砂の海に、君が流れ着く   作:陽炎帽子

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帰る方角のない朝

 ――Hoshino side

 

 止まっていた時計が動き出してから、一時間と四十三分後。

 私はカナタ君の肩で目を覚ました。

「……うへ?」

 開いた目が、まず正面の置き時計を見る。

 次に、私の頭が乗っている場所を見る。

 最後に、袖をつかんだままの右手を見る。

 カナタ君は何も言わず、時計のねじを布の上へ並べていた。

「おはよう」

「お、おはよ~」

「よく寝てたな」

「そうかなぁ。おじさん、ちょっと目を閉じてただけだと思うけど」

「一時間四十三分」

「時計、直ったんだね」

「話を逸らした」

「いやぁ、優秀な時計だなと思って」

 私は肩から離れようとした。

 だが袖をつかんだ指が残っている。

 私で気づき、一本ずつほどいた。

「ごめんね。腕、重かった?」

「少し痺れた」

「起こしてくれればよかったのに」

「起こす理由がなかった」

「ふうん」

 私はソファへ戻らず、カナタ君の隣に座ったままだった。

 

 横目でカナタ君の肩を見る。

「寝心地は悪くなかったよ」

「それはどうも」

「もう少し柔らかいと、さらに高評価かなぁ」

「人の肩に注文をつけるな」

「今後に期待してます」

 今後。

 自然に口から出た言葉だった。

 二人とも一瞬だけ黙る。

 私は誤魔化すように置き時計を持ち上げた。

「これ、委員会室に置いていい?」

「元からここの時計だ」

「じゃあ決まり。今日から、おじさんのお昼寝時間を正確に測ってもらおう」

「仕事の時間を測れ」

「うへぇ。時計って残酷だねぇ」

 部屋の外から、足早な靴音が近づいた。

 アヤネが扉を開ける。

「ホシノ先輩、汐見さん。連邦生徒会の外縁交通管理局から回答が届きました」

 カナタ君が立ち上がる。

 さっきまでの空気が、時計の音だけを残して消えた。

 

      *

 

 ――Kanata side

 

 回答書は、全部で十一枚あった。

 アヤネは印刷した紙を長机へ並べ、端末にも同じ内容を表示した。

 対策委員会の五人と、机を囲む。

「まず、キヴォトス全域の住民記録、学籍、船舶、港湾、外縁交通記録を照合した結果です」

 アヤネは一枚目を指した。

「汐見カナタ、汐見宗一、汐見澪。いずれも該当なし。凪津港、凪津海洋技術校、白鴎丸も同様です。類似名や旧名にも、有力な候補はありませんでした」

 知っていた結果だった。

 それでも、各機関の印が並んだ正式な書面で見ると重さが違う。

 

 俺は左手の痕を親指でなぞった。

「通信記録は」

「認識票に刻まれた周波数、港湾識別番号、電話番号をすべて照会しました。現在のキヴォトス規格では使われていない形式です。変換して発信も試みましたが、応答先自体が確認できません」

「海難事故の記録は?」

「同じ日時、キヴォトス近海に大型の砂嵐は発生しています。ただし、白鴎丸の遭難も、未確認船の救難信号も記録されていません」

 俺は書面へ手を伸ばし、途中で止めた。

「つまり、船が沈んだ記録すらない」

「キヴォトス側には、です」

「俺の言った場所は、どこにもない」

「現時点の資料上は」

 アヤネは、断定を避けた。

 優しさではなく、調査する者の誠実さだろう。

「排水路については?」とホシノ。

 先ほどまでの眠そうな声とは違った。

「旧第七排水路の図面を、アビドスの保管記録と交通管理局の地下構造図で再照合しました。運河の取水元は、自治区北西部にあった内陸湖です。海へ接続した記録はありません」

「湖はもうない」とシロコ。

「はい。砂漠化の初期に干上がっています。地下水路も複数箇所で崩落し、現在はほぼ分断されています」

「それなら、カナタはどこから来たのよ」

 セリカが紙を睨む。

「分からない、が回答です」

 アヤネは最後の書面へ視線を落とした。

「外縁交通管理局は、異常気象に伴う未確認転移事例の可能性を否定できないとしています。ただし再現性がなく、出発地点も不明。帰還経路の算定は不能です」

 算定不能。

 短い四文字だった。

 帰れない、とは書かれていない。

 

 帰れるとも書かれていない。

 

 どちらへ進めばよいか分からないという意味では、壊れた方位磁針と同じだった。

「保護申請については」

 アヤネが続ける。

「国籍、学籍、所属自治区の確認ができないため、通常の生徒保護制度には登録できません。連邦生徒会の行政機能が正常化するまで、発見した自治区が緊急保護を継続するように、との暫定回答です」

「じゃあ、ここにいていいってこと?」

 セリカが尋ねた。

「追い出す必要はありません。ただし正式な身分証も、学籍も、生活補助も発行されません。費用と責任はアビドス側が負います」

「責任なら、おじさんが取るよ」

 ホシノはすぐ答えた。

「先輩個人ではなく、委員会として決める必要があります」

「そうだね」

 返事は柔らかい。

 だがホシノの視線は、書面ではなく俺へ向いていた。

「カナタ君」

「何だ」

「大丈夫?」

「何が」

「……そっか」

 大丈夫ではないと見抜いた時、ホシノは追及しない。

 

 それを俺は、もう知っていた。

「一度、排水路を見たい」

「ダメ」

「中へ入るとは言ってない」

「本当に?」

「入口を確認するだけだ。海水の跡も、俺が流れ着いた場所も、まともに見ていない」

 初日は意識を失い、担架で運ばれた。

 

 記憶にあるのは、砂の上から見上げたホシノの顔だけだ。

「行って何もなかったら?」

「何かあるかもしれない」

 答えになっていない。

 ホシノは目を細めた。

「私も行くよ」

「先輩だけでは、客観的な記録が残せません。私も同行します」

 アヤネが言う。

「私も」とシロコ。

「三人もいらない」

「カナタ一人よりは必要」とシロコ。

「俺を数に入れると話がおかしくなる」

「入れる。要救護者だから」

「まだその扱いなのか」

「ヘイローが生えるまで」

「一生かかる」

「なら一生」

 シロコは真顔だった。

 セリカが吹き出し、すぐ口元を押さえた。

「ご、ごめん。でもシロコ先輩、それじゃ一生面倒見るみたい」

「問題ある?」

「そういう話じゃなくて!」

 わずかに空気が緩む。

 俺だけは笑えなかった。

 一生。

 今の自分には、明日よりも根拠のない言葉だった。

 

      *

 

 ――Hoshino side

 

 帰れないかもしれない。

 

 その可能性を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 ほんの一瞬。

 息がしやすくなった。

 明日、知らない港が見つかって、カナタ君が帰ってしまうことはない。

 

 向かいの部屋が空になることもない。

 鯨の水筒が返されることも、肩の温度が消えることもない。

 明日も玄関で「おかえり」と言ってもらえる。

 そう思ってしまった。

 次の瞬間、私がひどく嫌になった。

 カナタ君の父と母は、息子の帰りを待っている。

 

 船に乗っていた十七人の安否も分からない。

 カナタ君は家族へ、生きていると伝えることさえできない。

 

 そのことを、よかったと思った。

 眠そうな笑顔を作るのは簡単だった。

 何年も練習した。

 相手に力を抜かせ、私の中を見せないための顔。

「カナタ君。大丈夫?」

 大丈夫ではない。

 

 返事で分かった。

 それでも、今は触れられなかった。

 手を伸ばせば、ここにいてほしいという願いまで伝わりそうだった。

 だから排水路へ一緒に行く。

 

 帰る道が見つからないように、ではない。

 

 見つかった時、私が隠してしまわないために。

 カナタ君が帰れる可能性を、ちゃんとカナタ君へ渡すために。

 

 そのうえで、選んでほしい。

 今はまだ、何を選んでほしいのか、私でも言葉にしないまま。

 

      *

 

 ――Kanata side

 

 旧第七排水路は、初日に見た時よりさらに乾いていた。

 濡れていた砂は風に削られ、薄い塩の筋だけがコンクリートに残っている。

 排出口の前には、アヤネが設置した黄色い規制テープが張られていた。

「水位計の反応は、あの日以降ありません」

 アヤネが携帯端末を金網へ近づける。

「内部の温度、湿度とも周囲とほぼ同じです。水の流れる音もありません」

 シロコは排出口の前へしゃがみ、砂を払った。

「破れた金網。内側から力がかかってる」

「カナタが押した?」

 ホシノが尋ねる。

「覚えてない」

 俺は金網のねじれを見た。

 細い鉄線には、初日に着ていた濃紺の上着と同じ布が残っている。

 少なくとも、自分がここを通ったことは確かだ。

 排出口の内側は、数メートル先で暗闇に沈んでいた。

「照明を」

 アヤネが小型灯を向ける。

 丸い水路の底に、砂と折れた配管が積もっている。その先は天井が崩れ、完全に塞がれていた。

「崩落は古い」とシロコ。

「はい。断面に新しい破砕跡はありません」

「じゃあ、俺はどうやって」

 俺は規制テープをくぐった。

 すぐ肩をつかまれる。

「入口から見るだけって言ったよね」

 ホシノだった。

「奥まで行かない。金網を調べる」

「私がやる」

「俺の服が引っかかってる。通った角度が分かるかもしれない」

「カナタ君」

「一歩だけだ」

「ダメ」

 声が低い。

 肩をつかむ手にも力がある。

「ここは崩落区画。君にはヘイローがない。上から小石が落ちただけでも怪我をする。私が調べる」

「自分のことだ」

「だから何?」

「自分で確かめたい」

「死ぬかもしれないのに?」

「そこまでは――」

「君の『そこまで』は信用しない」

 初日の管理棟から、何度も言われた言葉だった。

 ホシノは俺と排出口の間へ立つ。

 普段より小さな体が、動かせない壁に見えた。

「離れて。私が行く」

「ホシノ先輩。先輩も単独で入ってはいけません」

 アヤネがすぐ止める。

「崩落区画の調査には、専用装備と支保工が必要です。今日は外から確認するという条件でした」

「じゃあ、外から調べる。それでいいね?」

 ホシノが俺を見る。

 怒っているのではない。

 怒るより、怖がっている。

 

 それに気づくと、前へ出られなかった。

「……分かった」

「うん」

 ホシノの手が肩から離れる。

 だが完全には遠ざからず、袖を軽くつまんだまま残った。

 シロコが金網の布片を採取し、アヤネが塩の成分と崩落部を記録する。

 新しい痕跡は、何も出なかった。

 最後に、俺は方位磁針を取り出した。

 入口へ近づける。

 針は水路の奥を指さない。

 排出口へ背を向け、運河の反対側――砂漠の東側を指している。

「初日と同じ?」とアヤネ。

「たぶん」

「北ではない」とシロコ。

「壊れているだけかもしれません」

 アヤネの判断は正しい。

 方位磁針の硝子にはひびが入り、内部へ水も入った。針が固着している可能性は高い。

 俺は本体を水平に持ち、自分が一周するように向きを変えた。

 針はわずかに揺れる。

 それでも同じ方角へ戻る。

 

「東に何がある?」

「砂漠」とホシノ。

「もっと先は」

「昔の鉄道施設と、閉鎖された開発区画。さらに先は、今の地図だと空白が多いね」

「海は?」

「ないよ」

 短い答えだった。

 風が運河を抜ける。

 耳を澄ましても、波の音はしなかった。

 

      *

 

 学校へ戻る途中、俺はほとんど話さなかった。

 

 先頭をアヤネとシロコが歩き、少し離れて俺。その横にホシノがいる。

 ホシノは排水路からずっと、俺の袖をつまんでいた。

「もう危険な場所じゃない」

 俺が言う。

「ん~?」

「袖」

 ホシノは自分の指を見る。

「いやぁ、砂で滑りやすいからねぇ」

「平らな道路だ」

「油断大敵だよ」

「転ぶなら、俺につかまる方が危ない」

「じゃあカナタ君が転ばないように、おじさんが持ってるの」

「さっきは一人で歩けた」

「今は疲れてるかもしれないでしょ」

 理由を一つずつ足していく。

 指は離れない。

 俺も、それ以上は言わなかった。

 校舎が見え始めた頃、ホシノが尋ねる。

「カナタ君」

「何だ」

「帰る道、これからも探したい?」

「当たり前だ」

「そっか」

 袖をつまむ力が一瞬だけ強くなり、すぐ戻る。

 

「じゃあ、探そっか」

「ホシノも?」

「だって、おじさんは拾った人に最後まで責任を持つからねぇ」

 また、理由に名前をつけた。

 俺はその言葉へ甘えることができなかった。

 

      *

 

 十日目の午後、一時滞在の再審議が行われることになった。

 期限の最終日だった。

 アヤネは収支と作業記録をまとめていた。

 補助ポンプの応急修理で、業者の緊急出張費を節約した。窓枠を直したことで、夜間の空調負荷も少し下がった。置き時計に金銭的な効果はないが、セリカが会議の終了時刻を守らせるのに使っている。

 その一方、食費、水、衣服、医療診断、居住設備の維持費は増えた。

 差し引きだけなら、俺がいることで今月の支出は減っている。

 だが、それは偶然だった。

 壊れた設備がなくなれば、俺が提供できるものもなくなる。

 朝、俺は校内を歩いた。

 直すべきものを探すために。

 地下機械室のポンプは動いている。

 委員会室の窓は鳴らない。

 時計も進んでいる。

 廊下の照明、保健室の診断機、救護車両。どれも今すぐ手を入れる必要はなかった。

 何も壊れていないことは、本来ならよいことだ。

 俺には、自分の仕事がなくなったように見えた。

 委員会室の前を通る。

 中から、アヤネとセリカの声が聞こえた。

「費用だけの話じゃないでしょ。カナタを街へ放り出すなんて無理よ」

「もちろんです。ただ、保護期間を無期限にするなら、役割分担と安全規則を作り直す必要があります」

「あいつ、自分から出ていくとか言わないわよね」

「その可能性はあります」

「止めるでしょ?」

「本人の意思を無視はできません」

 俺は扉を開けなかった。

 旧進路指導室へ戻る。

 

 机に工具巻きを広げる。

 錆を落とした道具を一本ずつ布へ戻す。家族写真。認識票。方位磁針。借りた服。

 

 鯨の水筒だけは、机の上に残した。

 濃紺の上着は洗って乾かされ、破れた箇所をノノミが繕ってくれていた。肩へ袖を通す。

 胸の痛みは、ほとんど消えている。

 走ればまだ息が上がるだろう。それでも街まで歩ける。

 仕事を探す。

 寝る場所を得る。

 帰る方法は、自分で探す。

 

 ここにいれば、皆は優しい。

 優しいから、出ていけなくなる。

 工具巻きを閉じた時、扉が二度叩かれた。

「カナタ君。入るよ~」

 返事を待たず、ホシノが顔を出した。

 

 両手には、昼食の載った盆がある。

「会議前に食べとこっか。今日はノノミちゃんが――」

 言葉が止まる。

 俺の上着。

 まとめられた工具。

 畳まれた借り物の服。

 机に残された水筒。

 ホシノは盆を近くの棚へ置いた。

「どこへ行くの」

 声に眠気はなかった。

「街」

「何をしに?」

「仕事と寝る場所を探す」

「どうして」

「一週間が終わる」

「延長の会議をするよ」

「必要ない」

「カナタ君」

「俺は約束を破ってない。黙って消えない。ホシノに先に言ってる」

 ホシノは扉の前に立ったまま動かなかった。

「それならいいと思った?」

「何が」

「黙ってなければ、いなくなっていいって」

「帰るわけじゃない。自治区の中にいる。連絡先が決まったら伝える」

「そういうことじゃない」

 短い声が重なる。

「君はまだキヴォトスのことをほとんど知らない。街のどこが安全かも、どこで銃撃が起こるかも分からない。身分証もない。ヘイローもない。それで何の仕事を探すの」

「修理ならできる」

「撃たれたら?」

「危険な場所には行かない」

「危険だって、どうやって分かるの」

「ここに来るまでも一人で働いてた」

「ここは君のいた場所じゃない!」

 ホシノの声が初めて大きくなった。

 自分でも驚いたように、唇を閉じる。

 深く息を吸った。

「……ごめん。怒鳴るつもりじゃなかった」

「言ってることは正しい」

「なら」

「でも、ここにいる理由にはならない」

 俺は工具巻きを持ち上げた。

「ポンプは直った。窓も時計も。今の俺にできる仕事はない。食費と水を使って、部屋を借りて、皆に心配をかけるだけだ」

「だから?」

「役に立てないなら、ここにいるべきじゃない」

 ホシノの目から、感情が消えたように見えた。

「それ、本気で言ってる?」

「ああ」

「私が君を助けたのは、ポンプを直してもらうためだと思ってる?」

「違う」

「アヤネちゃんが書類を調べたのも。ノノミちゃんが服を用意したのも。セリカちゃんが枕を洗ったのも。シロコちゃんが避難経路を教えたのも。全部、君に役立ってもらうため?」

「違う。だから返せない」

「返さなくていいって言ったよね」

「何もしないで受け取れない」

「どうして?」

「俺はここの生徒じゃない」

「それが何?」

「対策委員会でもない」

「知ってる」

「帰る場所も分からない」

「うん」

「何者でもない」

「違う」

 即答だった。

 ホシノが一歩近づく。

「汐見カナタ。十七歳。凪津港から来た。機械を直すのが上手で、働きすぎ。悪い夢を見ると床に落ちる。工具を大きさ順に並べる。おじさんが帰るのを玄関で待ってる」

「それは」

「何者でもない人の話じゃないよ」

 もう一歩。

 手を伸ばせば触れられる距離。

「カナタ君がここにいる理由、仕事じゃ足りない?」

「仕事がないなら、何がある」

 ホシノの指が動いた。

 俺の上着の袖へ伸びる。

 だが触れる直前で止まった。

「私が、いる」

 消えそうな声だった。

「シロコちゃんも、ノノミちゃんも、セリカちゃんも、アヤネちゃんもいる。君の椅子を片づけた人はいない。水筒だって、返してなんて言ってない」

「それは皆が優しいからだ」

「優しくされたら、逃げるの?」

「違う」

「同じだよ」

 ホシノの手が、今度こそ袖をつかんだ。

「君は追い出される前に出ていこうとしてる。いらないって言われる前に、自分からいなくなろうとしてる」

「ホシノに、俺の何が分かる」

 言ってから、後悔した。

 袖をつかむ指が、少し緩む。

 それでも離れなかった。

「分からないよ」

 ホシノは目を伏せた。

「君のお父さんとお母さんが、どんな気持ちで待ってるか。船で何があったか。帰れないのがどれくらい苦しいか。全部は分からない」

 声は静かだった。

「でも、いなくなられる側のことなら、少し知ってる」

 その一言だけ、底が見えなかった。

 俺は何も返せない。

「役に立つかどうかで、君がいていいか決めないで」

 ホシノが顔を上げる。

「いていいよ」

 軽口も、自称もなかった。

「何も直せない日も。寝てるだけの日も。帰る方法を探してる間も。見つかった後、どうするか迷ってる間も。ここにいていい」

「どうして、そこまで」

「私が」

 ホシノの口が止まる。

 好きだから、と言うには、まだ早い。

 

 拾った責任だから、と戻るには、もう遅い。

 

「……私が、いてほしいから」

 選んだ言葉は、その間にあった。

 袖をつかんでいない手も上がる。

 俺の背中へ回りかけ、途中で止まった。

 抱きしめようとしている。

 けれど、してよいか分からないのだ。

 初日に何度も脈へ触れ、眠れば肩を借りるホシノが、起きている俺へは踏み込めずにいる。

 俺も動けなかった。

 今、腕を伸ばせば抱き返せる。

 そう考えたこと自体に驚いた。

 廊下から足音が近づく。

「汐見さん、ホシノ先輩。会議の準備が――」

 アヤネの声。

 ホシノの手が下りる。

 俺の袖だけは、まだつかんだままだった。

「会議、行こっか」

 今度の声には、少しだけいつもの柔らかさが戻っていた。

 

「その前に」

 俺は工具巻きを机へ戻した。

 

 畳んだ服も、棚へ置く。

 最後に鯨の水筒を手に取った。

「これは、まだ借りてていいか」

 ホシノの目が丸くなる。

 すぐに、頬が緩んだ。

「うん。なくさないでね」

「分かった」

 袖をつかむ指が、ようやく離れた。

 

      *

 

 再審議は、十分で終わった。

「汐見カナタさんの緊急保護を、帰還経路の確立または公的機関による正式な引き受けまで継続します」

 アヤネが新しい条件を読み上げる。

「滞在期限は設けません。居住場所は引き続き旧進路指導室。食事、水、医療、安全教育は対策委員会が共同で管理します」

「設備修理は?」と口にした。

「依頼があり、体調と安全に問題がない場合のみ。滞在の対価にはしません」

 釘を刺すような言い方だった。

「掃除と食事当番は、私たちと同じでいいと思う」とシロコ。

「居候だからって、お客さま扱いを続ける方が落ち着かないでしょ?」

 セリカは腕を組む。

「ただし、勝手に危ない場所へ行ったら承知しないから」

「はい~。カナタさんのお部屋に必要なものも、少しずつ揃えましょうね」

 ノノミが微笑む。

「個人資金の使いすぎには注意してください」とアヤネ。

「うんうん、分かってますよ~」

「その返事は不安です……」

「ホシノ先輩。委員長として、最後にお願いします」

 アヤネから促され、ホシノが立つ。

 いつものように、面倒そうに肩を回す。

「えー。それでは漂流者君、今後とも適当によろしく~」

「軽すぎます!」

「だって、もう決まったんでしょ?」

「決まりましたが、委員長としての言葉をですね」

「じゃあ」

 ホシノは俺を見る。

 旧進路指導室での言葉は、ほかの四人には聞かれていない。

「おかえり、カナタ君」

 帰ってきたわけではない。

 

 出ていこうとして、出ていかなかっただけだ。

 それでも、その言葉は正しい気がした。

「……ただいま」

 俺が返す。

 セリカが二人を見比べる。

「何で逆なの?」

「細かいことは気にしない気にしない」

 ホシノは笑い、ソファへ倒れ込んだ。

 その顔は毛布に隠れたが、耳が少し赤かった。

 

      *

 

 翌朝。

 俺は銃声が鳴る前に目を覚ました。

 窓と扉を確認する。

 鯨の水筒を持ち上げる。

 水は満たされていた。

 向かいの委員会室には、まだ誰もいない。

 俺は廊下へ出た。

 昨日までなら、何か直すものを探しただろう。

 今朝は台所へ行き、六人分の湯を沸かした。

 豆のスープを温め、パンを切る。

 それだけで、十分な朝だった。

 玄関の扉が開く。

 朝の巡回から戻ったホシノが、砂を払いながら入ってきた。

 

「ただいま~」

「おかえり」

 返すと、ホシノは嬉しそうに目を細めた。

「今日も言ってくれたねぇ」

「帰ってきたからな」

「うん。ちゃんと帰ってきたよ」

 ホシノは委員会室へ向かわず、台所へ入ってきた。

 鍋を覗く。

「朝ご飯?」

「温めただけだ」

「それでも朝ご飯だよ」

 俺の隣へ並び、切ったパンを一つつまむ。

「まだ全員そろってない」

「味見味見」

「二つ目は味見じゃない」

「おじさん、巡回でお腹が空いちゃって」

「座って待て」

「は~い」

 返事だけして、ホシノは動かなかった。

 隣で鍋の湯気を見ている。

「どうした」

「何でもないよ」

 少し間を置き、俺の袖をつまむ。

「いるなぁ、と思って」

「昨日、そう決めた」

「うん」

 ホシノは袖を離さない。

 俺も、離してほしいとは言わなかった。

 

      *

 

 ――Hoshino side

 

 帰る道が見つからなくて、よかった。

 

 そんな願いは、言えない。

 言ってはいけない。

 カナタ君が眠る部屋の鍵を隠して、外へ出られなくして、方位磁針を砂の底へ埋めてしまえたら。

 ほんの一瞬、そんなことまで考えた。

 できるはずがない。

 したくもない。

 カナタ君が悲しむ。

 何より、それではカナタ君がここにいることを選んだことにならない。

 だから帰る道を探す。

 

 見つかったら、ちゃんと知らせる。

 帰りたいと言われたら、送り出す。

 

 たとえ向かいの部屋が空になっても。

 鯨の水筒が返ってきても。

 玄関で待つ人がいなくなっても。

 

 そうできる自信は、まだなかった。

 昨日、荷物をまとめたカナタ君を見た瞬間、何も考えられなくなった。

 扉の前へ立ったのは偶然ではない。

 もしカナタ君がそのまま出ようとしたら、私は道を譲れただろうか。

 分からない。

 分からないことが、怖かった。

 

 それでも最後に、カナタ君は私で工具を戻した。

 

 水筒を借り続けたいと言った。

 今朝もここにいて、六人分の湯を沸かしている。

 私はカナタ君の袖をつまんだ。

 強く引かない。

 縛らない。

 離れようと思えば、いつでも離れられる力で。

 それでも、今だけは離れないように。

「カナタ君」

「何だ」

「明日もいる?」

 カナタ君は鍋をかき混ぜながら、少し考えた。

「明日のことは、明日にならないと分からない」

 胸が縮む。

「でも、黙っていなくならない。帰るなら先に言う」

「そっか」

 十分だった。

 永遠の約束ではない。

 それでも明日、目を開ける理由にはなる。

「じゃあ、おじさんもちゃんと帰ってくるよ」

 袖の下にある手の温度を確かめ、私は笑った。

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