午後九時になっても、セリカは帰らなかった。
玄関には、六人いた。
俺とホシノ。
校門の見回りを終えたシロコ。
記録端末を持ったアヤネ。
湯気の立つ茶を盆に載せたノノミ。
そして、明朝いったんシャーレへ戻る予定だった先生。
誰も、迎える言葉を口にしない。
外から聞こえるのは、砂が舗装を転がる音だけだった。
*
九時二分。
アヤネがセリカの端末へ発信する。
呼び出し音は鳴らない。
「電源が切れています」
「店へ」とホシノ。
「今、かけます」
柴関ラーメンへ接続する。
数回の呼び出しの後、低い男の声が出た。
アヤネが名前と所属を告げる。
「セリカちゃんは、何時にお店を出ましたか」
全員が端末へ近づく。
『八時二十分頃だ。今日は客が少なくてな。早く上がってもらった』
「途中まで、どなたか一緒では」
『俺が送ると言ったんだが、片づけが残ってた。あいつは一人で大丈夫だって……まだ帰ってないのか?』
「はい。通常なら三十分ほどの道です」
『すまない。すぐ探しに――』
「店長さんはお店にいてください」
ホシノが端末へ入る。
声は穏やかだった。
「お店の戸締まりをして、外へ出ないで。最近、この辺りにヘルメット団が来てるから」
『だが、セリカが』
「私たちが迎えに行きます」
断言した。
通信を切る。
その瞬間、穏やかさも消えた。
「アヤネちゃん、最後の位置。シロコちゃんは出発準備。ノノミちゃん、装備。先生」
「一緒に行きます」
「お願いします」
短いやり取りだった。
俺も壁から背を離す。
「俺は」
「待ってて」
ホシノが先に言った。
「でも」
「昨日の約束、覚えてる?」
「危険なら戻る」
「今は、危険なところへ行かない」
「セリカが通った道なら分かる。学校から店までの水道管を調べた時、古い図面を見た」
「カナタ君」
「前へは出ない。アヤネと学校にいる」
ホシノが止まる。
俺は左腕を吊ったまま、右手を上げた。
「痛みは二。痺れ、出血、熱はない。工具も持ってない」
先に報告する。
ホシノの目から、拒絶の硬さが少しだけ抜けた。
「地図を見るだけ?」
「それだけ」
「外へ出ない?」
「出ない」
「何かあったら」
「報告する」
一つずつ答える。
ホシノが俺の右袖をつまんだ。
「じゃあ、待ってて」
「ここで待つ」
「ちゃんと?」
「帰ってきたら、おかえりを言う」
指へ力が入る。
「……うん」
ホシノは袖を離した。
玄関を出る。
シロコ、ノノミ、先生が続く。
「行ってきます」
最後にホシノが振り返る。
「行ってらっしゃい」
四人が夜の道路へ消えた。
俺は見えなくなった背中から目を離し、アヤネと委員会室へ走らず戻った。
*
セリカの端末は、午後八時三十四分に通信を失っていた。
最後の位置は、柴関ラーメンから学校へ続く大通りの中間。
閉鎖された商店街と、古い集合住宅に挟まれた区画だった。
「監視映像は?」
「自治区側の街路カメラは、砂で半分が停止しています。動いている二台にも、セリカちゃんは映っていません」
「襲撃で壊された可能性は」
「最後の位置周辺だけ、八時三十分から映像が乱れています」
「待ち伏せだな」
アヤネが唇を噛む。
「ヘルメット団の通信を探します」
受信機の周波数を切り替える。
雑音。
遠くの違法放送。
自動販売機の保守信号。
そして、短い音声が混じった。
『……荷物は確保。予定より早い。第三……側へ移動……』
通信が途切れる。
「もう一度」
「録音しました」
アヤネが雑音を除く。
『荷物は確保。予定より早い。第三貯水槽側へ移動する』
「第三貯水槽」
「現在の自治区設備には、その名称はありません」
「古い図面を」
俺が書庫へ向かう。
走らない。
左腕を揺らさない。
約束を守ることが、今は時間を奪う。
それでも破れば、ホシノは次から自分を残せなくなる。
書庫の棚から、水道設備の台帳を探す。
補助ポンプを直す前に、アヤネから見せてもらった資料だった。
自治区の水道は、砂漠化の前後で何度も引き直されている。
現在の配管図。その下に、旧市街の青焼き図面。
「あった」
第三高架貯水槽。
学校と柴関ラーメンの中間から、北東へ二キロ。
廃止された給水所の敷地内にある。
「地図上では、ここへ行く道は崩落しています」
アヤネが現在地図を重ねる。
「大通り側の橋が落ちてる。車では入れません」
「だから『側』と言った」
俺は青焼き図面の端を見る。
貯水槽そのものではない。
そこから南へ、古い管路が延びている。
「この点線は?」
「保守用道路です。地下管の点検車両が使っていたものですが、廃止後の記録は……」
「現在の道路と重ねてくれ」
二枚を透過する。
点線は商店街の裏へ抜け、倉庫区画を通り、貯水槽の西側で終わっていた。
現在地図では、途中から砂地として空白になっている。
「道路がなくなったんじゃない。図面から消えただけかもしれない」
「車両が通れる状態なら、監視カメラを避けて給水所側へ移動できます」
アヤネが通信を開く。
「ホシノ先輩。聞こえますか」
『聞こえる』
「敵通信に第三貯水槽。旧第三高架貯水槽を確認しました。ただし目的地はその西側、旧保守道路沿いの倉庫区画と推定します」
『根拠は?』
「カナタさんが旧配管図から、現在地図にない車両路を見つけました」
一秒の間。
『カナタ君は?』
「学校です。外へ出ていません」
『体は?』
「痛み二。痺れ、出血、発熱なし」
「本人に言わせて」
ホシノの声が近くなる。
『カナタ君』
「いる」
『左腕』
「変化なし」
『嘘は?』
「ない」
『そっか』
短く息を吐く音。
『道を教えて』
俺は図面を見る。
「現在地から一つ南の交差点。東へ曲がる。二百メートル先に閉鎖された洗車場がある。その裏へ旧道の入口」
『地図には壁がある』とシロコ。
「昔の門だ。車止めだけなら、人は通れる」
『確認する』
『先生、どうしますか』
ホシノが尋ねる。
『シロコが先に入口を確認。罠なら入らず戻る。ホシノとノノミは大通り側から給水所へ近づき、敵の注意を引いてください。私はシロコと旧道へ入ります』
『先生は後ろ』
『分かっています』
『本当に?』
『カナタよりは聞き分けがいいつもりです』
『比べる相手が悪いねぇ』
ホシノの声に、一瞬だけ柔らかさが戻った。
俺は端末を見る。
「聞こえてるぞ」
『聞かせたんだよ~』
「通信を私用に使わないでください!」
アヤネの叱責で、全員が動き始めた。
*
セリカは、古い倉庫の柱へ両手を縛られていた。
それを最初に確認したのはシロコだった。
旧保守道路から倉庫区画へ入り、割れた高窓の隙間から内部を見る。
『セリカを確認。意識あり。敵、室内に六。外に四。車両一』
「怪我は」とアヤネ。
『頬に傷。ほかは見えない』
通信の向こうで、セリカの声がかすかに入る。
『誰があんたたちなんかに話すもんですか! 絶対、先輩たちが――』
途中で、何かを叩く音。
ホシノの呼吸が止まった。
俺にも分かった。
前へ出ようとする時の沈黙だった。
『ホシノ』
先生が名前を呼ぶ。
『分かってる』
声は硬い。
『指示を』
『正面の敵へ姿を見せ、セリカから離してください。深追いはせず、倉庫の東側を空ける。シロコは東からセリカへ。ノノミは車両と出口を押さえて』
『先生は?』
『シロコの後方で、敵の移動を伝えます』
『前へ出ないで』
『約束します』
俺は、そのやり取りを聞いた。
昨日、自分とホシノが交わしたものと似ている。
行くなと閉じ込めるのではない。
どこまで行くか決め、戻ることを約束する。
「始まります」
アヤネが画面を切り替える。
給水所周辺の古い監視設備は死んでいる。
映像はない。
音と、四人の声だけが届く。
『お待たせ~』
最初にホシノの声。
『うちの可愛い後輩に、何してくれてるのかなぁ』
語尾は柔らかい。
その下に、冷たいものがある。
敵の怒号。
銃声。
ノノミの機関銃が、車両の前へ弾幕を張る。
『正面、八人。二人が倉庫へ戻る』と先生。
『止める』
ホシノの盾へ、連続して弾が当たる。
『シロコ、今です』
『入る』
短い破裂音。
扉の錠が撃ち抜かれる。
『セリカ』
『シ、シロコ先輩!?』
『助けに来た』
『どうしてここが――』
『話はあと。伏せて』
銃声。
『東側から敵三。シロコ、五秒』と先生。
『足りる』
縄の切れる音。
『走れる?』
『当たり前です!』
『なら、先生のところへ』
『せ、先生も来てるの!?』
『来てる』
『何でよ!』
『先生だから』
『それ、答えになってない!』
声は怒っている。
だが、走っている。
俺は無意識に右手を握っていた。
アヤネも端末へ近づいている。
『セリカを確保。旧道から離脱します』と先生。
「ホシノ先輩、ノノミ先輩。セリカちゃんを確保しました!」
『聞こえたよ』
ホシノの声。
『ノノミちゃん、下がるよ。追ってきた子だけ転ばせてあげよっか』
『はい~!』
数秒後、大きな衝撃音が響いた。
『転ばせる音じゃない』と口にした。
『ちょっと派手に転んだだけだよ~』
軽口が戻っている。
救出できた。
その意味だった。
*
午後十時十一分。
玄関の外に、五人の影が見えた。
先生。シロコ。ノノミ。ホシノ。
その真ん中に、セリカがいる。
白いシャツは砂で汚れ、エプロンの紐が片方切れていた。頬に浅い擦り傷がある。
それでも、自分の足で歩いている。
俺は玄関の扉を開けた。
「おかえり」
誰へ向けるか迷わず、全員へ言った。
「ただいま」
最初に返したのはホシノだった。
シロコとノノミが続く。
先生も「ただいま」と言った。
セリカだけが、唇を結んでいる。
俺は待った。
「……ただいま」
小さな返事。
アヤネが駆け寄り、セリカを抱きしめた。
「セリカちゃん!」
「ちょ、ちょっとアヤネ! 苦しい!」
「本当に、心配したんですよ!」
「分かった! 分かったから!」
ノノミも二人をまとめるように抱く。
シロコは隣に立ち、セリカの頭へ手を置いた。
「無事でよかった」
「……ごめんなさい」
ようやくセリカの声から、怒りが消えた。
ホシノは少し離れた場所で、その光景を見ている。
いつもの笑顔だった。
俺は、その右手が小さく震えていることに気づいた。
「ホシノ」
「ん~?」
「痛みは二。痺れ、出血、熱なし。外にも出てない」
「今、聞いてないよ?」
「聞きそうだった」
「そっかぁ」
ホシノが近づく。
俺の右袖をつまんだ。
「ちゃんと待ってたね」
「約束した」
「うん。おじさんも、ちゃんと帰ってきたよ」
「見れば分かる」
「見て分かるの、大事だよ」
袖を離さない。
俺も、そのままにした。
少しして、セリカが先生の前へ立った。
「先生」
「はい」
「どうして来たの」
倉庫でも聞いた問いだった。
「あなたが危険だったからです」
「私、先生のこと信用してないって言った」
「知っています」
「助けてなんて頼んでない」
「はい」
「それでも来たの?」
「助けを求められる状態ではないと思ったので」
セリカは俯く。
「……勝手」
「すみません」
「謝らないでよ」
顔を上げる。
頬の擦り傷とは反対側が、少し赤い。
「助けてくれて、ありがと」
早口だった。
先生が何か返す前に、セリカは保健室へ逃げるように入った。
アヤネとノノミが追う。
シロコもついていく。
先生は、その背中へ小さく頷いた。
「一歩ですね」と口にした。
「聞こえていたんですか」
「全員に聞こえてた」
「忘れてあげてください」
「無理だと思うよ~」
ホシノが笑った。
右袖をつまんだまま。
*
翌日の夕方。
セリカの頬には、小さな保護テープが貼られていた。
本人は休むよう言われたが、柴関ラーメンの店長へ無事を見せたいと言い張った。
結局、対策委員会全員と先生、俺まで店へ行くことになった。
俺の左腕はまだ吊られている。
外出許可の条件は、往復とも全員同行。重量物を持たない。痛みが増えたらすぐ戻る。
「病人が増えたみたい」とセリカ。
「お前も病人だろ」
「私は擦り傷だけ!」
「俺も二針だけだ」
「金属片が刺さってたでしょ!」
「二人とも病人です」
アヤネが結論を出した。
柴関ラーメンの店長は、セリカを見るなりカウンターを回ってきた。
頭から足まで無事を確かめ、何度も謝った。
セリカも、自分が一人で大丈夫と言ったのだと何度も返した。
「今日は働かなくていい。座って食え」
「でも、片づけが」
「店長命令だ」
最後は、追い払うように席へ座らされた。
八人分のラーメンが並ぶ。
借金を知った後では、外食一回にも金額が見える。
だが店長は代金を受け取らなかった。
「セリカを連れて帰ってくれた礼だ。食え」
先生が頭を下げる。
対策委員会の全員も続く。
俺も右手だけで丼を支え、温かい麺を食べた。
「どう?」
セリカが聞く。
「うまい」
「それだけ?」
「出汁が濃い。塩気は強いけど、砂漠で働いた後ならちょうどいい。麺は少し硬め」
「急に細かい!」
「聞いたのはお前だ」
「でも、まあ」
セリカは少し胸を張る。
「おいしいでしょ。私の働いてる店なんだから」
「セリカが作ったのか?」
「今日は店長よ!」
「じゃあ店長の店だ」
「そういう意味じゃなくて!」
皆が笑う。
先生も笑った。
セリカは怒りながら、先生の空いた器へ水を足した。
無意識のようだった。
*
店を出る頃には、空が暗くなっていた。
帰り道は、昨夜セリカが消えた道を避けなかった。
シロコが先頭。
アヤネとセリカが地図を確認する。
ノノミと先生が、その後ろ。
俺とホシノは、少し遅れて歩いた。
通りの角には、昨夜の待ち伏せ跡が残っていた。
割れた街灯。
路面のタイヤ痕。
落ちたエプロンの留め具。
セリカは一度立ち止まったが、何も言わず先へ進んだ。
全員が一緒だった。
今夜は、連れ去られない。
「カナタ君」
ホシノが右袖をつまむ。
「どうした」
「歩くの、速いよ」
「皆と同じだ」
「怪我人なんだから、ゆっくり」
「左腕だけだ」
「転んだら左腕もぶつけるでしょ」
「転ばない」
「危ないことをする人の『大丈夫』は信用できないからねぇ」
「大丈夫とは言ってない」
「抜け道を探した」
言い返せない。
俺は歩幅を少し狭くした。
ホシノも合わせる。
「昨日、セリカが帰ってこなかった時」
「うん」
「ホシノが、すぐ動いた」
「委員長だからねぇ」
「怖くなかったのか」
「怖かったよ」
今度は、少しと誤魔化さなかった。
「でも、怖いから迎えに行くんだよ」
「誰でも?」
「対策委員会のみんなは、もちろん」
袖をつまむ指が動く。
「カナタ君も」
「俺は委員会じゃない」
「知ってる」
「生徒でもない」
「それも知ってる」
「じゃあ、どうして」
ホシノは少し考えた。
夕べと同じように、理由へ名前をつけようとする。
「帰ってきてほしい人だから」
声が、夜の通りへ溶ける。
俺は足を止めかけた。
袖をつままれているため、ホシノも止まる。
「何?」
「いや」
胸の奥が、怪我とは違う場所で痛んだ。
痛いのに、嫌ではなかった。
「帰ってこなかったら、迎えに来るんだろ」
「うん」
「なら、戻る」
「うん」
「何度も言わせるな」
「何度でも聞きたいなぁ」
ホシノは笑う。
袖をつまむだけだった指が、少し下へ滑った。
俺の手の甲へ触れる。
手をつなぐには、まだ遠い。
けれど、服の上だけでもない。
指先だけの温度が、夜風の中に残る。
前を歩くセリカが振り返った。
「二人とも遅い!」
「病人だから、ゆっくり歩いてるんだよ~」
「ホシノ先輩は怪我してないでしょ!」
「おじさん、心がちょっと」
「元気そうじゃない!」
ホシノは笑いながら歩き出す。
指先は、俺の手の甲へ触れたまま。
俺も、今度は離してほしいと言わなかった。
*
――Hoshino side
セリカちゃんが帰ってきた。
カナタ君も、約束どおり待っていた。
二人分の呼吸を確かめた夜だった。
セリカちゃんは、先生へありがとうと言った。
カナタ君は、先生の指示を聞きながら、私の役割だけを選んだ。
私がそばにいなくても、工具を持たず、外へ出ず、怪我を報告した。
信じて残してきてよかった。
その事実が、怖いほど嬉しい。
カナタ君を守ることと、カナタ君を信じること。
どちらか一つではなくてよいのかもしれない。
それでも、帰り道では袖をつかんだ。
昨夜セリカちゃんが消えた場所を通る間だけ、と私に言い訳した。
その場所を過ぎても、離さなかった。
指が滑って、手の甲へ触れた。
カナタ君は何も言わない。
振り払わない。
だから、あと一センチだけ。
指を下へ伸ばす。
手をつなぐ直前で止める。
今日は、ここまで。
帰ってきてほしい人。
それが何という名前の気持ちなのか、もう少しだけ知らないふりをしていたかった。