――Hoshino side
「私が一人で行く」
午後九時八分。
ノノミの人質映像が消えた直後、私は全員へ命令した。
*
「駄目」とシロコ。
「駄目じゃないよ」
私の声は、もう柔らかかった。
柔らかすぎた。
「向こうが求めてるのは、旧アビドス生徒会の代表。今の対策委員会じゃない」
「ホシノ先輩だけを代表とは認めさせません」とアヤネ。
「先生の承認記録があります。私たち全員が、学校運営を継承しています」
「それは今の学校の話でしょ。ユメ先輩の契約に名前を重ねられるのは、当時の副会長だった私だけ」
「だったら、私たちも今の生徒会として行く」とセリカ。
「行かない」
短い言葉。
「敵は数百。先生はいない。ノノミちゃんは人質。列車砲まである。皆を連れていく理由がない」
「一人で行く理由にもなってない」とシロコ。
「私なら勝てる」
「勝てるかどうかじゃない」
「勝てなかったら、誰がノノミちゃんを連れて帰るの?」
「みんなで」とセリカ。
「みんなで負けたら?」
答えが止まる。
私は、その沈黙へ畳みかけなかった。
ただ、四人を順番に見る。
「ノノミちゃんが来なかったら、おじさんは今ここにいない」
中等部の制服。
金色のカード。
砂の積もった廊下で、アビドスを選んだ少女。
「何もなかった学校へ、ノノミちゃんが来た。シロコちゃんを一緒に拾った。アヤネちゃんとセリカちゃんが来るまで、学校を残してくれた」
「だから今度は、ホシノが一人で返す?」とシロコ。
「うん」
「ノノミは、それを望まない」
「望まなくても助けるのが先輩だよ」
カナタ君が、机の上へ紙を置いた。
交際二日目に作った、共同生活規則の写し。
危険情報を隠さない。
相手の安全を理由に、本人抜きで決めない。
一人で決めない。
「ここに、ホシノの署名がある」
「あるね」
「今、破ると言ってる」
「緊急時だよ」
「緊急時のために作った」
「君を連れていけない」
「俺は前へ出ると言ってない」
「後ろも安全じゃない」
「それを決めるのはホシノ一人じゃない」
「カナタ君は撃たれたら死ぬ」
声が鋭くなる。
「分かってる」
「分かってない。先生の部屋が一回爆発しただけで、病院へ運ばれた。君なら、瓦礫の下で終わる」
「だから安全圏で仕事をする」
「安全圏なんてない」
「それでも、嘘をついて置いていく理由にはならない」
私の目が動いた。
まだ、嘘はついていない。
カナタ君は、これからを言った。
「俺が怖いなら、怖いと言って。従わせるために、恋人を理由にしないで」
「……怖いよ」
私の声が落ちる。
「君が死ぬのが怖い。ノノミちゃんが帰ってこないのも怖い。皆が傷つくのも、先生が次に起きないのも怖い」
「俺も怖い」
「同じじゃない」
「違っても、一緒に決められる」
「できない」
即答。
「今回は、できない」
シロコが立ち上がった。
「なら、勝負」
全員がシロコを見る。
「前と同じ。私が勝ったら、ホシノは私たちを連れていく」
「負けたら?」
「残る」
「シロコちゃんだけ?」
「全員」
「勝手に決めないでよ!」とセリカ。
「ホシノが勝手に決めるなら、同じ方法で止める」
シロコは譲らない。
私は、ほんの少し笑った。
「強くなったね」
「まだ勝ってない」
「いいよ。屋上へ行こっか」
*
二年前の冬にも、二人は勝負をした。
行く場所も記憶もないシロコは、自分より強い者の言うことだけを聞くと言った。
私は勝った。
シロコはアビドスへ入り、先輩と呼んだ。
今夜の勝負は、その反対だった。
残るためでなく、一緒に行くための勝負。
屋上の照明が点く。
先生はいない。
アヤネが安全区域と中止条件を設定する。
セリカは救護器具。
カナタ君は防弾壁の内側。
私とシロコが、二十メートル離れて立つ。
「始めます」
アヤネの合図。
シロコが先に撃った。
三点射。
私の盾が受ける。
カナタ君の巻いた内側の布へ、衝撃が伝わる。
私は前へ出る。
シロコは距離を保ち、給水塔の陰へ移動。
足音を消し、角度を変え、盾の死角へ回る。
以前より速い。
迷いがない。
それでも、私の方が一歩早かった。
「左」
短い声。
シロコが反応する前に、盾の縁が銃身を押し上げる。
ショットガンの銃口が足元へ向く。
砂袋だけが弾けた。
シロコは転がって離れ、予備拳銃を抜く。
私の盾が、その手首を壁へ固定した。
「そこまで!」
アヤネが叫ぶ。
四十三秒。
シロコは拳銃を離した。
「負けた」
「うん」
「でも、次は勝つ」
「知ってる」
私は盾を下ろす。
「いつか、シロコちゃんの方が強くなるよ」
「その前に行くつもり?」
私は答えない。
*
「まだです!」
屋上から校庭へ下りると、アヤネが端末を掲げた。
「シロコさんとの勝負で、委員会全体の意思は拘束されません!」
「それ、先に言ってほしかったなぁ」
「先輩が勝手な理屈を使うからです!」
校庭の格納庫が開く。
三機の無人支援ヘリ、〈Watercloud〉。
砂害で長く使えなかった機体を、アヤネとセリカが一機ずつ直してきた。
三機目は、カナタ君が非常電源系だけを補助した。
ローターが回る。
「先生がいない以上、ここで止めます」とアヤネ。
「通しません!」とセリカ。
「二人とも、今なら降りられるよ」
「降りません!」
私の表情から、笑みが消えた。
「退いて」
三機が左右と上空へ分かれる。
一機目が制圧弾。
私は盾で受け、格納庫の死角へ走る。
二機目が進路を塞ぐ。
ローター下の風へ散弾を入れず、脚部の姿勢制御器だけを撃ち抜く。
機体が傾き、緊急着陸。
三機目は上昇し、後方から回る。
「高度を取って!」とアヤネ。
「分かってる!」
セリカが手動照準を補助する。
私は一機目へ接近し、盾をローター風へ立てた。
砂が舞う。
視界が白くなる。
その中で二発。
一機目の武装管制が停止。
私は機体を足場に跳び、三機目の腹部へ手を掛ける。
「嘘でしょ!?」
セリカの声。
機体が高度を上げる前に、私は点検蓋を開け、電源遮断索を引いた。
三機目も、校庭の砂へゆっくり降りる。
アヤネとセリカの端末が同時に暗くなった。
「三機、停止……」
アヤネの膝が崩れる。
負傷ではない。
止められなかった悔しさ。
「前にも、同じことをしました」
アヤネが顔を上げる。
「一人で全部決めて、私たちを残して。あの時、先輩を連れ戻したから、今の対策委員会があるんです!」
「うん。だから、今度は戻るよ」
「信じられません!」
「そうだよね」
私は否定しない。
「でも、ノノミちゃんは連れて帰る。列車砲も壊す。それで、皆は学校を守って」
「そんなの、最後の命令みたいに言わないで!」とセリカ。
「命令だよ」
声が硬い。
「アビドス生徒会副会長として。後輩は学校に残る。先輩が前へ出る」
「ユメ先輩は、そんな意味で言ってない!」
「セリカちゃんは、ユメ先輩を知らない」
一瞬。
言ってはいけない言葉が落ちた。
セリカの顔が傷つく。
私も気づいた。
それでも、謝らなかった。
謝れば、戻りたくなる。
「二人はアビドスの未来。ここにいて」
私は校舎へ戻った。
*
薬品庫の鍵は、アヤネちゃんが持っている。
救護箱の中には、医師の指示がある時だけ使う睡眠導入剤が二錠。
鍵の番号も知っている。
カナタ君の温かい飲み物へ入れれば、朝まで起きない。
シロコちゃんにも、セリカちゃんにも、アヤネちゃんにも使える。
そうすれば、誰も追ってこない。
安全な学校に置いていける。
考えただけで、吐きそうになった。
これは守ることではない。
本人の身体を、私の安心のために使うことだ。
私は薬品庫へ行かなかった。
救護箱にも触らなかった。
代わりに、もっと悪いことを考えた。
信じてもらう。
カナタ君が、私の言葉を信じることを使う。
*
午前零時十三分。
私は、旧生徒会室の鍵を開けた。
カナタ君が廊下で待っている。
「入らないの?」
「一人で入りたいなら、ここにいる」
「今日は、入って」
二人で中へ入る。
以前、二人で広げた水理帳簿は、棚へ戻っている。
ユメの砂祭り計画。
二人で写った写真。
古い生徒会印。
奥の金属棚だけは、まだ全てを開けていなかった。
私が私の鍵を差す。
中には、一年生の頃から使っていた装具がある。
濃色の戦闘上着。
予備弾帯。
古い通信器。
髪をまとめる黒い帯。
「これを使う?」
「うん」
私は今の制服の上から装具を着ける。
白い髪を後ろで束ねた。
眠そうなおじさんの形が、鏡の中から消えていく。
盾は、今の物を使う。
カナタ君が直した持ち手。
親指の豆へ合わせた、半周だけ厚い布。
私の手に、ぴたりと収まる。
「それを持っていくなら、約束も持っていって」
カナタ君が言う。
「後ろを見る。戻る。一人で決めない」
「覚えてるよ」
「守る?」
私は答えなかった。
「いつ出るつもり?」
「夜明け前。四時四十分に全員集合。南の旧整備路から駅へ近づく」
「一人で?」
「……皆で」
カナタ君は、私を見る。
青と金の目。
そこに嘘があるか、見つけようとする。
私は目を逸らさない。
「今から二時間、交代で休む。カナタ君は通信車。前には出さない」
「それなら従う」
「うん」
信じてもらえた。
胸の奥が痛む。
「上着」
私は借りていた濃紺の上着を脱ぐ。
何度も返し、何度も借り直した物。
丁寧に畳み、カナタ君へ渡す。
「今返すの?」
「戦闘で汚したくないから」
「帰ってから、また借りる?」
「うん。貸して」
「分かった」
もう一つ、嘘を重ねた。
「カナタ」
「何?」
「抱きしめて」
カナタ君の腕が止まる。
「これは、別れのため?」
「違うよ」
嘘。
「一緒に帰るため」
半分だけ、本当。
カナタ君は私の両腕へ触れる。
「嫌だったら止めて」
「止めない」
抱き締められる。
左耳を胸へつける。
鼓動。
温かい体温。
ここへ置いていく命。
私の腕が、背中へ強く回る。
「苦しい?」
「少し」
すぐ緩める。
「ごめん」
「いい。もう少し」
「うん」
一分。
二分。
私が離れる。
「キスしていい?」
「して」
「帰るための?」
「帰るための」
唇が触れる。
短くない。
それでも、別れの長さにはしない。
離れたあと、額を合わせる。
「四時四十分」
「うん」
「南の旧整備路」
「うん」
「待ってる」
「待ってて」
それが、一番ひどい嘘だった。
*
午前二時五十六分。
カナタ君は通信車の簡易寝台で目を閉じた。
眠ってはいない。
私を信じるために、休もうとしていた。
シロコ、セリカ、アヤネも、四時の再集合へ備えて別室にいる。
午前三時十二分。
南車庫から、無人の保守車が一台発進した。
車上端末には、私の予備発信器。
旧整備路を南へ進む。
アヤネの監視画面には、私が予定より早く偵察へ出たように映る。
同じ時刻。
私は西側の排水路を歩いていた。
発信器を外した端末。
古い通信器。
ショットガン。
盾。
黒い帯で束ねた髪。
学校を振り返る。
カナタ君がいる。
シロコちゃんがいる。
セリカちゃんとアヤネちゃんがいる。
ノノミちゃんだけがいない。
一人を連れ戻せば、元に戻る。
そう思いたかった。
午前三時二十六分。
カナタ君の端末に、予約メッセージが届いた。
『ごめんね。南は違うよ』
カナタ君が起き上がる。
同時に、アヤネの警報が鳴った。
『追わないで。ノノミちゃんと一緒に帰る』
最後に、一行。
『恋人だから、君は置いていく』
カナタ君は画面を握った。
怒りより先に、寒さが来た。
薬で眠らされたのではない。
拘束されたのでもない。
私で休むと決めた時間を、信じた言葉を、使われた。
濃紺の上着が、隣の椅子に畳まれている。
返却済み。
借りた物を残さず、私だけがいなくなった。
「小鳥遊ホシノ」
初めて、恋人の名を硬く呼んだ。
返事はなかった。