俺は後方通信車で、砂嵐に削られる映像を見ていた。
シロコの指先が、色彩へ触れる寸前。
先生はその手首を掴んだ。
「待ってください」
「先生。離して」
「あなたがホシノと同じものになる必要はありません」
「他に止められる人がいない」
ホルスが顔を上げる。
赤黒い環が回り、周囲の砂が鋭い刃へ変わった。
ノノミが前へ出る。
機関銃で刃を砕き、先生とシロコを守る。
砕けた黒砂が腕と頬を切る。
「先生、急いでください!」
セリカとアヤネがヒナを壊れた車両の陰へ運んでいる。
ヒナの呼吸はある。
ヘイローも消えていない。
ただ、呼びかけへの反応がない。
先生はシッテムの箱を見る。
「プラナ。シロコが触れようとしているものを利用できますか」
『色彩は、接触した神秘を恐怖へ転じます』
「このシロコではなく、すでに転じたシロコへつなげることは」
プラナが計算を始める。
アロナが横から覗き込んだ。
『向こう側のシロコさん……?』
『座標が存在しません。ですが、色彩が観測した記録は残っています』
「記録を道にしてください」
『通常の転送規則では不可能です』
「地下生活者は、通常の規則だけでこちらを攻撃していますか」
プラナは沈黙した。
『いいえ』
「なら、こちらも別の道を探しましょう」
シロコが先生の手を見る。
「私にできることは?」
「呼んでください。あなたが一人で変わるのではなく、助けを求めるために」
「……ん」
先生が手を離す。
シロコは色彩へ掌を向けた。
「聞こえるなら、来て」
白くない光が広がる。
*
ここからは、戦いの後に先生が話してくれたことだ。
先生は、乾いたオアシスに立っていた。
先ほどまでの戦場はない。
赤い空も、ホルスもいない。
明るい昼。
まだ水の残っていた頃の大オアシス。
遠くで、二人の生徒が穴を掘っている。
一人は白い髪を短く結び、険しい顔で測量棒を持っていた。
もう一人は背が高く、長い髪を汗で頬へ貼りつかせながら、楽しそうに手を振る。
「先生!」
知らないはずの少女が、先生をそう呼んだ。
「こっちです! もう少しで宝物が出ますよ!」
先生は歩こうとする。
足が動かない。
過去へ入ることはできない。
二人へ届くこともできない。
長い髪の少女だけが、いつの間にか目の前に立っていた。
「悲しそうな顔ですね」
「助けられなかった生徒がいます」
「今から助けに行くんですか?」
「はい。でも、間に合わないかもしれません」
「それなら、急がないと」
「あなたのことも、助けられませんでした」
少女は首を傾げる。
「先生は、私が困っていた時にいたんですか?」
「いませんでした」
「じゃあ、先生のせいじゃありません」
簡単に言って、笑う。
先生は、その笑顔が誰なのか知った。
「ユメ」
「はい。ホシノちゃんの先輩です」
胸を張る。
少しだけ頼りない。
「過去へ戻ることはできません。手を伸ばしても、届かないことがあります」
「それでも、伸ばしたんですよね」
「はい」
「なら、十分です」
「十分ではありません」
「小さいことは、その時には小さいままです。でも、何度も重なると、いつか大きな奇跡になるかもしれません」
ユメは後ろを振り返る。
一年生のホシノが、遠くから何か怒鳴っている。
「あ。また奇跡って軽く言うなって怒られそう」
困ったように笑う。
「先生。苦しんでいる子を助けに行くんでしょう?」
「はい」
「なら、行ってください」
景色が白くなる。
「ホシノちゃんを、よろしくお願いします」
最後の言葉だけが残った。
*
先生は、盤上の前に立っていた。
無数の駒。
書き換えられた規則書。
向かい側に、地下生活者がいる。
『なぜ、ここにいる』
「生徒が呼んだからです」
『勝負は終わった。神秘は恐怖へ反転した。死者が生き返らないように、それは戻らない』
「まだ、ホシノはそこにいます」
『存在しない真実を、真実と呼ぶつもりか』
「あなたの問題に答えるために、生徒を使わせません」
地下生活者が規則書を開く。
『盤外から駒を持ち込むことはできない』
「あなたも盤外にいる」
先生の背後で、黒い光が裂けた。
プラナの声。
『強制転送座標、固定』
地下生活者が振り返る。
『何をした』
「助けを呼びました」
黒い裂け目から、一人の少女が落ちてくる。
黒い外套。
長い白髪。
黒く変じたヘイロー。
砂狼シロコと同じ顔をして、より長い時間を失った目。
少女は着地すると、先生を見た。
「……先生」
「来てくれて、ありがとうございます」
「これは」
「あなたにしか頼めないことがあります」
地下生活者が声を荒らげる。
『規則違反だ!』
プラナは淡々と答えた。
『あなたの規則に、同意していません』
世界が反転した。
*
赤い砂漠へ、黒い少女が現れた。
シロコの前に立つ。
二人の顔が向き合う。
「私……?」
「違う」
黒いシロコは短く答えた。
「私は、失敗した後のあなた」
視線をホルスへ移す。
「そして、あれを知っている」
ホルスが黒い少女を認識した。
初めて、明確な敵意を向ける。
赤い光が収束する。
「伏せて!」
黒いシロコが銃を抜く。
銃声と赤光が正面から衝突した。
地面が割れる。
先生たちは車両の陰へ退避する。
黒いシロコだけが、爆心へ向かって歩いていた。
「どうして平気なの」とシロコ。
「平気じゃない。慣れているだけ」
ホルスが腕を振る。
空へ昇っていた砂が巨大な刃となり、降る。
黒いシロコは一発ずつ撃ち落とす。
全ては狙わない。
自分へ当たるもの、先生へ届くもの、倒れたヒナへ向かうものだけ。
残りは地面へ刺さる。
爆発の間を抜け、距離を詰める。
ホルスの盾に似た黒い障壁へ、銃口を押し当てた。
三発。
亀裂。
背後へ回る。
ホルスも振り返り、赤い腕で黒いシロコを打つ。
少女の身体が岩壁へ飛ぶ。
崩れた石の中から、すぐに立ち上がる。
「痛くないの?」とセリカ。
「痛い」
「じゃあ、どうして」
「痛くても、止まれない時を知ってるから」
黒いシロコは再び走る。
ホルスの攻撃を避けるのでなく、受ける場所を選ぶ。
肩。
外套。
左腕。
致命になる中心だけを外し、前へ進む。
それはホシノとよく似た戦い方だった。
違うのは、一人で終わらせようとしていないこと。
「シロコ。三秒後、右へ撃って」と黒い少女。
「ん」
現在のシロコが照準する。
「ノノミ、正面」
「はい!」
「セリカ、左の砂を散らして」
「命令しないで! やるけど!」
「アヤネ、先生を下げて」
「分かりました!」
四人の攻撃が、同じ瞬間に入る。
黒砂の障壁が歪む。
黒いシロコが内側へ入った。
ホルスの胸へ、掌を当てる。
「先輩。もう十分」
赤黒いヘイローが大きく揺れた。
黒い少女の銃口が、その中心を捉える。
撃たない。
代わりに、銃床で胸部の光を打った。
ホルスが地面へ落ちる。
赤い環が停止した。
空の奥にいた巨大な影も、動きを止める。
*
後方の俺は、通信画面に現れた新しい反応を見ていた。
シロコと同じ識別波形。
けれど、位相が逆。
説明を求める余裕はない。
「ホシノ。こちら汐見カナタ。聞こえたら返事をして」
十一回目。
返事なし。
「今、戦闘反応が止まった。皆は生きてる。ヒナも呼吸がある」
十二回目。
返事なし。
赤色領域の干渉で無線が落ちる。
俺は有線の保線回路へ切り替えた。
通信車から旧駅まで残る銅線。
そこからアヤネの支援端末へ、細い一本をつなぐ。
音質は悪い。
それでも声は届く。
「ホシノ。帰る場所は減ってない」
十三回目。
*
「終わった?」
セリカが、倒れたホルスを見た。
黒いシロコは首を横に振る。
「止めただけ」
「元へ戻すには?」と先生。
「無理」
「そんな言い方――」
「私が来た理由は、あのヘイローを壊すため」
シロコが黒い自分の前へ立つ。
「駄目」
「他に方法がない」
「探す」
「探している間に、また動く」
「それでも」
シロコは退かない。
ノノミとセリカも並ぶ。
アヤネは先生の側で、解析画面を開く。
「待ってください。胸元に、さっきまでなかった反応があります」
ホルスの黒い装甲の内側。
まだ形になりきらない、四角い光。
濡れた紙を何枚も重ねたような輪郭。
黒いシロコが目を細める。
「ノート」
「ユメ先輩の?」とノノミ。
「本物ではない。ホシノの中に残っている形」
「それがあれば戻せますか」
「分からない。でも、完全には反転していない」
先生はプラナを見る。
「内側へ声を届けられますか」
『シッテムの箱の演算領域を過負荷状態にすれば、現実と非現実が混在する領域を一時的に構築できます』
「危険は」
『アロナ先輩の処理能力が不足しています』
『むむっ、先輩なのに情けないです……』
アロナが唇を尖らせる。
プラナは、その手を見た。
『私の演算資源を渡します。その間、休眠します』
『プラナちゃん』
『少し、怖いです』
アロナが両手でプラナの手を握る。
『大丈夫。ちゃんと起こします』
『はい』
現実では、ホルスの指が動いた。
黒いシロコが銃を構える。
「時間がない」
倒れていたヒナが、片腕をついて身体を起こした。
「私も……押さえる」
「動かないでください!」とアヤネ。
「寝ていたら、また逃げるでしょう」
ヒナは血を拭い、ホルスの右側へ立つ。
シロコとセリカが左腕。
ノノミが正面の黒砂を制圧。
黒いシロコがヘイローの動きを止める。
先生が手を伸ばす。
「私一人では、ホシノの痛みを理解できません」
「先生?」
「大人だから分かるとは言えない。恋人だから分かるとも言えない。ユメを知っているから全部分かるとも言えない」
アヤネの支援端末から、雑音混じりの声がした。
『ホシノ。こちら汐見カナタ。聞こえたら返事をして』
先生が続ける。
「だから、全員で手を伸ばします」
黒いシロコが、先生を見る。
「私も?」
「あなたも、対策委員会の一人です」
黒い少女は少し考え、外套の内側から紙袋を出した。
覆面水着団の目出し袋。
現在のシロコが以前渡した物。
頭へ被ろうとする。
「今はそれじゃない!」とセリカ。
黒いシロコは手を止める。
「違った」
「違うわよ!」
ほんの一瞬だけ、皆の呼吸が同じになる。
プラナの演算が始まった。
白い光が先生の手から広がり、五人の生徒、もう一人のシロコ、遠くの通信線を包む。
ホシノの胸にあるノートの輪郭が、ゆっくりと開いた。