海岸沿いにある古びた物置小屋には、使われなくなった小舟や埃を被った漁の道具が無造作に積まれている。
潮騒の音が、古い板壁越しに低く響いていた。
外は完全に夜の闇に包まれている。ラインハイトの町人たちが松明を掲げて海辺を捜索しているのか、時折、遠くから怒号のような声が風に乗って流れてきた。
フリーレンは、重い瞼を持ち上げた。
頭蓋の奥で鈍い痛みが拍動している。視界がぼやけていたが、やがて天井の板目が浮かび上がってきた。
「……ここ、は」
身体を起こそうとして、左側のバランスが異常に軽いことに気づく。
フリーレンはそっと左耳のあたりに手をやった。いつもなら肩にかかっているはずの白いツインテールの感触がない。根元からバッサリと焼き切られた、荒々しい断層が指先に触れた。
「あぁ……切られたんだった」
千年以上手入れをしてきた髪だ。少しだけ、呆然とする。
その呟きを聞きつけたのか、部屋の隅で膝を抱えていた影が、バネのように飛び起きた。
「フリーレン!! 目が覚めたか……! よかった、本当に……」
シュタルクだった。
彼はボロボロになった服の上から血を滲ませ、包帯代わりの布を自分の脇腹に乱暴に巻いている。その傍らには、先ほど魔法で直したばかりの大斧が置かれていた。
その隣ではフェルンが、並べた木箱にシーツ代わりの布を敷いただけの急拵えのベッドの上に寝かされている。
「フェルンは」
「……まだ、目を覚まさない。あれだけ泣き叫んで、魔力を使い果たしたんだ。身体は、無事だ。ただ……」
シュタルクが言葉を詰まらせ、俯いた。
海辺でフェルンが放った、あの呪詛のような罵倒。シュタルクの額に刻まれた傷痕よりも深く、彼の心をえぐり出した言葉たち。
「なあフリーレン。……あの言葉は、フェルンの本心だったのかな」
シュタルクの声が震えている。
「俺のこと、不潔だとか、死ねばいいとか……。フェルンは、ずっとそう思っていたのか。俺たちが旅をしていた間も、ずっと……」
フリーレンはゆっくりと砂の混じる床に腰を下ろし、静かにシュタルクの目を見た。彼女の瞳には、かつての冷徹な「魔族殺し」の鋭さではなく、弟子と仲間を案じる静かな慈愛が宿っていた。
「あれは、呪いだよ」
フリーレンは淡々と、しかし一点の迷いもなく断言した。
「ただ、あの呪いは、嘘をつかせるわけじゃない。人間の心の中にある、わずかな不満や劣等感、誰にも言えない不安……そういう『本音の破片』を拾い上げて、何百倍にも膨れ上がらせて、鋭利な刃物に作り変えるんだ」
フリーレンは自分の無くなった髪の跡に手を触れ、少しだけ目を伏せた。
「フェルンの中に、シュタルクに対する小さな不満があったのは事実かもしれない。けれど、それを『死ね』という言葉にまで変質させたのは、紛れもなくあの魔族だ。あの子が本当にシュタルクのことを心から嫌っているなら、旅なんてとっくの昔に終わっている」
「……そうか。そうだよな」
シュタルクは、握りしめていた拳から力を抜き、深い溜息をついた。安堵と、まだ癒えない傷が混ざり合い、彼の顔に複雑な陰影を落としている。
「でも、俺……あの時のフェルンの目、忘れられねえよ。あんなに軽蔑に満ちた目、初めて向けられた。これから、フェルンが起きたら、どんな顔をして向き合えばいいんだ」
フリーレンは、気絶したまま眠るフェルンの傍らに膝をついた。
彼女の幼い頃から変わらない、ふっくらとした寝顔。今は涙の跡が乾き、安らぎとは程遠い苦痛の表情を浮かべている。
「向き合うしかないよ。この子が私に対して抱いていたわだかまりも、今回ルークによって引きずり出された憎しみも、すべてこの子自身の人生の一部だ。……それを全部受け止めるのが、私の役目だと思っている」
フリーレンはそっとフェルンの額の汗を拭う。
その仕草は、千年の時を生きるエルフではなく、ただの不器用な師のそれだった。
「目が覚めたら、この子はきっとパニックになる。自分がしたことも、言ったことも覚えているはずだ。……シュタルク。あなたも傷ついたと思うけれど、この子が起きたら、また、一緒に旅を続けてくれる?」
外では、捜索の松明の光が波打ち際をなぞっている。
嵐は過ぎ去ったが、彼らの旅路は、これまで以上に険しいものになろうとしていた。
* * *
海岸線を染め始めた薄い陽光が、海辺の粗末な小屋の隙間から差し込んでいた。
フェルンは、喉の渇きと身体の重苦しさに意識を浮かび上がらせた。
瞼を閉じている間も、夢うつつの中で、あの甘美で、毒を含んだ記憶が万華鏡のように回り続けていた。
ルークの瞳。自分から重ねた唇の感触。
シュタルクの顔を歪めさせた、あの醜悪な罵倒。
そして、フリーレンの髪の毛を無慈悲に焼き切ったあの瞬間の、ゾルトラークの収束感。
「――っ!」
フェルンは息を呑み、跳ね起きるようにして身体を起こした。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。冷や汗がシーツを濡らし、指先は細かく震えていた。
隣の板張りで眠っていたシュタルクが気配に気づき、ハッとして身を起こす。部屋の奥では、フリーレンが静かに座り、片方だけになったツインテールを、まるで何事もなかったかのように手入れしていた。
フェルンは自身の両手を見つめた。
あの時、ルークの服を掴んだ手。
あの時、シュタルクを拒絶した手。
そして、あの時、フリーレンの身体を貫こうとした手。
「……嘘……」
喉が引きつる。
自分が魔族と唇を重ねた記憶。呪いによるものだと分かっていても、その「意志」が自分自身のものとして脳に刻まれている。あの時、確かに自分はルークを愛していた。彼の言葉に酔い、彼を守るためなら何でもできた。
その自分自身が、今はたまらなく恐ろしかった。
「……フリーレン、様……シュタルク、様……」
フェルンの声は掠れ、蚊の鳴くような震え声になった。
彼女は力なく項垂れたまま、膝元に落ちた視線を上げることができない。恥辱と嫌悪で、胃の奥がせり上がるような感覚に襲われる。
「私……なんて、なんてことを……」
自分が二人に投げつけた、あのような言葉の数々。
シュタルクの尊厳を泥のように踏みにじり、罵り、殺そうとした事実。
フリーレンの旅の目的さえも「不可能」だと断じた、あの傲慢で冷酷な自分の姿。
彼女は、ボロボロと止めどなく涙をこぼした。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
フェルンは粗末なベッドから崩れ落ち、床に額を擦り付けるようにして、深く、深く頭を下げた。
「私、あんなことを……シュタルク様の心に、あんな酷い言葉を投げつけて……。フリーレン様の、大切な旅を……人生そのものを、あんなふうに否定して……っ」
彼女の肩が、激しく上下する。
魔族に心酔していたことへの罪悪感だけではない。自分が、自分という人間が、あのような悪意を内包していたという「事実」に対する、根源的な自己嫌悪だった。
「……あのとき、あなたを殺そうと……フリーレン様の髪……っ、私、どうして……っ、うああああああ……!!」
フェルンは自分の喉元を掻きむしるようにして、慟哭した。
シュタルクは、先ほどまでフェルンに向けられていた罵倒の言葉を思い出し、身を硬くして彼女を見つめている。
フリーレンは髪を梳く手を止めた。
静かな波の音だけが、二人の沈黙を埋めていた。
フェルンは、涙で濡れそぼった顔を上げられないまま、フリーレンの元へと這い寄り、ケープの裾を震える手で握りしめている。
自分のしでかしたこと、口にした猛毒のような言葉の数々。それが全て、呪いで増大されたものであるとわかっていても、心の傷が癒えるにはあまりに深く、重すぎた。
フリーレンは、フェルンの目線の高さまで頭を下げると、切り飛ばされた自分の白い髪の断層をそっと指先で撫でた。
「フェルン。顔を上げて」
静かな声だった。フリーレンは、フェルンが何を恐れているのか、すべてを察しているようだった。
「髪なんて、また伸びるよ。そのうち、またツインテールに戻る。魔族との戦いではよくあることだし、全然大したことじゃない」
フリーレンは、まるで自分の髪のことなどどうでもいいと言いたげに、淡々とそう言い放った。千年の時を生きる彼女にとって、髪の毛の長さなど、朝露が消える程度の些細なことなのだろう。だが、その無造作な優しさは、自分自身を呪い続け、死にたいとまで願っているフェルンの凍りついた心を、さらに凍てつかせていく。
「……フリーレン様、私……あんなことを言って……っ」
「いいよ、もう。呪いの影響だったんだ。あなたの魂まであんな言葉に染まっていたわけじゃないってこと、私が一番よく知ってる」
フリーレンは、迷いのない手つきでフェルンの頭を撫でた。
師匠の手のひらは、いつだって温かい。それはルークの呪いのように甘く毒を含んだものではなく、ただ純粋で、懐かしい安らぎの温度だった。
傍らで、シュタルクが気まずそうに、しかし真っ直ぐな瞳でフェルンを見つめていた。彼は自分の脇腹を押さえながら、先ほどまで怒号と罵倒を浴びせられていたとは思えないほど、安堵の混じった表情で肩の力を抜いた。
「……フェルン、戻ってきてくれてよかったよ」
シュタルクは、そう言って少しだけ笑った。その笑顔には、嘘も隠し事もない。
「不潔だとか、死ねとか言われた時は、正直、腹も立ったし傷ついた。……でもさ、それ以上に怖かったんだ。フェルンが、俺たちの知らないところで、そんな酷い言葉を吐きながら消えてしまうんじゃないか……、もう戻ってこないんじゃないかって」
シュタルクは立ち上がり、修理された大斧を背負い直す。その背中には、もう迷いはなかった。
「フェルンが俺たちのことを嫌いじゃないなら、それでいい。謝りたいなら、いくらでも聞くよ。だから、そんな顔すんなよ。いつもの少し生意気で、でも優しいフェルンが戻ってきてくれて、俺さ、マジでホッとしてるんだ」
フェルンは、シュタルクの言葉に目を見開いた。
彼のすべてを否定し、あんなにも深く尊厳を傷つけた。なのに、彼は何一つ責めることなく、ただ自分の帰還を喜んでいる。
「シュタルク様……っ」
フェルンの瞳から、再び大粒の涙が零れ落ちた。
だが、それは先ほどのような絶望と自棄の涙ではない。自分が愛され、求められ、受け入れられているということを再確認した、安堵と悔悟の涙だった。
「……ごめんなさい……。本当に、本当に……ごめんなさい……っ」
静まり返った小屋の中に、フェルンの嗚咽と、それを包み込むように流れる穏やかな朝の気配が満ちていた。
* * *
窓から差し込む朝日が、小屋の中に舞う塵を金色に煌めかせている。
夜の帳が下りた海岸での、憎悪と混乱が支配した地獄のような戦いから数刻。そこには、ただ静かな朝が訪れていた。
薄暗い小屋の片隅で、フェルンは未だに膝に顔を埋め、小さな肩を激しく震わせて泣き続けていた。その背中に、シュタルクがどう声をかけていいか分からず、大きな手を伸ばしかけては引っ込める。そんな不器用なやり取りを、フリーレンは静かに見つめていた。
半分だけ失われた白い髪が、首筋に冷たく触れる。
フリーレンは手元にあった赤い杖を拾い上げ、小さく息を吐いた。
「シュタルク。……少しだけフェルンのこと、お願いね」
「え? あ、あぁ……分かった。任せてくれ」
シュタルクは戸惑いながらも力強く頷いた。
その返事を聞くと、フリーレンは音も立てずに木製の古い扉を開け、外の空気の中へと静かに滑り出していった。
夜明けを迎えたラインハイトの海岸は、朝靄に包まれていた。
波打ち際に押し寄せる波は昨夜の狂乱が嘘のように穏やかで、冷たい潮風がフリーレンの焼き切られた髪を乱暴になびかせる。
左手を頭の横へ伸ばすと、いつもなら指先に触れるはずの、柔らかく豊かな感触がそこにはなかった。
右側だけに残された白い髪束が、風に吹かれて不格好に揺れている。
フリーレンは波打ち際から少し離れた平らな岩場に腰を下ろし、海を見つめた。
身体の芯に、ずっしりとした、ひどく重い疲労感が居座っている。それはルークを仕留めるために魔力を極限まで絞り出したことによる肉体的な摩耗だけではなかった。
『あなたは彼の20年の人生を、「魔族とエルフにとってはゴミみたいな短さだ」と言い放ったじゃないですか!! あの場では20年という同じ時間を明確に否定しておいて、自分が不利になったらそんな綺麗事を言うなんて……!』
『自分の命の長さを笠に着て、どんな不幸も災いも、一瞬で過ぎ去る些事だと思っているから……そんなひどい言葉が、平気で口から出るんです!!』
『私たち人間からすれば、あなたも魔族も、どちらも同じ化け物です……!!』
頭の中で、フェルンの張り裂けんばかりの叫びが何度も、何度もリフレインする。
「同じ、化け物……」
魔族殺し、葬送のフリーレン。
人間を誰よりも殺してきた魔族たちを、冷徹に、容赦なく葬ってきた。それは人間を守るためであり、ヒンメルたちと交わした約束のためでもあった。
だが、当の人間であるフェルンの目には、自分もまた「理解の及ばない長命の化け物」と映っていた。
あの日海沿いのカフェで、魔族の男の20年の生活を「短い」と一蹴したときの記憶が、チクチクと胸を刺す。エルフにとってはほんの瞬きに過ぎない時間が、人間にとってはすべてであるという当たり前の事実。自分はそれを知っているつもりで、その実、何も分かっていなかったのではないか。
フェルンにとっての20年は、彼女の「すべての時間」だ。
南側諸国で戦争が起き、目の前で両親を失い、死の恐怖に怯え、ハイターに救われ、必死に魔法の修行をして、そしてフリーレンと共に歩んできた、彼女の人生のすべて。
それを、最も信頼し、師と仰ぐエルフから「ゴミみたいな短さ」と、悪気すらない淡々とした態度で切り捨てられたのだ。
フリーレンは焼け焦げた髪の片端を指先でいじりながら、ぽつりと呟いた。
「……私、最低だ」
ヒンメルの時もそうだった。失ってから、初めて自分が何も知らなかったことに気づく。
今度はフェルンを失わずに済んだ。けれど、彼女の心に刻まれた「時間差」の傷跡は、ルークの呪いが解けた今も消えることはない。
フリーレンは膝を抱え、ただ静かに、白み始めた空の下で佇んでいた。
潮風に混ざる古い木材の匂いが、肺の奥を冷たく満たす。
フリーレンは静かに小屋の木扉を押し開けた。
軋む音が朝の光の中に溶けていく。
室内では、シュタルクが不器用な手つきでフェルンの背中をさすっていた。フェルンは両膝を抱え、涙の乾きかけた顔を伏せたままだ。二人はフリーレンが戻ってきた気配に気づき、同時に視線を向けた。
半分だけ失われた白い髪が、フリーレンの左肩の上で頼りなく揺れる。
彼女は赤い杖を壁に立てかけると、迷いのない足取りでフェルンの前に歩み寄り、その小さな身体を見下ろした。
(私は、また間違えたんだ)
外の冷たい空気を吸いながら、フリーレンはずっと考えていた。
さっき、目を覚ましたフェルンが激しい自己嫌悪に陥り、涙を流して謝罪したとき。自分は「髪なんてまた伸びる」と、どこか他人事のように、そして的外れな慰めを口にしてしまった。
フェルンが本当に苦しんでいたのは、自分の髪を切り落としたことへの罪悪感だけではない。
魔族の呪いによって曝け出され、何倍にも肥大化させられたとはいえ、あの海岸での慟哭は――「私の20年の人生をゴミだと思っている」「エルフも魔族も同じ化け物だ」という叫びは、かつて自分が何気なく放った不躾な言葉によって、フェルンの心に深く刻まれてしまった本物の傷跡だった。
人間の時間の短さを知りながら、それをどこかで軽んじていた。
その自分の不誠実さに、フェルンは絶望していたのだ。
それなのに、自分はまたエルフの傲慢さの殻に閉じこもり、自分の身体の損害だけを「大したことじゃない」と笑い飛ばして、フェルンの本質的な苦しみから目を背けてしまった。
謝るべきなのは、自分の方だった。
人間の心を知るための旅の途中で、誰よりも近くにいる弟子の心を、最も冷酷に傷つけていたのだから。
フリーレンはゆっくりと、膝を折ってフェルンの前に屈み込んだ。
そして、その薄い翡翠の瞳を真っ直ぐにフェルンへと向け、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「フェルン。……ごめんね」
「え……?」
フェルンが濡れた睫毛を震わせ、驚いたように顔を上げた。
「あの時、カフェで、あの魔族が過ごした20年を、フェルンの人生と同じ長さの時間を、ゴミみたいに短いって言ったこと」
フリーレンは一言ずつ、自分の言葉の重さを噛みしめるように紡ぐ。
「間違いだった。……エルフにとっての20年はほんの一瞬だからって、私はあなたの時間を……あなたが一生懸命に生きてきた大切な人生を、どこかで軽んじていた。言葉であなたを大切だと言いながら、態度は魔族と何も変わらなかった。あなたの言う通り、私は本当に冷酷な化け物だったよ。……私の無神経な言葉が、あなたをあんなに傷つけていたのに、気づけなくてごめんなさい。本当に、ごめん」
フリーレンは深く、頭を下げた。
千年以上を生き、歴史に名を残す大魔法使いが、一人の人間の少女に対して、その傲慢さを認めて謝罪したのだ。
シュタルクは息を呑み、二人の姿をただ見守るしかなかった。
フェルンは大きく目を見開いたまま、言葉を失っていた。
あの海岸での絶叫は、呪いによって何倍にも歪められた憎悪だった。けれど、その底にあった「フリーレン様に私の時間を、人生を理解してほしい」という届かぬ寂しさを、目の前の師が今、真正面から受け止めて、謝ってくれている。
「フリーレン、様……」
フェルンの唇が小刻みに震え、乾きかけていた瞳に、再び新たな涙が溢れ出した。
朝日が差し込み、小屋の隙間からこぼれた光が、空中に舞う埃を黄金の粒に変えている。
フリーレンは、膝から崩れ落ちているフェルンを、その華奢な身体ごと腕の中に引き寄せた。
多くを語る必要はなかった。ただ、ずっとそばにいたからこそ分かる。今この時、何よりも必要なのは言葉ではなく、繋がっているという確かな実感だけだった。
フェルンの細い指がフリーレンの白いケープを強く握り締め、彼女の胸元に激しく顔を押し付ける。押し殺していた感情が、喉の奥から絞り出されるような嗚咽となって、小屋の中に波紋のように広がった。
魔族に魂を弄ばれた記憶、愛への執着、自分の中にある悪意への自己嫌悪。それらが一気に崩壊し、涙となって溢れ出している。フリーレンはただ、折れないように、しかし優しくその肩を抱きしめ、背中をゆっくりと撫で続けた。
その光景を、部屋の隅からシュタルクは見守っていた。
昨夜、自分もまたフェルンの言葉に深く傷ついた。だが今、自分が入り込む余地はない。これは二人の師弟が、長い時の中で再び結びつきを取り戻すための、聖域に近い時間なのだ。
シュタルクは、砂利混じりの床で大斧を握りしめていた手を、そっと解いた。
彼もまた、傷ついている。だが、今ここで立ち尽くすことが野暮であることぐらいは、20年の人生の中で、たしかに学んでいた。
彼は、一歩、また一歩と、音を立てぬよう慎重に足を運ぶ。
古びた木扉に手をかけ、軋みが出ないよう細心の注意を払ってそれを押し開いた。
きりり、と扉が小さく鳴る。
抱き合う二人は、振り返らない。
シュタルクは、朝の清廉な冷気を肺いっぱいに吸い込み、小屋の外へと踏み出した。
海辺の小屋には、二人のためだけの静寂が満ちていた。朝焼けの海岸に、シュタルクの足音が小さく遠ざかっていく。
* * *
日が高く昇る頃には、海辺の古い小屋を包んでいた重苦しい空気はすっかり消え去っていた。
フェルンは腫らした目を何度もこすりながらも、いつものように丁寧な手つきで荷物をまとめ、シュタルクの破れた衣服の修繕を手伝っていた。フリーレンはといえば、左側のツインテールが根元からすっぱりと失われたアシンメトリーな姿のまま、平然と荷物の整理をしている。
「フリーレン様、その髪……やはり、結び直した方がよいと思います。ひどく不格好です」
「いいよ、面倒くさい。そのうち伸びるし、これはこれで個性的でいいと思うんだけどな」
「……相変わらずズボラですね」
少しだけ呆れたような、けれどいつもの温度を取り戻したフェルンの声に、シュタルクは心底ホッとしたように肩の力を抜いた。
三人は静かに小屋を後にし、ふたたびラインハイトの街へと足を踏み入れた。
昼下がりのラインハイトの街は、陽光に満ちて穏やかに見えた。だが、そこを歩くフリーレンたちに向けられる視線は、昨日までの狂乱とは異なる、冷ややかでよそよそしいものに変わっていた。
誰も石を投げつけてはこない。狂信的な怒号を浴びせてくることもない。ルークの死によって、人々の脳を縛っていた「ルークを全肯定し、外敵を排除する」という積極的な戦闘衝動の呪いは、確かに消え失せていた。
しかし、人々が三人に向ける目は、明らかに「敵意」と「拒絶」に満ちていた。
「おい、あの旅人たちだ……」
「ルークを……殺したのか、追い出したのか……ただ魔族ってだけで」
「なんて酷いことを。あんなに優しくて、私たちのために尽くしてくれた良い子だったのに」
通りを歩くたび、ひそひそ話と冷たい視線が突き刺さる。
ルークの「人を魅了する魔法」の呪いが消えても、街の人々にとって、ルークと過ごした「20年間」の記憶までが消えるわけではなかった。
人々は未だに、魔族による実害を認識できていない。
街から転出していったとされていた人々や、海に水葬された死者たちが、すべてルークの栄養源として裏で捕食されていたなどというおぞましい真実を、誰も知らないのだ。
彼らにとってルークは、20年もの間、この街のあらゆる困りごとを解決し、誰にでも微笑みを絶やさなかった「美しく紳士な便利屋ルーク」のままだった。その敬愛の念は、呪いが解けた今も、彼らの心に美しい思い出として深く根付いている。
だからこそ、そのルークを奪ったフリーレンたちは、ただの「理不尽な暴力を振るった冷酷な侵入者」でしかなかった。
「……やりきれねえな」
シュタルクは大斧の柄を握りしめ、俯きながら呟いた。
「俺たちは街を救ったはずなのに。あいつが悪い魔族だって、いくら説明したって、誰も信じちゃくれないんだろうな」
「いいんだよ、シュタルク。ヒンメルも言っていた。『お礼が欲しくて助けるわけじゃない。僕達はただ、自分がそうしたいからするんだ』ってね」
フリーレンは、ゆっくりと二人の方へと振り返った。
「それにね、誰にも理解されなくても、私は二人の20年の重さを、その痛みを、少しだけ知ることができた。それだけで、この街に来た意味はあったと思うよ」
フリーレンはそう言うと、自分の半分失われた髪を潮風に揺らしながら、思考を巡らせた。
『人を魅了する魔法』。
千年以上を生き、無数の魔族と戦ってきたこの自分ですら、本性を現したルークと直接対峙するまで、その魔力の極小の揺らぎを看破することができなかった。これほどまでに人間の精神の奥深くに同化し、愛と忠誠を擬似的に生み出す術式。
(恐ろしい魔族だった……)
魔族の魔力量は、生きてきた年月にある程度比例する。
ルークは生まれ落ちてから、まだ「20年」という魔族として極めて短い時間しか経っていなかった。あの魔族があれほど若く、魔力量が「この程度」で済んでいたからこそ、魅了の規模はラインハイトという一つの街と、フェルン一人の精神を侵すだけで留まったのだ。
「もしも……」
フリーレンはふと、足を止めて天を仰いだ。
「もしも、あの男が数百年という時を生きる大魔族だったとしたら。膨大な魔力量を持って、あの魔法をさらに広範囲に展開していたら……」
一国そのものを丸ごと魅了し、王から民に至るまでを自らの忠実な軍隊として使役していたかもしれない。人類は戦うことすら諦め、自ら進んでその魔族の糧となるために列を作った可能性さえある。言葉すら必要ない、人間を捕食するためだけに特化した進化の極致。
「本当に、危ないところだった」
フリーレンの呟きは、誰に届くでもなく、潮風に消えていった。
ラインハイトの大きな防壁の門が見えてきた。
門番の兵士たちも、三人が通り過ぎるのをただ冷たい目で見送るだけで、挨拶の言葉すらかけない。
防壁の外に出ると、目の前にはどこまでも続く青々とした街道と、燦々と降り注ぐ陽光が広がっていた。街の息苦しい拒絶の空気から解放され、三人は同時に、深く息を吐き出した。
「フリーレン様。次はどちらへ行かれるのですか?」
フェルンが、少しだけすっきりとした顔で問いかけた。その紫色の瞳には、もうルークの影も、甘い呪いの余熱も残っていない。
「うーん。特に決めてないけど……そういえば、この先を少し行ったところに、『イチゴ味のシロップを大量に出す魔法』が伝わる村があるらしいんだよね」
「……またそんな、役に立ちそうにない、くだらない魔法ですか」
「くだらなくないよ。かき氷にかけたら美味しいと思う」
「フリーレン。俺、かき氷食べたいな」
「ね。シュタルクは分かってる」
「はぁ……。お二人とも、本当に緊張感がありませんね。荷物持ちのシュタルク様、しっかり歩いてください」
「へいへい。そっちも、病み上がりなんだから無理すんなよな、フェルン」
「私はもう元気です。……シュタルク様、お洋服、まだ少し汚れていますよ」
「あ、マジで? 後で川があったら洗うか……」
たわいもない会話を交わしながら、三人の影は、遮るもののない平原の街道をゆっくりと歩み進めていく。
半分だけ失われたフリーレンの白い髪が、新しい風に揺れていた。
人間を知るための旅は、まだ始まったばかりだ。間違いを犯し、傷つき、それでも彼女たちは、明日の陽射しを求めて歩き続ける。
「シュタルク様」
「うん?」
「以前、シュタルク様がくれた、この鏡蓮華のブレスレット。……私、大切にしますから」
「ん? お、おう。……ありがとう?」
一つの千年と、二つの20年。
ラインハイトの街を背に、三人の背中は、やがて光の彼方へと溶けていった。
これにて「ラインハイトの蜜月」は完結です。
本作にお付き合いいただき、またお気に入り登録や評価、ご感想をいただきまして、本当にありがとうございます。
終わりまで描き切れたのは、読んでくださる皆様のおかげです。
フリーレンはアニメ2期も終わりまして、来年の黄金郷編アニメ化が待ち遠しいですね。
マハトやソリテール等々、魔族キャラの造形が好きなので、映像化を非常に楽しみにしてます。過去編も劇場版とかでやったりしてくれないかしら。
原作漫画の連載再開も……(遠い目)
改めまして皆様、読了、本当にありがとうございました。
最後に評価を付けていただけると非常に嬉しいです。また次回作への励みといたします。