この時、俺たちの誰も地下生活者の名を知らなかった。
事件後、先生とプラナが回収した記録には、光の届かない場所で二人の大人が接触した痕跡が残っていた。一人はフランシス。もう一人は、かつてゲマトリアから追放された者。
音声は途切れ途切れだったが、相手が先生の存在と書き換わった世界の規則を知り、フランシスの助言を拒んだことまでは確認できた。
最後に記録された画面は、砂へ埋もれたアビドスの古い地図だった。
俺たちはまだ、自分たちが盤面に置かれたことさえ知らない。
*
「セイント・ネフティスカンパニーです」
アヤネが買い手の名を告げてから、食堂の時間が止まった。
ノノミは、スープへ落としていた視線を上げない。
いつもなら、誰かが困る前に笑って間を埋める。
今は、その笑みがなかった。
「先生へ連絡します」
アヤネが端末を操作する。
「債券化の公示、約款、買付記録を全部保存します。カイザーが後から条件を書き換えないよう、外部の時刻証明も取ります」
「ん。シャーレの保管庫にも送って」とシロコ。
「はい」
セリカはノノミと端末を交互に見ている。
「ねえ。ネフティスって、もしかして」
「私の家です」
ノノミが答えた。
柔らかい声だった。
けれど、いつもの明るい余韻がない。
「正確には、私の家族が経営してきた企業グループです。私は、その後継者として育てられました」
「後継者って……社長の娘とか、そういう意味?」
「はい」
セリカの口が開いたままになる。
シロコは驚く代わりに、一つだけ尋ねた。
「今回の買付、ノノミが決めた?」
「いいえ。知りませんでした。相談も、連絡もありません」
「なら、別の問題」
「シロコちゃん……」
「ノノミが誰の娘かと、ネフティスが何をするかは別」
俺も頷いた。
「俺もそう思う」
ノノミが、少しだけ顔を上げる。
「でも、話していなかったことは事実です」
「それはあとで怒る」とセリカ。
「セリカちゃん」
「今は買われた権利の方が先でしょ。怒るのと疑うのは違うから」
「……はい」
ノノミの返事が、わずかに震えた。
ホシノは頬杖をついている。
眠そうに見える姿勢のまま、最初からノノミだけを見ていた。
「ホシノ先輩は驚かないんですね」とアヤネ。
「うん。知ってたから」
「えっ?」
セリカの声が裏返る。
「ちょっと昔にねぇ。制服も違うお嬢様が、おじさんの後ろをこっそり歩いてたことがあってさ」
「こっそりではありません。見学です」
「電柱の陰へ半分しか隠れてなかったけど?」
「あの頃は、今より少し大きかったんです」
「電柱が?」と口にした。
「私がです!」
ようやく、ノノミの声にいつもの調子が戻った。
ホシノが小さく笑う。
「あれは、おじさんがまだ二年生になる前だったかな」
*
――Hoshino side
冬の終わり。
アビドス校へ続く道路には、車より砂の筋が多かった。
私は一人で巡回していた。
三つ目の角を曲がる。
後ろの足音も曲がる。
止まる。
足音も止まる。
「そこにいる人」
返事はない。
「次もついてくるなら、所属と目的を先に言ってください」
電柱の陰から、金色の長い髪が出てきた。
私より少し年下の少女。
濃紺と白を基調にした中等部の制服は、砂ひとつ付いていない。
「こんにちは~」
「挨拶は後で結構です。所属は」
「ネフティス私立中等部です。十六夜ノノミと申します」
私の目が細くなった。
「その学校は、閉鎖されたと聞いています」
「私の卒業までは残っています。卒業後に、正式に閉じる予定です」
「目的」
「アビドスを見たくて来ました」
「観光する場所はありません」
「あなたを見かけたので」
私は右足を半歩引いた。
武器へ手を伸ばす距離ではない。
ただし、いつでも間へ入れる姿勢。
「私の何を知っていますか」
「アビドスに新しく入った、とても強い生徒さん。たった二人の生徒会で、毎日巡回している方」
「誰から聞きました」
「家の人たちです」
「ネフティスが、今のアビドスを監視しているんですね」
「そういうつもりでは――」
「ネフティスの後継者が、一人で散歩に来るとは思えません」
ノノミの笑みが止まった。
「……ご存じなんですか」
「十六夜家の名前くらいは。アビドスと一緒に大きくなって、状況が悪くなったら撤退した会社でしょう」
「はい」
「その娘が、何を見に来たんですか」
言葉には刺があった。
ノノミは逃げなかった。
「残っている人を、です」
「同情なら要りません」
「同情かどうか、まだ分かりません」
「分からない?」
「私は、家で教えられたアビドスしか知りません。失敗した事業と、回収できない費用と、撤退しなければならなかった土地。でも、ここにはまだ生徒がいると聞きました」
ノノミは、まっすぐ私を見る。
「だから、自分の目で見たかったんです」
「見たでしょう。砂と、壊れた道路と、閉じた校舎です」
「あなたもいます」
その言い方が、誰かに似ていた。
私は眉を寄せる。
「帰ってください」
「校舎まで見てもいいですか?」
「駄目です」
「では、明日また来ます」
「話を聞いていましたか」
「はい。今日は駄目だと」
「明日も駄目です」
「明後日は?」
「駄目です」
「では、また相談しますね~」
ノノミは丁寧に頭を下げた。
黒い車が、離れた交差点から近づいてくる。
迎えらしい。
その車へ乗る直前、ノノミは振り返った。
「小鳥遊ホシノさん」
「何ですか」
「残っていてくださって、ありがとうございます」
「……意味が分かりません」
車が去ってからも、その言葉だけが道路へ残った。
*
ノノミは、本当にまた来た。
一度ではない。
閉鎖前の中等部へ通いながら、休みのたびにアビドスへ来た。
最初は校門まで。
次は昇降口。
その次は、埃の積もった廊下。
私は追い返し続けた。
ユメは、そのたび歓迎した。
やがてノノミは、古い学園祭準備室へ入ることを許された。
今、対策委員会が使っている部屋だった。
ある日、ノノミは一枚の金色のカードを机へ置いた。
「これで、借金を返せます」
当時の私は、カードへ触れなかった。
「持って帰ってください」
「限度額は問題ありません」
「金額の話ではありません」
「これは私のカードです。お父様の許可がなくても使えます」
「だから駄目なんです」
私はカードをノノミの方へ押し戻した。
「ネフティスの後継者が払えば、会社はアビドスを自分たちの資産だと考えます。契約に書かれなくても、あなた自身がそう扱われる」
「私は、そんなつもりでは」
「あなたのつもりだけで、会社は動きません」
「では、どうすればいいんですか」
「何もしなくていいです」
ノノミの眉が下がる。
「私は、ここにいてはいけませんか?」
「あなたは卒業後、ハイランダーへ進むと聞いています。生徒会長の席も用意されているんでしょう」
「はい」
「そちらへ行ってください。アビドスには、あなたへ渡せるものがありません」
「私が欲しいのは、渡してもらうものではありません」
「なら、何ですか」
「一緒に残すものです」
ノノミは金色のカードをしまった。
泣かなかった。
「今日は帰ります」
丁寧に頭を下げ、準備室を出ていった。
私は、追わなかった。
数週間後。
廊下の奥で、ユメが大きな声を上げた。
私が駆けつけると、卒業証書を抱えたノノミが立っていた。
「中等部を卒業しました」
「それで?」
「今日から、進学先を自分で選べます」
「ハイランダーでしょう」
「いいえ」
ノノミは、砂の積もった廊下を見回した。
「アビドスへ来ます」
「話を聞いていましたか。ここには――」
「はい。何もないかもしれません」
ノノミが笑う。
「だから、一緒に作れます」
ユメがノノミを抱き締めた。
私は額へ手を当てた。
「勝手な人が増えた……」
「うれしいですか?」とノノミ。
「困っています」
「お顔は、少しうれしそうですよ~」
「見間違いです」
「では、これからよろしくお願いします、ホシノ先輩」
「まだ入学手続きが先です」
「はい、先輩」
「……好きにしてください、ノノミちゃん」
その日から、空席は一つ減ることになった。
*
――Kanata side
「カードを使わなかったのは、ホシノ先輩に止められたからです」
現在の食堂で、ノノミは金色のカードを机へ置いた。
昔と同じ輝き。
けれど今は、誰もそれを借金の答えとは見なさない。
「私はネフティスの娘です。でも、アビドスの生徒として返したい。そう決めて、ここへ来ました」
「どうして今まで言わなかったの?」とセリカ。
「家の名前で、みんなとの関係が変わるのが怖かったからです。それから……私自身が、家とどう向き合うのか決めきれていませんでした」
「ホシノ先輩は、どうして黙ってたんですか」とアヤネ。
「おじさんの秘密じゃないからねぇ」
ホシノは簡単に答えた。
「ノノミちゃんがここへ来た理由は知ってた。それで十分だったよ」
ノノミの目に涙が浮かぶ。
セリカが先に顔を背けた。
「泣くのは、全部終わってからにして。今泣かれると、私まで変になるから」
「はい……」
「あと、隠してたことには本当に怒ってるんだから」
「はい」
「でもノノミはノノミよ。そこは変わらない」
「……はい!」
シロコは金色のカードを一度見て、ノノミへ戻した。
「使わないなら、しまって。今は情報が欲しい」
「うんうん。そうですね」
アヤネが壁面モニターへ古い企業資料を出す。
セイント・ネフティス。
アビドスで創業し、自治区の物流、建設、鉄道を支えた巨大企業。
アビドスの最盛期には、学校と企業の成長を分けて語れないほど深く結びついていた。
「砂漠化が進み、人口と物流が減少。ネフティスは砂漠横断鉄道で状況を立て直そうとしました」
画面に、砂へ埋もれた高架と駅舎が映る。
「自治区を横断し、外部の物流路へつなぐ大規模事業でした。しかし工費が膨らみ、完成前に停止。損失を埋めようとしたことで、会社もアビドス生徒会もさらに傷を広げました」
「ネフティスが全部悪いわけじゃありません」とノノミ。
「はい。砂漠化と人口流出は、それ以前から進んでいます。ただ、鉄道計画の失敗とネフティス撤退が、衰退を決定的にしたのも事実です」
ホシノが続きを引き取る。
「学校へ残ったのは、返せない費用と、使えない設備と、誰もいない校舎。おじさんが入学した頃には、もうほとんど終わってた」
俺は、古い路線図を拡大した。
「今回の債券を持つと、どこまで動かせる?」
「土地は今もカイザーです」とアヤネ。
「ただし約款上、交通施設、物流設備、それに付随する開発権の一部を債権者が主張できます。範囲は古い契約の確認が必要です」
「一番大きいのは、この鉄道」
俺の指が、砂漠横断線をたどる。
旧駅。
車両基地。
整備庫。
砂に埋もれた支線。
「ネフティスは、止まった事業をもう一度動かそうとしてる?」
「分かりません」とノノミ。
「会社は長く休眠状態に近かったはずです。単独で、これだけの債券を買う余裕があるとも思えません」
「他のお金が入ってる」とシロコ。
「可能性は高いです」
午前八時十九分。
先生が食堂へ到着した。
全員から事情を聞き、買付記録と約款をシャーレへ複製する。
「まず、ノノミ本人と会社を分けて考えます」
先生は最初に言った。
「それから、債権を買っただけでアビドスの意思決定を自由にできるわけではありません。相手の権利と、こちらの権利を一つずつ確認しましょう」
「はい」
ノノミが頷く。
ホシノはテーブルの下で、俺の手へ指を触れた。
夢から覚めた直後とは違う。
一拍だけ。
そこにいると確認し、仕事へ戻るための接触。
「じゃあ、調べよっか」
声は柔らかい。
指示は短い。
「アヤネちゃんは権利範囲。シロコちゃんとセリカちゃんは対象施設の現況。ノノミちゃんは、家へ連絡できる経路を整理して。先生は外部の債権者情報をお願い」
「ホシノは?」とシロコ。
「古い生徒会記録を見るよ」
ホシノの視線が、廊下の先へ向く。
鍵の掛かった、昔の生徒会室がある方角。
「俺は?」と口にした。
「おじさんと一緒」
「理由は?」
「恋人だから」
アヤネが咳払いする。
「それは委員会の分担理由になりません」
「うへ~。厳しいなぁ」
ホシノは少し考える。
「旧路線の設備番号と、校内記録の照合。読めない機械図面があったら見てもらう」
「それなら適切です」
「結果は同じなのにねぇ」
「理由は大事です」
「はーい」
俺が笑う。
ホシノは、長い袖でその手をもう一度だけつついた。
*
同じ朝。
ハイランダー鉄道学園が管理する、使われなくなった倉庫。
古い備品の整理中、一つの木箱が崩れた。
中から、湿気で変色した書類束が落ちる。
作業員の生徒は、廃棄箱へ入れようとして手を止めた。
表紙に、二つの組織名がある。
セイント・ネフティス。
アビドス高等学校生徒会。
その下に、売買契約書と記されていた。
*
午前十時四十三分。
校舎の西で、爆発音がした。
窓ガラスが震える。
ホシノの声から、柔らかさが消えた。
「全員、装備。アヤネちゃん、位置」
「西北西、旧砂漠横断線です。距離三・八キロ。複数車両と工事機械を確認」
「所属は?」
偵察カメラの映像が拡大される。
砂の上へ、新しい枕木が並んでいた。
黒と黄色の車両。
その側面に、翼を広げた鉄道章。
「ハイランダー鉄道学園です」
止まっていた線路が、アビドスの許可なく動き始めていた。