乾いた風が、細かな砂を巻き上げて視界を濁らせる。
ここは神に見捨てられたような、果てなき砂漠の境界線――中東の紛争地域。
銃弾の鋭い風切り音と、コンクリートの建物を粉砕する爆音が日常のBGMとして定着したこの地で、男は一人、影のように戦場を駆けていた。
赤錆びた色の外套を砂風になびかせ、フードの奥から冷徹な灰色の瞳を光らせる。男の名はエミヤ。この時代において、魔術などという忌まわしき時代の遺物を、誰に知られることもなく振るう孤独な『掃除屋』だ。
ただ戦場の泥濘を這いずり、自分の手が届く範囲の理不尽を叩き潰すことだけを生きがいにしている一人の魔術師。それが現在の衛宮士郎という男のすべてだった。
彼がやっていることは、かつてお伽噺に謳われたような、大それた世界の救済ではない。
反政府組織の拠点へ夜陰に乗じて潜入し、現代兵器の構造をその鋭い戦術眼で瞬時に解析。次の瞬間には、虚空から実体化させた鋼の『鍵』を、兵器の基盤に滑り込ませて回路を焼き切る。あるいは、武器庫の位置情報を隠密裏に掌握し、どこかの勢力に引き渡して戦闘を未然に防ぐ。
生身の人間として泥に塗れ、銃と剣の概念を『投影』しながら、ただ「目の前の手が届く人間を助ける」ためだけに、彼は己の肉体をすり減らしていた。
「――熱いうちに食べるといい」
作戦の合間。戦火によって崩壊したレンガ造りの建物の影で、エミヤは手元で投影した小さな調理器具を片付け、温かいスープを並べていた。
そこにいたのは、銃を持たされた少年兵たちや、行くあてを失った貧しい子供たちだ。現地の限られたスパイスと豆を煮込んだだけの簡素なスープだったが、エミヤの手によるそれは、凍りついた子供たちの心を芯から解きほぐすほどの深い温もりを宿していた。
子供たちが不器用にスプーンを動かし、束の間の笑顔を見せる。エミヤはその光景を、表情を変えずに見つめていた。
彼にとって、正義の味方であることの報酬は、このささやかな平穏だけで十分だった。それ以上の名誉も、英雄としての誇りも、とっくの昔に戦場の砂へ捨ててきた。
しかし、運命の歯車は静かに、そして最悪の不協和音を立てて回り始める。
前線の拠点に放置された、砂嵐の混じる古いブラウン管テレビ。ザーザーと鳴り響くノイズの向こうから、現地のキャスターの悲痛な声が流れてきた。
『――続いて、極東の島国、日本からのニュースです。近年、原因不明の治安低下が叫ばれる同国において、地方都市を中心に不可解な連続神隠し、および猟奇的な怪死事件が多発。警察の公式発表は未だ二転三転しており、国民の間ではネット上の不気味な都市伝説が現実化したのではないかというパニックが広がっており……』
画面に映し出されたのは、かつてエミヤがその身を捧げて守ろうとした故郷の、歪に変わり果てていく姿だった。
エミヤは中東の砂塵を払い、バックパックを背負い直した。
「……帰るか」
呟いた言葉は、風にかき消された。
――それから、数日後。
エミヤが日本の国際空港に降り立った、まさにその瞬間だった。
「お母さん、見て、空が……!」
周囲の観光客の悲鳴に近い声に、エミヤは足を止め、ガラス窓の向こうの空を見上げた。
時計の針は午後二時を指している。本来ならば、初夏の痛烈な太陽が地上を照らしつけているはずの時間だった。
しかし、大気は急速にその熱を失い、影のように冷たい暗黒が世界を満たしていく。
見上げる天空の中心。燦然と輝いていたはずの太陽が、外縁から抉られるようにして、不気味に、禍々しく、黒く欠けていた。
満ちていく闇。昼が夜へと書き換わり、世界の半分が漆黒の影に呑まれていく。――日食だった。
日本のニュースキャスターは天体ショーの奇跡だと興奮気味に伝えているが、エミヤの肌は、それがただの自然現象ではないことを敏感に察知していた。
これから始まる最悪な惨劇の幕開けを祝うかのような、おぞましい予兆。
エミヤは外套のフードを深く被り、不気味な黒い太陽に見下ろされながら、夜の如き静寂へと沈んだ日本の街へと足を踏み出した。
宿泊用のホテルへと向かう深夜の夜道。街灯の光が途切れ、不自然なほどの静寂に包まれたアスファルトの上で、その『猛犬』は待っていた。
青い戦衣を翻し、手元で赤黒い魔力を放つ一本の槍を無造作に弄ぶ男。人間に擬態しているはずのその姿から漏れ出るのは、隠しきれない、そして隠す気すらない圧倒的な神話の気配だ。
「ほう。……ようやくいい獲物が引っかかったな」
暗闇のなか、男――クー・フーリンは、戦場の飢えた獣そのものの紅い瞳で、エミヤを正面から睨みつけた。
「……何だって?」
エミヤの口から漏れたのは、鋭い警戒を孕んだ困惑の声だった。
この『青い戦衣の男』が、なぜ自分を「いい獲物」と呼んで狂気に満ちた笑みを浮かべているのか、その理由がまったく理解できなかった。
じり、とアスファルトを踏みしめるクー・フーリンの足元から、現代の日本には存在し得ない濃密な魔力の残滓が立ち上る。それは、アイルランドの濃霧と血の匂いを孕んでいた。
クー・フーリンの赤い魔槍の穂先が、街灯の鈍い光を浴びて妖しく明滅する。
(俺に課せられたルールは簡単だ。――女性や年寄りは
悪意や狂気による殺人ではない。彼はただ、ゲームの主催者が定めたルールを、息をするように淡々と執行しているのだ。人間の命をただの「得点」としか見なしていないその知性的な冷酷さが、この夜道に底知れない不気味さを漂わせていた。
「お前は上等な獲物だ、赤服。お前を殺せば、俺の階級は一気に跳ね上がる」
「……お前が何を企んでいるかは知らないが、こちらの予定に、通り魔に付き合う暇はない」
エミヤの言葉と同時に、彼の両手にバチバチと火花が散る。
虚空からこれまでに刻んできた鋼の概念を手繰り寄せ、実体化させたのは、陰陽の理を宿した白と黒の双剣――干将・莫耶。
「ハッ、魔術師風情が、面白い玩具を持ってんじゃねえか!」
次の瞬間、クー・フーリンの姿が視界から完全に消失した。
否、消失したのではない。人間の網膜が捉えられる限界を超えた神速の踏み込みが、一瞬でコンクリートの地面を爆破するように陥没させ、間合いをゼロにしたのだ。
(速い――!)
空気を切り裂く突風と共に、赤い穂先がエミヤの喉元へと突き出される。
エミヤは強化魔術で底上げした反射神経で、傷だらけの腕を無理やり駆動させ、白刃を交差させて槍の軌道を逸らす。
ギィィン! と、夜の住宅街にはあまりにも不釣り合いな、激しい金属の衝突音が響き渡る。
しかし、防いだはずのエミヤの身体は、槍から伝わる圧倒的な神話級の「質量」の前に、抗うすべもなく後方へと弾き飛ばされた。
「ぐっ……!」
ガードレールの金属をベッシャリと凹ませながら、エミヤは辛うじて着地する。衝撃で両腕の骨がきしむほどの猛攻。投影した「干将・莫耶」は一撃で粉砕され、エミヤは勝てる見込みが極めて低い絶望的な窮地に追い詰められる。
魔術が完全に廃れ、人類が神秘の牙を失ったこの現代。
にもかかわらず、目の前の男が振るう武の練度は、あまりにも絶望的だった。真っ向勝負では、あと数十秒と持たずに首を撥ねられる。
「終わりだ! その心臓、貰い受ける!」
クー・フーリンが不敵に口元を歪め、魔槍を低く構えた。
槍の穂先から、それまでの打撃とは明らかに密度の異なる、禍々しい血の色の魔力が爆発的に膨れ上がる。
因果を逆転させ、放つ前から「心臓を貫いた」という結果を確定させる必殺の呪い。――ゲイ・ボルグの構え。
エミヤの灰色の瞳が、冷たい絶望に染まる。
投影の防壁では防げない。躱すことも叶わない。万策尽きた、その瞬間だった。
ウゥゥゥゥン!! と、夜闇を切り裂く暴力的なサイレンの轟音。
それと同時に、眩いパトカーのハイビームが、ゲイ・ボルグを放とうとしていたクー・フーリンの網膜を容赦なく焼き尽くした。
「チッ……なんだァ!?」
光に目を細め、クー・フーリンが踏み込みを一瞬だけ躊躇う。
激しいタイヤの摩擦音と共に、エミヤとクー・フーリンの間に割り込むようにして滑り込んできたのは、一台の警察車両。
その運転席のドアが勢いよく開き、一人の女性が夜霧の中へと飛び出してきた。
「警察……!? 」
突如として割り込んできたパトカーのライトに照らされ、エミヤは荒い息を吐きながら困惑していた。
パトカーから飛び出してきたのは、端正な顔立ちを鋭くこわばらせた、警察官の制服を纏う女性――バゼット・フラガ・マクレミッツだった。
「そこまでです、未確認生命体! ――これ以上の一般市民への接触は容認できません!」
「ハッ、警察のお出ましかよ! 悪ぃな嬢ちゃん、俺のゲッシュじゃ『女は儀式に巻き込まない』って決まってんだ。大人しくそこいらで震えてな!」
クー・フーリンが邪魔者を払うように魔槍をしならせる。だが、バゼットは怯むどころか、その瞳に異質な闘志の炎を宿した。
彼女の拳の周囲に、淡く、しかし禍々しいルーンの魔力が収束していく。
「お生憎様。私はただの警察官ではありません――!」
バゼットが地を蹴った。その踏み込みは、人間の肉体構造を完全に超越した力を宿していた。
驚愕するクー・フーリンーの懐へと一瞬で滑り込み、ルーンで硬化・強化された鉄拳を、クー・フーリンの槍の柄へと正確に叩き込む。
ギィィン!! と、先ほどのエミヤの双剣とは比較にならない重低音の衝撃波が周囲の民家の窓ガラスを震わせた。
「なっ……お前、マナナンの気配……!? クソ親父の因縁が、なんでこんな日本の警察に混ざってやがる!」
クー・フーリンが露骨に不快そうな表情を浮かべ、大きく飛び退いた。
バゼットの背後に潜む「海神マナナン」の気配。さらに、すかさず後方へと下がったエミヤが、手元で黒い弓を投影し、クー・フーリンの眉間を正確に狙う精密な魔弾の射線を編み上げる。
「チッ……『女は殺さない』ってルールの最中に、マナナンの神格持ちと、あの赤服の厄介な飛び道具を同時に相手にするのは効率が悪すぎるな」
クー・フーリンは槍を引くと、エミヤを鋭く値踏みするように睨みつけた。
「今回は見逃してやるよ、赤服。だがな、お前がその『強さ』を保っている限り、いずれまた俺たちの誰かがお前を狩りにいく。覚悟しとけや」
残響のような不気味な言葉を残し、クー・フーリンは夜霧の向こうへと溶けるようにして一時撤退していった。
「……助かった。感謝する。」
エミヤが双剣の投影を解き、胸を押さえながら呟く。バゼットはふぅ、と重い息を吐きながら、制服の乱れを直した。
「お怪我はありませんか。あなたの魔術の才能……一瞬で双剣を具現化し、弓を引いた手際、見事でした。――詳しくお話しします。私たちの署へ来ていただけますか」
エミヤは訳の分からぬまま、彼女のパトカーに乗り込み、深夜の警察署の地下へと案内された。
潜入した先は、警察署の最も奥深くにひっそりと存在する、薄暗い『医務室』。
そこには、警察の医療職員の白衣を着た、どこか陽気で、しかし底知れない空気を纏った男が待っていた。その風貌は、どう見ても先ほど戦った青い戦衣の男と酷似している。エミヤが即座に身構えたその時、男はフランクに片手を上げて笑った。
「おうおう、バゼットの嬢ちゃん、随分とボロボロの拾い物を連れて帰ってきたじゃねえか。――っと、そう警戒するなよアンタ。俺は敵じゃねえ」
男は棚から包帯や薬品を取り出し、手際よく治療の準備をしながら、どこか知性的で怪しげな学者風の口調で名乗った。
「俺の名前はグリム。アイルランドからこの国にやってきた、ただのしがない外国人観光客……兼、しがない旅の魔術師さ」
「冗談を言うな。お前のその容姿、先ほど私を襲ったあの青い槍兵と瓜二つだぞ」
エミヤの灰色の瞳が鋭く細められる。グリムは困ったように肩をすくめて見せた。
「ああ、それだよ。それこそが俺が外に出られない理由さ。いま、この現代日本の社会構造の裏側に、人間に擬態したケルト神話の英雄や神々が紛れ込んでるんだわ。……で、俺は運悪く、クー・フーリンっていう怪異に姿を丸ごとコピーされちまった。俺はただの哀れな現代人の被害者さ。外に出ると奴らの一味だと誤認されて結界の保護を失うから、こうして警察の協力者としてここにいるってわけだ」
「なんだと?……。神話の怪異が一般市民を犠牲にしてこの国を汚染している、と」
「その通りだ。警察はこの真実を国民に公表できねえ。だから、夜の闇の中でこっそり奴らを駆除する特命部署を作った。……なぁエミヤ、お前さんのその戦術眼と魔術、俺たちに貸してくれねえか? このままじゃ、日本の人口が夜な夜な間引かれちまう」
エミヤは、包帯の巻かれた己の手を見つめ、それから冷たい怒りを瞳に宿した。
「……見過ごすわけにはいかないな。理不尽に巻き込まれる人々を救うためなら、その隠密作戦、協力しよう」