観客席の男 ―ここまで遊んでくれてありがとう! 作:ザキグン
それは、まだ俺が《彼》として闘技場へ出るようになる前のことだった。
この世界に来てから、それほど長い時間は経っていなかった。
自分が『聖剣戦記エルドガルド』に酷似した世界へ来たことは理解していた。
表示されるステータスの意味も、誰かを見た時、時折浮かぶ死亡イベントの表示も。
だが、どこまで介入してよいのかは、今以上に分かっていなかった。
下手に手を出せば、原作が変わる。
原作が変われば、俺の知識は役に立たなくなる。
だから、できる限り関わらない……、そう決めていた。
決めていた、はずだった。
その日は、一日中雨が降っていた。
町へ着いた時には日が暮れ、宿の軒先からは途切れることなく水が落ちていた。
俺は夕食を済ませ、部屋へ戻るつもりだった。
本当に、それだけだった。
だが、宿の裏手を通った時、石畳に小さな赤い跡を見つけた。
雨に流されかけた血。見なかったことにするべきだった。
町の裏側で何が起きようと、俺には関係ない。
そう考え、二歩進んだそこで、視界の端へ文字が浮かんだ。
【識別名:《宵雀》】
【所属:帝国隠密局外郭組織】
【状態:重傷/出血/毒】
【命令違反】
【処分予定時刻:夜明け】
【推定生存確率:三パーセント】
俺は雨の中で立ち止まった。
頬を伝う雨水が、冷たかった。
三パーセント……、限りなくゼロに近い。
だが、ゼロではない。
「……三パーセントは、生きられる数字なんだよな」
誰に言うでもなく呟き、俺は血痕を追った。
正体を隠すための装備は、宿の部屋に置いていた。
取りに戻ることもできたから、黒装束へ着替え、顔を隠してから向かうべきだったのかもしれない。
だが、そのために使う数分で、生存確率が三パーセントからゼロになる可能性があった。
なら、考えるまでもなかった。
俺は素顔のまま、雨の裏路地を走った。
血痕は町外れの古い倉庫まで続いていた。
扉は半分壊れ、風が吹くたびに軋んだ音を立てている。
中は暗く、雨漏りの音に混じって、浅い呼吸がかすかに聞こえた。
俺は扉へ手を掛ける。
「誰かいるのか」
返事はない。
一歩、中へ入る。
その瞬間、暗闇の中から銀色の光が飛んできた。
俺は顔を傾けた。
短剣が頬の横を通り過ぎ、背後の扉へ突き刺さる。
「近づくな」
声は若いが、弱々しさはなかった。
倉庫の最奥、そして、積み上げられた木箱の陰に目を凝らせば、一人の少女が立っていた。
いや――立っている、という表現すら正しいか分からない。
片手で壁へ身体を預け、どうにか倒れずにいる。
黒い装束は血と雨で濡れていた。
顔の下半分を布で覆い、見えるのは鋭い目だけ。
右手には、もう一本の短剣、脇腹からは、今もとくとくと血が流れ続けていた。
「その状態で投げたのか」
「次は、外さない」
「今のは当てるつもりだっただろ」
少女は答えない。視界へ、先ほどより詳しい表示が浮かぶ。
【識別名:《宵雀》】
【状態:重傷】
【出血進行】
【神経毒侵入率:六十二パーセント】
【残存戦闘可能時間:四分】
【推定生存確率:二パーセント】
くそっ、下がっている。
「時間がないな」
俺が一歩近づく。少女が短剣を構えた。
「来るな」
「毒を受けている」
「知っている」
「脇腹の傷も深い」
「見れば分かる」
「そのままだと死ぬぞ」
「……それでいい」
その答えだけは、聞き流せなかった。
「よくない」
「お前には、関係ない」
「ああ。関係ないな」
それでも、俺は足を止めなかった。
少女の目が細くなる。
次の瞬間、彼女が床を蹴った。
重傷者とは思えない速度だった。
低い姿勢から、短剣が俺の喉元へ伸びる。
俺は半歩だけ身体をずらし、手首を取った。
短剣の軌道を外へ流せば、そのまま肘を押さえ、勢いを殺す。
少女は反対の手を腰へ伸ばした……、もう一本ある。
俺はその腕も掴んだ。
「離せ!」
「離したら刺すだろ!」
「殺す!」
「治療しようとしている相手に言う台詞じゃない!」
「触るな!」
「だったら暴れるな!」
「離せ!」
「傷を見せろ!」
「殺す!」
「あぁ、もう!元気だな、お前!」
片手で両腕を押さえ、もう片方の手で脇腹の傷を確認する。
布の上からでは、深さが分からない……迷っている時間はなかった。
俺は腰の小刀を抜き、血に濡れた装束の一部を切った。
少女の目が見開かれる。
「なにを――!」
「傷を見る!」
「やめろ!」
「死にたいのか!」
「触るな!」
「治療だ!」
少女は再び暴れた。
傷口が開き、血が溢れる。
俺は咄嗟に身体を押さえつけた。
「動くな!」
「殺す!」
「分かったから、治ってからにしろ!」
この時の俺は、知る由もなかった。
いつか再会した本人から、このやり取りをとんでもない言い方で蒸し返されることになるとは。
少女の抵抗が、少しずつ弱くなっていく。
諦めたわけではない……、身体が動かなくなっているだけだ。
俺の手首を掴んでいた指から力が抜け、床へ落ちる。
それでも、布の上から覗く目だけは鋭かった。
今にも喉へ噛みついてきそうな目で、俺を睨んでいる。
「……殺す」
「だから、それは治ってからにしろ」
脇腹の傷は、思っていたより深かった。刃が斜めに入っている。
幸い、内臓までは届いていないようだが、出血量が多い。
それより厄介なのは毒……、傷口の周囲が、不自然な紫色へ変わり始めている。
俺は荷物の中から、小さな薬瓶と布を取り出した。
この頃はまだ、各地を旅しながら必要な物を揃えている途中だった。
万能の解毒薬など持っていない。
そもそも、この世界にそんな都合のいい物があるのかも分からなかった。
だが、毒の種類には覚えがあった。
帝国隠密局が使う、遅効性の神経毒。
原作では、敵側の暗殺者が装備している毒短剣に付与されていた。
受けた直後は動けるが、時間が経つほど手足の感覚が鈍り、最後には呼吸が止まる。
「誰にやられた」
少女は答えない。
「同じ組織の奴か」
瞳が、わずかに動いた。それで十分だった。
「傷を洗う。痛むぞ」
「……触るな」
「今さらだろ」
「殺す」
「語彙が少ないな」
近くに落ちていた木片を噛ませようとすると、少女は顔を背けた。
「歯を食いしばるな。舌を噛むぞ」
「いらない」
「強がるな」
「いらない」
俺は仕方なく、折り畳んだ布を口元へ差し出した。
少女はしばらく睨んでいたが、やがて奪い取るように噛んだ。
毒で変色した血を押し出し、薬草を練ったものを傷の周囲へ塗る。
神経毒へ直接効くものではないが、進行を遅らせることはできる。
あとは出血を止め、毒が回り切る前に身体から抜けるのを待つしかない。
【神経毒侵入率:六十七パーセント】
【推定生存確率:四パーセント】
わずかなパーセンテージ。
だが、方向は間違っていない!
俺は傷口を縫い始めた。
少女の手が、何度か俺の腕へ伸びが、途中から、その指は俺の袖を掴んだまま動かなくなった。
「眠るな」
反応がない。
「おい!」
少女の頬を軽く叩く。瞼がわずかに開いた。
「……触るな」
「まだ言えるなら大丈夫だな」
縫合を終え、布をきつく巻く。
出血は、ひとまず止まったが、毒は残っている。
これ以上暴れられると、せっかく縫った傷が開く。
俺は鎮静作用のある薬を取り出した。
「毒ではない」
「信用……できるか」
「だったら飲まずに苦しむか?」
「……」
「眠っている間に追手を片づける。目を覚ます頃には、少なくとも今より安全だ」
少女は俺を見る。
そこには、疑い、警戒、恐怖……、そして、ほんの僅かな迷いが揺れていた。
「なぜ」
「何が」
「なぜ、助ける」
「死にそうだったから」
「それだけで?」
「それ以外に必要か?」
少女は何も言わなかった。
俺は薬を水で薄め、少しずつ飲ませるが、今度は抵抗しなかった。
「名前は?」
返事はない。眠ったのかと思った。だが、唇が僅かに動く。
「……宵雀」
「それは名前じゃないだろ」
少女の目が、ほんの少しだけ開いた。
「私には……それしかない」
それきり、意識を失った。
◇
追手は、思っていたより早く来た。
その数は四人、全員が黒い外套を着ていた。
雨の中、音もなく倉庫を囲むと、正面から一人、裏口に二人、屋根の上に一人。
なんとも手慣れている。
仲間を迎えに来た配置ではなく、逃げ道を塞ぎ、確実に始末するための動きだ。
俺は眠った少女を倉庫の奥へ移し、壊れた木箱を積んで姿を隠した。
正体を隠す装備はない……、なら、見られた者を全員眠らせるしかない。
無論、殺すつもりは、ない。
俺は入口へ向かう途中、床へ落ちていた細長い角材を拾い、入口の陰へ立った。
扉が、ゆっくり開くと、先頭の男が入ってくる。
その瞬間、足元へ風を当て、体勢を崩したところへ踏み込み、首筋へ手刀を落とす。
まずは一人。
裏口から入った二人が同時に動くが、片方の短剣を腕で流し、もう片方へ身体ごとぶつける。
狭い場所では、人数の多さは有利とは限らない。
二人の動線を重ね、同士討ち寸前で止まったところへ、柄と肘を叩き込む。
こでで三人。
屋根の上から気配に、俺は床に落ちていた短剣を蹴り上げる。
刃ではなく柄が天井板へ当たり、潜んでいた男が一瞬動きを止めた。
その隙に外へ出て、屋根から降りてきた男の着地へ合わせ、足を払う。
男が泥の上へ倒れた。
俺は角材を返し、その耳の後ろへ正確に打ち込むと、鈍い音。男の身体から力が抜けた。
四人の呼吸を順番に確かめる。
全員、生きている……、気絶しているだけだ。
俺は四人の武器と通信具を取り上げ、手首と足首を縛った。
そのまま放置すれば誰かに見つかるため、二人ずつ別の空き倉庫へ運び、外から扉を塞いでおく。
少しでも長く、時間を稼げればいい。
倒れた男たちから回収した命令書は一枚。
雨に濡れないよう、油紙で包まれている。
内容は簡潔……。
『《宵雀》は任務を放棄した。情報漏洩の可能性あり。夜明けまでに処分し、遺体を確認せよ』
俺は紙を折り畳み、懐へ入れた。
倉庫へ戻ると、少女はまだ眠っていた。
呼吸は浅いが、安定している。
【神経毒侵入率:六十八パーセント】
【推定生存確率:十二パーセント】
まだ低いが、最初の四倍になった。
俺は少女のそばへ腰を下ろし、夜が明けるまで状態を見続けた。
何度か熱が上がったし、呼吸が止まりかけたこともある。
その度に身体を起こし、薬を飲ませ、無理やり意識を繋いだ。
雨が弱くなる頃……、表示が変わった。
【状態:重傷/毒症状減退】
【推定生存確率:五十八パーセント】
ようやく、半分を超えたのを確認して、俺は長く息を吐いた。
「……やれば何とかなるもんだな」
少女はまだ眠っている。
呼吸が浅くなったため、俺は、彼女の顔を覆っていた黒布を外す。
初めて露わになった素顔は、まだ幼かった。
頬は痩せ、唇からは色が失われている。
十代半ば……、少なくとも、自分の生き方を選べるようになる前から、殺し方だけを教え込まれていた顔だった。
◇
少女が目を覚ましたのは、翌日の昼前だった。
最初にしたことは、頭のすぐそばへ置いていた短剣を掴むことだった。
俺は少し離れた場所で火を起こし、薄いスープを作っていた。
「起きたか」
少女は答えズ、壁へ背を預け、短剣をこちらへ向ける。
「傷が開くぞ」
「……追手は」
「来た」
目が鋭くなる。
「どうした?」
「全員、別の場所へ縛って閉じ込めた。武器と通信具も奪ってある」
「起きれば、追ってくる」
「すぐには無理だ。靴まで別方向へ捨ててきた」
「……なぜ、靴を」
「裸足で雨上がりの森を走るのは大変だからな」
少女は、理解できないものを見るように俺を見た。
「半日は稼げる。連絡が遅れれば、もっとだ」
「殺さなかったのか」
「殺す必要がなかったからな」
少女の眉が僅かに動く・・・・・・、俺の言葉に理解できないらしい。
「これを飲んでくれ」
器へ入れたスープを差し出す。少女は動かない。
「毒は入っていない」
「信用できない」
「昨日も同じことを言ったな」
「……」
「なら、俺が先に飲む」
一口飲み、器を差し出す。
少女はしばらく見つめたあと、片手で受け取った。
器の中身を確かめ、慎重に口へ運ぶ。
一口。二口……、そこからは早かった。
空腹だったのだろう。食べ終わるまで、ほとんど止まらなかった。
「おかわりもあるぞ」
少女は無言で器を差し出した。少しだけ安心した。
◇
二杯目を食べ終えた頃には、少女の警戒も僅かに薄れていた。
短剣は持ったままだが、切っ先は下がっている。
「それで、お前は何をした?」
俺の言葉に、少女の視線が紙へ落ちる。
「命令を果たせなかった」
「誰を殺す命令だった」
「言えない」
「もう組織へ戻れないんだろ?」
「それでも、言えない」
訓練の成果か、恐怖か、あるいは、染みついた習慣か……、俺は無理に聞き出すのをやめた。
「標的のそばに、誰かいたのか」
少女の指が止まる。
「子どもか?」
目が動いた。
「巻き込めなかったか?」
「違う」
少女の声が僅かに強くなる。
「私は、命令を果たせなかった」
「お前は殺せなかったんじゃない……」
「……」
「殺さなかった……、そうだろ?」
倉庫の中に、雨漏りの音だけが響く。
少女は俯きながら、短剣を握る指に力が入る。
「同じだ」
「違う」
「結果は同じだ」
「お前にとっては違うだろ。殺せなかったのなら、力が足りなかっただけだが、殺さなかったのなら、お前が自分で選んだんだ」
「選んでいない」
「じゃあ、どうして手を止めたんだ?」
答えはなかった。
「命令に背いたら殺されると分かっていた。それでもやらなかった。だったら、それはお前の選択だ」
少女の瞳が揺れる。
きっと、誰からもそう言われたことがなかったのだろう。
命令に従うか、失敗するか、処分されるか……。
そこには最初から、自分で選ぶという考えが存在しなかった。
【短剣術:A】
【潜入:S】
【索敵:A】
【解錠:A】
【変装:A】
【薬物知識:B】
【罠解除:A】
【追跡:A】
呆れるほど多才、これだけの技能を持ちながら、本人は自分を失敗した暗殺者としか思っていない。
「お前、鍵は開けられるか」
少女が警戒した顔で頷く。
「罠は」
「見れば分かる」
「人の後を追うのは」
「得意だ」
「薬も扱える」
「毒なら」
「変装も」
「できる」
「それだけできて、どうして人を殺す仕事しかないと思ってるんだ」
少女が、初めて意味を理解できないという顔をした。
「これは、人を殺すために教えられた」
「鍵を開ければ、閉じ込められた奴を助けられる」
「……」
「気配を消せるなら、敵へ見つからずに情報を持ち帰れる。毒を知っているなら、誰かに盛られた毒にも気づける。短剣だって、喉を切る以外に使えるだろ」
「そんな仕事は、知らない」
「なら探せばいいだろ」
「どこで?」
「それは俺も知らない」
「……なんて無責任だ」
「そりゃ悪かったな」
少女が、ごく僅かに目を見開いた。
俺が反論しなかったことが意外だったらしい。
「だが、少なくとも組織へ戻るよりはましだ」
「戻らなければ、私は何になる?」
「そんなの、自分で決めればいい」
「それが分からない」
「今すぐ決めなくていい」
俺は立ち上がり、荷物をまとめる。
「もう、行くのか」
「ああ」
「どこへ?」
「次の町」
「……私を置いて?」
責める声ではなかった……、確認するような声。
「俺と一緒にいれば、追手へ見つかる可能性が上がる」
「一人でも同じだ」
「だから、別の痕跡を作る。追手が合流して状況を報告するまで、少なくとも半日はかかる。俺が西へ偽の痕跡を残すから、お前は北へ向かってくれ」
少女は黙っている。
「ここから森へ入って一刻ほどの場所に、使われていない炭焼き小屋がある。食料と薬は運んでおいた」
「いつの間に」
「お前が眠っている間だ」
「……」
「今日はそこまで運ぶ。三日は休んでくれ。傷が閉じてから北へ向かえばいい」
俺は小袋を床へ置いた。
中には目立たない程度の銀貨と銅貨
。食料を買い、数日は宿へ泊まれるだけの金額だ。
多すぎれば奪われるし、少なすぎれば生きられない。
「それから、自分が死んだことにした方がいい」
少女の瞳が動く。
「倉庫に残った血と、追手が持っていた装備を使えば偽装できる。組織が死んだと判断すれば、追跡も弱くなる」
「できるのか」
「お前ならできるだろ?」
少女は小さく息を呑んだ。
それは、初めて能力を認められた者の顔だった。俺は背負い籠を持ち上げる。
「待て」
足を止める。少女がこちらを見ていた。
「お前は私に、名前を聞いた」
「聞いたな」
「私は、《宵雀》だ」
「それは組織につけられた呼び名だろ」
「私には、それしかない」
「だったら、次に誰かへ会うまでに考えてみてくれ」
「何を」
「自分の名前だよ」
少女の目が大きくなる。
「名前は、自分で決めていいのか」
「駄目なのか?」
「知らない」
「なら、今知ったな」
俺は少女を支え、森の中の炭焼き小屋まで運んだ。
敷いておいた毛布へ寝かせ、薬と食料の場所を伝える。
少女は最後まで俺から目を離さなかった。
「次に会う時までには、決めてくれ」
そう言い残し、俺は追手を西へ誘導するため、雨上がりの森へ出た。
◇
現在。森の中の街道。目の前で笑っている少女と、記憶の中の血まみれの少女が、ようやく一つへ重なった。
「……あの時の」
「はい〜。あの時の、もみくちゃにされた女の子です♪」
「その言い方はやめろ!」
「事実ですよ〜?」
「治療だって」
「分かっていますってば」
少女は、楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、本当に同一人物なのか疑いたくなる。
あの少女は、こちらを睨むか、俯くかしかしていなかった。
「髪が」
「伸びましたよ〜」
彼女は黒髪の束を指先で持ち上げる。
「顔も、あの時は隠していたな」
「見せる必要がありませんでしたからねえ」
「声も違わないか?」
「ほとんど喋っていませんでしたし、毒で喉もやられていましたから〜」
「背も伸びたな」
「いや~、成長期でしたので♪」
「胸も――」
口から出かけた言葉を、寸前で飲み込む。
少女がにっこり笑うし、ノーチェが俺を見た。
「……進?」
「何も言っていない」
「……言いかけた」
「気のせいだ」
「おやおや〜。どこを見ていたんですかねえ」
「そういう言い方はやめてくれ」
少女は肩を揺らして笑った。
「生きていたのか」
俺が言うと、少女は一瞬だけ笑みを止めた。
「ええ」
語尾は伸びなかった。
「おかげさまで」
その一言だけは、からかいでも冗談でもない……、俺は視線を逸らす。
「そうか」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
助けたことを感謝されるつもりはなかったし、生きているなら、それでいい。
少女はすぐに、いつもの人懐っこい笑みへ戻る。
「でも、わたしはすぐに分かりましたよ〜?」
「何が」
「進さんです」
俺は眉を寄せた。
「名前まで知っているのか」
「調べました♪」
「さらっと怖いことを言うな」
「恩人のことを知りたくなるのは、普通では?」
「俺の顔を覚えていたことの方が驚きだ。今の姿を見ても、俺だと気づかない奴は多い」
「でしょうねえ」
「そこは少しくらい否定してくれ」
少女は人差し指を立てた。
「でも、顔だけで人を覚える暗殺者なんて、三流ですよ〜」
「顔以外で?」
「歩幅、呼吸、重心、視線。人混みへ入った時、最初に出口を見るか、武器を持っていそうな人を見るか」
一つずつ数えるように指を折っていく。
「利き手を隠す癖。誰かを庇う時、どちらの足から前へ出るか。攻撃へ備える時、肩より先に腰が動くか。それとも目が動くか」
「……」
「一度、この人だと見極めた相手は、忘れません」
少女は笑った。
「標的を間違えたら、死んでしまいますからねえ」
軽い声だが、内容は笑えない……、幼い頃から叩き込まれた技術なのだろう。
「それに、あの時の進さんは顔を隠していませんでしたし〜」
「あの状況で変装している暇はなかった」
「はい。三パーセントでしたからねえ」
俺は目を見開いた。
「表示を知っているのか」
「表示?」
少女が首を傾げる。違う。
「いや。何でもない」
「わたしが言ったのは、進さんが独り言で『三パーセントは生きられる数字だ』と呟いていたことですよ〜」
聞かれていたのか。あの時、意識がほとんどなかったはずなのに。
「……記憶力が良すぎるだろ」
「お仕事柄です♪」
ノーチェが、少女をじっと見ている。
「……顔ではない」
「ノーチェまで納得するな」
「……進、動きに癖が多い」
「そんなにあるのか?」
「……多い」
少女も頷く。
「多いですねえ」
「二人で俺を観察するのはやめてくれ」
「面白いので〜」
「……面白い」
すでに妙なところで気が合っている。嫌な予感がした。
「それで」
俺は話を変える。
「《宵雀》は、もう使っていないのか」
「はい。あれは死にましたから」
「死んだ?」
「進さんに言われたとおり、死を偽装しちゃいました〜♪あのあと、進さんが西へ追手を引きつけてくれたので、残っていた血と装備を使って、川へ落ちた痕跡を作りまして〜。最後に《宵雀》の認識票だけを見つかりやすい場所へ残しました」
「それだけで死んだと判断したのか」
「少しだけ、報告書も書き換えました♪」
「今、さらっと一番重要なことを言ったな」
「おかげで、《宵雀》は任務に失敗して死亡。めでたし、めでたしです〜」
「自分が死んだ話を、そんなに明るく話すのはやめてくれ」
「でも、無事に死ねたんですよ?」
「無事に死ぬという言葉はない」
「追われなくなったので、わたしとしては大成功でした〜」
「それからは?」
「ふらーり、ふらーり、旅をしていました」
少女は背中で手を組み、街道を後ろ向きに歩き始める。
足元を見ていないのに、一度も石や木の根へ引っかからない。
「旅芸人の一座に混ぜてもらったり〜、商隊の護衛をしたり〜、なくし物を探したり〜」
「芸ができるのか?」
「手品と曲芸を少々。変装も舞台では喜ばれましたよ〜」
確かに、暗殺者として教えられた技能は旅芸人とも相性がいい。
視線誘導に身のこなし、変装から小道具の扱いまで、人の注意を逸らすことに関しては、下手な芸人より上だろう。
「時には、みんなのために〜、悪い人のお屋敷へ忍び込んで、大事な書類を持ち出したりもしました♪」
「それは盗みでは?」
「本来の持ち主へ戻したので、親切です〜」
「便利な理屈だな」
「人を殺さずに技能を使え、と言ったのは進さんですよ?」
「犯罪へ使えとは言っていない」
「誰も傷つけていませんよ〜」
「そこだけは守ったのか」
「はい」
少女は軽く答えたが、その声には僅かな誇りがあった。
あの時、俺が何気なく言ったことを、この少女は、ずっと守っていたんだ……。
「それで、今は?」
「今ですか?」
少女は立ち止まると、俺たちの来た方向へ目を向けた……、そこは、ベルン砦の方角。
「少し前から、進さんを探していました」
「なぜ」
「噂を聞いたので〜」
「噂?」
「黒い覆面の人が、大軍の前へ一人で出たとか。帝国の槍将と戦ったとか。王子様を助けたのに、仲間にもならず消えたとか〜」
広がるのが早すぎる。一体、どこから漏れた。
「最初は別人かなと思ったんですけどねえ。やることがあまりにも進さんらしかったので、追ってみました♪」
「それだけで追ってきたのか」
「はい」
「俺だと確信もないまま?」
「見つければ分かりますから〜」
実際に分かったらしい。
「それで」
少女は俺の顔を覗き込むように、少し腰を屈めた。
「なんだか、面白そうなことをしていますよね〜?」
「面白そう?」
「砦へ忍び込んで、大軍を止めて、王子様を助けて〜。普通なら、そのまま恩人として隣へ収まるところなのに、さっさと姿を消して別の場所へ向かっている」
「恩人として収まるという言い方はやめろ」
「では、英雄様として祭り上げられる?」
「もっと嫌だ」
「ほら〜。やっぱり、面白い人ではありませんか♪」
「遊びではないぞ」
「知っていますよ〜」
「死ぬかもしれない」
「それも知っています」
「なら――」
「でも、面白そうです」
少女は楽しそうに言う。
「わたしも混ぜてもらえませんかね〜?♪」
「駄目だ」
即答した。少女が目を瞬く。
「おや。早いですねえ」
「遊びじゃないと言っただろ」
「ですから、遊びだとは思っていませんよ〜」
「だったら余計に駄目だ」
「どうしてです?」
「危険だからだ」
「わたし、危険なことは得意ですよ?」
「そういう問題じゃない」
「では、役に立たないから?」
役に立たない、そんなことはあり得ない。
少女の名をまだ聞いていない。
だが、目の前にいる時点で分かる……、気配の消し方に間合いの保ち方。周囲を把握する視線まで、どれも、あの時とは比べものにならないほど洗練されている。
それに。帝国の進軍計画は変わり始めている。
俺の原作知識だけでは追えない情報が増える。
潜入、諜報、追跡、偽情報の判別……、今の俺たちに足りないものを挙げれば、この少女が持っている能力ばかりだった。
必要ではないと、嘘をつくことはできないが、だからこそ、簡単に頷いてはいけなかった。
「お前には、お前の生活があるだろ?」
「ふらーり、ふらーりしていますよ?」
「旅芸人は」
「一座とは少し前に別れました」
「なら、次の仕事を探せよ」
「今、見つけたところです〜」
「俺は雇い主じゃない」
「お給金は?」
「出ない」
「食事は?」
「自分の分は自分で用意してくれ」
「寝床は〜?」
「野宿だ」
「おやおや〜。待遇は最低ですねえ」
「それなら諦めてくれ」
「でも、進さんがいますからねえ」
軽い声だった。ただの冗談のようにも聞こえる。
それなのに、返す言葉が一瞬見つからなかった。
少女は俺の沈黙を楽しむように、くすくすと笑う。
「それに、あの時に言ってくれたじゃないですか」
「何を」
「人を殺す以外にも、この力の使い道はあるって」
語尾が伸びなかった。
「わたし、ちゃんと探しましたよ」
黒い瞳が、真っ直ぐ俺を見る。
「色々やってみました。人を助ける仕事も。情報を盗む仕事も。悪い人を脅かす仕事も」
最後の一つは気になる。だが、今は口を挟めなかった。
「それで、思ったんです」
少女は微笑む。
「どうせなら、この力を教えてくれた人のために使ってみたいなって」
胸の奥に、重いものが落ちる。
俺は助けただけだ……。
死にそうだったから治療した、技能の使い道を少し話した、名前を決めろと言った、
俺にとっては、過去の小さな介入の一つだった。
だが。目の前の少女にとっては、そうではなかったらしい。
「だから」
少女は、すぐにいつもの軽い調子へ戻った。
「わたしも混ぜてもらおうかな〜、なんて♪」
「まず、名前を教えてくれ」
「おや?」
「《宵雀》ではないんだろ。今は何と名乗っている」
少女の顔が、ぱっと明るくなる。待っていた問いだったのかもしれない。
「リネアです」
一歩、こちらへ近づく。
「今は、リネアと名乗っています〜♪」
「……リネア?」
その名前を口にした瞬間。視界へ、半透明の文字が浮かんだ。
【名称:リネア】
【兵種:《夜翔刃》】
【状態:良好】
【原作加入時期:第七章】
【原作所属:アルディス軍】
【加入条件:特殊】
【HP:56】
【力:28】
【魔力:29】
【守備:21】
【魔防:27】
【速さ:37】
【技:39】
【幸運:34】
俺は表示を上から下まで読み、そして、もう一度読み直した。
見間違いではない……、原作中盤で加入する、最上級の潜入役。
索敵、解錠、罠解除、宝箱回収、敵陣への潜入に特定会話の回収。
条件を満たせば、敵将すら一撃で無力化できる。
何周遊んでも、加入した瞬間から最後まで一軍だった。
そして今、ステータスを見て確信した。
育成途中の盗賊ではないし、少し鍛えれば使えるという水準ですらない……。
彼女のステータスは、すでに完成している。
「……嘘だろ」
「何がです?」
リネアが首を傾げる。
「リネア」
「はい」
「本当に、リネアなのか?」
「さっきから、そう言っていますよ〜」
「中盤加入の最上級ユニット……」
「ちゅうばん? ゆにっと?」
「何でもない。忘れろ」
「一度聞いたことは忘れないんですよねえ」
「厄介な特技だな!」
どうして気づかなかったんだ!
顔を隠していれば、名前も違った。
加入時期より何年も前だった。
それでも……、あの《宵雀》が、リネアだった。
原作では、帝国の暗殺組織から脱走した過去を持つ少女として加入する。
その時点で既に組織を離れて久しく、各地を放浪していた。
過去の詳細は支援会話でも曖昧だった。
誰かに助けられたことがある、とだけ話す場面があった。
まさか。あれが俺!?
いやいや、原作に俺なんかいないから。
「アルディス軍主力の一人が、なんで俺のところに……」
思わず、声へ出ていた。
「ん?」
リネアがぱちりと瞬く。
「アルディス殿下? 主力?」
「お前は、本来ならアルディス軍へ加わるはずなんだ」
「本来?」
「アルディス殿下の軍だ。リュームリアを取り戻すために戦う軍。お前の能力なら、間違いなく主力になる」
「へえ〜」
反応が軽い。
「へえ、じゃない」
「でも、わたしにはよく分かりませんねえ、そもそも原作も主力も意味不明ですよ~」
全く持ってごもっとも!
リネアは背中で手を組み、楽しそうに身体を左右へ揺らす。
「あちらより、こっちの方が何倍も楽しそうですし〜♪」
「楽しさで所属先を決めるな!」
「大事ですよ〜? 毎日のことなんですから」
「軍への加入を職場選びみたいに言うんじゃない」
「でも、アルディス殿下のところへ行けば、立派なお仕事ばかりなんですよねえ」
「それの何が不満なんだ」
「立派すぎる人の隣って、少し疲れそうじゃないですか〜」
「会ったこともない相手を、勝手に評価するのはやめてくれ」
「進さんの隣なら、退屈しなさそうです」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「命が三パーセントしかなかった女の子を拾って〜」
リネアが一本目の指を立てる。
「もみくちゃにして〜」
二本目。
「勝手に治して〜」
三本目。
「生き方を変えて、名前を決めろと言い残して、ぽいっ! する人です〜♪」
「言い方に悪意しかない!」
「事実しか言っていませんよ?」
ノーチェが静かに俺を見上げる。
「……人さらい」
「違う!」
「……人生も、さらった」
「妙に上手いことを言うな!」
リネアが声を上げて笑った。
「ふふっ。やっぱり、こっちの方が楽しそうですねえ」
「だから駄目だと言っている」
「では、行き先はどちらです?」
「今は教えられない」
「南西ですよね〜」
「なぜ知っている」
「二日前から追っていましたので♪」
「それを先に言え!」
「おやおや。言ったら追跡にならないではありませんか〜」
「追跡するな!」
俺は頭を押さえかけて、やめた。
頭を抱えても、状況は変わらない。
リネアは原作の主力……、アルディス軍へ行けば、多くの命を救える。
だから、そちらへ行かせるべき……、理屈では分かっているが、表示の下に新しい文字が浮かぶ。
【現在の目的:田中進への合流】
【加入希望:強】
【離脱意思:なし】
「リネア」
「はい〜」
「俺たちは、帝国の進軍路を調べる。場合によっては、帝国軍の中へ潜ることになる」
「得意です」
「戦闘になる」
「それも得意です」
「報酬はない」
「先ほど聞きました〜」
「死ぬ可能性もある」
「知っています」
即答だった。リネアの笑みが、僅かに薄くなる。
「置いていかれるのは、もう嫌です」
語尾は伸びなかった。
風が森を抜け、黒髪が揺れる。
その一瞬だけ、目の前の少女が、雨の倉庫で短剣を握っていた《宵雀》に戻った。
「なので、諦めてくださいね〜♪」
「勝手に結論を出すのはやめてくれ」
「……仲間」
ノーチェが言った。
「ノーチェまで、すぐに受け入れないでくれ」
「……役に立つ」
「そういう問題ではない」
「……進も、思ってる」
リネアが持つ技能は、今後必ず必要になる。
原作の進軍路は変わり始めている。
帝国の裏側へ入り込み、情報を集め、罠を見抜く人間がいる。
必要だからそばに置くし、ノーチェに対して抱いたものと、同じ理屈だ。
それを便利だからという一言で正当化してはいけない……、彼女自身が望んでいるからと、危険へ連れていく責任を手放してもいけない。
だが。必要ないと嘘をつくこともできなかった。
「……今すぐ正式に同行を認めるとは言わない」
「はいはい〜」
「アルディス軍へ行くよう説得する」
「頑張ってください♪」
「ちゃんと話を聞いてくれ」
「聞いていますよ〜。進さんが諦めるまで、しばらく一緒に行けばいいんですよねえ」
「違う」
「では、出発しましょうか〜」
リネアは俺の横を通り過ぎる。
まるで最初から同行者だったように、街道を歩き始めた
。ノーチェも、その隣へ並ぶ。
「ちょっと待ってくれ」
二人が振り返る。
「俺が先を歩く」
「では、どうぞ〜」
「……進、遅い」
「誰のせいだよ!」
俺は追いつき、三人で街道を進む。
右にノーチェ、左にリネア。
昨日までは二人だった道が、今は三人分の足音を刻んでいる。
認めていないし、正式には認めていない。
そう自分へ言い聞かせた瞬間、視界に表示が浮かぶ。
【暫定同行者が一名追加されました】
【リネア】
【役割:潜入/諜報/追跡/罠解除】
【現在の満足度:非常に高い】
「勝手に追加するな!」