ホシノがアビドスへ帰ったのは、六日後だった。
右肩は十二日間の射撃禁止。
肋骨は固定を続け、盾を持つことも禁止。
一日に三回、体温とヘイロー状態を記録。
赤黒い変化は、入院中に一度も再発しなかった。
夜の悪夢は二回。
最初の夜は看護師を呼べた。
二回目は、面会用の端末から俺へ連絡した。
午前三時だった。
俺は眠そうな声で出て、怒らず、場所と時刻と呼吸を一緒に確認した。
その代わり、翌日の面会は予定どおり午後四時から四時四十分まで。
ホシノが寂しいと言っても、授業補助と北側ポンプの仕事を休んでは来なかった。
最初は、胸の奥がざわついた。
病室の窓から出て、学校へ戻りたくなった。
けれどホシノは、端末へ短い文を送った。
『寂しい。早く来て』
返事は一分後。
『四時に行く。四十分いる』
約束どおり、四時に来た。
それを六日間重ねた。
退院の日、俺は迎えに来たが、ホシノの荷物を全部は持たなかった。
軽い袋を一つ、左手で本人に持たせた。
「患者さん扱いが中途半端だねぇ」
「持っていい重量を医師に聞いた」
「おじさん、甘やかされたいんだけど」
「歩く速度は合わせる」
「手は?」
「外へ出てから」
「やったぁ」
玄関を出たところで、ホシノは左手を差し出した。
俺が握る。
強さは、どちらからも確かめなかった。
六日間で覚えた。
*
午前十時。
対策委員会室には、長机が二つ並んでいた。
一つは、事件報告と今後の処理。
もう一つは、ホシノの謝罪と統治体制。
「どうして机まで分けたの?」
「話を混ぜないためです」
アヤネが答える。
「事件が解決したことと、先輩の行動を許すことは別です」
「はい」
ホシノは、委員会室の中央に立っていた。
椅子へ座るよう言われているが、最初だけは立つと自分で決めた。
右肩を吊る固定帯。
頬に薄い保護材。
いつもの制服。
古い戦闘上着は証拠箱へ戻した。
先生は顧問席。
俺は記録補助席。
シロコ、ノノミ、セリカ、アヤネが向かいにいる。
「まず、シロコちゃん」
「ん」
「二回戦って、一回は決闘が終わった後に撃った。胸を狙って、装甲が耐えるって分かってても、倒れる強さで撃った。ごめんなさい」
「痛かった」
「うん」
「でも、次は避ける」
「次を作らないようにするよぉ」
「決闘はする?」
「治ったらね」
シロコが小さく頷く。
「あと、拾ってくれてありがとう」
ホシノの目が開く。
「昔、私を」とシロコ。「今度は私が拾った」
「……うん。ありがとう」
次に、セリカを見る。
「セリカちゃん。ユメ先輩を知らないって言って、話す権利がないみたいに扱った。あれは、傷つけるために言った」
「分かってたわよ」
「戻りたくなるから、謝らなかった」
「それも分かってた!」
「ごめんなさい」
セリカは腕を組んだまま、顔を横へ向けた。
「……話しなさいよ」
「何を?」
「ユメ先輩のこと。知らないから」
「長いよぉ」
「借金の返済作業をしながらなら、いくらでも聞くわよ」
「じゃあ、今度一緒に配管直そうか」
「なんで修理しながらなのよ」
「おじさんたちらしいかなって」
セリカは返事をせず、机の下で目元を拭いた。
「ノノミちゃん」
「はい」
「助けるって言いながら、ノノミちゃんの話を聞かなかった。アビドスを選んだことも、カードも、家のことも、全部私が背負えばいいと思った」
「はい」
「ノノミちゃんの選択を、自分の罪悪感の下に置いた。ごめんなさい」
「私も、一人で執事さんに会いに行きました」
「それは別に話そう」
「はい。一緒に叱られましょう」
「おじさん、もう叱られすぎてる気がするなぁ」
「まだですよ」
アヤネが書類を持って待っている。
「アヤネちゃん。Watercloudを壊した」
「修理費、部品費、作業時間は計算済みです」
「はい」
「それだけではありません」
「うん。会長を無視した。皆の運営権を、昔の副会長だった私一人の下に置こうとした。自分がいなくなった後は任せるって言いながら、今の皆に決めさせなかった」
ホシノは頭を下げる。
「ごめんなさい」
「私は、先輩に任せてほしかったんです」
「うん」
「強くないです。戦えません。迷うし、泣きます。でも、だから置いていっていいことにはなりません」
「もう、置いていかない」
「言葉だけでは信用しません」
「行動で確認して」
アヤネは、ようやく一度だけ頷いた。
先生へ向く。
「先生。負傷してるのに戻らせて、何度も追わせた。生徒の問題だからって、大人に任せないのと、大人を使い潰すのを一緒にした。ごめんなさい」
「謝罪を受け取ります」
先生は穏やかに答えた。
「ただし、私も大人として自分の安全を判断します。ホシノが一人で決めないのと同じです」
「はい」
最後に、俺を見る。
六日前に話した内容は、二人の間だけで終わっていない。
「カナタ。もう一度、皆の前で言うね」
「うん」
「普通の人間だからって、本人抜きで安全を決めた。恋人なら信じるって分かってて、嘘を使った。抱きしめることとキスを、隠した別れの一部にした。ごめんなさい」
「聞いた」
「これから、行動で直す」
「確認する」
ホシノは全員を見た。
「許してって、今は言いません。怒ってていい。信用できないところは、信用しないで。私が一人で行こうとしたら、止めてください」
「今度は負けない」とシロコ。
「先輩の脚に発信器を付けるわ」とセリカ。
「本人の同意が必要です」とアヤネ。
「そこは取るわよ!」
「私も止めます」とノノミ。
四人の声が重なる。
ホシノは、少しだけ笑った。
「お願いします」
*
共同安全規則は、三枚になった。
一、作戦位置・集合時刻・帰投条件を故意に偽らない。
二、緊急単独行動が必要な場合、理由、位置、通信手段、帰投または中止条件を可能な限り共有する。
三、安全判断は本人、作戦責任者、医療または技術担当を含める。恋人、先輩、会長の立場だけで決定しない。
四、抱擁、キス、上着などの私的な接触・貸借を、別れや作戦欺瞞の道具にしない。
五、恐怖、破壊衝動、単独離脱衝動、自己犠牲案が生じた時は、実行前に最低一人へ伝える。薬物・物理拘束・設備破壊を自己判断で行わない。
六、送信不能や即時判断が必要だった場合、帰還後の記録を隠さず、第三者を含む検証を受ける。
七、規則を破った者は、謝罪だけで終了せず、被害記録、再発条件、次回手順を更新する。
「恋人向けの規則が、生徒会規則に入ってません?」とセリカ。
「同じことを他の人にしないためです」とアヤネ。
「確かに、先輩なら私たちへ別れの抱擁とかやりかねないわね」
「しないよぉ」
「信用はこれからです」
「はい」
署名欄。
小鳥遊ホシノ。
砂狼シロコ。
十六夜ノノミ。
黒見セリカ。
奥空アヤネ。
作戦顧問、先生。
外部協力者・安全判断当事者、俺。
全員が自分で署名した。
*
事件処理の報告は、甘くなかった。
旧鉄道使用権契約は失効。
ネフティス、私募ファンド、旧債権者、カイザー各社の権利主張は係争中。
カイザーが名目千円で取得させた関連会社の契約は、強要の証拠とともに凍結申立て。
シェマタはアビドス生徒会、シャーレ、ハイランダー監理室、ゲヘナ風紀委員会の共同封鎖下。
分解や移送はせず、冷却・電力遮断・カード認証無効化を三重に維持する。
スオウは治療後、ハイランダーとカイザー双方の調査対象。ただしネフティス執事への発砲、ノノミ拘束、兵器起動だけでなく、カイザーとの関係と地下生活者による心理誘導の可能性も分けて調べる。
ゴールドカードはノノミへ返還。
ただし単独使用を避けるため、本人希望で生徒会金庫とノノミの二重鍵管理になった。
大オアシスで回収できた鉱物は、六十四・二グラム。
評価額は約六百四十二万円。
大半は発光して燃え尽き、追加採掘は地盤と反応条件が不明なため禁止。
借金全額には、遠く及ばない。
「でも、Watercloudの修理と校舎の窓は直せます!」
アヤネが言った。
「あと、救護費の一部」とセリカ。
「全部、借金へ入れるんじゃないの?」とホシノ。
「今回壊れた物を直さないと、返済作業ができません」
「会長、現実的だねぇ」
その呼び方で、部屋の空気が変わった。
緊急選挙で選ばれたアヤネの任期は、行方不明者を含む全在籍生徒がそろい、危機終了を確認した時点まで。
その条件が、今そろっている。
正式な選挙を行う必要があった。
「私は、立候補します」
アヤネが言った。
ホシノは少し驚いた。
「続けるんだ」
「はい。できないことも多いですが、やりたいです」
「そっか」
「ホシノ先輩は?」
「おじさんは、特別書記でいいよぉ」
「それは、罰を理由に逃げていませんか」
アヤネの質問は鋭い。
「会長になったら、ユメ先輩の場所を取るみたいで」
「ユメ先輩は、今の生徒会長ではありません」
ホシノの指が止まる。
「アヤネちゃん」
「先輩が言わないなら、私が言います。亡くなっています。席を空け続けても、戻りません」
「……うん」
「昔の副会長として残るのも、会長を弔う方法の一つかもしれません。でも、今の学校を誰が運営するかは、今いる私たちが決めます」
ホシノは、机の傷へ目を落とした。たぶん見ているのは、ここにはない古い生徒会室だ。
ユメ先輩の机と、その隣の副会長席。委員長を名乗るようになってからも、あいつの心だけは二年間、そこから動けずにいたのかもしれない。
「立候補したら、アヤネちゃんと戦うことになるねぇ」
「選挙ですから」
「負けても怒らない?」
「怒りません」
「勝っても?」
「仕事をしてください」
ホシノは椅子から立つ。
右肩が痛まないよう、ゆっくり。
「小鳥遊ホシノ、立候補します」
「理由は?」と先生。
「ユメ先輩の代わりじゃない」
全員を見る。
「私が、今いる皆と学校を続けたいから。残った責任を一人で背負うためじゃなく、決める時に皆の声を聞く席へ座りたいから」
投票は無記名で行われた。
開票は先生。
小鳥遊ホシノ、四票。
奥空アヤネ、一票。
開票結果を聞いて、アヤネがホシノへ目を向けた。ホシノはほんの一瞬だけ視線を逸らす。
残る一票の行き先を、二人とも分かっているように見えた。
「当選は、小鳥遊ホシノです」
拍手が起きる。
ホシノは、すぐには笑えなかった。
空席だった椅子を見る。
そこへ座る。
ユメの席ではない。
今のアビドス生徒会長の席。
「最初の議案です」
ホシノは言った。
「アヤネちゃんを副会長兼対策委員会管制担当に推薦します。おじさん一人だと、三日で書類が遭難するので」
「理由の後半を撤回してください」
「事実だよぉ」
採決。
全員賛成。
アヤネはため息をつき、臨時腕章を外した。
ホシノの前へ置く。
「よろしくお願いします、会長」
「よろしくね、副会長」
ホシノは腕章を右腕へ通せないため、机の端へ置いた。
それでも、もう空席ではなかった。
*
夕方。
俺は北側ポンプの点検記録を持って、対策委員会室へ戻った。
皆は食材の買出しと鉱物の引渡しで出ている。
ホシノだけが、新しい会長席で報告書を書いていた。
「逃げなかったんだ」
「ひどいなぁ。おじさん、会長だよ?」
「会長だから心配した」
「それもひどい」
机の上に、共同安全規則。
ホシノの署名。
その隣に、事件の反省記録。
南経路の虚偽。
抱擁とキスの文脈隠し。
自己犠牲の引き金。
次回の手順。
自分の字で、最後まで書かれている。
「読んで」とホシノ。
俺は椅子を持ってきて、隣へ座る。
一頁ずつ読む。
書き直しを二か所。
曖昧な「できるだけ」を、共有不能条件の具体例へ変更。
確認時刻を記入。
「終わり」
「終わったぁ」
ホシノが机へ額をつけようとする。
右肩の固定を思い出し、左向きにゆっくり伏せた。
「カナタ」
「何」
「上着、今度は理由と時間を言うから、借りてもいい?」
俺は自分の濃紺上着を見る。
「理由は」
「安心するから。あと、ちょっと寒い」
「返す時間」
「夕食の前。六時半」
「どこで使う」
「この部屋。出る時は言う」
「分かった」
脱いで、左肩から掛ける。
右の固定帯へ触れないよう、袖は通さない。
ホシノは襟へ頬を寄せた。
「おかえり、上着」
「俺より先に言うな」
「カナタは、もう帰ってきてるから」
左手で袖口を握る。
前とは違う。
借りた時刻も、場所も、返す時刻も、本人が知っている。
「もう一つ、聞いていい?」
「何」
「前のキス、好きな記憶じゃなくなったって言ったよね」
「言った」
「同じ言葉で、やり直したい」
俺は黙って聞く。
「これは別れじゃない。今から一人でどこにも行かない。夕食は皆と食べる。六時半に上着を返す。明日は九時に会長の仕事」
「うん」
「一緒に帰るために、キスしていい?」
「誰が、どこへ」
「私とカナタが、この部屋から食堂へ。夕食の後は、それぞれの部屋。明日の朝、また委員会室」
具体的すぎる答えに、俺が少し笑った。
「していい」
「してほしい?」
「してほしい」
ホシノは立ち上がらない。
右肩を動かさず、椅子を少し寄せる。
俺も近づく。
触れる前に、一度止まる。
ホシノが頷く。
短いキス。
呼吸二つ分。
離れた後も、行き先は変わらない。
ホシノは濃紺の襟へ口元を隠した。
「おじさん、今すごくかわいい顔してると思う」
「自分で言うんだ」
「見せてあげない」
「見えてる」
「見ないで」
「嫌だ」
左袖で俺の腕を引く。
今度は、行かせないためではない。
隣の椅子へ、もう少し近く座ってもらうためだった。