グランベル郊外。
街の喧騒から離れたその一帯には、朽ちかけた倉庫がいくつも立ち並んでいた。
かつては交易の荷を捌く拠点として使われていたのだろうが、今では表通りの物流から外れ、忘れられたように静まり返っている。
事前の調査で、ここが違法な奴隷取引を行っている場所だということは分かっている。
もっとも、帝国において奴隷制度そのものは禁止されていない。帝国臣民として扱われる奴隷は、契約と待遇によってその立場を保障されている。他国の人間や一部の亜人種など、帝国法の保護対象外となる者が奴隷として扱われることも、この国では珍しいことではなかった。
今回摘発の対象となっているのは、そうした帝国法の枠組みそのものを踏み越えた奴隷商だ。
正面から乗り込む前に、アベルは
姿を消したまま、警備の配置と建物内部の様子を、静かに確かめていく。
敷地内には武装した護衛が何人も配置されていた。出入りする商人らしき男。奴隷を管理している人間。裏口から次々と運び込まれる荷物。アベルはそれらを、感情を挟まずに観察していく。
人数。武器の種類。建物の構造。逃げ道の有無。
依頼を達成するために必要な情報を、淡々と積み上げていく。
その途中、ある一角に目が止まった。
数人のエルフが、狭い牢に押し込められていた。
数体は裸にされ、全身に生々しい傷が刻まれている。虫のように浅く息をするだけで、周囲の人間と目が合うたびに、身体を小さく震わせていた。傷の様子から、性的な暴行があったことも、見て取れた。
帝国法上、エルフを奴隷として取引すること自体は違法ではない。今回の依頼はあくまで、違法奴隷商の摘発だ。ここにいる亜人たちは、少なくとも書類上は「商品」として扱われている――アベルはそう自分に言い聞かせ、胸の奥から込み上げてくる感情を押し殺すように、一度視線を逸らした。
そのまま通り過ぎようとした。
その時。
「法国のエルフは上玉ばっかりだな」
護衛の男たちの声が聞こえた。
「売り渡すのが勿体ないくらいだ」
「引き渡す前に、もう一度品質チェックしとくか」
「へへへ、良いな」
男たちは笑っていた。牢の中のエルフたちは、抵抗しても意味がないことを理解している表情で、ただ怯えていた。自分たちが人間ではなく、物として扱われていることへの絶望が、その瞳の奥に沈んでいる。
アベルの足が止まった。
「……」
ぎり。奥歯の奥に力がこもる。
護衛の一人が、エルフの一人へ手を伸ばす。
その瞬間――
『困っている人を見つけたら、助けるのは当たり前だ』
頭の奥で、誰かの声がした。
アベルは目を閉じる。
「……またか」
時々聞こえる声だった。理由は分からない。ただ、誰かが助けを求めているような場面でだけ、ふと頭の中に響く気がする。物心ついた頃から、ずっとそうだった。そしてこれまで、その声を無視したことは一度もない。
アベルは小さく息を吐いた。
「その汚ぇ指を下げろ、下衆が」
透明化を解いた。
突然現れたアベルに、護衛たちが弾かれたように振り返る。
「だ、誰だ! てめ――」
次の瞬間、男たちは全員、同時に床に沈んだ。
何が起きたのか、理解する暇すら与えられなかった。
アベルは牢の鍵を開ける。
「重傷者は?」
エルフたちは、困惑した顔でアベルを見上げた。助けが来るとは、誰も思っていなかったのだろう。だが自然と、牢の奥で身体が青白く変色している一体へと、全員の視線が集まった。
アベルは無言のまま、その者へ治癒魔法をかける。傷が塞がり、青白かった肌に、わずかに血の気が戻っていく。
「……ここで待ってろ。絶対に後で保護する」
自分が羽織っていた上着を、震える手の一人に押し付けるように渡すと、アベルはそう告げて、さらに奥へと進んでいった。
◇◆◇
その先には、人間の取引現場があった。
エルフたちの区画とは、明らかに扱いが違う。
牢に入れられているのは、恐らく帝国臣民の人間たちだ。本来であれば、帝国の法によって契約や待遇が細かく管理されるはずの存在である。
しかし、ここにそのような手続きの痕跡は、どこにも見当たらなかった。
首輪。鎖。番号だけが記された名簿――そこには、人間を家畜のように扱うための道具だけが、無造作に並べられている。
アベルは黙って周囲を見渡す。奴隷商の男たちは、捕らえた人間たちを品定めするように眺めていた。
「魔法適性の検査は終わったか?」
「何人か使えそうなのがいる」
別の男が、それに答える。
「魔力の質がいい奴は分けておけ」
「普通の商品とは扱いが違う」
「ズーラーノーンに引き渡すんだからな」
アベルの表情が、わずかに変わった。
「ん……?」
ズーラーノーン。
聞き覚えのない名前だった。組織なのか、個人なのかも分からない。
しかし、奴隷商たちに取引相手の名前が存在するのは、考えても見れば当たり前のことだ。そしてアベルの標的は、奴隷の購入者ではなく、売る側の人間だけ。
アベルは牢の中に視線を戻す。
怯える人々。傷ついた人々。自分がこれから何をされるのかも分からないまま、ただ震えているだけの者たち。
その中には、まだ幼い子供の姿もあった。
アベルは小さく息を吐いた。
「……最悪だな」
奴隷商の一人が、その呟きに気付く。
「誰だ?」
周囲の男たちが、一斉に振り返った。透明化はすでに解いている。隠れる理由も、もはやなかった。
「依頼を受けた。お前たちを摘発する」
奴隷商の男は、一瞬呆けたような顔をしたあと、堪えきれずに笑い出した。
「……オイまさか、たった一人で乗り込んできたのか?」
男は周囲を見回す。数十人の武装した護衛。数の上では、圧倒的にあちらが有利だ。
「馬鹿なのか、それとも死にたいのか」
アベルは、わずかに首を傾げた。
そして笑みのようなものを湛えると、
「すぐに分かるさ」
奴隷商の男が手を振り上げる。
「殺せ!」
護衛たちが一斉に動いた。
剣が振るわれる。槍が突き出される。詠唱が始まる。複数の方向から、攻撃が同時に迫ってくる。
だが、アベルは動じなかった。
避ける。受け流す。武器を奪う。魔法の詠唱を強引に断ち切る。歩きながら魔法の軌道を外す。剣を素手で受け止める。
相手が何人いるのか、確認すらしていない。
一人。また一人。次々と倒れていく。
殺してはいない。必要以上の力も使っていない。ただ、抵抗できる者だけが、この場にひとりも残らなかった。
最後に残った奴隷商の頭目が、その場にへたり込む。
「ま、待て……! 話せば分かる!」
「あ?」
「俺たちはただ商売をしていただけだ!」
アベルは、その男を静かに見下ろした。
「アンタたちを帝国の士官様に引き渡す。そこで、これが商売として成立するか聞いてみることだな」
奴隷商は、言葉を失った。護衛を全て壊滅させられ、もはや抵抗する気力も残っていないようだった。
アベルは全員を拘束していく。拘束具の鍵を拾い上げると、牢の方へ向き直った。
「助けが遅くなってすまない。もう大丈夫だ」
奴隷たちの鎖を、一つずつ外していく。
泣き出す者。呆然とする者。
助かったことを、まだ理解できずにいる者。アベルはそのどれにも動じることなく、淡々と作業を続けていく。
その時、外から複数の足音が近づいてきた。
遅れて到着した一団だった。先頭に立つのは、あの商館で名乗り合った男――ヘッケラン。彼が率いるワーカーたちの集団が、次々と建物の中へ入ってくる。
彼らが目にしたのは、すでに終わってしまった後の光景だった。
倒れた護衛たち。拘束された奴隷商。解放されていく者たち。そして、その中心に、何事もなかったかのように立つアベルの姿。
ヘッケランは、しばらく言葉を失っていた。
「……一人で、やったのか」
アベルは振り返る。
「報酬はやらんぞ。全部俺のだ」
その時、ヘッケランの後ろに、一人の少女がいることに気付いた。
金髪で小柄な、アベルよりも少しだけ年下に見える少女だった。服装からして、魔力系の魔法詠唱者なのだろう。
少女とアベルの視線が、ふと重なった。
一瞬、時間が止まったように感じられた。
少女の顔から、すっと血の気が引いていく。呼吸が、目に見えて乱れ始める。
「……ん?」
アベルが、その異変に気付いた次の瞬間だった。
「あ……」
声。
「あっ、あっ、あ……ぇっ」
と、いうにはあまりにも非力な、音。
「ああああああああああああっ!!」
内臓の奥から垂れ流されているかのような、絶叫だった。
理解を超えたものを目の当たりにしたような、剥き出しの反応。
少女は涙目になりながら、全身をぷるぷると震わせる。
そして、とうとうその場で嘔吐した。
フォーサイトの面々と思しき数人が、驚いた様子で彼女を振り返る。
ヘッケランが困惑した声を上げた。
「アルシェ!?」
しかし、彼女は答えることができなかった。ただ、目の前の存在から顔を隠すように、その場に蹲るだけだった。
アベルは静かに、アルシェの様子を見つめる。
――俺が何かしたか?
戸惑いだけが、頭の中を巡っていた。
「えっと……どこか悪いのか?」
アベルが一歩近づくたびに、アルシェの様子はますますおかしくなっていく。
「あっ、あなたは、あなた様は、何なのですか……っ!?」
「え?」
「おかしい! みんな! この人は絶対違う……! 私たちとは……っ」
アベルが近づくたびに悪化していくアルシェの様子に、ヘッケランがようやく異常事態を察する。
「おいアンタ、少し離れてくれ――」
その言葉が終わるより先に、アルシェは自らの吐瀉物の中に沈むように、意識を手放していた。
◇◆◇
「──で、本当にお前が何かしたわけじゃないんだな、アベル?」
木造の粗末な民宿の一室で、ヘッケランの声が響いた。
奴隷商摘発の件はすでに片付いていた。捕らえた男たちはルドルフの手の者に引き渡され、解放されたエルフや人間たちも保護されている。依頼の報告も、正式な手続きも、すべて終わっている。
残っているのは、ただ一つの疑問だけだった。
アベルは、フォーサイトの面々──ヘッケラン、イミーナ、ロバーデイクに囲まれるようにして、狭い食卓の席に座らされていた。理由は分かっている。あの場で気絶したアルシェが、今、この宿の別室で眠っているからだ。
身体的な異常は見つかっていない。毒の反応もなければ、呪いの気配もない。ただ――なぜあれほどの反応を示したのか、誰にも分からなかった。
だからこそ、この場に自分が呼ばれているのだろう。疑われているというよりも、原因を探るための、消去法の一環だ。
アベルは、これで何度目かになる説明を繰り返した。
「何度も言っているが、魔法をかけたわけでも、精神干渉したわけでもない」
指を折るように、事実だけを並べていく。
「あいつに触れてもいない。魔法も使ってない。敵意を向けたつもりもない。あんたたちも見ていただろ」
本当に、アベル由来の現象は、何も起きていない。少なくとも、アベル自身が知覚できる範囲では。
ヘッケランは、腕を組んだまま眉根を寄せていた。
「精神干渉系の魔法なら、多少なりとも痕跡は残るはずだ」
イミーナが軽い口調で口を挟む。
「呪いの線は?」
「呪いなら、もっと分かりやすい反応が出る。けどあんな……」
ヘッケランは、言葉を選ぶように一度口を閉ざした。
「あんな、化け物でも見たみたいな反応にはならない」
ロバーデイクが静かに続ける。
「特殊な能力による干渉、という可能性も考えられますが……証拠がありませんね」
精神干渉。呪い。特殊な能力。何らかの条件による反応。可能性は幾つも挙がったが、どれも決め手に欠けていた。
アベルは、しばらく黙って話を聞いていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……逆に聞くけど」
全員の視線が、こちらに向く。
「あいつの方に、何かあるんじゃないか?」
場の空気が、わずかに変わった。
「例えば、何かを見て何か判断できるとか。そういう類の、勘。あの時の様子。幽霊に襲われた子供みたいだったぞ」
アベルとしては、単純な消去法の話のつもりだった。自分の側に原因がないのなら、残るは相手の側にあるという、それだけの推測だ。
しかし、フォーサイトの面々の反応は、思っていたより大きかった。ヘッケランとイミーナが、一瞬だけ視線を交わす。ロバーデイクも、口を閉ざしたまま何も言わなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
――何か、あるんだな。
アベルはそう察したが、それ以上踏み込むつもりはなかった。
ヘッケランが、静かに息を吐く。
「……それは、アルシェが目を覚ましてから、本人に聞く」
その口ぶりに、アベルは頷いた。他人の秘密を、当人がいない場で勝手に暴くようなことではない。それくらいの分別は、アベルにもある。
「じゃあ、俺は帰るが、いいな?」
自分に原因がないことが確認できれば、この場に留まる理由はなかった。アベルは席を立つ。
ヘッケランは、わずかに警戒したような目でアベルを見たが、それ以上引き止めることはしなかった。
「……分かった。時間をとらせて済まなかったな」
「ん」
短く応じ、アベルは宿を出ていった。
最後まで、なぜアルシェがあれほど怯えたのか、その理由を理解することはできなかった。
◇◆◇
アベルが去ってしばらくして、別室でアルシェが目を覚ました。
薄暗い天井を見上げ、しばらく状況を思い出せずにいたが、やがて全身が震え出す。
「アルシェ、大丈夫か」
枕元に座っていたヘッケランが、静かに声をかける。イミーナとロバーデイクも、心配そうな顔でその様子を見守っていた。
「私……」
アルシェの声は掠れていた。
「何があったの?」
ヘッケランの問いに、アルシェはしばらく答えられずにいた。だがやがて、震える唇を開く。
「見たの」
「見た?」
「あの人を……それで……」
アルシェは、
魔法詠唱者であるアルシェにとって、それは極めて有用な力だった。相手の力量を、瞬時に見極めることができる。
これまで、多くの人間をその目で見てきた。冒険者。兵士。魔法詠唱者。名の知れた強者と呼ばれる者たち。誰であろうと、この能力を通せば、必ず輪郭がはっきりと見えた。第何位階の魔法まで届く相手なのか。どれほど危険な相手なのか――その全てが、数字として理解できた。
それは、恐怖の対象であっても、あくまで「測れるもの」だった。
しかし、アベルだけは違った。
能力が発動しなかったわけではない。むしろ、いつも通り、はっきりと見えた。異常なほどの魔力の質と量。尋常ではない何かが、確かにそこに存在している――それだけは、疑いようもなく理解できた。
だが――具体的な数字が、出てこなかったのだ。
これまでの相手であれば、見た瞬間に「この人物は第何位階まで扱える」という答えが、自然と像を結んでいた。だがアベルに対しては、その像がどこまでも遠くにぼやけて、輪郭を結ばなかった。第七位階なのか、第八位階なのか、あるいはそれよりも上なのか――物差しの目盛りが、そもそも足りていない。そんな感覚だった。
人間の姿をしている。言葉も交わせる。会話も、普通に成立する。
なのに、そこに宿る力だけが、これまで見てきたどんな強者とも、根本的に異なる位置にあった。
アルシェは、震える声で、自分が初めて「測りきれない存在」を目にしたことを語った。
それは、正体不明のものへの恐怖ではなかった。むしろ逆だった。姿は見えている。力の異常さも、はっきりと感じ取れている。それでも、あまりにも遠く隔たった場所にあるせいで、自分の物差しがまるで役に立たない――その事実だけが、本能的な拒絶反応を引き起こしたのだろう。
「率直に聞くぞ。アイツ──アベル・バナードは、第何位階の魔法まで扱える?」
「あなたが倒れるということは、“相当”なのでしょう」
「……分からない」
アルシェの返答に、三人が眉を顰める。
「お前の魔眼が機能しなかったのか?」
「機能した。見えた。でも……あんなの絶対、分からない」
そして最後に、彼女はぽつりと呟いた。
「あまりにも、遠すぎて」