話し相手がいないから会話という概念が無くなってきている。
このメタバースの世界にきてからどれほど時が経ったのだろう。
では、時間が経って変わった事を学ぼう。
「性格がちょっと変わったかも」
白い地面に開かれたノートと、側にあるペンを見る。
自分の人生は小説を1つ完成させる夢で構築されて、誰にも解かれない筈だった。
だがそれはそれは間違いだった。
一人だけの空間、一人だけの数えきれない長い時間がその嘘を少し溶かしてきた。
小説に入り込む意思に他人はいらない、それは変わらない。
変わったのはもう一段階、自分の核に近い性格という強固なもの。
「まさか俺が会話がまともに出来なくなる自分を嫌がるなんてな」
現実であれば仕事の関係で他人と雑談をする機会が必ずあった。
今日は起きてからこうしてみるとこういう事があってこうしたんだよね、だとか。
昨日は仕事の終わりからどういう風に寝るまで過ごしたのかだとかを、相手が不快にならない話題で談笑していた。
仕事を選べる立場じゃなかったから、俺はよくある接客業をやっていた。
挨拶代わりに客を嫌いになる事は沢山あったけども、まあそれは今は別にいいだろう。
男女に絶対訪れる更年期障害という内容に理解が足りなかっただけだから、かな。
「会話が苦手になって困る事なんてあるのか…?」
ここにずっと一人のままいるのなら、その問題は浅い。
永遠に一人だけの世界が持続するという前提ならば。
「うーん、ずっと永遠が続くって聞かれたら怪しいのか」
世の中に絶対がないというのは、このメタバースから何故か出られなくなって、そして何故か身に覚えのない黒目黒髪幼女になってここでずっと暮らしている自分が証明を終えていた。
絶対飽きない事は有り得ない…というやつだろう。
「なら…」
感覚でメニューの半透明の画面を出して、心だけで操作をしていく。
一人で殻に閉じ籠るなだなんて勝手にそう心が判断しちまったんなら、そりゃまあ性格も少しは変わってしまうよな。
そう思った辺りで、とある昔の事をふと思い出した。
「そういえば…」
俺がペンで書いていたノートの、その小説の内容。
飛行機が出てくる部分を書いていたと思う。
それで勝手に近くに飛行機が突然現れた事を思い出す。
確かその時は理由を無理矢理作ろうとして、ノートに書いた小説の一部がこのメタバースに反映されるのだろうと予測を立てた覚えがある。
もう随分と昔の話だ。
それにあの後は突然真水の海が地面から溢れてきて大変だったな。
疲労が無いから良かったものの、頑張って飛行機の羽の上によじ登った覚えがある。
「ただ、これまで小説の登場人物を書いても出てこないのは事実だよな」
何か条件があるのだろうか。
条件があるとしたら、1つは確かだろう。
飛行機も真水も俺は知識はあるからな。
そしてそこから先に進めると小説の登場人物についての知識は…あるにはあるがそれは自分で作った知識であって、飛行機や真水といった他人が考えて作り上げた知識じゃない。
つまり条件の1つは他人が考えて作り上げた知識だとされる。
「もう1つあるとしたら、ノートに書く事かな?」
条件その2、ノートにその文字を書く事。
んっ、待てよ…。
「ノート1つにつき、2つの事が突然訪れる…」
飛行機と真水の出現、合わせて2つ。
そのどちらも言葉を話す生物じゃないけれど、理屈は合っている。
ノートに書かれた2つの文字に2つの事象、確かにそうだ。
飛行機も真水も俺は知識はあるだけで作れやしないからな。
ええ…。
「今書いてる小説から逃げて新しいノートに書き始めろってことっ!?」
ノートに分割して小説を書くなんて正気じゃない間違っているそれは正しい行いではない。
ノート1つに小説1つ、常識だろっ!?
そもそも新しいノートにした所で話し相手が出現するなんて有り得るのだろうか。
ノート1冊につき2回ガチャですよという話。
仮にガチャの中身が無機物しか入ってなかったら俺ただの小説から逃げたポンコツじゃん。
いやいやいや有り得ない、ここまで序盤の序盤だけど全体に向かっている話を捨て去るなんてとんでもない。
「あ、そっか…」
ふと我に帰る。
でも、俺もう50回以上自分で書いた小説消してるんだった。
これ以上の大作は沢山あったけど、もう全部消したんだったね。
そっか…そういえばそうだったね。
なんかそう言われればそういう実績沢山あったわ。
心が折れた回数も50回以上だわ。
「2回出来る当たりが入っているか分からないガチャの為にそこまでするか…?」
小説をノートに分割して書く。
これは俺は絶対嫌だ。
きしょい、マジで無理、有り得ない、メタバースの恥晒し。
想像するだけで嫌悪感が凄い、無理無理無理。
というか急に会話が苦手になるとか言い出してそれを嫌がるとか俺マジで弱ってる…弱ってるよ。
ん…?
「弱ってるって事は…どのみち慰めてほしい人が必要…ってことっ!?」
なんか弱い自分が恥ずかしくなってきた。
ああもうくそっ!
なんかもうちょっと…どうでもよくなってきたな。
ふとそう思ってしまった。
メニューからアイテムリストを開いて、飛行機2機と真水とすだちに対して削除ボタンを押した。
これから新しいノートを使い始めるという事は、今まで書いていたノートと決別するということだ。
現実の時とは違ってそのノートは削除する事はやめた。
メタバースにいるんだからこのメタバースの世界で書いた小説に罪はない、だから存在ごと削除しなくていいだろう。
そしてちょっと前からずっと自暴自棄っぽくなっている間にメニューのキーワード検索から何となくダラダラ吹っ切れるアイテムがないかなと探していると、丁度いいものを見つけてしまった。
「へへへ、ワールド移動アイテムげっと」
メタバースの知識は全くないけど、ワールド移動という単語だけでその意味は俺でも分かる。
前の小説で書いていたTS世界線移動幼女のワールドメタバース移動バージョンだ。
メタバースワールド?ワールドメタバース?どっちだっけ。
まあいっか。
「キラキラしてるな…」
見た目は完全にビー玉のそれ。
指2本で持ってるけどなんだかキラキラしている、綺麗だなあ。
「これを使えばここじゃない別のメタバースに行けるわけだ…」
ふむ、果たして本当にそうなのだろうか?
試さないと分からないけどね。
でももう飛行機やら真水やらすだちやらを削除して、後はこのノートを…。
このノートを…。
「何となくアイテムリストに入れておくのは悔しさ感じるな…。あ、そうだ。いや、でもな…」
このノートをこのメタバースに置いていこうかな。
このメタバースで書き続けた証として、どうだろう?
中途半端で未完成の小説だったけどそれで納得できるか?
決別という意味で理解出来るかな?
「中途半端に放り出す事はもう50回以上やってんだろ、何を今更…」
ずっと一緒に寝ていた、ずっとペンで書き続けた、ずっと開き続けていたそのノートを閉じて白い地面に置き、俺は目を一旦閉じた。
正確には分からない気持ちだが、書いた時間の長さより書いていた思い出の方が…何度も読み返していた思い出の方があった。
それを俺は…今からこのメタバースに置いていく。
新しいメタバースへと…変わり始めた自分の性格を優先するのだ。
「さよなら」
結局小説の名前も登場人物の名前も一切わからないままだった。
現実でもこのメタバースでも、小説の登場人物に名前をつけるのが苦手な事は変わってなかったな。