カツ丼とショートケーキの甘い匂いが残る秘密部署の夜から、わずか一日が経った日の深夜。
東京の喧騒から遥かに離れた、山間を縫うような地方の田舎道。そこを、一台の大型長距離トラックが走行していた。
ヘッドライトの白い光だけが、うっそうと茂る街灯のない夜の森を左右に割り、アスファルトを白く照らし出している。運転席のハンドルを握っていたのは、無精髭を生やしたガタイの良い、いかにも荒くれといった風貌の男だった。
「……あ? なんだ、急に目がかすみやがったか……」
男は小さく毒づき、バックミラーを気にするようにして目を擦った。
異変は突如として訪れた。フロントガラスの向こう、ヘッドライトに照らされた視界が、まるで真夏の猛烈な熱気のように「ゆらゆら」と不自然に揺らぎ始めたのだ。
しかし、今は涼しい夜だ。陽炎が立つはずなどない。
速度を落とし、車を路肩に止めて目を凝らす。男は、悪いのは自分の目ではなく、目の前にある空間そのものがゼリーのように歪んでいるという、異常な現実に気がついた。
男は怪訝な顔で運転席のドアを開け、夜の冷たい空気の中へ降りた。口にくわえたタバコの煙を吐き出しながら、ゆっくりとその空間の「揺らぎ」へと近づいていく。
ただの疲れか、あるいはガスか何かか。男がその陽炎のような歪みに、恐る恐る厚い手のひらを伸ばし、触れてみた、その瞬間。
ピキ、と頭の中で冷たい氷がひび割れるような音がした。
空間の歪みは一瞬で消え去り、元のクリアな夜の景色へと戻る。
──だが、そこに立っていた男は、もはや元の「トラック運転手」ではなかった。
「……ふむ」
男は、自分の新調された手のひらを握ったり開いたりしながら、首をゴキゴキと鳴らした。
その脳内には、日本の田舎の寂れた記憶ではなく、アイルランドの果てなき大草原と、血と闘争、そして神話の大剣の記憶が津波のように流れ込んでいた。
男の瞳から、一般人としての光は完全に消え去り、代わりに野生の獣のような圧倒的な質量を持った眼光が宿る。
空間が揺らいでいたのは、そこに霊体として現界していたケルトの英霊──フェルグス・マック・ロイが潜んでいたからに他ならない。
彼は境界線に触れたこの「通りすがりの人間」を依代にし、その肉体と人格を強引に上書きすることで、彼は完璧な肉体を持って「受肉」したのだ。
「美味そうな酒の匂いがするトラックだ」
フェルグスは、トラックの車体を振り返り、ニヤリと大口を開けて豪快に笑った。その細い鉄板でできた現代の乗り物は、彼の内に目覚めた神話の怪力によって、内側からベキベキと音を立てて歪み始めていた。
数日後。警察署の秘密部署。
エミヤとバゼットは、部屋の片隅に置かれた小型テレビが流すワイドショーのニュースを、硬い表情で見つめていた。
『──続いてのニュースです。山梨県の山間部にある旧トンネル付近において、通行中の車両が忽然と姿を消すという、不可解な連続失踪事件が発生しています。現場周辺は現在、警察による大規模な規制が敷かれていますが、進展は見られません。まさに、ネット上の怖い話や、現代の神隠しが現実になったかのようです……』
画面が切り替わり、寂れた地方の住宅街で、一般の主婦が泣き崩れる生々しい映像が映し出される。
『ネットの都市伝説だと思って、主人が出かける時も笑っていたんです。なのに、本当に帰ってこない……っ。お隣の旦那さんも一昨日から連絡がつかなくて、近所の人たちもみんな怯えています。オカルトなんかじゃなくて、絶対に何か恐ろしい事件が起きてるんです……!』
テレビの砂嵐のようなノイズの向こうから、一般市民のリアルな悲鳴が作戦室に響く。
国民を混乱から守るために真実を隠蔽し、「ただの事件」として報道をコントロールする警察。しかし、その裏側で、都市伝説の皮を被った怪異が確実に一般の生活を侵食し、人々の命を奪い去っている。
エミヤとバゼットは無言のままお互いの顔を見合わせた。言葉はなくとも、確信があった。
ケルト人の階級闘争の生贄の儀式、『
「おいおい、今度の奴はえらく派手にやってるじゃねえか」
二人の背後で、ソファに深く腰掛けたグリムが、神妙な顔を作りながらインカムのチェックを始めた。
「エミヤ、バゼット。これ以上の被害は警察の面目的にも見過ごせねえ。早く現地へ行って、奴らの暴走を止めてきてくれや」
「言われるまでもない」
エミヤは冷たい怒りを瞳に灯し、赤い外套を翻した。バゼットもまた、警察官としての職務、そして己を蝕むマナナンの呪いを抑え込むように、拳を強く握りしめる。
その夜。二人はヘッドライトの光を消した警察の車両に乗り込み、黒い日食の気配がまだほのかに残る、霧の深い山奥のトンネルへと向けて静かに出撃した。
霧が深く立ち込める夜の国道。バリケードで封鎖された山道の奥に、その旧トンネルは口を開けていた。不気味なオレンジ色のナトリウムランプが明滅し、コンクリートの空洞を歪に照らし出している。
エミヤとバゼットが静かに足を踏み入れたその戦場には、ワイドショーのニュースが語っていた通りの生々しい惨劇が転がっていた。
トンネルの中央、まるで怪獣にでも踏み荒らされたかのように、内側からベッシャリとひしゃげて大破した大型トラック。引き裂かれた鉄板と散乱するガラス片の奥には、忽然と姿を消したはずの、帰らぬ人となった運転手たちの無惨な遺体が、冷たいコンクリートに横たわっている。
そして、その破壊のド真ん中に、大男はいた。
作業着を大きくはだけさせ、岩のような肉体を露出させた巨漢。彼はコンクリートにどっかりと腰掛け、腕を組んで仁王立ちならぬ仁王座りをしていた。
エミヤは歩みを止め、感情の消えた声で単刀直入に問いかける。
「──ケルトの怪異か?」
大男は重々しく顔を上げると、その厳つい顔を獰猛に歪めて、地響きのような声で豪快に笑った。
「いかにも! 俺の名はフェルグス・マック・ロイ! コナハトの誇る大剣使いさ!」
フェルグスは、わざわざ自分を狩りに、この閉鎖された死地へと乗り込んできたエミヤとバゼットを見据え、嬉しそうに目を輝かせた。彼はトラックの運転席の残骸から地酒の特大ボトルを引っ掴み、無造作にキャップを歯で引き抜く。
「美味そうな酒と、滾るような霊脈の匂いに釣られて受肉してみれば、よもやこんな極上の強者どもを拝めるとはな! 歓迎するぞ、異国の弓兵、そして──マナナンの因縁を宿した、極上の美女!」
グイッと安酒を喉に煽り、空になったボトルをコンクリートの床へと乱暴に投げ叩き割る。ガシャァンと響く硬質な破裂音が、戦闘開始のゴングとなった。
フェルグスの手元で、大気が歪む。顕現したのは、圧倒的な神威の輝きを放つ、螺旋のドリルを思わせる神話の大剣──魔剣カラドボルグ。
(しまっ、この地形は──!)
エミヤの脳内に冷たい警告灯が灯る。
一本道の狭いトンネル、逃げ場のない閉鎖空間。これは、直線的な大破壊を得意とし、空間ごと敵を圧殺するフェルグスにとって、あまりにも有利すぎる絶対のホームグラウンドだ。
「ハハハハハ! 砕け散れッ!」
フェルグスが巨躯に見合わぬ神速で地を蹴り、カラドボルグを大上段に振り下ろした。エミヤは即座に「干将・莫耶」を限界まで重ねて投影し、十字の防壁を構築する。
──だが、あまりにも質量が違いすぎた。
ドゴォォォン!! と、トンネル全体が崩落するかのような大爆音が炸裂する。
エミヤが投影した双剣は、魔剣が放つ「空間ごと一刀両断にする暴力」の前に、受け流す暇すら与えられず火花と共に一撃で粉砕された。
「ぐ、あ、っ……!?」
骨がきしみ、内臓がひっくり返るほどの衝撃。エミヤの身体は紙屑のように吹き飛ばされ、トンネルのコンクリート壁に背中から激しく激突した。壁にバキバキと蜘蛛の巣状のひび割れが走り、エミヤは床に膝を突き、大量の鮮血を吐き出す。
「おいおい、俺のカラドボルグを前に、その程度のなまくらで受けるつもりか! 武器の真似事は上手いが、芯の
フェルグスが再び大剣を構え、地を駆ける。
エミヤは無制限に双剣を投影し、ヒット・アンド・アウェイのゲリラ戦を仕掛けようとするが、狭い一本道のトンネル内では死角を作ることも、距離を取って弓を引くこともできない。
エミヤが放つカラドボルグの模造品、カラドボルグⅡを見せても、オリジナルの持ち主であるフェルグスは「ハハハ! 真似事が本物に勝てるかよ!」と、圧倒的な練度の差で叩き潰してくる。
防戦一方。エミヤの肉体はみるみるうちに切り刻まれ、命の灯火が風前の灯火となる。真っ向勝負では、エミヤだけでフェルグスに勝つのは、流石に不可能に近いほどきつい──。
「エミヤさん、下がって!! 」
背後から、漆黒の夜霧を切り裂いて、弾丸のような速度で滑り込んできたのは、警察官の制服を纏ったバゼットだった。
「ハハハ! いいねえ、マナナンの娘! その威勢、嫌いじゃねえぞ!」
フェルグスが歓喜の咆哮を上げ、カラドボルグを横一線に外周へと薙ぎ払う。バゼットは自らの肉体と理性がマナナンという強大すぎる神格に呑まれていく劇物のような
人間の枠を完全に外れた神速のフットワーク。バゼットは低く鋭い姿勢で魔剣の凶悪な間合いへと滑り込む。
「はぁぁぁっ!!」
ルーンで硬化・強化された両拳が、フェルグスの分厚い脇腹、あるいはカラドボルグの柄へと強烈なカウンターとして叩き込まれた。
ドガァァン!! と、トンネルのコンクリートの空洞を破裂させるような爆音の衝撃波が吹き荒れる。いかに大英雄フェルグスといえど、マナナンの神威を乗せた格闘打撃の質量には抗えず、その巨体が大きくよろめいた。
(今だ──
バゼットが前衛でフェルグスを完璧に釘付けにしている間、後方へ下がったエミヤの戦術眼が光る。
一本道のトンネルという最悪の閉鎖空間。それは裏を返せば、障害物のない「完全な直線の射線」に他ならない。
エミヤは素早く距離を取ると、虚空から漆黒の洋弓を投影。限界まで弦を引き絞り、そのつがいに模造した
フェルグスがバゼットの猛打に苛立ち、大剣を力任せに振り回して彼女を荒々しく薙ぎ払おうとした、その瞬間だった。
キィィン、と鼓膜を刺すような風切り音と共に、エミヤの手から必殺の矢が放たれた。
直線の死線。放たれた魔弾は、トンネルのひび割れた壁を掠めて火花を散らしながら、フェルグスの死角──すなわち、大剣を振りかざしたことで無防備になった関節、そして視界を奪うために右目を正確無比に射抜いた。
「グ、オォォッ!? おのれ、飛び道具が……!」
視界と機動力を同時に奪われ、初めてフェルグスの動きに決定的な歪みが生じる。
「クソッ、おのれマナナンの娘……! 異国の弓兵……っ!」
神話の因縁、そして眼前の二人のあまりにも一分の隙もない連携に、完全に翻弄されるフェルグス。
人格が書き換わりそうになる激痛がバゼットを襲う。だが、バゼットは奥歯が砕けんばかりに噛み締め、その人間としての魂のすべてを込めた決定打の鉄拳をフェルグスの胸元へと突き立てた。
その直後、死角から限界の速度で肉薄したエミヤの「干将・莫耶」が、フェルグスの心臓を深く、冷徹に貫く。
「……見事だ。異国の弓兵。そして、マナナンの娘よ……。この俺を相手に、これほど気分のいい
心臓を穿たれ、口から血を溢れさせながらも、フェルグスは最後まで豪快に、満足そうに笑ってみせた。
その巨体は、オレンジ色のナトリウムランプの光に溶けるようにして、静かに光の粒子となって退去していった。
大破したトラックの残骸と、静寂だけが残されたトンネル。
「……終わったよ。大丈夫かい、バゼット」
エミヤは己の満身創痍の身体を無視し、激しく息を荒くして膝を突きかけているバゼットの肩を支えた。バゼットの肌は死人のように青ざめている。
「ええ……。何とか、抑え込みました。任務、完了です……」
バゼットの震える声を拾いながら、エミヤはインカムのスイッチを入れ、警察署の作戦室へと定時報告を入れる。
「こちらエミヤ。トンネル内の
『──おう、お疲れさん。よくやったな、二人とも』
インカムの向こうから返ってきたのは、いつものグリムの陽気な声だった。
だが、その声を放っている主は、警察署の暗い作戦室で、鼻メガネを乱忘にデスクへと放り出していた。
グリムは冷酷な、愉悦を孕んだ瞳で、モニターに映し出された日本の霊脈のデータを見つめる。
ディルムッド、フィン、フェルグス。強力なケルトの戦士たちの血と魂が、エミヤの手によって次々と日本の土地へと還されたことで、霊脈は不気味な赤色に、ドクドクと熟した心臓のように脈動し始めていた。
グリムはいつもの明るいトーンを完全に消し去った、低く歪んだ声で、誰もいない部屋にポツリと呟いた。
「──順調だなぁ」