三日後、俺は工具を返してもらった。
その日の夜、売ろうとした。
*
朝の再診で、左上腕の傷は順調に閉じていた。
発熱なし。腫れなし。指の痺れなし。
抜糸までは左腕で重いものを持たない。強く引く、押す、ひねる作業は禁止。
その条件付きで、右手だけの軽作業が許可された。
「本当に軽作業だけですよ」
アヤネが診断結果を読み上げる。
「ねじを回すくらいなら」
「固着していないねじを、です」
「配線は」
「低電圧で、電源を落とし、座った状態なら」
「自転車は」
「片手で直すつもりですか?」
保健室の壁際で、シロコが前輪を抱えて待っている。
「私が支える」
「そういう問題ではありません」
「手順を教えるだけなら」と口にした。
「それなら許可します。ただし作業するのはシロコ先輩です」
「分かった」
シロコは前輪を持ち上げる。
「カナタ。工具」
「旧進路指導室だ」
「取りに行く」
「シロコ先輩。一人では分からないでしょう。汐見さんと一緒に、ゆっくり移動してください」
「うん」
シロコは俺の右側へ立つ。
歩き出そうとすると、反対側からホシノが現れた。
両手に鯨の水筒を持っている。
「どこへ行くのかなぁ」
「工具を取りに」とシロコ。
「おじさんも行くよ」
「三人はいらない」
「カナタ君の監督が必要だからねぇ」
「私が監督する」
「シロコちゃんは自転車に夢中になるでしょ?」
「否定できない」
「ほらぁ」
ホシノは俺の右手へ水筒を渡す。
鯨の白いシールは、前よりきれいになっていた。
「洗った?」
「うん。消毒して、乾かして、中も三回すすいだよ。血の跡、残ってないでしょ」
親指で鯨の尾をなぞる。
白いままだった。
「シールが剥がれなくてよかった」
「大事なのはそこか」
「そこも大事」
ホシノはもう一本の水筒を見せる。
「今日はおじさんの分もあるから、貸してあげないよ~」
「元々そっちのだろ」
「カナタ君に貸した方は、もうカナタ君の場所にあるからねぇ」
所有者はホシノのまま。
置き場所だけが俺のところになった。
その言い方が、少し嬉しかった。
*
シロコの自転車は、前輪のリムが歪み、片方のペダル軸が曲がっていた。
交換部品はない。
廃車になった自転車を倉庫から一台運び、使える部品を外すことになった。
俺は椅子に座る。
工具巻きを開き、必要な道具を右手で選ぶ。
シロコが作業する。
ホシノはその隣で、俺が左手を使わないか見張っていた。
「そのナット。反時計回り」
「固い」
「浸透油を少し。五分待つ」
「待てない」
「待たないと頭が潰れる」
「叩く?」
「叩かない」
「切る?」
「切らない」
「爆破は?」
「自転車を直す話だよね?」
ホシノが確認する。
「最終手段」とシロコ。
「最初から忘れろ」
五分待つ間、シロコは工具巻きを見た。
「古い」
「父さんと港の職人からもらったものが多い」
「この柄、直してある」
小さなレンチの木製の柄に、細い金属帯が巻かれている。
「中学に入った時、最初に折った。父さんが直した」
「捨てなかった?」
「まだ使える」
「うん。使えるものは捨てない」
シロコは理解したように頷く。
ホシノは何も言わず、工具巻きを見ていた。
俺の帰る場所につながるもの。
その意味を、覚えたようだった。
*
昼、先生から連絡が入った。
セリカを拉致したヘルメット団の装備に、雇用契約を示す符号が残っていたという。
依頼主の名は直接書かれていない。
ただ、最近アビドス周辺で活動を始めたゲヘナのグループが、まとまった金を受け取っているらしい。
「そのグループが、便利屋68?」
アヤネが端末の照会結果を読む。
「ゲヘナ学園の生徒4名で構成された、非公認に近い請負組織です。護衛、物品回収、揉め事の解決……実態はかなり曖昧ですね」
「便利屋って名前なら、何でもするのかなぁ」とホシノ。
「お金次第?」とシロコ。
「じゃあ、借金取りに雇われたの?」
セリカの声が険しくなる。
「まだ確定していません」
「でも、ヘルメット団に私を狙わせたのはそいつらかもしれないんでしょ」
「自分たちで調べよっか」
ホシノが立つ。
「先生が戻るまでに、分かる範囲だけでも」
「どこで?」とノノミ。
「お腹も空いたし、街で聞き込みながら柴関ラーメンに行くのはどうかなぁ」
「またラーメン?」
「セリカちゃん、お店の売上に貢献しないと」
「それはそうだけど」
「外食費は?」とアヤネ。
「おじさんのお小遣いから出すよ」
「ホシノ先輩のお小遣いも、返済用に回しているはずです」
「うへぇ。厳しいなぁ」
結局、店長が前回の礼として出した割引券を使い、全員で行くことになった。
俺も同行を許可された。
左腕はまだ吊ったまま。
そして工具巻きは、旧進路指導室へ戻された。
*
柴関ラーメンの奥の席に、見慣れない四人組がいた。
中央に座る少女は、長い黒髪と角を持ち、背筋を伸ばしている。
向かいには、楽しそうに笑う少女。
壁際には、怖い顔をした長身の少女。
その隣で、紫の髪の少女が丼を前に小さくなっていた。
「いらっしゃい。奥、詰めてくれ」
店長に言われ、対策委員会は隣の長卓へ座る。
先生はまだ戻っていない。
セリカが配膳を手伝おうとするが、今日は客として座れと止められた。
「へえ。あなたたち、アビドスの生徒?」
楽しそうな少女が話しかけてくる。
「制服で分かるでしょ」とセリカ。
「うん。確認しただけ。そっちの男の子は?」
視線が俺へ向く。
「うちの居候だよ~」
ホシノが先に答えた。
「居候?」
「漂流者とも言うねぇ」
「学校に男の子を住ませてるの? へえ~」
笑みが深くなる。
「ムツキ」
中央の少女が咳払いをした。
「あまり他人の事情を詮索するものではないわ」
「は~い、アル社長」
「社長?」
ノノミが興味を示す。
アルと呼ばれた少女は、待っていたように胸へ手を当てた。
「ええ。私たちは便利屋68。依頼があれば、どんな困難も華麗に解決するアウトローよ」
店内の照明が、都合よく一度瞬いた。
アルの影が壁へ大きく映る。
「すごいです~」
ノノミが素直に拍手する。
アルの頬が少し緩んだ。
「ふふ。分かる人には分かるのね」
「どんな仕事をしたことがあるの?」とシロコ。
「それは……依頼人の秘密に関わるわ」
「今のところ、家賃の回収と落とし物探しが多い」と壁際の少女。
「カ、カヨコ! 余計なことは言わなくていいの!」
「事実だから」
「社長、格好いい仕事もしてるよ。たまに」とムツキ。
「たまにを付けないで!」
小さくなっていた少女が勢いよく立つ。
「アル様は偉大です! アル様を侮辱するなら、私がこの店ごと――」
「ハルカ、座って」
カヨコの一言で、ハルカはすぐ座った。
「す、すみません……私なんかが声を出して、すみません……」
対策委員会の席に、妙な沈黙が落ちる。
アルが取り繕うように笑った。
「と、とにかく! あなたたちも困り事があるなら、便利屋68へ依頼するといいわ」
「借金を消せる?」とシロコ。
「もちろん――」
アルが言いかける。
カヨコが金額を尋ねた。
「いくら?」
「九億六千二百三十五万円」とアヤネ。
「無理ね」
アルは一秒で答えた。
「社長、今のは速かったね」とムツキ。
「現実を正確に判断するのも、社長の仕事よ!」
「それなら、借金取りを追い払うのは?」
セリカが尋ねる。
四人の間に、わずかな空白ができた。
カヨコだけが表情を変えず、水を飲む。
「依頼内容と報酬次第ね」
アルが答える。
「でも安心なさい。私たちは仕事を選ぶアウトロー。弱い者を無意味に痛めつけるような真似はしないわ」
その言葉に、ハルカが小さく頷く。
セリカの表情も少し緩んだ。
互いの正体を知らないまま、会話は続いた。
ラーメンの好み。
ゲヘナの騒がしさ。
砂が機械へ入る不便。
カヨコは俺の吊った腕を見て、作業用の手袋の選び方を教えた。ムツキは水筒の鯨を見つけ、ホシノと俺のどちらの物か何度も聞いた。
「おじさんのだけど、カナタ君の部屋に住んでるんだよ~」
「水筒が?」
「水筒も」
「『も』って、ほかには?」
「ムツキ」
今度はカヨコが止めた。
ホシノは笑っていたが、俺の右袖を机の下でつまんでいた。
*
翌朝、便利屋68はアビドス高校を襲撃した。
校門前に止まった黒い車両から、アルが降りる。
昨日より立派に見える上着を翻し、銃を掲げた。
「聞きなさい、アビドス対策委員会! この便利屋68が、あなたたちの学校を――」
拡声器が激しく雑音を出す。
『社長、電池がないみたい』とムツキ。
『先に確認した方がよかった』とカヨコ。
『す、すみません! 私が充電を忘れたせいです! 今すぐ自爆して――』
『ハルカは自爆しなくていい!』
校内放送へ、その全部が入っていた。
セリカが窓から身を乗り出す。
「あんたたち、昨日の!」
アルの動きが止まる。
「……人違いね」
「どこがよ!」
「私たちは昨日ラーメン屋にいた善良な客ではなく、泣く子も黙るアウトロー集団――」
「同じ名前を名乗ってたでしょ!」
「社長、もう諦めた方がいいと思う」とカヨコ。
ムツキが楽しそうに手を振る。
「おはよう、漂流者君」
「朝から元気だな」
「カナタ君、窓から離れて」
ホシノの声が低くなる。
俺はすぐ壁際へ下がった。
昨日と違い、命令へ言い返さない。
アヤネが通信を立ち上げる。
「先生へ連絡しました。到着まで十二分です!」
「じゃあ、それまで遊んでよっか」
ホシノが盾を取る。
「シロコちゃん、右。ノノミちゃん、正面。セリカちゃんは左。アヤネちゃん、敵の車両を見てて」
「カナタは?」とシロコ。
「地下」
「放送室は直した」
「地下」
「痛みは一。痺れ、出血、熱なし」
「それでも地下」
「分かった」
ホシノが一瞬、目を丸くした。
「何だ」
「ううん。いい子になったなぁと思って」
「約束したからだ」
「うん。じゃあ、待ってて」
「おかえりを言う」
ホシノは小さく笑い、前線へ走った。
*
戦闘は、先生が到着してから大きく動いた。
便利屋68は強かった。
アルの射撃は正確で、ムツキは予測しにくい場所へ爆薬を置く。カヨコは対策委員会の動きを冷静に読み、ハルカは怯えながらもアルを守る時だけ前へ出た。
だが、アビドスの地形は対策委員会の方が知っている。
先生はアヤネから地形と敵の位置を受け、5人を動かした。
シロコが車両の退路を止める。
ノノミがムツキの爆薬を近づけさせない。
セリカがアルの注意を引く。
ホシノが正面から圧力をかける。
校舎の地下で、俺は音だけを聞いた。
以前なら、直せるものを探して出ただろう。
今は、椅子へ座って待つ。
右手に鯨の水筒。
左腕は吊ったまま。
待つことにも、役割がある。
ホシノが自分の無事を心配せず、前だけを見られる。
そう考えれば、何もしない時間にも意味があった。
『便利屋68、撤退するわ!』
拡声器を使わないアルの声が、校門から地下まで届いた。
『社長、車の後輪が壊れてる』
『シロコが撃った』
『修理代が……』
『泣かないで、アルちゃん。押せば動くよ』
『ハルカ、今すぐ新しい車を奪ってきます!』
『それはやめて!』
声が遠ざかる。
数分後、警報が解除された。
地下室の扉が開く。
ホシノが立っている。
「ただいま~」
「おかえり」
返す。
ホシノはそれだけで満足したように、肩から力を抜いた。
*
襲撃後の損害は、校門の追加破損、窓二枚、外壁、弾薬、監視カメラ一台。
人的被害はなかった。
先生が拾った契約書の断片から、便利屋68が外部の依頼人に雇われていたことも分かった。
依頼人はまだ不明。
報酬の一部は、アビドスの返済金が流れる金融組織と同じ経路を通っていた。
「私たちが返したお金で、私たちを襲わせたってこと?」
セリカが机を叩く。
「可能性が高いです」とアヤネ。
「最悪」とシロコ。
「借金を返すほど、敵の弾になるんだねぇ」
ホシノの声は軽い。
目は笑っていなかった。
俺は損害見積もりを見る。
窓。カメラ。校門。弾薬。
自分の医療費も、その下にあった。
数字は九億には遠い。
それでも増えている。
俺は旧進路指導室へ戻った。
工具巻きを開く。
父が柄を直したレンチ。
細いドライバー。
測定器は壊れている。
残った工具を、布の上へ一本ずつ並べた。
キヴォトスの市場でいくらになるかは分からない。
良い物もある。
少なくとも、医療費と窓一枚くらいにはなるかもしれない。
使えない三日間、学校は回った。
先生が釘を打った。
シロコが自転車を直した。
俺が持っていなければ困る物ではない。
工具巻きを閉じる。
街の買い取り店は、柴関ラーメンへ行く途中にあった。
明日、全員へ話す前に査定だけ受ける。
金額を知ってから考える。
そう決め、工具巻きを鞄へ入れた。
「何を考えてるの」
扉の前に、ホシノがいた。
*
声に、眠気はなかった。
「査定に出すだけだ」
「何を」
「工具」
「どうして」
「損害が増えた。医療費もかかった」
「それで?」
「使っていない道具を売れば、少しは――」
「使ってない?」
ホシノが部屋へ入る。
扉を閉めない。
出口を塞がない。
それでも、俺と鞄の間へ立った。
「今日、自転車を直すのに使ったよね」
「作業したのはシロコだ」
「誰が手順を教えたの」
「俺がいなくても、時間をかければできた」
「お父さんが直したレンチも、売るの?」
俺の返事が止まる。
「聞いてたのか」
「一緒にいたもん」
ホシノは鞄へ手を伸ばさない。
「売ったら、同じものは戻ってこないよ」
「道具は使うためにある。飾るためじゃない」
「売るためでもない」
「今は金の方が必要だ」
「誰が決めたの」
「数字を見ただろ」
「見たよ。九億六千二百三十五万円。君の工具を全部売ったら、いくら減ると思う?」
「ゼロよりはいい」
「ゼロと同じだよ!」
ホシノの声が大きくなる。
廊下へ響いた。
すぐ唇を閉じ、息を整える。
「……同じじゃない。分かってる。でも、君の帰るための物をなくしてまで払う金額じゃない」
「工具が帰る道になるわけじゃない」
「帰れた時、何を持って帰るの」
「方位磁針と認識票がある」
「壊れた方位磁針と、ここでは使えない認識票だけ?」
「それで十分だ」
「十分じゃない」
ホシノが一歩近づく。
「お父さんが直したレンチ。港で教わった道具。君が働いてた証拠。君が誰だったか覚えておく物。全部なくして、何を返したことにするの?」
「俺がここで使った金だ」
「返さなくていいって言ったよね」
「借金は増えてる」
「君のせいじゃない!」
今度は、声を抑えなかった。
俺も黙れない。
「でも俺がいなければ、医療費はなかった」
「君がいなければ、ポンプの出張費がかかった。放送が直らなくて住民に怪我人が出たかもしれない。セリカちゃんを見つけるのも遅れた!」
「それを金に換えるな」
「換えようとしてるのは君でしょ!」
言葉がぶつかる。
ホシノの目が揺れる。
「どうして、すぐ自分を切り売りするの」
「自分じゃない。道具だ」
「同じだよ」
声が小さくなる。
「役に立てなかったら出ていく。食費がかかったら減らす。怪我をしたら隠す。お金が必要なら、大事な物から売る。最後に何もなくなったら、君はどうするの」
「働く」
「何も持たずに?」
「手はある」
「その手も怪我したら?」
「治す」
「治らなかったら?」
「別のことをする」
「それもできなかったら!」
ホシノの手が上がる。
俺の胸へ触れる直前で止まった。
「……君は、自分まで売るの?」
その問いは、怒りより怖かった。
俺は答えられない。
ホシノは上げた手を下ろす。
代わりに、鞄の横へ座った。
「売らないで」
命令ではなかった。
「お願い」
「でも」
「おじさんのために、残して」
俺を見る。
「君が何か直すところ、好きだから」
呼吸が止まりかける。
ホシノも、自分の言葉に気づいたように目を逸らした。
「ほら、学校にも必要だし。帰る時にも必要だし。お父さんにも怒られるでしょ? せっかく直したのに売ったら」
理由を急いで足す。
「だから」
俺は鞄を引き寄せた。
ホシノの肩が強張る。
鞄を開き、工具巻きを取り出す。
机へ戻す。
「売らない」
「本当?」
「査定にも出さない」
「約束?」
「約束」
ホシノは息を吐いた。
そのまま床へ座り込み、机へ頬を預ける。
「うへぇ……疲れたぁ」
「怒鳴ったからだ」
「誰のせいかなぁ」
「俺」
「分かってるならよろしい」
手が伸び、机に置いた工具巻きの端をつまむ。
俺の袖と同じように。
「これも、明日いる?」
「いる」
「カナタ君も?」
「いる」
「そっか」
ホシノの指が布の端を離す。
今度は俺の右袖をつまんだ。
「じゃあ、今日はここで寝ようかなぁ」
「委員会室のソファへ戻れ」
「さっき好きって言ったのに冷たい」
「何を好きと言ったか思い出せ」
「カナタ君が、何か直すところ」
きちんと繰り返されると、さっきより困る。
「腕が治ったら、何か壊そっか」
「壊すな」
「じゃあ、シロコちゃんの自転車は?」
「今日直した」
「うへぇ。仕事がない」
「仕事がなくてもいていいと言ったのはホシノだろ」
ホシノが顔を上げる。
ゆっくり笑う。
「覚えてた?」
「何度も言われた」
「じゃあ、もう一回言うね」
袖をつまむ指が、少しだけ強くなる。
「何も売らなくても、何も直せなくても、カナタ君はここにいていいよ」
「分かった」
「本当に?」
「少しずつ」
「うん。それでいいよ」
ホシノは袖をつまんだまま、目を閉じた。
床へ座り、机へ頬を載せただけの姿勢。
このまま眠らせるわけにはいかない。
俺は立ち上がる。
左腕をかばいながら、右手でホシノの肩を軽く押した。
「ソファまで歩け」
「連れてって~」
「歩けるだろ」
「帰ってこなかったら迎えに来てって言ったの、カナタ君でしょ」
「ここから委員会室まで十歩だ」
「それでも迎えは迎えだよ」
仕方なく、右腕を差し出す。
ホシノは袖ではなく、肘の辺りへ両手を添えた。
体重はほとんど預けない。
ただ、つながっていたいだけだと分かる。
「行くぞ」
「は~い」
二人で廊下へ出る。
机には、工具巻きが残っている。
明日も使うために。
*
――Hoshino side
工具を売ると聞いた時、帰還経路が見つかった時とは違う怖さがあった。
カナタ君は、帰る準備をしているのではない。
帰る私を少しずつ消そうとしている。
父親の手が触れた道具。
港で過ごした時間。
私が誰だったかを証明する物。
それを売って、アビドスへ私を埋めようとしている。
もし全部なくなれば、帰れない理由が増える。
それを喜ぶ私が、どこかにいた。
帰るための道具がなくなればいい。
帰る場所とのつながりが薄くなればいい。
ここしかなくなれば、ずっといる。
そんな願いが、確かにあった。
だからこそ、売らせてはいけなかった。
カナタ君に私のための犠牲を払わせて、その結果を喜ぶ人にはなりたくない。
カナタ君が帰る時、父親のレンチを持っていてほしい。
帰らないと選ぶ時も、捨てる物がなくなったからではなく、ここにある物を選んでほしい。
私を。
そこまで考えて、私はカナタ君の肘へ添えた指を強くした。
まだ言えない。
言えば、カナタ君の選択を重くしすぎる。
今は工具を残せたことだけでいい。
「ホシノ、重い」
「体重かけてないよ~」
「腕を強くつかみすぎだ」
「離したら転ぶかも」
「転ばない」
「おじさんが転ぶの」
「なら歩け」
十歩の帰り道を、できるだけゆっくり歩いた。