午前六時五十二分。
アビドス高等学校の朝は、給水ポンプの音から始まる。
北側貯水槽へ水が上がる。
厨房の蛇口から細い水が出る。
修理した二階の配管を通り、六人分の教室へ届く。
俺は圧力計を見て、記録板へ数値を書いた。
設定値より〇・〇二低い。
漏れではない。
外気温が昨日より低いぶん、配管の収縮で変わった範囲。
「異常なし」
声に出す。
「おはよぉ」
背後から、眠った声。
ホシノが給水室の扉にもたれている。
制服の上に、俺の濃紺上着。
「それ、いつ借りた」
「午前六時四十七分。カナタの部屋の前で、本人に聞いて借りましたぁ」
「返す時間は」
「朝食が終わる七時四十分」
「使用場所」
「居住棟から食堂、給水室、委員会室」
「覚えてるならいい」
「会長ですから」
胸を張る。
袖が長くて、指先まで隠れていた。
「どうしてここにいる」
「朝、カナタがいなかったから」
「扉に予定を貼った。六時四十五分から給水点検」
「見たよぉ」
「なら、いなくなってない」
「分かってる。会いに来たの」
ホシノは隠れた手を袖から出す。
「点検、終わった?」
「終わった」
「手、つないで食堂まで帰っていい?」
「いい」
指を重ねる。
給水室の照明を消し、扉を施錠する。
二人で廊下へ出る。
窓の向こうは、どこまでも砂だった。
海のように波打つ砂丘。
その真ん中に、細い輸送路が一本伸びている。
遠くから、週二回の食料販売車が来ていた。
「今日は早いねぇ」
「シロコが迎えに行った」
砂煙の先に、自転車が見える。
白い髪が朝日に光った。
*
朝食は、六人分。
焼いた保存パン。
卵。
昨夜のスープ。
販売車から届いたばかりの、小さなリンゴが二つ。
「六人で二個って、どう分けるのよ」とセリカ。
「三等分」とシロコ。
「縦に? 横に?」
「均等ならどちらでも」
「種のところを誰が取るかで変わるでしょ!」
「重さを量りましょうか」とノノミ。
「朝からそこまでしなくていいです!」
アヤネが包丁で十二等分した。
一人二切れ。
ホシノは自分の二切れを見て、一切れを俺の皿へ置こうとする。
「何」
「会長から技術者さんへ、日頃のお礼」
「会長個人の食べ物を給与にしないでください」とアヤネ。
「ただ、あげたいだけだよぉ」
「なら、そう言えばいい」と口にした。
「カナタに食べてほしい」
「半分もらう」
切れの半分を、ホシノの皿へ戻す。
「おじさんの愛が半分にされた」
「リンゴが半分になっただけ」
「愛は?」
「減ってない」
ホシノは満足して、半分を食べた。
セリカが顔をしかめる。
「朝から何を見せられてるのよ……」
「セリカちゃんもリンゴあげようか?」
「いらない!」
*
午前の生徒会議には、未解決の予定が並んだ。
債務返済。
鉄道使用権の調停。
シェマタ封鎖点検。
大オアシス旧設備の監視。
旧生徒会資料の再整理。
ユメのノート原本捜索。
俺帰還現象の気象観測。
「今月の定期返済、入金確認できました」
アヤネが受領書を画面へ出す。
九億六千二百三十五万円から始まった数字は、利息、供託、係争、返済先の分割で一つの残高として表示できなくなっている。
それでも、争いのない分へ十八万円。
係争分の供託へ十二万円。
確かに支払った。
「完済まで、まだいっぱいだねぇ」とホシノ。
「いっぱいどころじゃないわよ」とセリカ。
「来月も払える?」
「購買と鉄道保全委託が予定どおりなら」とアヤネ。
「なら、予定どおり働こう」
ホシノが承認印を押す。
今度は欄を間違えない。
「鉄道調停は来週です」とノノミ。
「ネフティスは、アビドス生徒会の共同利用権を認める案を出します。ただし私募ファンドとカイザー側が反対するでしょう」
「一回で終わる?」とシロコ。
「終わらないと思います」
「じゃあ二回目も行く」とホシノ。
「はい」
「シェマタは?」
「電源遮断、冷却安定、カード認証無効。ヒナさんから、雷帝遺産台帳への正式登録完了の連絡が来ています」
先生からの共有画面に、短い文がある。
『勝手に触らないこと。次は本当に撃つ。空崎ヒナ』
「怖いなぁ」
「先輩にだけは言われたくないと思います」とアヤネ。
別の報告。
プラナは、演算資源を使い切ってから二十三日目に目を覚ました。
現在はシャーレで段階的に機能を戻している。
シロコ・テラーもシャーレの一時居住区で生活し、現場支援を手伝っていた。
呼び分けに困ったセリカが「じゃあクロコでいいでしょ」と言い、本人が拒まなかったため、身内ではそう呼ばれている。
添付写真では、クロコが覆面水着団の袋を被り、プラナの病床へ果物を持ってきていた。
「その覆面、気に入ってる」とシロコ。
「もう一枚あげたら?」とホシノ。
「同じ物を持つと区別できない」
「そこ?」
先生からの最後の一文。
『落ち着いたら、全員でアビドスへ伺います』
「食事、八人分になりますね」とノノミ。
「先生とクロコとプラナで九人」とアヤネ。
「プラナちゃんは端末の中だよぉ」
「気持ちの問題です!」
「じゃあ九人分」とセリカ。
予定表へ、空欄の来訪日が一つ増えた。
*
昼前、俺は校庭の散水管を直していた。
ユメがいた頃から何度も破れ、ホシノが制服を濡らした配管。
古い継ぎ手を外し、新しい樹脂管へ交換する。
セリカが止水弁。
シロコが砂を掘る。
ノノミが部材を運ぶ。
アヤネは校内から圧力を読む。
ホシノは、作業線の外に置いた長椅子で昼寝をしていた。
会長腕章をつけたまま。
濃紺上着は七時四十分に返却済み。
代わりに自分の上着を顔へ掛けている。
「先輩、何もしてないじゃない」とセリカ。
「午前の決裁、全部終わってる」と口にした。
「だからって、作業中に寝る?」
「会長の昼休みは十一時四十分から十二時二十分です」とアヤネの通信。
「時間内だよぉ」
顔を隠したまま答える。
「起きてるじゃない!」
「寝てるよぉ」
「喋ってるでしょ!」
俺は新しい管を差し込む。
「ホシノ、五分後に試験通水する」
「はぁい。水が来たら起きるねぇ」
「その前に作業線から離れて」
「おじさん、線の外だよ?」
「漏れたらそこまで飛ぶ」
ホシノは上着を顔から外し、身体を起こした。
「一緒に避難して」
「手が汚れてる」
「袖」
自分の左袖を差し出す。
俺は肘に近い、汚れていない部分を二本の指でつまんだ。
長椅子から五メートル離れる。
「ここ」
「了解」
試験通水。
新しい継ぎ手が震える。
漏れなし。
校庭の散水口から、水が弧を描いた。
乾いた砂へ落ちる。
「ユメ先輩、この管を直そうとしてたんだよ」
ホシノが言った。
「知ってる。資料に書いてあった」
「私も何回か直した」
「継ぎ手の規格が違ってた」
「うへぇ。だから、すぐ漏れたの?」
「たぶん」
「ユメ先輩らしいなぁ」
笑う。
悲しさのない笑顔ではない。
悲しさがあっても、笑える声だった。
「午後、資料庫の捜索日だよ」とアヤネ。
「月に一回の?」
「はい。四人以上、二時間まで。先輩一人で旧生徒会室へ残らない条件です」
「分かってるよぉ」
「ノート、見つかるといいですね」とノノミ。
「うん。見つからなくても、捜した場所を記録しよう」
次に探す人が、同じ棚を最初から開けなくていいように。
*
ノートは見つからなかった。
未整理箱を十一個。
古い棚を三列。
私物庫の床下を一か所。
代わりに、ユメが書いた給水管の購入申請が出てきた。
規格欄が空白。
承認欄に、当時の副会長ホシノが赤字で『確認してから買ってください』と書いている。
「本当に確認してなかったんだねぇ」
ホシノは書類を保存袋へ入れた。
捜索記録へ、未発見と書く。
以前なら、その二文字で一日が終わった。
今は、終了時刻を記入する。
午後三時五十八分。
「終わり。帰ろう」
自分から言った。
旧生徒会室の照明を消し、全員で扉を閉めた。
*
夕方、ホシノと俺は校舎の西へ歩いた。
俺が流れ着いた古い水路。
最初にホシノが見つけた場所。
水はない。
砂だけが、低い流路を埋めている。
漂着時に残っていた金属片も、証拠保全を終えて学校の倉庫へ移した。
「ここだった」とホシノ。
「覚えてる」
「死んでると思った」
「水を飲ませてくれた」
「おじさんの水筒、全部飲まれそうになった」
「喉が渇いてた」
「今は?」
ホシノが水筒を差し出す。
「少し」
「飲む?」
「飲む」
俺が先に飲む。
蓋を閉めずに返す。
ホシノも同じ飲み口から一口。
初めて意識した頃は、それだけで二人とも黙った。
今は目を合わせて笑う。
「今日、帰還観測の警報は?」
「なし。気圧も磁場も平常」
「明日は?」
「分からない」
「道が開いたら、行く?」
「安全に調べる」
「向こうへ行けるって分かったら」
「皆と話す」
「私とも?」
「最初に話す一人」
「一番?」
「順番を決めない。先生とアヤネにも同時に必要かもしれない」
「うへぇ。そこは一番って言ってほしいなぁ」
「気持ちでは、一番近い」
「なら、許す」
ホシノは水筒を腰へ戻す。
「帰ってきてね」
「戻れる方法を探す」
「戻れないかもしれない時は?」
「行く前に話す」
「おじさん、泣くよ」
「知ってる」
「行かないでって言う」
「聞く」
「それでも行くかもしれない?」
「分からない」
永遠に戻るとは言わない。
絶対に行かないとも。
ホシノは、その答えを聞いていられる。
「じゃあ、明日は?」
「朝、給水点検。授業。午後は販売車の車軸を診る。夕食までに戻る」
「おじさんは、生徒会会議。昼寝。午後はカナタのところへ邪魔しに行く」
「邪魔する予定を入れるな」
「見学に行く」
「作業線の外なら」
「夕食までに戻る?」
「戻る」
「私も戻る」
二人で水路を離れる。
砂の中へ流れ着いた場所を、墓にも聖地にもしない。
今日の散歩の折返し地点にして、学校へ帰った。
*
夕食は、六人分のカレーだった。
シロコが販売車から買った肉。
セリカが値切った野菜。
ノノミが量った米。
アヤネが予算を確認した調味料。
俺が直した水道の水。
ホシノは味見を担当した。
「何も作ってない」とセリカ。
「会長は最終承認をしたよぉ」
「三杯も?」
「慎重な審査です」
皿が空になる。
明日の予定を確認する。
食器を洗う。
ホシノは七時四十分に一度返した濃紺上着を、夜九時から翌朝七時まで借り直した。
理由は、就寝時の安心。
場所は俺の部屋。
今夜は、双方が希望した同室就寝の日だった。
アヤネへ所在を共有。
扉は施錠しない。
悪夢時は名前を呼び、返答がなければ照明と看護連絡。
以前作った手順は、そのまま残っている。
「毎回、申請が長いねぇ」
「嫌なら、今日は別に寝る」
「嫌じゃない。ずっと一緒に寝たい」
「ずっとは決めない」
「じゃあ、今夜ずっと」
「朝までなら」
「やったぁ」
*
部屋の照明を落とす。
窓の外に、砂漠の月。
机の上には二つの写真と、真北を指す方位磁針。
ベッドは狭い。
ホシノは壁側。
俺は外側。
互いに寝返りができる幅を残す。
「手、つないでいい?」
「いい」
毛布の上で、指をつなぐ。
「胸に顔、置いていい?」
「五分だけ」
「短い」
「寝返りできない」
「じゃあ五分」
枕から少し身体をずらす。
俺の胸へ、頬を置く。
濃紺上着は枕元。
布ではなく、本人の体温がある。
鼓動。
一度。
二度。
三度。
ホシノは数える。
百まで。
千まで。
朝まで全部。
できるなら、この先ずっと。
「カナタ」
「いる」
「今、脈を全部数えたいと思ってる」
「無理だ」
「止まったら、すぐ分かるように」
「止まったら看護連絡」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
背中を一度撫でられる。
「数えなくても、名前を呼べば答える」
「眠ってたら?」
「起こしていい」
「嫌がらない?」
「毎分は嫌だ」
「おじさん、毎秒かも」
「それは別の部屋で寝る」
「やだ」
身体を強く寄せそうになる。
ホシノは止めた。
「やだって思った。でも、別の部屋で寝たいって言われたら、聞く」
「今は、ここでいい」
「うん」
五分が過ぎる。
「時間」と口にした。
「あと一分」
「最初から六分って言えばよかった」
「じゃあ、あと一分で離れる」
一分後。
ホシノは本当に頬を離した。
枕へ戻る。
手はつないだまま。
「キスして寝たい」
「していい」
「カナタもしたい?」
「したい」
暗闇の中で、距離を確かめる。
鼻先が触れ、少し笑う。
唇を重ねる。
短く。
今夜ここにいて、朝になったら起きるためのキス。
「おやすみ、カナタ」
「おやすみ、ホシノ」
*
――Hoshino side
私は、暗い部屋で目を開けていた。
隣の呼吸を聞く。
吸う。
吐く。
少し長い間。
また、吸う。
以前は、この間が怖かった。
次が来ない気がした。
ユメの呼吸が止まった日から、眠っている誰かを見れば、目を閉じている間に消えると思った。
カナタ君はもっと脆い。
ヘイローがない。
銃弾にも、爆発にも、赤い光にも耐えられない。
帰る道が開けば、遠くへ行くかもしれない。
私の中にある重い願いは、なくなっていない。
この部屋へずっといてほしい。
誰にも傷つけられない場所へ隠したい。
方位磁針も、旧水路も、世界中の出口も閉じてしまいたい。
自分だけを見てほしい。
全部、本当に思う。
私は、つないだ手へ力を入れなかった。
思うことと、することは違う。
怖い時は、言う。
一人で決めない。
帰ってきてと願う。
相手の答えを聞く。
明日の予定を作る。
破ったら謝り、次の手順を直す。
ユメを忘れない。
カナタ君の故郷を消さない。
それでも、私が一番近くにいたいと、何度でも言う。
隣で、カナタ君が寝返りを打った。
つないだ指が少し緩む。
私は追って握り直さなかった。
手の甲が触れる程度で置く。
「カナタ」
小さく呼ぶ。
「……いる」
眠った声が返る。
「明日も帰ってくる?」
「帰る」
「おじさんも帰るよ」
「うん」
また呼吸がゆっくりになる。
砂の海に流れ着いた少年は、今、隣にいる。
いつか離れる可能性を持ったまま、私の意思でここへ帰ってきた。
私も、ここにいる。
死んだ先輩の隣ではなく。
置いてきた後輩たちの前でもなく。
今日を一緒に終えた皆の中に。
明日の朝、給水ポンプが動く。
六人分の朝食を作る。
会議をして、授業を受ける。
カナタ君は販売車の車軸を直す。
私は作業線の外で昼寝をする。
夕食までに、二人とも帰る。
永遠より短い約束。
だから、明日になったら、また約束できる。
私は隣の呼吸を一度だけ確かめた。
今度は、安心して目を閉じた。