六人分の朝食を作った翌日、七人目がアビドスへ来た。
ただし、その人が校門をくぐるより先に、砲弾が校舎の壁をくぐった。
*
朝七時二十分。
俺は地下機械室で、補助ポンプの圧力計を見ていた。
修理から二日。針は規定値の少し下で安定している。応急処置をした軸受けから、異音も油漏れも出ていない。
直すためではなく、確かめるための仕事だった。
それでも、工具を持たずに圧力計を眺められることが、昨日までとは少し違っていた。
「八時から朝の会議。七時五十分には委員会室に来て」
昨夜、アヤネから渡された当番表にはそう書かれていた。
食事、掃除、洗濯、設備点検。
対策委員会の仕事とは分けられた、俺の生活の予定だった。
誰かが用意した紙の上に、自分の明日が一行だけある。
圧力計の数値を記録し、地下から上がる。
一階の廊下は、朝の光と砂に満ちていた。昨日閉めた窓の隙間から、細い砂が線になって床へ落ちている。
掃除当番のセリカが、箒を動かしながらその線を睨んでいた。
「また入ってる」
「窓枠じゃなくて、壁との継ぎ目だな」
「直せる?」
「埋める材料があれば」
「後で倉庫を見る。余ってたはずだから」
セリカはそう言ってから、何かに気づいたように箒を止めた。
「別に、仕事を作ってあげてるわけじゃないから」
「分かってる」
「本当に?」
「掃除する人間が困るから直す」
「そう。それならいい」
セリカはまた箒を動かす。
そこへ、長机を拭いていたノノミが顔を出した。
「カナタさん、おはようございます。地下はどうでした?」
「問題ない。今日も水は出る」
「よかったです~。では、点検表に丸をつけてくださいね」
「後でじゃ駄目か」
「駄目です。アヤネちゃんが、記録はその場で、と」
「監督が多いな」
「カナタさんは、放っておくと報告しませんから」
柔らかな言い方だが、反論は許されていない。
委員会室へ入る。
ソファでは、ホシノが古い毛布に半分埋まっていた。昨日直した置き時計が、頭のすぐ上で七時二十五分を指している。
俺が点検表へ丸をつけると、毛布の端から片目だけが覗いた。
「おはよ~」
「起きてたのか」
「今起きたよぉ。足音で」
「俺じゃない可能性もある」
「カナタ君の足音は分かるからねぇ」
「昨日からだろ」
「おじさんは観察力があるのです」
言いながら、ホシノはまた目を閉じる。
「シロコちゃん、まだ戻ってない?」
「まだです」
端末を操作していたアヤネが答えた。
「朝の自転車巡回へ出ています。七時半には戻る予定ですが……通信への応答がありません」
ホシノの片目が再び開く。
「最後に位置が取れたのは?」
「自治区西側、旧二十三号線です。六分前」
「通信障害?」
「学校側の回線は正常です。シロコ先輩の端末だけが圏外へ入った可能性があります」
「あの道、圏外になる場所あった?」
「通常はありません」
毛布が落ちた。
ホシノが立ち上がり、盾を取る。
眠そうな動きは、もうなかった。
「おじさん、見てくるね」
「私も行きます!」
「アヤネちゃんは通信を見てて。何かあった時、学校が空になる方が困るでしょ」
「でしたらセリカちゃんかノノミ先輩を」
「シロコちゃんが迷子になっただけなら、あとでたくさん笑えばいいよ。でも本当に何かあったなら、一人増えるまでの時間が惜しい」
軽い言葉の形をしていた。
けれど結論は固い。
ホシノは俺の横を通り、扉へ向かう。
「待て」
「ん?」
「俺が行くとは言わない。水筒」
机に置いてあった鯨の水筒を差し出す。
ホシノは瞬きをした。
「カナタ君のじゃないの?」
「借りてるだけだ。中身は入れた」
「じゃあ、もっと借りといてよ」
「もう一本ある」
ホシノは水筒を受け取る。
鯨の印を親指でなぞり、少し笑った。
「ありがと。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉が閉まる。
俺は廊下に残った砂を見た。
ホシノの足跡が、校門の方角へ続いている。
「……いつも一人で行くのか」
「止めても行ってしまう時があります」
アヤネが悔しそうに答えた。
「でも、今は先輩を信じるしかありません。私たちはここで、戻ってくる場所を守ります」
戻ってくる場所。
昨日から、何度も聞く言葉だった。
俺は委員会室へ戻り、自分にできることを探した。
*
七時三十八分。
シロコの通信が回復した。
『アヤネ、聞こえる?』
「シロコ先輩! 無事ですか?」
『無事。途中で倒れている人を見つけた』
「怪我人ですか?」
『たぶん違う。道に迷って、暑さで動けなくなってた』
「そんな状態は無事とは言いません!」
アヤネが救護箱の位置を確認する。
『水は飲ませた。意識もはっきりしてる。今、ホシノ先輩と合流した』
「その方のお名前と所属は?」
わずかな雑音。
それから、シロコではない声が入った。
『シャーレの先生です。連邦生徒会から、アビドスの状況を確認するよう頼まれて来ました』
大人の声だった。
疲れてはいるが、言葉は明瞭だった。
室内の全員が端末を見る。
「先生……?」
アヤネが立ち上がる。
『詳しい話は学校で。あと十分くらいで着く』
『自転車なら五分』とシロコ。
『先生は自転車に乗ってないからね』
ホシノの声が続いた。
『アヤネちゃん、来客一名。お茶の用意よろしく~』
「はい。ですが先に、連邦生徒会へ照会を――」
言葉の途中で、回線に別の音が割り込んだ。
低い、連続した破裂音。
俺には、聞き覚えがあった。
港の祭りで鳴る空砲より鋭い。
白鴎丸の船上で、海賊対策の訓練映像を見た時に聞いた音に近い。
銃声。
『止まって』
ホシノの声から、すべての柔らかさが消えた。
『シロコちゃん、先生を壁際へ。右前方、廃ビル二階』
『確認した』
『アヤネちゃん。学校、聞こえる?』
「聞こえます!」
『襲撃。ヘルメット団。私たちを追ってるんじゃない。学校へ向かってる』
直後、外から爆発音がした。
窓硝子が震える。
セリカが箒を投げ、銃を取った。
「またあいつら!?」
「校門前に車両二、三……増えます。先行部隊が侵入!」
監視映像を開いたアヤネの声が上ずる。
「ノノミ先輩、セリカちゃん、防衛配置へ! ホシノ先輩たちの到着まで持ちこたえてください!」
「はい~。正面は任せてください」
「今度こそ二度と来たくなくなるくらい追い返してやるんだから!」
二人が走り出す。
俺も廊下へ出ようとした。
「汐見さんは地下避難室へ!」
「何かできることは」
「避難してください!」
「この学校に、ほかの避難者は」
「いません。生徒は私たち五人だけです!」
なら、アヤネが避難させようとしているのは俺一人だ。
胸の奥が重くなる。
「俺一人のために手を使うな。避難室の場所は分かる」
「でしたらすぐ移動を。走らず、窓から離れて!」
アヤネはもう端末へ視線を戻していた。
校内放送の起動ボタンを押す。
何も流れない。
「放送設備、応答しません。外部スピーカーもです!」
「電源か?」
「主電源は来ています。昨日の動作確認も正常でした」
また爆発。
今度は近い。
天井から砂と白い粉が落ちる。
端末の監視映像が半分消えた。
「西棟の中継盤が……」
「場所は」
「でも、汐見さんは」
「避難路の途中にあるなら見る」
「途中ではありません!」
「じゃあ、そこまで避難させろ。直せなければ地下へ行く」
アヤネが唇を噛む。
校門側から銃声が近づく。
通信には、セリカの怒鳴り声とノノミの射撃音が重なっていた。
「……三分だけです。西棟一階、旧放送準備室。危険なら作業を中止。私が同行します」
「指揮は」
「携帯端末から続けます」
アヤネはヘッドセットをつけ、救護箱を背負った。
「私から離れないでください」
それは、戦えない人間へ向けた指示だった。
俺は頷いた。
*
西棟へ渡る廊下には、すでに二箇所、銃弾の穴が開いていた。
外ではノノミが正面通りへ弾幕を張り、セリカが校門の遮蔽物から応戦している。
銃弾が壁へ当たるたび、乾いた欠片が床を跳ねた。
俺には、音の違いが分からない。
どれが遠く、どれが自分へ向かっているのか。
海では、機関の振動や波の音から異常を探した。
ここでは、すべての音が異常だった。
「止まって!」
アヤネに肩を引かれる。
一瞬後、廊下の窓を銃弾が抜けた。
硝子が細かく砕け、二人の前へ降る。
「低く。窓の下を進みます」
「分かった」
膝をつき、壁沿いに進む。
旧放送準備室の扉は、衝撃で枠が歪んでいた。
俺が取っ手を引く。
開かない。
「下がってください」
アヤネが銃を構える。
「蝶番を撃つのか?」
「はい」
「待て。弾を使うな」
工具巻きから平たいドライバーを抜く。扉の隙間へ入れ、体重をかける。
胸の奥が痛んだ。
完全には治っていない。
二度目で錠の受け金具が外れた。
室内には古い机と、壁一面の中継盤がある。
焦げた匂い。
主幹の表示灯は点いている。だが、出力側がすべて消えていた。
「直撃ではない」
俺は盤を開ける。
「振動で遮断器が落ちた?」
「それなら戻せば――」
「待て」
アヤネの指を止める。
焦げ跡を追う。
古い配線が一本、端子から抜け、隣の金具へ触れている。遮断器だけを戻せば、また短絡する。
「絶縁材」
「救護用のテープなら」
「借りる」
電源を落とす。
抜けた線の先を切り、被覆を剥き直す。端子を締め、テープで固定する。
手が震えていた。
細かい作業には邪魔になる。
息を止める。
白鴎丸の機関室でも、嵐の中で緩んだ端子を締めた。
あの時は、壁の向こうに海があった。
今は、壁の向こうに銃弾がある。
『アヤネ! 正面、多すぎ!』
セリカの声。
『左からも回り込んでます~!』
「ホシノ先輩、現在地は!」
『南門まで二百。シロコちゃん、先に合流して』
『了解』
『先生は私の後ろから出ないで』
短い言葉。
俺は端子を締める手を止めそうになった。
ホシノの声だと分かる。
だが朝、毛布の中から「おはよ~」と言った人と同じには聞こえなかった。
迷いがない。
誰かに任せて眠る声ではない。
全員の命を自分の判断へ乗せる声だった。
「カナタさん、あと何秒ですか」
アヤネも同じ声をしている。
「二十」
「十五秒でお願いします」
「無茶を言うな」
「先輩なら十二秒で終わらせます!」
「比べる相手がおかしい」
最後のねじを締める。
「戻すぞ」
遮断器を上げた。
表示灯が一列ずつ点く。
廊下のスピーカーから、短い起動音が流れた。
「復旧しました!」
アヤネがすぐマイクへ切り替える。
『外周放送を使用します。自治区西側の住民は窓から離れ、アビドス高校方面へ近づかないでください。繰り返します――』
次に監視映像を戻す。
「ホシノ先輩、北側路地に敵車両一。正面部隊の後方、給水塔の陰に指揮役がいます!」
『了解。ノノミちゃん、正面をそのまま。セリカちゃん、三秒後に右へ』
『三秒って、何が――』
『今』
外で重い射撃音が響く。
盾を前へ出したホシノが、南門から通りへ踏み込んだ。
その背後を、シロコが駆け抜ける。
セリカが反射的に右へ跳んだ場所を、敵の銃弾が抜けた。
『危なっ……先に言ってよ!』
『言ったよ』
『理由を!』
『怒るのはあと。シロコちゃん、給水塔』
『見えてる』
短い射撃。
監視映像の端で、指揮役が遮蔽物から転がり出た。
敵の列が乱れる。
ノノミの弾幕が道を分け、セリカが前へ出る。
「先生、指示をお願いします!」
アヤネが通信へ呼びかけた。
『正面へ追い込むだけでは、また左右へ散開します』
先ほどの大人の声が返る。
『シロコは北の車両を止めて。ノノミは射線を少し西へずらす。セリカは前へ出すぎず、逃げ道を一つ残して。ホシノ、その道へ誘導できますか』
『できるよ』
ホシノの返事には、ほんの少しだけ普段の柔らかさが戻った。
それでも盾は下がらない。
先生の指示が、五人の動きを一本へまとめていく。
敵を倒しきるのではない。
退く方向を選ばせ、校舎から遠ざける。
アヤネが監視映像と人数を伝える。
シロコが車両の足を止める。
ノノミが横道を塞ぐ。
セリカが残った道へ敵を押す。
そしてホシノが、一番前で銃弾を受け止めた。
俺は初めて、対策委員会の戦いを最初から見た。
誰か一人が強いから成り立つのではない。
五人の間にあるものを、アヤネの声と先生の判断が形にしていた。
自分が入れる場所ではない。
入ってはいけない場所でもある。
その事実は苦かった。
けれど、昨日までと違い、それだけではなかった。
「放送はまだ要るか」
「はい。周辺道路の安全確認が終わるまで継続します」
「なら、予備電源へ切り替えられるようにする。次の衝撃で主電源が落ちるかもしれない」
「できますか?」
「五分」
「お願いします」
自分の場所は、戦列の中になくてもよい。
今は、そう思えた。
*
予備電源へつなぐ配線を探している時、校舎の西側へ一発の砲弾が落ちた。
爆発は壁の向こうだった。
室内の机が跳ね、盤の扉が開く。
「伏せて!」
アヤネに押され、俺は床へ倒れた。
壁の上部が砕ける。
金属片とコンクリート片が、放送準備室へ飛び込んだ。
左腕に、熱いものが走った。
痛みより先に、衝撃で息が止まる。
「汐見さん!」
「大丈夫だ」
「今、何か当たりませんでしたか?」
「壁の粉だけだ」
左袖が裂けている。
その下に細い傷が見えた。
血は滲んでいるが、腕は動く。
俺はすぐ袖を押さえた。
「予備線は見つけた。つなぐ」
「ですが――」
『アヤネちゃん』
通信からホシノの声がした。
『西棟に着く。二人の状態を教えて』
「私は無傷です。汐見さんは――」
「無傷だ」
俺は端末へ向かって言った。
一秒、返事がない。
『そこから動かないで』
低い声だった。
『作業も止めて。今行く』
「あと一本で終わる」
『止めて』
同じ言葉。
今度は命令だった。
俺の手が止まる。
廊下から走る音が近づいた。
扉が開く。
盾を持ったホシノが、粉塵の中へ入ってきた。
服には砂と弾痕がついている。頬にも黒い汚れがある。
まずアヤネを見る。
次に俺を見る。
立っていることを確かめても、表情は緩まなかった。
「地下へ」
「放送の予備電源が」
「私が運ぶ」
「配線は」
「カナタ君」
名前を呼ぶだけで、言葉を切られた。
ホシノが盾をアヤネへ預ける。
空いた手で俺の右手首をつかんだ。
「歩ける?」
「歩ける」
「息は?」
「できてる」
「胸は痛い?」
「少しだけ」
「じゃあ、ゆっくり。私の後ろから出ないで」
今朝、先生へ向けていたのと同じ言葉だった。
守る対象へ出す声。
俺は引かれるまま、廊下へ出た。
窓の外では、ヘルメット団が退き始めている。
シロコたちが追撃し、校門から遠ざけていた。
「もう終わるんじゃないのか」
「終わるまでが一番危ない」
「アヤネを一人にしていいのか」
「先生とみんながいる。予備電源はアヤネちゃんがつなげる」
「でも」
ホシノが足を止めた。
「君は銃弾で死ぬんだよ」
静かな声だった。
「私たちと同じだと思わないで」
違う。
分かっていたはずだった。
実際に銃弾が飛ぶ場所で言われると、その意味が変わる。
ホシノの服についた弾痕の下には、大きな傷がない。
俺の左腕は、たった一つの小さな破片で熱を持っている。
「ごめん」
「謝るのはあと」
ホシノはまた歩き出す。
つかんだ右手首へ、二本の指を当てたまま。
脈を数えている。
*
八時十一分。
ヘルメット団は自治区西側へ撤退した。
学校の外壁と窓、校門、監視設備に損傷。人的被害なし。
アヤネが読み上げた速報に、全員が息を吐いた。
地下避難室から出た俺は、校門前で五人と先生を待った。
砂埃の向こうから、最初にシロコが戻る。
自転車を押していた。前輪が歪み、片方のペダルがなくなっている。
「壊れた」
俺を見るなり、シロコは言った。
「見れば分かる」
「直せる?」
「あとで見る」
「うん。あとで」
次にセリカとノノミ。
「ほんっと最悪! 朝から何なのよ!」
「でも、皆さん無事でよかったです~」
その後ろに、見慣れない大人がいた。
砂で汚れた服。額には汗。特別に強そうには見えない。
銃も持っていなかった。
けれど、対策委員会の五人がその人の言葉を聞き、動いた。
先生は校舎の損傷を見上げた後、俺へ視線を向けた。
「あなたが、汐見カナタ?」
「俺を知ってるんですか」
「来る途中で、ホシノとシロコから聞きました。アビドスが保護している、外から来た十七歳だと」
先生は俺の頭上を見る。
そこに何もないことを確認したのだろう。
「放送を直してくれたそうですね。ありがとう。周辺への避難案内が間に合いました」
「アヤネが場所を教えたからです」
「それでも、作業をしたのはあなたです」
礼を言われると思っていなかった。
返事を探していると、先生が少し表情を変えた。
「ただし」
声は穏やかなままだった。
「次からは、避難命令に従ってください」
「でも、俺しか直せない時は」
「その時は、直す必要とあなたの安全を、指揮する側が比べます。あなた一人に決めさせません」
「俺は生徒じゃありません」
「十七歳でしょう」
「ここでは、皆が自分で戦ってる」
「それと、あなたを危険な作業へ出していいことは別です」
先生は迷わず言った。
「私は、未成年者を労働力として数えるために来たわけではありません」
返す言葉がなかった。
大人。
俺の知る大人は、父と母、学校の教師、港の職人たちだった。
誰もが仕事を教え、できた分だけ一人前として扱った。
目の前の先生は、できることを認めたうえで、やらせない責任を口にした。
それが正しいのかは、まだ分からない。
ただ、今まで会ったキヴォトスの誰とも違った。
「先生、立ち話はそのくらいで~」
ホシノが二人の間へ入った。
いつの間にか、声は普段の柔らかさへ戻っている。
「せっかく遠くまで来てもらったところ悪いんだけど、うちの学校、見ての通りボロボロでねぇ。お茶もたぶん砂入りだよ」
「それでも構いません」
「うへぇ。大人って物好きだなぁ」
笑いながら、ホシノの右手が俺の背中へ触れた。
「カナタ君は保健室」
「怪我はしてない」
「胸の検査だけ」
「もう痛くない」
「さっきは少し痛いって言ったよね」
「聞いてたのか」と先生。
「おじさん、耳はいいからねぇ」
「なら、検査を受けてください」
先生まで加わる。
俺は周囲を見る。
シロコは当然という顔で頷く。
セリカは腕を組み、ノノミは救護箱を持っている。アヤネはすでに保健室の診断機を遠隔起動していた。
「……分かりました」
「素直でよろしい」
ホシノが背中を押す。
左側ではなく、右側から。
偶然だった。
裂けた袖は、工具巻きを抱えた腕の内側へ隠れている。
血はもう止まったように見えた。
今は、先生と対策委員会の話が先だ。
あとで自分で洗えばいい。
そう考えて、俺は保健室へ歩いた。
左腕を動かすたび、皮膚の下で小さな破片が痛んだ。
*
――Hoshino side
先生を学校へ案内する間、三度、振り返った。
一度目は、カナタ君がちゃんと保健室へ向かったか確かめるため。
二度目は、足取りがおかしくないか確かめるため。
三度目には、理由がなかった。
カナタ君はいつもどおり歩いていた。
右手に工具巻き。左手には、鯨の水筒。
それでも、校舎へ砲弾が落ちた瞬間のことが、頭から離れない。
通信の向こうで、何かが砕けた。
アヤネちゃんが名前を呼んだ。
カナタ君が「大丈夫」と言った。
その三つを聞いた時、敵がまだ正面にいることを忘れかけた。
盾を投げ出して西棟へ走りたくなった。
私が抜ければ、みんなへ弾が届く。
先生の指示がなければ、判断を誤っていたかもしれない。
戦闘が終わる前に西棟へ戻れたのは、先生とみんなが敵の退路を作ったからだ。
放送準備室でカナタ君を見つけた時、立っていることに安心した。
次に、腹が立った。
どうして命令を聞かないのか。
どうして自分だけは大丈夫だと思うのか。
どうして、私が死んだ後に残る側のことを考えないのか。
全部言いたかった。
でも、戦っていたのはカナタ君ではない。
戦えないのに、できることを探したのだ。
昨日、私がいてほしいと言ったから。
ここにいる理由を、また仕事にしようとしたのかもしれない。
それなら怒るだけでは駄目だった。
仕事をしなくてもいてよいと、一度言ったくらいでは足りない。
何度でも言わなければならない。
カナタ君が信じられるまで。
先生と委員会室へ入る前に、もう一度だけ廊下を見る。
保健室の扉が閉まった。
私は私の手首へ指を当てた。
さっき触れたカナタ君の脈の速さが、まだ指先に残っている。
生きている。
帰ってきた。
今日もいる。
「ホシノ先輩?」
アヤネに呼ばれ、手を下ろす。
「何でもないよ~。それじゃあ先生、改めてようこそ。全校生徒五人の、立派な学校へ」
六人とは言わなかった。
カナタ君は生徒ではない。
対策委員会でもない。
それでも、砲弾が落ちた時、真っ先に無事を知りたいと思った。
五人の学校にできた、別の一人分の居場所。
その名前を、私はまだ知らなかった。