を借りたから。

 明日もいると言われたから。

 理由ならいくつもある。

「ホシノが眠れないと、俺が困る」

「どうして?」

「朝から俺の生存確認をする人が、先に倒れたら困るだろ」

 ホシノが目を瞬く。

 次に、頬を少し膨らませた。

「それは困るねぇ」

「眠るなら、俺が起きてる時にすればいい。何かあったら起こす」

「君に守ってもらうの?」

「敵が来たら、先にホシノを起こすくらいしかできない」

「それ、守ってるって言うのかなぁ」

「できることをする」

 ホシノは俯いた。

 長い髪が表情を隠す。

「……そっか」

 小さな声だった。

 すぐに立ち上がり、床へ落ちていた毛布を俺のベッドへ戻す。

 

「じゃあ、今夜は君が寝る番。おじさんは向かいにいるから」

「眠れる気がしない」

「目を閉じるだけでもいいよ」

「また夢を見たら」

「呼んで」

「起こすことになる」

「カナタ君」

 ホシノの手が、俺の左手を取った。

 古い縄痕の上へ、親指が重なる。

「起こしていいよ」

 冗談のない声だった。

「だから、一人で床に落ちないで」

 手を離し、俺をベッドへ戻す。

 

 ホシノは扉を完全には閉めなかった。

 廊下を挟んだ向かいの部屋にも、明かりが残る。

 俺は横になり、その光を見た。

 目を閉じるまで、ホシノの足音はしなかった。

 

      *

 

 八日目。

 ホシノは朝から自治区の外縁へ巡回に出た。

「今日は私が監視担当のはずでは?」

 出発前、ホシノが不満そうに言った。

「昨日の砂嵐で西側の監視塔が停止しています。先輩にしか確認できない危険区域です」

 アヤネは端末から目を上げない。

「シロコちゃんでも」

「シロコさんは返済金の運搬護衛です」

「ノノミちゃん」

「部品の買い出しをお願いします~」

「セリカちゃん」

「あたしは用事があるの!」

「じゃあ、監視役がいないねぇ」

「学校の中で安静にしている限り、汐見さん一人でも問題ありません」

「問題あるかもしれないよ? 急に倒れたり、窓を直しすぎたり」

「窓を直しすぎるって何ですか」

 俺は工具の手入れをしながら聞いていた。

「行ってこい。俺はここにいる」

「でもねぇ」

「黙っていなくならないって言った」

 ホシノが止まる。

「帰ってくるまで、ここにいる」

「……うん」

 笑いかけ、途中で目を逸らす。

「じゃあ、行ってきます」

 その言い方は、普段より少しだけ丁寧だった。

「行ってらっしゃい」

 ホシノは何か言いたそうに口を開き、結局そのまま出ていった。

 昼を過ぎ、空が曇った。

 砂漠の雲は薄く、雨を落とさない。風だけが強くなり、校舎の外壁を砂が擦った。

 俺は委員会室で工具の錆を落とした。

 アヤネは通信室と行き来し、時々ホシノの現在地を確認する。

「予定では三時に戻ります」

「今、三時半だ」

「監視塔の配線が予想以上に傷んでいるそうです」

「通信は」

「十五分前に一度。問題ないと」

「そうか」

 四時。

 シロコとノノミが先に戻った。

 

 セリカはまだ外出中だった。

 ホシノからの定時連絡はあった。敵影なし。帰路へついたという。

 

 俺は工具を並べ直す。

 大きさ順に並べ終え、また最初から布で拭いた。

「落ち着かない?」

 シロコが向かいへ座った。

「別に」

「同じレンチを三回拭いてる」

 手が止まる。

「錆が落ちない」

「一回目で落ちてた」

「よく見てるな」

「ん」

 五時を過ぎ、日が傾き始めた。

 俺は校舎の玄関へ移った。

 外へ出るなという条件は守る。開いた扉の内側、黄色い安全線の手前に椅子を置いた。

 砂の街を、夕陽が赤く染める。

 遠くで小さな影が動いた。

 大きな鞄。背中の銃。ゆっくりした歩き方。

 ホシノだった。

 制服と髪は砂だらけで、片方の袖が少し裂けている。

 俺は立ち上がった。

 ホシノが校門を通り、玄関前の階段を上る。

「いやぁ、待たせちゃったね。ちょっと配線が頑固でさ~」

「怪我は」

「なしなし。袖は金網に引っかけただけ」

「連絡は」

「ちゃんとしたでしょ?」

「予定より二時間遅い」

「怒ってる?」

「怒ってない」

「じゃあ、心配した?」

 ホシノが少し身を屈め、下から顔を覗き込む。

 からかう笑みだった。

 否定しようとして、やめた。

「した」

 ホシノの笑みが固まる。

「だから、次は遅れると分かった時点で連絡してくれ」

「……うん」

「おかえり、ホシノ」

 言った瞬間、玄関が静かになった。

 遠くの風の音まで聞こえた。

 ホシノは目を見開き、俺を見る。

 その口がゆっくり動く。

「ただいま」

 普段よりずっと小さく、柔らかな声だった。

 俺の胸の奥で、何かが収まる。

 帰ってきた。

 

 たったそれだけの言葉で、三回も磨いた工具より簡単に息ができた。

「カナタ君」

「何だ」

「明日も言ってくれる?」

「帰ってくれば」

「そっかそっか」

 ホシノは俯き、肩を小さく揺らした。

 笑っているらしい。

「じゃあ、おじさん毎日ちゃんと帰ってこないとねぇ」

 

      *

 

 夕食後、俺は委員会室で古い置き時計を直した。

 監視当番を果たせなかった代わりだと言って、ホシノは隣に座っている。

 長机ではなく、ソファ前の低い卓を使った。

 俺が床へ座り、ホシノはソファの端。手を伸ばせば届く距離だ。

「その時計、直るの?」

「歯車は生きてる。油が固まってるだけだ」

「何年も止まってたよ」

「時間はかかる」

「時計なのに?」

「時計だからだ」

「うへ。真面目だねぇ」

 ホシノは欠伸をした。

「眠いなら寝ればいい」

「監視中だよ?」

「俺はここにいる」

「それは知ってる」

「何かあったら起こす」

 昨夜と同じ言葉。

 ホシノは黙った。

 やがてソファへ横になるのではなく、床へ下りてきた。

 俺の隣へ座り、背中をソファへ預ける。

「ここで寝るのか」

「監視しやすいからねぇ」

「好きにしろ」

「冷たいなぁ」

 そう言いながら、ホシノは満足そうだった。

 俺は時計の裏蓋を外す。

 細い歯車へ油を落とし、固まった軸を少しずつ動かす。

 隣から、ホシノの呼吸が聞こえ始めた。

 

 最初は浅い。

 廊下でアヤネとセリカが話す声に反応し、少し止まる。

 シロコが銃の安全装置を確かめる音で、指が動く。

 ノノミが湯を沸かす音に、肩がわずかに上がる。

 俺は作業の音を小さくした。

 ねじを布の上へ置く。

 工具を引きずらない。

 歯車を一つ戻す。

 

 どれくらい経った頃か。

 左肩へ、温かな重さが触れた。

 ホシノの頭だった。

 長い髪が腕へ落ちる。

「ホシノ」

 呼んでも返事がない。

 俺は手を止めた。

 ホシノの右手が、俺の作業着の袖をつかんでいる。

 強くはない。

 けれど離れない。

「寝るならソファの方がいいだろ」

 返事はない。

 委員会室の扉が開いた。

 セリカが入ってきて、口を開く。

「ホシノ先輩、今日の――」

 ノノミが後ろから、そっとセリカの口を塞いだ。

「むぐっ」

「しー、ですよ~」

 アヤネとシロコも覗き込む。

「寝てる」とシロコ。

「いつものことでしょ」と、セリカがノノミの手を外して囁く。

「でも、さっきから一度も起きてません」

 アヤネは小声で言った。

 その時、俺の指から小さなねじが落ちた。

 布の外へ転がり、床で硬い音を立てる。

 ホシノは起きなかった。

 袖をつかむ指が、わずかに深くなる。

 四人の視線が俺へ集まる。

「俺は何もしてない」

「誰も責めてない」とシロコ。

「でも、珍しいです」

 アヤネがホシノの寝顔を見る。

「ホシノ先輩、物音がするとすぐ起きるのに」

「疲れてたんじゃない?」

 セリカの声は、いつもよりずっと小さい。

「監視塔まで一人で行ったんだし」

「そうですね~」

 ノノミは微笑んだ。

「では、もう少しこのままにしてあげましょう」

「このままって、俺は」

「動けない?」とシロコ。

「左腕が使えない」

「右手で直せる?」

「できなくはない」

「なら問題ない」

「問題あるだろ」

「カナタさん」

 ノノミが、湯気の立つカップを卓へ置いた。

「ホシノ先輩のこと、お願いしてもいいですか?」

 頼まれるようなことではない。

 座っているだけだ。

 それでも俺は、肩の重みを確かめた。

「……分かった」

 セリカたちは会議の場所を隣の教室へ移した。

 委員会室が静かになる。

 時計の歯車を右手だけで組み直す。

 時間はかかった。

 ホシノの呼吸は、いつの間にか一定になっていた。

 

 物音にも、風にも反応しない。

 俺の肩へ額を預け、袖をつかみ、深く眠っている。

 置き時計の最後のねじを締める。

 ぜんまいを巻く。

 止まっていた秒針が、ひとつ動いた。

 こつ、こつ、と小さな音が始まる。

 ホシノは起きなかった。

「おやすみ」

 聞こえないほどの声で言う。

 袖をつかむ指だけが、返事のように少し動いた。

 

      *

 

 ――Hoshino side

 

 最初は、寝たふりだった。

 カナタ君の隣がどれくらい落ち着くのか、少し試してみたかった。

 肩へ頭を置いた時、カナタ君の体が固まった。

 やっぱり迷惑だったかな、と離れようとした。

 その前に、カナタ君が工具を置く音を小さくした。

 ねじを布の上へ置く。

 呼吸を乱さないよう、動きをゆっくりにする。

 

 私は目を閉じたまま、それを聞いていた。

 胸の奥に、知らない感覚が広がる。

 誰かがそばにいると、普通は眠れない。

 守るものが増えるから。

 

 呼吸の数。入口までの距離。窓の位置。銃へ手を伸ばす時間。

 

 全部を確かめなければならない。

 カナタ君は違った。

 弱い。

 驚くほど弱い。

 銃声に飛び起き、少し走れば息が上がり、眠れば海の夢で床へ落ちる。

 本当なら、誰より気を張っていなければならない相手だ。

 なのにカナタ君は、私が眠るなら私が起きていると言った。

 敵が来たら起こすことしかできない、と正直に言った。

 何もできないのに、できないまま隣へいようとする。

 そのことが、どうしてか嬉しかった。

 昼間、玄関で聞いた声を思い出す。

『おかえり、ホシノ』

 あの一言を、何度も頭の中で繰り返した。

 帰る場所は、私が守るものだと思っていた。

 

 誰かが待っていてくれる場所だなんて、考えたことがなかった。

 

 カナタ君の肩から、規則正しい呼吸が伝わる。

 

 起きている。

 ここにいる。

 私が目を閉じても、いなくならない。

 

 そう思ったところで、音が遠くなった。

 寝たふりは、本当の眠りへ変わった。

 私はその夜、夢を見なかった。

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