――Hoshino side
古い生徒会室には、出口がなかった。
窓の外は砂嵐。
扉を開けても、同じ部屋へ戻る。
机の上にあったノートは、もう形を失っていた。
濡れた紙の山。
一枚拾う。
文字は滲んでいる。
次の一枚も。
次も。
私は床へ膝をつき、何度も頁を裏返した。
「どこ」
ユメが残した言葉を探す。
シェマタを壊して。
アビドスを守って。
私の代わりに責任を取って。
そう書かれた一行があれば、ここまで来たことに意味ができる。
誰かを置いてきたことも。
嘘をついたことも。
カナタ君の信頼を使ったことも。
全部、ユメの願いのためだったと言える。
けれど、どの頁にも何もない。
「書いてよ」
滲んだ紙へ言う。
「私に、何をしてほしかったの」
返事の代わりに、机の向こうで椅子が動いた。
アヤネが座っている。
現在の制服。
腕には生徒会長の臨時腕章。
「ホシノ先輩」
「アヤネちゃん」
「帰ってきてください」
「命令?」
「はい。生徒会長命令です」
迷わず言い、すぐに目を伏せた。
「……本当は、命令なんてしたくありません」
「じゃあ、しなくていいよ」
「先輩が命令じゃないと聞かないからです!」
机を叩く。
泣いている。
「会長になったのは、先輩を追い出すためではありません。一人で学校を解散させないためです。特別書記にしたのだって、戻ったら毎日報告書を書いてもらうためで……」
「多くない?」
「多くします! 無断離脱報告、虚偽経路報告、装備持出報告、後輩への発砲報告!」
「おじさん、腱鞘炎になっちゃうよぉ」
「なってください!」
怒鳴った後、アヤネの姿は砂へ消えた。
代わりに、セリカが立っている。
「先輩の馬鹿!」
「うへぇ。会ってすぐそれ?」
「今度こそ言わせてもらうわよ。私、ユメ先輩のこと知らない」
「うん」
「だから何よ!」
セリカは涙を拭う。
「知らない人の話を、知ってるふりはできない。でも、先輩が話したら聞ける! 先輩が好きだった人なら、私だって覚えられる!」
「好きだったって、言ったっけ」
「あれだけ引きずってて、嫌いなわけないでしょ!」
「……そうだねぇ」
「勝手に私たちの未来を決めないで。私、先輩に残されたいなんて言ってない!」
セリカも消える。
ノノミが、紙の山のそばへ座った。
「先輩。見つかりませんね」
「うん」
「一緒に探しましょうか」
「これは、私が探さないと」
「どうしてですか?」
「ユメ先輩が私に言ったから」
「では、探すのを手伝ってはいけないとは言いましたか?」
私は黙る。
ノノミが一枚ずつ、濡れた頁を広げる。
「私も、家のことを一人で決めようとしました。皆を巻き込みたくなかったから」
「ノノミちゃんは悪くないよ」
「先輩も、同じ言葉が欲しいですか?」
優しい声だった。
「……分からない」
「私は悪くないと言ってもらっても、選んだことはなくなりません。ですから、一緒に後始末をしてください」
「会社も、カードも?」
「はい。私が選んだ学校ですから」
ノノミの姿が消える。
次にシロコが来た。
濡れた紙を拾わず、私の前へしゃがむ。
「ホシノ。帰ろう」
「ノートがない」
「探す」
「見つかるまで帰れない」
「学校で探せる」
「ここにしかないんだよ」
「ここは、ホシノの中」
シロコは私の胸を指す。
「持って帰れる」
「簡単に言うねぇ」
「簡単じゃない」
その隣に、黒い外套のシロコが現れた。
手には、見覚えのある銃が何本もある。
失った仲間たちの武器。
「過去は捨てた方がいい」と黒いシロコが言う。
私は銃を見る。
「それ、捨てられる?」
黒い少女は答えない。
「持ってるんでしょ。皆の分」
「……持っている」
「忘れられない?」
「忘れない」
「じゃあ、おじさんにも無理だよ」
黒いシロコは、長い沈黙の後に頷いた。
「無理に捨てなくていい」
「さっきと言ってること違わない?」
「訂正する。過去を持ったまま、今の方角へ歩けばいい」
現在のシロコが続ける。
「重かったら、皆で持つ」
「これ、すごく重いよ」
「ん。ホシノの盾よりは軽い」
「あの盾、持てなかったくせに」
「今は前より持てる」
二人のシロコが消える。
部屋の隅に、ヒナが立っていた。
壁へ背を預け、怪我をした翼を畳んでいる。
「あなたの後輩たち、シェマタを止めたわ」
「……本当に?」
「ええ。あなたより先に」
「嫌な言い方だねぇ」
「必要でしょう」
ヒナは目を閉じる。
「任せられた。だから、あなたが死んで埋める仕事は残っていない」
「ユメ先輩の死は」
「あなたが死んでも、説明にはならない」
「分かってる」
「分かっている人は、こんなことをしない」
「厳しいなぁ」
「あなたも、昔はそうだった」
ヒナの姿が薄くなる。
「戻ったら、もう一度戦う?」と口にした。
「嫌よ。眠いもの」
「おじさんも」
「なら、早く終わらせなさい」
消えた。
机の上に、先生の手が置かれる。
「皆、帰るように言うんだね」
「待っていますから」
「先生も?」
「はい」
「でも、私は戻っても、いい先輩にはなれないよ」
「なる必要はありません」
「酷いなぁ」
「失敗したら謝って、次に変えてください。先輩である前に、一人の生徒です」
先生は濡れた紙を見る。
「ノートの中身が分からない」
「私にも分かりません」
「先生でも?」
「私はユメに会った時間より、あなたが一緒にいた時間の方がずっと長い」
先生は、白紙を一枚拾う。
「ユメなら何を書くか。一番知っているのは、ホシノではありませんか」
「私が作った答えじゃ、意味がない」
「完全な真実だとは言いません。ですが、あなたがユメと過ごした時間まで偽物になるわけではありません」
白紙が、手の中で少し乾いた。
「探している物は、死者からの命令ですか。それとも、過ごした時間の記録ですか」
私は答えられない。
先生も消える。
最後に残ったのは、雑音だった。
『――シノ。こちら――見カナタ』
旧い保線回線の声。
「カナタ」
『聞こえたら――事をして』
「聞こえるよ」
返事は届かない。
これは一方向だ。
『皆は――きてる。ヒナも――吸がある』
「うん」
『帰る場所は――ってない』
私は目を閉じる。
カナタ君は許すと言わなかった。
ユメは許しているとも言わなかった。
好きだとも、今は言わない。
ただ、生きている。
場所がある。
帰れば怒る。
それが、未来だった。
「私、帰ってもいいのかな」
雑音。
『ホシノ。十六回目。俺は――方通信車にいる』
「十五回も無視したんだ」
『生きてる』
「知ってる」
『帰ったら怒る。だから――ってこい』
私は顔を覆った。
「怒られたくないなぁ」
それでも、少し笑った。
*
濡れた紙の山から、一冊のノートが現れた。
古いアビドスの校章。
角が擦れ、何度も砂を払った跡。
私は触れる。
今度は崩れなかった。
最初の頁を開く。
大オアシスの探索地点。
一番から十二番まで、全部に大きな×。
余白に丸い文字。
『次の人は、十三番から探せます!』
次の頁。
砂漠横断鉄道の収支計算。
桁が一つずれ、上から私の硬い字で訂正されている。
『ホシノちゃんにまた怒られました。でも、直してくれたので大丈夫!』
次。
『ノノミちゃんが来てくれました。ホシノちゃんは嬉しそうじゃない顔で嬉しそうです』
「どんな顔だよ」
涙で文字が滲む。
頁をめくる。
『いつかホシノちゃんが三年生になったら、後輩にちゃんと優しくできるでしょうか』
下に小さく続く。
『たぶん、できると思います。ホシノちゃんは、怒りながら最後まで一緒にいてくれるから』
最後に近い頁。
『鉄道の残りのお金を預けてきます。帰ったら、また計算を見てもらいます』
『それから、ちゃんと言います』
次の行は空白だった。
何を言うつもりだったのか、書かれていない。
ありがとうかもしれない。
ごめんかもしれない。
また一緒に探そうかもしれない。
私が望んだ命令は、どこにもなかった。
シェマタを壊せとも。
学校のために死ねとも。
私の代わりに生きろとも。
書いてあるのは、失敗した穴と、間違えた計算と、次にする話ばかりだった。
「ユメ先輩」
名前を呼ぶ。
「こんなの、ずるいよ」
「何が?」
目の前に、ユメがいた。
長い髪。
大きな背。
困るほど明るい笑顔。
私は立ち上がり、抱きついた。
勢いで椅子が倒れる。
「わっ。ホシノちゃん、力が強いよ」
「うるさい」
腕を緩められない。
「ごめんなさい」
「うん」
「最後に怒って、ごめんなさい」
「うん」
「見つけるのが遅くて、ごめんなさい」
「うん」
「私、いい先輩になれなかった」
「それは、私が決めることじゃないよ」
ユメが背中を撫でる。
「後輩たちに聞いた?」
「聞くの、怖い」
「じゃあ、帰って聞かないと」
「怒ってるよ。皆」
「ホシノちゃんも、私によく怒ってたよね」
「今は、その話してない」
「怒れるのは、次に話すつもりがあるからだよ」
ユメの身体が、少しずつ光へ変わる。
「待って」
「待ってる人がいるでしょう?」
「でも、私が行ったら、ユメ先輩がいなくなる」
「私は、もういないよ」
私は息を止めた。
ユメは悲しそうにせず、同じ笑顔で言った。
「ホシノちゃんがここに残っても、生き返らない。だから、私を生きる理由にしなくていい」
「忘れろってこと?」
「忘れないで」
即答だった。
「わがまま」
「先輩だからね」
「先輩なら、後輩を置いていかないでよ」
「ごめんね」
初めて、ユメが謝った。
私の涙が止まらなくなる。
「ありがとうって、言ってない」
「今、言えるよ」
「ありがとう」
「うん」
「大好きだった」
「知ってる」
「私、どうしたらいい」
「ホシノちゃんがしたいことをして」
後輩を守れという命令ではなかった。
学校を残せという遺言でもない。
死んだ先輩のために生きろとは、言わない。
私は、私のしたいことを考えた。
アヤネの報告書を手伝う。
セリカへ謝る。
ノノミと家の問題を片づける。
シロコの次の決闘を受ける。
ヒナと昼寝をする。
先生に、勝手をしたことを叱られる。
カナタ君の前へ帰る。
脈を確かめる前に、私が生きていると答える。
怒られる。
許してもらえるまで話す。
また濃紺の上着を、借りていいか聞く。
「帰りたい」
私は言った。
「ユメ先輩のためじゃない。私が、皆といたいから」
ユメが頷く。
「行ってらっしゃい、ホシノちゃん」
「……行ってきます、ユメ先輩」
抱いていた身体が光になる。
寂しさは消えない。
腕の中は空になる。
それでも私は、ノートを胸へ抱いて、出口のない扉を開いた。
今度は、砂漠へつながっていた。
*
ホルスのヘイローが再び回転する。
「来ます!」
アヤネが叫ぶ。
セトの憤怒が空を覆い、巨大な光を地上へ向けた。
シロコ・テラーがホルスのヘイローへ銃口を向ける。
「間に合わない」
「待ってください」と先生。
ホルスの胸にあったノート形の光が開く。
赤黒い装甲へ、青と金の色が戻った。
白い髪が落ちる。
足が地面へ触れる。
私は倒れかけ、そばに落ちていた盾の持ち手を掴んだ。
内側の布が、手のひらへ触れる。
「遅くなって、ごめん」
盾を頭上へ上げる。
セトの光が落ちた。
衝撃が砂漠を押し潰す。
私の膝が沈む。
盾の亀裂が広がる。
「ホシノ先輩!」
ノノミが背中を支える。
シロコとセリカが左右から盾へ手を添える。
ヒナが翼で光を逸らす。
シロコ・テラーが障壁の弱点へ撃つ。
先生の手元で、プラナの演算が完了した。
『指揮接続数の制限を解除します』
地下生活者の声が空から響く。
『六を越える指揮は成立しない! 規則にない!』
先生は大人のカードを取り出した。
「生徒が危険な時に、あなたの遊びへ付き合うつもりはありません」
アヤネの管制画面へ、全員の位置が同時に表示される。
シロコ。
ノノミ。
セリカ。
私。
ヒナ。
シロコ・テラー。
後方のアヤネ。
橘姉妹の列車支援。
すべてが一つの指揮へつながる。
「反撃します」
先生の声。
ノノミが正面の装甲を削る。
セリカが露出した関節へ撃つ。
シロコが光源の収束点を抜く。
ヒナの砲撃が外殻を割る。
シロコ・テラーが亀裂の奥へ弾丸を通す。
私は盾で全員の前を守りながら、一歩ずつ進む。
「おじさん、寝起きなんだけどなぁ」
「後で好きなだけ寝てください!」とアヤネ。
「本当に?」
「報告書を書いてからです!」
「うへぇ」
いつもの声が出た。
セトの憤怒が二度目の光を集める。
先生が合図する。
全員の射撃が一点へ重なった。
赤い空へ亀裂が走る。
巨大な影が崩れ、光の粒となって消えた。
地下生活者の規則書が、遠い場所で燃える。
『認めない。これは勝利ではない。規則の――』
声も途切れた。
赤黒い空がほどける。
東の地平が、白く明るくなっていた。
本当の夜明けだった。
*
『ホシノ。十七回目。こちら汐見カナタ』
壊れかけた支援端末から声がした。
私は盾へ額をつけたまま、手を伸ばす。
アヤネが端末を渡した。
「聞こえるよ」
向こうで、大きく息を吸う音。
『ホシノ?』
「うん」
『今どこにいる』
「大オアシスの手前。皆といる」
『怪我は』
「いっぱい」
『呼吸は』
「してる」
『意識は』
「あるよ」
『自分の名前を言って』
「小鳥遊ホシノ。アビドス高等学校三年生。対策委員会の……特別書記」
セリカが泣きながら笑った。
『分かった』
「カナタ」
『いる』
「帰るね」
『待ってる』
「怒ってる?」
『すごく怒ってる』
「そっかぁ」
私は目を閉じた。
眠るためではない。
涙を落とすためだった。
「それなら、ちゃんと帰らないとね」
東の空へ、青い光の粒が昇り始める。
砂の下に残っていた鉱物が、戦いの電気と熱へ反応している。
小さな星のように弾け、夜明けを埋めた。
ユメが探していた宝物だった。
けれど私は、今だけは拾わなかった。
帰る相手の声を、両手で持っていた。