「やった……。本当に、全部、倒したはずなのに……」
硝煙と砂塵が薄く漂う地下闘技場のリングの上、クー・フーリン・オルタの残滓が完全に夜の闇へと掻き消えたその瞬間だった。
安督の息を吐き出すはずだったバゼットの喉から、押し潰されたような悲鳴が漏れた。彼女は自らの胸を両手で強く抉るようにして、冷たいコンクリートの床へと崩れ落ちる。
「バゼット……っ!?」
エミヤが満身創痍の身体を無理やり駆動させ、彼女の元へと駆け寄る。だが、彼の手が彼女の肩に触れるよりも早く、バゼットの全身から、それまでとは次元の異なる、底冷えするような禍々しい魔力の奔流が噴出した。
「まだクー・フーリン・キャスターが残っている。いや、彼女の中のマナナンそのものを消さなければ……!」
エミヤはすぐさま手元に新たな双剣を投影しようとしたが、その指先が、空間に満ちた圧倒的な神威によって凍りついたように動かなくなった。時は、すでに遅かった。
バゼットがゆっくりと顔を上げる。
その瞳からは、人間の警察官としての理性や優しさ、その一切の光が完全に消失していた。代わりに眼窩を満たしていたのは、深海の奥底を思わせる、冷徹で鮮やかな、どこまでも透き通ったブルー。
伝承にすぎないはずの神霊が、多重債務者たちの欲望にまみれたこの地下の霊脈を依代にし、海神マナナン・マク・リールとして完全に覚醒した瞬間だった。
マナナンとなったバゼットが、おもむろに虚空へとその白い手をかざす。
「――
直後、世界の理そのものが、バキバキと音を立てて書き換えられ始めた。
崩壊した地下闘技場の壁、天井の隙間から見える歌舞伎町のビル群、アスファルト、コンクリート――近代化が築き上げた無機質な都市のすべてが、一瞬にして形を失っていく。
足元の地面が、波紋を立てて揺らいだ。気づけば、エミヤの足首は、底が透き通るほどに美しい、しかし骨まで凍てつくような「浅い海」へと浸かっていた。
東京という巨大な大都市が、一瞬にして、ケルトの失われた神域――『
アイルランドの濃い濃霧が、海水の上を滑るようにして街中を覆い尽くしていく。その霧の向こうから、近代化の波によってこの世界から消えかけていたアイルランドの妖精たちが、歓喜の声を上げながら次々と姿を現した。
「あ、あぁ……」
「身体が、動か、な……」
避難しようとしていた一般の市民たちが、浅い海の中に次々と力なく頽れていく。
現れた妖精たちは、まるでお伽噺の愛らしさなど微塵もない、無慈悲な捕食者だった。彼らは倒れ伏した人間たちに群がり、その口から、胸から、クラゲのようにフワフワと発光する透明な『
一人、また一人と、魂を抜かれてただの生ける屍と化していく無辜の民。
「――おのれ、マナナン……ッ!!」
エミヤの胸の内に、狂おしいほどの焦燥が炸裂した。
彼はバゼットを救うという選択肢をその場で即座に捨て、戦闘プロとしての冷徹さで、神格に呑まれたバゼット諸共マナナンを討つべく、漆黒の洋弓を投影。
因果を歪める魔弾を番え、マナナンの眉間へとその射線を固定した。
だが、マナナンは、エミヤの放つ殺意の弓撃を前にしても、ただ艶然と、慈悲深くすらある残酷な微笑みを浮かべただけだった。
「無駄だよ、エミヤ。神話はもう、この地に根付いた。どれほどお前が足掻こうと、人間の矢が神の海を穿つことはない」
マナナンはそう告げると、そのまま底のない浅い海の中へと、重力に従うようにして静かに沈んでいく。エミヤが放った必殺の魔弾は、彼女が消えた海面を虚しく水飛沫を上げて貫くだけだった。完全に気配が消失する。
マナナンが姿を消した直後、セタンタが突然、荒い息を吐いてその場に膝をついた。
その輪郭が、テレビの砂嵐のように一瞬ブレる。「セタンタ!? どうした」エミヤが駆け寄るが、セタンタは自身の剣を杖代わりに、かろうじて霊基を繋ぎ止めている状態だった。
「クソッ……、冗談だろ……? 霊脈の魔力が、ほぼねえ……!」
セタンタは血の気の失せた顔で地面を睨みつける。
「いつでも食えるポテチみてえにそこらに浮いてる魔力が……一切ねえ。あの
セタンタは悔しげに歯を食いしばり、そのまま光の粒子となって消えかける手前で、霊基維持のために強制休眠状態に入った。
倒すべき敵、マナナンは消え去り、エミヤの目の前には、ただただ魂を抜かれていく人間の地獄絵図だけが残された。
紛争地域で「目の前の命を救うため」だけに泥を啜ってきたエミヤにとって、敵が強すぎるがゆえに戦うことすら許されず、守るべき対象が自分の目の前でただ静かに消滅していくこの状況は、何よりも耐え難い、最も残酷な地獄に他ならなかった。
「くそっ……、どこだ……! どこにいるクー・フーリン・キャスター……マナナン……!!」
エミヤは息を激しく乱しながら、夜の海の街へと飛び出した。
バゼットを救い出すため、この破滅を止めるため、彼は心当たりのある霊脈の拠点を、ケルトの戦士たちの残滓が漂うアジトを、手当たり次第に駆け巡った。水を蹴り、霧を払い、必死に彼らの影を追い求める。
しかし、どれだけ走ろうとも、どれだけ魔力を探ろうとも、静まり返った浅い海からは、神々の気配は完全に消え失せていた。
夜が明ける。
しかし、昇ってきた太陽は、あの日食の日と同じように、薄暗く、世界の崩壊を祝福するかのように冷たかった。
ボロボロになり、自らの魔術回路から血を流しながら、エミヤは 這うようにして、かつて自分が所属していた警察署の地下秘密部署――あの『医務室』へと戻ってきた。
誰もいない、静まり返った部屋。
3人でカツ丼を食べて笑い合っていた、あの温かい日常の痕跡が残る部屋。
エミヤは、自分のデスクの前に立ち、愕然と目を見開いた。
書類や医療器具が散乱するその殺風景なデスクの真ん中に、ポツンと、一枚の紙切れが置かれていた。
それは、あの陽気で、軽薄で、頼りになる仲間だったはずの男の筆跡で、最悪の嘲笑と共に綴られた――グリムからの置き手紙だった。
エミヤは震える指先で、デスクの上に置かれた一枚の紙切れを拾い上げた。
見慣れた、どこまでも陽気で軽薄だったはずの「外国人観光客」の筆跡。しかし、そこに躍るインクの文字は、エミヤの心臓を冷酷に凍りつかせる悪意の塊だった。
『よう、正義の味方。お疲れさん。お前のおかげで、ディルムッドやフィン、フェルグスも、ランサーやスカサハ、メイヴやオルタも、綺麗に片付いた。バゼットの嬢ちゃんがマナナンを抑え込めてたのはな、周囲に霊脈の力を吸い上げるケルトのサーヴァントがいて、マナナンに十分に魔力が行かなかったからだ。つまりお前が『全員を倒した』その瞬間が、マナナンが完全覚醒するチェックメイトだったのさ。さて、俺とマナナンの親父は、この新しくできた『東の果ての妖精郷』でちょっとバカンスと洒落込むわ。――じゃあな、正義の味方。
追伸:最後の仕上げだ。本当に世界を救いたきゃ、裏面の座標へ来い。待ってるぜ』
「……っ、ふざけるな……!」
エミヤの手の中で、紙切れがみしりと音を立てて握りつぶされる。
自分が命を懸けて、傷だらけになりながら掴み取った勝利のすべてが、最初から「勝てば勝つほどバゼットを破滅させ、世界を終わらせる」ための、最悪のチェックメイトへと繋がっていた。
だが、絶望に暮れている暇はない。エミヤは血が滲むほどに奥歯を噛み締め、手紙の裏に刻まれた魔術的な座標の示す場所へ向けて、弾かれたように地を蹴った。
――そこは、日本の地方都市の、誰もいない山奥の空き地のはずだった。
しかし、鬱蒼とした木々を抜けてその開けた場所に辿り着いた瞬間、エミヤの視界は、現実の理を完全に無視した異界のビジュアルによって圧倒された。
初夏の季節であるはずなのに、その空き地だけは、足首が埋まるほどの真っ白な雪景色に変貌していた。しんとした静寂の中、冷たい雪がポツポツと、エミヤの赤い外套の上に容赦なく降り積もっていく。
薄暗い空には、日本では絶対に観測されるはずのない、夜空を巨大な裂傷のように引き裂く鮮やかな緑と紫のオーロラが、ゆらゆらと不気味に揺らめいていた。あまりにも綺麗で、あるいは、圧倒的に恐ろしい終末のビジュアル。
その真っ白な雪原の中心で、人影が一つ、無邪気な声を上げていた。
白衣を脱ぎ捨て、青いキャスターの装束を纏った男――クー・フーリン・キャスターだった。
彼は、二匹の獰猛な狼を従え、まるで無邪気な子供のように雪の上を駆け回り、追いかけっこをして遊んでいた。
エミヤの足音を察知し、二匹の狼が低く唸り声を上げ、鋭い牙を剥く。
「おう、来たかエミヤ。手紙の通り、律儀に足を運んでくれて嬉しいぜ」
クー・フーリン・キャスター は狼の頭を優しく撫で、いつもの陽気な、あるいは怪しげな学者風の口調でエミヤを振り返った。
その佇まいと、空を覆うオーロラの圧倒的な絶望感のギャップが、底知れない恐怖となってエミヤの肌を刺す。
エミヤは虚空から「干将・莫耶」を引き抜き、鋭い殺意の視線を男へと固定した。
「……お前が黒幕だな。今度こそ、そのふざけたツラごと叩き潰してやる。バゼットを、世界を元に戻せ」
「いやぁ、悪いがそれは無理な相談だわ」
クー・フーリン・キャスター は手にした木の杖を雪の地面に突き立て、その深紅の瞳の奥から、底知れない神の理の光を覗かせた。
「俺はな、お前らが言うところの『クー・フーリン・キャスター』だが……その器の中身は、もう一つ別の名前を持ってる。――北欧の最高神、オーディン。それが俺の本性だ。ちなみにグリムと言う名は元々、俺が地上を這い回る時の古いお気に入りの名前(仮面を被る者)なんだわ」
神の名前、そして『グリム』の真の伏線が雪原の冷気に響く。エミヤの灰色の瞳が、驚愕に細められた。
「驚くことはねえ。俺がこの日本で仕掛けたすべてのゲーム、
クー・フーリン・キャスターは杖を掲げ、エミヤに向けて、誰にも否定できない絶対的な『