アビドス高等学校の在籍生徒は、五人のままだった。
六人にはならない。
俺の名前は、キヴォトスの学籍網に存在しない。
ヘイローもない。
凪津海洋技術校が実在したことを証明する、こちら側の機関もない。
だから、存在したことにする書類は作らなかった。
「連邦生徒会特別保護対象・外部世界出身者」
先生が、完成した証明書を読み上げる。
「生活拠点はアビドス高等学校居住棟。保護調整機関はシャーレ。現地連絡責任者はアビドス生徒会。滞在期間は帰還手段の確立、本人の移転希望、または成人後の在留資格更新まで」
対策委員会室で、全員が書類を囲んでいた。
「成人後も住めるんですか?」とセリカ。
「本人が希望し、安全・生活基盤を満たせば、更新できる制度にしました」と先生。
俺は自分の名前を見る。
仮の名前ではない。
俺。
出身地、不明と書かず、本人申告として凪津の港名が記録されている。
父、汐見宗一。
母、汐見澪。
緊急連絡先欄には、連絡不能と記した上で二人の名前を残した。
「ここ」とホシノが指す。
「現地緊急連絡担当。小鳥遊ホシノ、奥空アヤネの順だねぇ」
「生徒会長と副会長ですから」とアヤネ。
「おじさん、一番」
「職位順です」
「恋人順でもあるよぉ」
「書類には不要です!」
セリカが呆れた顔をする。
「それより、本人の希望を聞きなさいよ」
皆が俺を見る。
「この内容で申請する」と口にした。
「ホシノが一番でいいの?」とシロコ。
「会長だから」
「恋人だからではなく?」
「それもある」
「カナタ~」
ホシノが、隣の椅子から袖を引く。
「会議中」と口にした。
「一秒だけ」
「一秒で離して」
「はぁい」
一秒だけ握り、約束どおり離した。
アヤネが秒針を見ていた。
「〇・九秒です」
「おじさん、優秀」
「そこを評価する会議ではありません」
*
学習については、別の書類が必要だった。
アビドス高等学校への正式編入ではない。
校内の議決権も、生徒会選挙権も持たない。
銃器を使う授業と、ヘイローを前提にした実習は受けない。
代わりに、シャーレ認定の聴講生として、数学、自然科学、言語、キヴォトス史、自治法の授業を受ける。
凪津で履修した内容は、俺本人の教科書記憶と試験で到達度を測り、同じ単元を省く。
機械整備は、授業ではなく技術補助契約になった。
週十二時間まで。
時間給。
危険設備は有資格者または先生の立会い。
学習時間を削って働かせない。
「今まで、お給料なしで直してもらいすぎていました」
アヤネが頭を下げる。
「住む場所と食事をもらってた」
「それは保護です。労働の対価と混ぜません」
「副会長、厳しいねぇ」とホシノ。
「会長が緩いんです」
「おじさんも、払おうとは思ってたよ?」
「予算案にありませんでした」
「思ってただけだからねぇ」
「駄目です!」
最初の給与は、校舎北側の給水ポンプ修理と、三機のWatercloud復旧補助。
ホシノが壊した機体の修理費から、俺の賃金が出る。
「なんだか複雑だなぁ」
「会長の報酬から引く?」と口にした。
「アビドスに会長報酬なんてないよぉ」
「なら報告書を増やします」とアヤネ。
「どうしてそうなるの?」
*
校舎の復旧は、六週間かかった。
大オアシスの鉱物を売却した代金から、救護費とWatercloud部品を先に払う。
残りで窓ガラス、配電盤、屋根材を買った。
ネフティスは、ノノミを通さず学校へ無償寄付しようとした。
ノノミは受け取らなかった。
生徒会と会社の公開協議を開き、鉄道設備の保全作業に対する正規の委託費として契約し直す。
学校所有権、命名権、優先入学枠、後継者の進路拘束を付けない。
「家の善意でも、書面にします」
ノノミはそう言って、会社側の長い契約書を一頁ずつ読んだ。
柔らかく笑ったまま、曖昧な条項を七つ削らせた。
シロコは、旧市街と外縁の間に自転車輸送路を作った。
崩れた道を避け、給水所を三か所置く。
週二回来る食料販売車へ、安全な経路と到着時刻を渡した。
最初の週、利用者は対策委員会だけ。
三週目に、旧市街の補修作業員が七人。
六週目には、元住民二世帯が建物調査へ戻った。
街が戻ったとは言えない。
けれど、誰も通らなかった道へ、同じ曜日に車が来るようになった。
セリカは柴関ラーメンの仕事を続けながら、学校の小さな購買計画を作った。
飲料水、保存食、補修用手袋。
売上の一部を借金へ、一部を仕入れへ、一部を緊急修理積立へ。
「全部返済に入れたら、次の月にまた壊れて借りることになるでしょ」
「成長したねぇ、セリカちゃん」
「先輩にだけは言われたくない!」
アヤネは、支払いを三種類に分けた。
争いのない債務への定期返済。
係争中の債権へ供託する金。
校舎と生活を維持する費用。
契約の失効も、カイザーの不正も、元の借金を全部消しはしない。
今月の返済額は、事件前より少ない。
それでも延滞はしなかった。
ホシノは会長として、すべての支払書へ目を通した。
最初の一週間で三か所、署名欄を間違えた。
二週目は一か所。
三週目には、間違えなかった。
代わりに会議中に眠った。
「会長!」
「聞いてるよぉ。係争分の供託、今月は十二万。購買の粗利は三万四千。シロコちゃんの輸送路補修は来月へ繰越し」
目を閉じたまま答える。
「どうして寝ながら聞けるんですか……」
「特技?」
俺は、会議机の下でホシノの靴先が自分の椅子へ触れていることに気づいていた。
そこにいると確かめる程度。
足を絡めたり、動けなくしたりはしない。
俺が資料を取りに立つ時は、先に小声で伝える。
「倉庫。三分」
「いってらっしゃい」
三分後。
「ただいま」
「おかえり」
会議を止めず、二人だけが聞こえる声で重ねた。
*
六週間目の月曜日。
使われていなかった二階の教室が、もう一度開いた。
窓は新しい。
黒板は半分だけ塗り直した。
床板は、俺とシロコが沈む場所を交換した。
カーテンはノノミが洗い、セリカが長さを直した。
配線と時間割はアヤネ。
ホシノは、机を運ぼうとして全員に止められた。
「肩はもう治ったよぉ」
「医師の重量制限は昨日までです」とアヤネ。
「今日はいいよね?」
「盾の再訓練をした翌日です」
「元気だよ?」
「会長は名札を書いてください」
「はぁい」
机は六つ。
前列にアヤネ、セリカ。
中央にシロコ、ノノミ。
後列にホシノと口にした。
俺の机だけ、名札の色が違う。
『汐見カナタ 聴講席』
ホシノが書いた字だった。
隅に、小さな鯨の絵。
「これ何」
「白鴎丸」
「鯨に見える」
「おじさん、鳥は苦手なんだよぉ」
「書き直していい?」
「駄目。会長決裁済み」
「私物への落書きは本人同意が必要です」とアヤネ。
ホシノの顔が固まる。
「消す?」
俺は名札を見る。
「残す」
「やったぁ」
「次からは先に聞いて」
「はい」
一時限目は、キヴォトス自治法。
先生が遠隔画面から授業をする。
正式な在籍生徒五人。
聴講生一人。
同じ問題を解く。
俺には知らない制度が多い。
ヘイローを持つ生徒を前提にした安全法。
学園自治区の独立権限。
連邦生徒会と各生徒会の関係。
ホシノは最初の十分で机へ伏せた。
「会長、そこは試験に出ます」と先生。
「おじさん、実務で覚えたから大丈夫です」
「では、カナタに説明してください」
「うへぇ」
起きる。
俺の教科書を二人の間へ置き、条文を指で追う。
説明は意外に正確だった。
途中でシロコが質問し、アヤネが補足し、セリカが実例へ怒り、ノノミが会社の側から説明した。
六人分の声が、教室にあった。
*
昼休み。
六つの机を一つに寄せる。
弁当箱も六つ。
ホシノは俺の卵焼きを見た。
「一個、もらっていい?」
「交換」
「おじさんの漬物、一枚」
「釣り合わない」
「二枚」
「卵焼き半分」
「じゃあ、漬物一枚で半分」
「さっきより悪くなった」
「恋人割引」
「会計を歪めないで」とセリカ。
結局、卵焼き半分と漬物二枚で成立した。
シロコが取引記録をアヤネの帳面へ書こうとする。
「書かなくていいです!」
笑い声が、新しい窓へ当たる。
午後、校舎前で写真を撮った。
先生は画面の中。
タイマーを置き、六人が並ぶ。
ホシノは俺の左。
袖を握ろうとして、止める。
「写真の間、腕を組んでいい?」
「いい」
左腕へ、自分の腕を通す。
強く引かない。
反対側では、セリカが間に合わないと騒ぎ、ノノミが笑い、シロコが無表情で覆面を出し、アヤネが隠させている。
撮影音。
六人が、一枚に収まった。
*
俺は、その写真を自室の机へ置いた。
隣に、水で滲んだ家族写真。
新しい写真を上へ重ねない。
同じ大きさの枠を二つ用意し、並べた。
左に、宗一と澪と凪津の海。
右に、アビドスの校舎と五人。
ホシノが扉から覗く。
「入っていい?」
「いい」
部屋へ入り、二枚の写真を見る。
「並んだねぇ」
「うん」
「どっちも家族?」
俺は少し考えた。
「左は、俺が帰りたい家族」
「右は?」
「帰ってきた家族」
ホシノは、すぐには抱きつかなかった。
「抱きしめていい?」
「いい」
答えを聞いてから、背中へ腕を回す。
俺も抱き返す。
「おじさん、右の家族の中で一番近い?」
「近い」
「どれくらい?」
「今、抱いてるくらい」
「もっと近くしていい?」
「これ以上は倒れる」
「じゃあ、このまま」
写真二枚の前で、呼吸が同じ速さになるまで抱き合った。
六人目の生徒ではない。
対策委員会の六人目でもない。
それでも、六人分の教室には、俺の席があった。