イル ─神殺し─   作:みそそ

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第8話

「ラグナロク……、世界の、終焉……?」

 

真っ白な雪が降る空き地。夜空を切り裂く不気味なオーロラの下、エミヤは喉を詰まらせた。

 

クー・フーリンの姿をした最高神オーディンは、二匹の狼(ゲリとフレキ)を従え、淡々と、しかし誰にも否定できない絶対の正論を紡ぎ出す。

 

「魔術が完全に廃れ、人類が神秘の牙を失ったこの現代において、お前だけは違った。戦場の泥濘を幾年も這いずり、孤独に銃と剣を投影し、未来を救うために命を磨り潰し続けてきた。……最高神オーディンはな、お前のその『勇敢に敵に立ち向かう魂』を高く評価したのさ。迫り来る本物の終末を生き延びるため、お前をエインヘリャル(兵士)としてヴァルハラにコレクションすることを計画したんだわ」

 

クー・フーリン・キャスターの掲げた木の杖が、冷たい風を集めて発光する。

 

「今回のゲーム(イル)も、日本の霊脈の汚染も、バゼットの嬢ちゃんがマナナンに呑まれたのも……すべてはお前を試し、ヴァルハラへ連れていくための『選定試験』だ。……なあエミヤ、未来の全人類を救うためだ。ここで流れた少数の血なんざ、大義の光の前には当然の必要経費だろう? 大人しく神の国へ来い」

 

未来の全人類を救うための、少数の犠牲。

それは、エミヤ自身がこれまでずっと、抑止力の操り人形として嫌というほど選ばされ、そして否定したかったはずの「正義の天秤」そのものだった。

 

自分のせいで何人もの罪のない人々が犠牲になったという激しい罪悪感。しかし同時に、目の前の神は「世界を救うための救世主」なのかもしれないという、あまりにも巨大な矛盾。

 

逃れられぬ神の算術を突きつけられ、冷徹なはずのエミヤの思考は、完全にフリーズした。干将・莫耶を握る両手から力が抜け、銃弾のように降る雪の中に立ち尽くす。そのまま、オーロラの光の中へ拉致されそうになった、その時だった。

 

エミヤの凍りついた脳裏に、これまで日本で戦ってきた光景が、激流となって去来した。

 

女性たちの盾の奥で「これが私の騎士道」とのたまった、ネジの狂ったディルムッド。

 

かつて親友だったディルムッドとの絆を嘲笑った、軽薄なフィン。

 

豪快に酒を煽り、戦いを愛し消えていった、戦車の如きフェルグス。

 

肉やケーキを美味そうに完食し、「最強のクー・フーリンになる」と意地を張った、小さなセタンタ。

 

最愛の男を守るためにペンライトを投げ捨て、盾となって微笑んで散った、一途なメイヴ。

 

(彼らは、ただの『ゲームのチェスの駒』なんかじゃない。……確かにそこに生きていた、一人の人間だ……!)

 

そして――満身創痍の自分を迎え、大真面目な顔でカツ丼とショートケーキを机に並べてくれた、あの傷だらけの警察官、バゼットの手の温もり。

 

エミヤの脳裏にスカサハの最後の言葉が浮かび上がる。

 

「神の天秤など、お前たちのその『人間のエゴ』で叩き潰して見せよ――」

 

瞬間、彼らの無念と、理不尽に命を奪われた一般市民たちの悲鳴が、エミヤの心の最奥に眠る「始まりの地獄――冬木の火災」の記憶と完璧にシンクロした。

 

赤い炎と黒い煙の向こう。魔術も正義も何も知らなかった頃の、ただ泣くことしかできなかった幼き日の自分の幻影が、今のエミヤの背中を、強く、強く押し出す。

 

『――ひどいよ。こんなの、絶対に許せないよ』

 

エミヤのなかの「一人の人間としてのエゴ」が、完全に戻ってきた。

 

これまで彼の戦術を支えていた「冷たい怒り」の温度が、一気に臨界点を突破し、すべてを焼き尽くすような「爆発的な熱い怒り」へと変貌する。

 

「……なるほど。君たちの言う大義は完璧だ。救世主のシステムとしては一分の隙もない」

 

エミヤは、すんなりと神の正論にひれ伏すのを拒絶し、ゆっくりと顔を上げた。その灰色の瞳には、オーロラの輝きすら拒絶する、底知れない熱を孕んだ人間の意志が宿っていた。

 

「だが――そんなものは知ったことか! 簡単に、すんなりと俺とバゼットを騙して裏切ったお前を、大義のために少数を当然のように犠牲にするその天秤を、俺は絶対に認めない! お前がどれほど正しく、どれほど救世の道を示そうと――今、俺は悲しいし、怒っているんだ!!」

 

「――な、に……っ!?」

 

クー・フーリン・キャスターの顔から、初めて余裕の笑みが完全に消え去った。

 

エミヤの叫びに応えるように、全身の魔術回路が限界を超えて暴走。エミヤの肉体から立ち上った魔力は、人々を呪い殺す『この世全ての悪(アンリマユ)』の黒い泥のようであり、同時に北欧の神々を噛み殺す終末の巨狼『フェンリル』の如き、おぞましく巨大な漆黒のオーラとなって雪原を黒く侵食し始めた。

 

そのビジュアルは、まさにエミヤが日本に来たあの日、世界の半分を黒く染め上げた「日食」そのものだった。

 

あの日食は、光の御子(ク・フーリン)を、そして最高神の光(オーディン)を根こそぎ喰らい尽くす『神殺しの影』――衛宮士郎の到来を告げる予兆だったのだ。

 

大義のために少数を犠牲にする「光の神々」が世界をディストピアに変え、神々から見れば世界を滅ぼす悪魔(フェンリル)に見える「人間の影」こそが、理不尽に泣く人々を救う本物の正義の味方になるという、最高に美しく皮肉な逆転現象。

 

「ヒィ、ヒィィン……ッ!?」

 

オーディンの従える二匹の狼が、恐怖に尾を巻き、狂ったように吠え立てる。

 

最高神オーディンの頭脳が、完璧なエラーを起こした。

 

(私は、世界の終焉(ラグナロク)を生き延びるための最強の兵士を育てていたはずだ……)

 

(しかし、私が彼に与えた過酷な試練こそが、彼を神を呪い、世界を終わらせる本物の終末、『第二のフェンリル』へと育て上げてしまったのか!?)

 

ラグナロクを防ぐために動いていたはずの神が、自らの独善的な算術によって、自らの手で「本物の終末(エミヤ)」の引き金を引いてしまったという最悪の因果応報。

 

「私はまた、神話と同じ過ちを……自ら、終末を招いたというのか……っ!」

 

その救いようのない矛盾と絶望の計算に脳を完全に焼かれたオーディンは、バグを起こしたAIのように思考が完全機能停止(エラーロック)に陥った。

 

神のシステムがロックされたことで、空に輝いていた不気味なオーロラと雪景色の結界が、ガラスのようにバキバキと音を立てて崩壊し始める――。

 

「――アハハハハ! おい最高神サマよ、無様にフリーズしてんじゃねえぞ!」

 

ガラスが割れるような音を立てて崩壊していくオーロラの結界のなか、エラーを起こしたオーディンの神威を内側から強引に突き破り、聞き覚えのある不敵な笑い声が雪原に響き渡った。

 

いつもの獰猛な、しかしどこまでも晴れやかな笑みを浮かべた青い戦士――クー・フーリンの魂が、神の殻を破って表へと這い上がってきたのだ。

 

「神の因果を越えるのはいつだって個人のエゴだ。――最高だぜ、衛宮士郎! お前はそうこなくっちゃ、面白くねえなぁ!」

 

そこにはもう、オーディンの大魔術も、エミヤの鋭利な投影魔術も存在しなかった。ただの「一人の男」の魂に戻ったクー・フーリンは、手にした杖を雪の中に放り投げ、両の拳を固めて不敵に言い放った。

 

「神様の操り人形の時間は終わりだ。ここからは、ただの泥仕合といこうじゃねえか!」

 

「……ああ、望むところだ……ッ!!」

 

エミヤもまた、手の中の「干将・莫耶」を虚空へと物質的に霧散させた。

吹き荒れる雪景色の真ん中、二人は武器を捨て、ただ互いの存在と意地をぶつけ合うための、凄まじい肉弾戦(殴り合い)を開始した。

 

ドカァッ!! と、骨が軋む鈍い音がコンクリートと雪の上に響く。

 

エミヤの放つ拳は、これまでのような「冷徹な暗殺の技」ではなかった。簡単に、すんなりと自分とバゼットを騙して利用したクー・フーリンへの悔しさ、神の天秤によって理不尽に犠牲になった人々への悲しみ、その人間としての尊厳のすべてを込めて、エミヤは怒って泣きながら拳を振るった。

 

対するクー・フーリンは、神の呪縛から完全に解き放たれ、ついに一切の嘘偽りなく全力をぶつけ合える宿命の好敵手を得た歓喜に震えていた。彼は迫り来るエミヤの鉄拳を、猛犬のごとき闘争の悦びで迎え撃ち、笑いながら楽しそうにその拳を受け止め、殴り返した。

 

涙を流して激昂する人間と、笑顔で拳を突き出す戦士。

白銀の雪原を互いの鮮血で真っ赤に染め上げながら、殴り、殴られ、ただ純粋なエゴの質量だけを交わし合うその一騎打ちは、お互いが「最高の戦士」であると認め合う、最も泥臭く最も美しい戦闘の極致だった。

 

「……はは、やるじゃねえか……!」

 

激闘の果て。エミヤの魂を込めた最後の一撃が、クー・フーリンの顔面を完璧に捉えた。

 

コンクリートの床へと倒れ伏した青い戦士は、口元の血を拭うと、どこまでも晴れやかに笑ってみせた。

 

「あーあ、負けた負けた。……最高のゲームだったよ。じゃあな、正義の味方」

 

満足げな言葉を残し、ケルトの猛犬の魂は、今度こそ己の誇りを取り戻して静かに座へと消滅していった。

 

神々の光(オーロラ)が完全に霧散し、静まり返った雪原。

そこに、バゼットの肉体を依代にしたまま、すべてを特等席で眺めていた海の神マナナンが、ふぅ、と長い息を吐き出した。

 

「いやぁ、実に見事なものだった。アイルランドにいた頃からあの猛犬の不遜なツラには反吐が出そうだったんだがね。まさか異国の弓兵に、あそこまで無惨に拳で叩きのめされるとは。……実にスカッとした。」

 

マナナンは楽しそうに、そして本当に満足そうに笑った。彼にとって、長年燻っていたクー・フーリンへの私怨は、エミヤの拳によって完全に晴らされたのだ。さらに、消滅したオーディンの残滓があった場所を冷ややかに見下ろす。

 

「それにしても、偉大なる北欧の最高神ともあろう御方が、ラグナロクを防ぐための兵士を育てようとして、自分の手で『神を噛み殺す第二のフェンリル』を爆誕させて自爆するとは。これ以上の救いようのない喜劇が他にあるだろうか?」

 

エミヤの内に宿った、大義を拒絶する「人間のエゴ」。それを作ったのが神自身の傲慢な天秤だったという因果応報を、マナナンは極上のエンタメとして心底嘲笑った。

 

「まあ、これだけ面白いものが見られたのだ。常若の国(ティル・ナ・ノーグ)の顕現など、最初からどうでもよかった。これだけの神話の混乱を経験したのだ、近代化で停滞期に入っていたこの東の果ての国も、ここからまた少しは活気付くのではないか? ――ま、知らんがな」

 

フッと鼻で笑い、マナナンは驚くほどすんなりと、未練なくバゼットの肉体から離脱。日本の街を沈めていた浅い海...ケルトの神域のすべてを引き連れて、西の果てへと去っていった。

 

神の圧倒的な無責任さと引き換えに、日本の夜を支配していた不穏な暗雲は完全に晴れ渡り、世界に本当の夜明けが訪れる。

 

 

そこは異界の海でも地下闘技場でもなく、いつもの見慣れた、警察署の静かな医務室だった。

 

制服の袖を捲ってみても、そこにはもうマナナンのルーンも、人格を蝕む冷たい呪いの残滓もない。彼女は完全な「人間の肉体と理性」を取り戻していた。

 

窓の外を見上げれば、暖かな太陽の光が現代の日本の街並みを穏やかに照らし出している。大義のために少数を犠牲にする「光の神々」を退け、世界を滅ぼす悪魔に見えた「人間の影(エミヤ)」こそが、理不尽に泣く人々を救う本物の正義の味方になったという、最高に皮肉で美しい大団円がそこにはあった。

 

だが、作戦室のどこを見回しても、エミヤの姿はなかった。

それどころか、あのアングラ闘技場で共に戦ったはずの、小さな神童――セタンタの姿もない。

 

バゼットはハッとして、自分のデスクへと駆け寄った。

そこには、エミヤの手による温かい料理の容器と――1本の小さな剣が、ぽつんと横たわっていた。

 

それは、セタンタが消滅の間際に遺していった、彼の現界の残滓だった。

 

エミヤが『士郎』としての熱いエゴを取り戻し、すべてのクー・フーリンを殴り倒して神話を終わらせた瞬間、深い因縁――「士郎がエゴを取り戻す時、クー・フーリンは退場する」という天秤が非情にも発動していたのだ。

 

セタンタもまた、この国で多くの無辜の民を間引いてきた『Yr(イル)』のプレイヤー。どれほど子供らしく駄々をこねようとも、犯した罪の清算からは逃れられない。彼は消えゆく自らの身体を見つめながら、最後にエミヤとバゼットへ、ケルトの戦士らしい爽やかな笑みを遺して、座へと還っていったのだ。

 

「ちぇ……やっぱり、あいつらが消えちまったら、俺もここまでか。……でもよ、楽しかったぜ。最後に最高の戦いができてさ。――じゃあな」

 

バゼットはその形見の剣をそっと抱きしめ、窓から差し込む朝日の光を静かに見つめた。

 

デスクの上には、航空チケットが1枚置かれていた。

裏には、冷徹な暗殺マシーンから完全に脱却し、本来の温かい人間性を取り戻した弓兵の、不器用な筆跡でメッセージが残されている。

 

『バゼット。警察官の仕事もお役御免だろ? 荷物をまとめて空港へ来い。――これからは、自分の人生を楽しむ番だ。世界を見に行こう』

 

 

数週間後。云一つない青空が広がる、どこか異国の異国情緒あふれる大都市の広場。

 

「――さて。次はどこの国に行こうか」

 

赤い外套のフードを外し、エミヤが、晴れやかな空を見上げて呟いた。

これまで「誰かを救う義務」として傷つくだけの戦いを続けていたエミヤは、もういない。世界中の、まだ見ぬたくさんの人々と友達になるために、彼は新しい一歩を踏み出していた。

 

「エミヤさん! お待たせしました、次の目的地のパンフレットを貰ってきました!」

 

トランクケースを引きずりながら、警察官の制服ではなく、少しサイズが大きめの私服を纏ったバゼットが、笑顔でエミヤの元へと駆け寄ってくる。

 

二人の世界旅行は、まだ始まったばかりだ。

失った者達の哀悼を胸に抱きながらも、彼らは決して後ろを振り向かない。現地の人々と友達になり、美味いスープを囲み、あの不器用な日常の続きを世界中で紡いでいく。

 

神のシステムに抗い、人間の尊厳を掴み取った二人の歩みは、暖かな太陽の光に照らされながら、どこまでも広がる青い空の向こうへと、爽やかに進んでいくのだった。

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