いや、トランセンドとトレーナーは親友みたいなもんだから恋仲になるわけなくないすか笑
※2025/8/16 コミックマーケット106にて頒布された合同誌「飛んで火に入る夏の馬」にて寄稿した短編小説になります。
海猫が凪いだ水平線を泳いでいた。その下では白昼の砂浜に流れ着いた貝殻は、照り付ける太陽の光を反射して小さく光っている。止むことのない潮騒、少女たちの飛び交う声、蹴り上げられる砂の音。
某県、某海浜公園。例年この時期になるとトレセン学園のウマ娘たちが訪れるこの砂浜の風物詩である。
「なあトラン」
「なあにトレちゃん」
ビーチパラソルの下、リクライニングチェアで涼みながら、小波のような声が交わされる。
「"アレ"、本当にやるのか?」
「モチのロン。言ったでしょ、噂だとしても確かめないと」
トランセンドのトレーナーは眉根を寄せて尋ねると、トランセンドはそう返して、こくりと側のドリンクを一口飲んだ。
「それとも、今になって怖気づいちゃった? こういうシチュ再現するの」
「怖気づいたっていうか、お前マジで言ってる? っていう困惑が今になって来たっていうか」
「いやまあ言いたいことはわかるけどさ。別に実際
「そうだけどさ……倫理的にアレじゃん、俺の立場が」
「メジロ家見て言える?」
「おま……」
苦悶を感じる唸り声。あいつら出すのはちゃうやん、という彼の心の声が容易に聞こえてくるようだった。
「まあまあ、別に特別なことをするわけじゃないって。いつもやってることにちょっと変化加えるくらい。それでもそれっぽくはなるらしいし」
ソースはカレン、と言ってトランセンドはぴっと人差し指を立てた。
「夏合宿の間のちょっとしたイベントだと思ってさ。ほら、付き合ってよ」
「『担当トレーナーと心理的に距離が著しく縮まったウマ娘は急激に強くなる説』の検証を、ね?」
***
事の始まりは一月ほど前に遡る。今年のダービーウマ娘の誕生を世間が見届けて数週間ほど経った頃。
トレセン学園の生徒たちはいつものようにトレーニングを続ける者に、数日後に控える重賞レースに意気込む者。あるいは連日の雨を室内でぼんやりもの憂げに眺めている者、あるいは敢えて外を駆け出しずぶ濡れになって帰って来る者と、それぞれの日々を過ごしていた。
「やほやほ」
「おうトランお疲れ」
「トレちゃんもおっつー。やー、雨結構降ってんね。流石に梅雨入りかぁ」
トランセンドがちらりと窓辺に目をやった先には、降りしきる雨粒が、紫陽花に付いてはその色を映しながら滴り落ちていた。
「の、割にはあんまり憂鬱そうじゃないな」
「まぁねぃ〜。雨の日は雨の日で嫌いじゃないよん。その気になれば外に飛び出して唄って踊ってもいいくらいにはね」
"I'm singin' in the rain──"と雨中に傘を放り出すかのような鼻歌を交え、ソファテーブルに人差し指と中指を踊らせた。
「威厳はなさそうだけどな」
「それでもウチはキャシーに首ったけだよ? あるいはコズモー?」
「そりゃどうも、生涯の友よ。……そういえば話変わるけどさ。駅前のケーキ屋で初夏の限定スイーツが出てたから買ってきたんだけど、食べるよな?」
トレーナーがそう訊くとトランセンドはもち! と即答した。
「ちなみにラインナップは?」
「サクランボのタルト、メロンのショートケーキ、モモのロールケーキ」
「いいね。半分こしよ」
「ん」
お茶いれるよ。ホットでよろしく~。
そんな会話を交わしつつ席を立ち、ポッドに水を入れ、戸棚を開けて茶葉の入った容器を取り出す。彼の視界の端では担当ウマ娘がいそいそと、普段使っているティーカップと違い、最近購入したマグカップを並べているのが見えた。彼らがクラウドファンディングサイトで見つけたそれらは、保温保冷に優れ、冷たい飲料を入れても結露しないため卓上を濡らさず、熱い飲み物を入れても外側に熱が伝わらないため持ちやすい。その上、インスタントコーヒーや粉末スープなどが作りやすいようにカップの内側には目盛を付け、ティースプーンを入れたままでも閉じることができる切欠きのあるフタが付属している機能性も抜群で、二人が見つけた瞬間、即購入を決めた一品だった。
しばらくしてポッドに入れた水が沸き上がり、マグカップに熱いお湯が注がれると、淡く赤い色が透明な湯に広がり、ほのかに甘く温かい香りが二人の間を漂う。そして小洒落た皿には綺麗に二等分されたスイーツが三つ。その断面からは、食欲を誘われる果物の果肉が露わになっていた。
「お、いい断面じゃんよー。テレビだったらインサート映像で採用されそ」
「まあ、流石に慣れたよな。これに関してはトランよりも上手く切れる自信があるぞ」
「言ったな~? 今度どっちがより綺麗にカットできるか勝負してみる? ウチもお金出すから二人でちょっと良いやつ買ってさ。勝ったほうがそのときのお菓子ちょっと多めに食べられるってことで」
「ほー? いいぞ、乗った」
「ふふん」
二人はにやりと似たような表情を見合わせながら、今後のちょっとしたイベントを計画しつつ。やがていただきまーす、という声がどちらからともなく上がると、間もなく彼らはデザートの甘美な食感に自然と感嘆の息を漏らした。
それから最近公開されたある監督の映画の話や学園のちょっとしたウワサ話、もうじき行われる予定のガジェット展のといった、とりとめのない雑談に花を咲かせる。言うまでもなく、トランセンドとトレーナーは、わかりやすく
「──でさ、あそこで探偵が犯人を見るとき、目線が明らかに犯人じゃなくて映像の向こうのこっちを向いてるのがゾクッときたよね~。始めから犯人がわかっているミステリーっていくつかあるけどさ。観てるウチらが犯人がみたいにバレるかもしれない──っていうハラハラ感の撮り方が凄かったっていうか」
「しかも主人公は犯人の恋人だったしな。まるで『お前が犯人を庇っているのはお見通しだぞ~』って感じのカメラ目線だったし」
「それでも主人公が恋人を守ろうとするのも〝愛が成せる姿〟ってやつなのかも? ちょい月並みだけども」
そう言って、タルトを口に運んだトランセンドは、ふと目線をちらりと上に向けたあと、ミルクと砂糖が僅かに混ざった紅茶を一口飲んだあと、そういえば、と口を開いた。
「恋人、で思い出したんだけどさ」
「うん?」
話題転換にほんの少しの疑問を抱きながら、トレーナーは紅茶に口をつけながら相槌を打つ。
「この間とあるウマ娘とそのトレーナーの人がいつの間にか恋仲になってたらしいって話が流れてきたんだけどさ」
「こっ……!?」
……なんとか。なんとかトレーナーは口に含んだものを吹き出すことだけは防いだ。その代わり紅茶が変な所に入ったのか、咳き込むだけは耐え切られなかった。
「うお、トレちゃん大丈夫? ほら水」
「う、ぐ……っ。……はあ、助かったけど、いきなり何の話だ……?」
「ゴメンゴメン。……それでここの娘とそのトレーナーの人が付き合ってたらしいって話なんだけど」
「やっぱ聞き間違いじゃなかったのな……ちなみにその二人って」
トランセンドが件のウマ娘の名前を明かすと、あいつらか……、とトレーナーは件のウマ娘とその担当トレーナーの顔を脳裏で浮かべる。トレーナーに関しては何度か会話した記憶があるので妙に衝撃があった。
「……それで、その二人がどうしたんだよ。トランのことだしただのゴシップを話したいわけじゃないんだろ?」
「そのとーり。ま、とりあえず聞いてよ。……で、その二人が付き合ったのは◯月の頃のことらしいんだけど。トレちゃん、ここまで聞いて気付いたことある?」
「気付いたこと?」
トランセンドにそう尋ねられてトレーナーは思案する。トレーナーとして有力なウマ娘のデータはある程度頭に入っているつもりである。けれども件の話と直接繋がる事柄などそう多くあるはずもない。トレーナーは、強いて言えば。本当に強いて言えばというべき点を挙げた。
「……。…………え、◯月以降に重賞連覇を果たしたとか?」
「お、あったりー。トレちゃん一ポイントかくとく~」
「えぇ……?」
ぴっ、と両手の人差し指を彼の方を向けながら、トランセンドが端的に返すと、トレーナーはアタリなんだ……と微妙な顔を浮かべた。
「あの娘がG1を連勝したのは二人が恋仲になってからなんだってさ」
「……はあ、それがどうしたんだ?」
「それがどう広まったのかは定かではないけどね。しばらくこのウワサ話をする子がそれなりにいた」
「まあ、こういう話題が好きそうな子もいてもおかしくはないけど」
「ま、ね。ただその中には点と点を結びたがる子もいるわけで──。ある日、こんな説をぶち上げた子が現れたのであーる。それは──」
「それは……?」
トランセンドの口ぶりは次第に芝居がかった色へと変わっていく。その妙な雰囲気にトレーナーは思わずごくりと固唾を呑んだ。
「──『担当トレーナーとカップルになったウマ娘って、すごく強くなっちゃうのでは?』ってね」
「ち、珍説……」
トレーナーは素直に困惑を隠せなかった。トレセン学園のウマ娘とその担当トレーナーが卒業後に二人の将来を約束する関係になる──というケースは、必ずしも存在しないわけではない。レースという世界を通して結ばれた強固な絆がそういう結果に繋げるという文脈は、この世界の少女漫画などにおいても時折観測されるシチュエーションである。……では、あるのだが。
とはいえ件の噂に関しては流石にもっと他の要因があるだろう、とトレーナーは思わずにはいられなかった。
例えば毎年行われる夏合宿の間に急成長を果たしたとか。その月以降に出走していたレースの状況がそのウマ娘の適性とすこぶるマッチしていたとか。もっともな理由はいくらでも考えられるはずだ。
「や、流石にウチも最初は眉唾だとは思ったよ? けど結構本気にしてる子も割といるんよね」
「……例えば?」
「サトノダイヤモンドちゃん」
「…………………………」
長い、長い沈黙がトレーナーを支配した。トランセンドがシニア期一年目を終えた頃、期待のルーキーの一人として学園に入学し、注目されていたそのウマ娘は、傍目から見ても担当トレーナーに『非常に』懐いているようであった。
彼女の担当トレーナーの彼にその気がなくとも、若気の至りか、あるいは大人に対する憧れと理想化という心理が彼女にそうさせるのかもしれない……。と、無関係のトランセンドのトレーナーにさえそう思わせるほどの猪突猛進ぶりは容易に想像できた。
「まあそれはともかく。このウワサに関連してちょっと調べたら興味深いことがわかってさあ。これ見てよ」
そう言ってトランセンドがポーチから何かを取り出すと、トレーナーは見覚えのあるそれの名を思わずこぼした。
「シネマガン?」
「そ」
シネマガン。クラシック期夏合宿中、トランセンドがエアシャカール、アグネスタキオンの両名の協力のもと開発した、ウマ娘の潜在能力を計測するための装置。一見ただのビデオカメラのように見えるそれは、カメラで対象を映すとその対象の能力を細かく分析し、数値化・データベース化する超高精度なウマ娘辞典を作ることができるオーバースペックガジェットである。
トランセンドはシネマガンを起動すると、ディスプレイをトレーナーに見せる。液晶画面には録画データが収録されており、そこには件のウマ娘の姿が写っていた。
「まずは◯月以前の彼女。数値としてはトゥインクルシリーズに登録しているウマ娘の平均的な数値って感じ」
画面の中ではあるレース中の彼女が走る映像が映し出されている。トランセンドの見立て通り、レース中の彼女は、序盤こそ善戦こそしていたものの、途中でバ郡に飲まれてしまい、最終的には掲示板入りを逃してしまっていた。厳しい言い方になるが、あまりパッとした印象を受けないように見える。
「それでこっちはその一ヶ月後……つまり◯月以後ね」
トランセンドが次の映像を見せると、トレーナーの目はみるみる見開いていった。
先ほどの映像からは打って変わって、バ郡からいち早く抜け出した彼女は上がり3ハロンをすさまじい末脚で他のウマ娘たちを抜き去っていき、そのまま一着をもぎ取っていくのだった。
「……これは、すごいな」
「ん、そ。明らかにクラシック三冠の一着を争えるほどの実力になってる。ほら、数値にしても一個目の時の期待値は300。だけどこっちでは急に3000まで跳ね上がってるでしょ? たった一ヶ月で十倍も強くなるなら何かそれだけの強い変数があると思わね?」
「それが、件の話と繋がるってことか?」
トレーナーがそう返すと、多分ね〜。と彼女は肩をすくめる。
「ま、他の理由も考えられるかもしんないけどさ。でもこういう今まで誰も想定しなかった何かがその子に影響を与えたことで、誰か勝つかも分からないレースになっていったと考えると──面白いと思わない?」
「……なるほどな」
トレーナーは得心した。
トランセンドは元より既知よりも未知を好む。ことレースにおいては仮想敵の情報を揃え、分析し、その上で全力で、倒れるぐらいに走る。そしてその先で見えるかもしれない、予測不可能なレース展開をこそ理想とする。
故に彼女は件のウマ娘が予想もできない急成長でレースを勝利したことに興味を惹かれたのだろう。
「それで……彼女を更に調査するのか? シネマガンで」
「当然。
丁度来月から夏合宿も始まるしねー。と言ってトランセンドはフォークに刺したケーキをぱくりと口にした。ショートケーキにはメロンの果肉がつまっており、そのみずみずしい甘味が彼女の舌を蕩けるように包みこんだ。
「ん~! んまっ。あ、それと、もう一個の方も確かめないとね」
「もう一個……え、珍説の方?」
「珍説の方」
トランセンドがオウム返しに首肯するとトレーナーの目は胡乱げに細くなっていった。
「えぇ……どう検証するんだ」
「そりゃあ、ウチとトレちゃんがデートしてみるとか? 夏合宿の合間とかで」
「……いつもやってない?」
「まあそうなんだよねえ。一緒にガジェット展とか映画観に行ったり。土日トレちゃんちでゲームしにいったりとかしてるし」
「……それで俺らがそういう関係になるって?」
『……────』
しばしの沈黙。紅茶に口をつけながら、思考。目の前の相手と、自分が恋仲。
「ないよな」
「ないない」
ふっ……! とやや失笑気味に笑いながら二人は互いの意見を一致させる。
結局のところ互いの自認関係は恋人というよりは親友という言葉が適している。親友だから一緒に遊びに行くことはあっても、そこに恋だのなんだのという言葉は互いの心理に介在しない。
たまにデートしようという言葉が一方から出ることもあるが、それも所詮冗談半分で言っているに過ぎない。
「まあ、こっちに関しては恋人ごっこの体でどっか出かける口実と思えばいいよん。せっかく二ヶ月も合宿行くんだからさ。こういう変化のあるイベントもあってもいいかなって思うんだけど、ど?」
「そういうことならいいけど。……それはそれとしてみっちりトレーニングはやるからな」
「お手柔らかに~。じゃ、そういうことでね」
「了解」
そのような軽い会話で夏合宿での
雨が降りしきり、ほんの少し冷たい外と違って、温かい香りが残っていた二人の紅茶は、ほんの少し甘く感じるのだった。
***
────というのが一ヶ月前の顛末である。
「というわけで、まずはあの子の情報収集から始めよっか。ほら、ちょうどあそこで走ってる」
そういったトランセンドの目線の先では件のウマ娘が夏合宿の参加者らしく熱心にトレーニングに励んでいる姿が見える。
「勝手に撮って大丈夫なのか?」
「モーマンタイ。出た情報は対価として本人とトレーナーさんにも共有するって取引だからさ」
「ならいいか」
トレーナーは納得すると、シネマガンをその少女に向ける。
テクノロジックな音とともにカメラに捉えられた彼女の能力──スピード、パワー、スタミナ、根性、賢さといった基本的な能力値に、それらに関わる詳細な情報が表示される。更に未だ潜在している能力値の割合やこれからの活躍の期待度、現在の精神状況、体調といった部分も明らかになっていく。
「スピード八〇〇にスタミナ六〇〇……期待度六〇〇〇。すごいな、あのレース映像のときよりも全体的に成長している」
「ほー、一度急成長したことで成長スピードが上がったのかな。ほら、堰き止めていたダムから一気に水が放水されるみたいにさ」
「ゲームでレベル上限が開放されて今まで溜まっていた経験値で一気にレベルアップするみたいな? 確かにありえるかもしれないな……。……ん?」
ふと、トレーナーはディスプレイに見覚えのない項目が浮かんでいることに気づくと、トランセンドは彼の顔を見上げた。
「どしたのトレちゃん」
「ほら、これ……見たことないステータスが出てきたから。トランなにか知ってるか?」
「どれどれ?」
トランセンドが画面を覗き込むと、彼女にも見覚えのない数値が件のウマ娘から表示されていた。それは彼女の胸部から線が引かれ、『Lv.100』と妙にRPGめいた数値が表記されている。
トランセンドは怪訝な表情を浮かべた。
「え、なにこれ、レベル?」
「トランも知らないのか?」
「や、まーじで初めてみたかも。こんなRPGみたいな項目実装したってあの二人からは聞いてないんだけどな……」
トランセンドが脳裏に浮かべるのはシネマガンの共同開発者であったエアシャカールとアグネスタキオンの姿だった。開発中は彼女らとほとんど同じ場所で過ごしていたし、アップデートを行うときも変更点も概ね説明されていたはずだ。特にシステム面はエアシャカールの分野だ。彼女に限って何も言わず不明な項目などまず実装することはないと思うのだが、とトランセンドは首を傾げた。
「あとで聞いてみる?」
「そうしよっかな~。とりあえずあの子たちににデータの報告しないと。行ってくるね」
「おう」
件の二人の元へ歩いていくトランセンドを見送ると、トレーナーは顎に手を添え考え込む。
一体あの『Lv.100』という数値は何を指しているのだろうか。やはり考えた通りそのウマ娘の強さを表すレベルを意味しているのだろうか。だとすれば多くのRPGのように一〇〇という数値が最大値とは思えない。あのウマ娘とて未だ成長途中。格上のウマ娘もまだまだいることだろう。あとは己の担当を信じるなら彼女はもっと上の数値で計測されるはずである、というある種の愛バパカ心もないわけではなかった。
けれども他のウマ娘には観測されなかったにもかかわらず、件のウマ娘にだけこのような現象が見られたのは一体何故なのか……。地下迷宮を手探りで進んでいくかのような思索が、沈思黙考する彼の脳を侵食していく。
やがて幾つも行き止まりに突き当たり、思考が堂々巡りとなっていったところで。
「あの、どうかしましたか?」
ふと、背中の方から声がかかる。そこで思考が中断し、振り向くと、彼よりも一回りほど小さな少女がトレセン学園指定の水泳着にジャージを羽織った姿で立っていた。
「君は……サトノダイヤモンド?」
「はい。なんだかお悩みごとがあるように見えましたので、ついお声をかけてしまったのですが……もしかしてご迷惑でしたか?」
「ああいや。気にしなくていいよ。少し、分からないことがあってね。それについて考えていたところなんだ」
彼が少し訳を話すとサトノダイヤモンドはそうでしたか、と少し安堵したような表情を浮かべ、続いて小首を傾げて彼に尋ねた。
「差し支えなければ何にお悩みだったのかお聞きしてもいいですか?」
「それは構わないけど……良いのか? 君だってトレーニングや予定もあるだろう」
「それこそお構いなく♪ ちょうど休憩中でしたから。それに、キタちゃん──私の親友ならきっと、こんな風に誰かが困っていることがあればお手伝いするでしょうから。私もそうありたいんです」
にっこりと浮かんだ微笑みはそのまま彼女の人柄を表しているようだった。
「ふむふむ。そのシネマガンで彼女を記録したところ、見たことのない項目と数値が出てきた……ということですね」
「あぁ。トランも心当たりがないようだから不具合なのか、それともただ単にシネマガンが今まで他のウマ娘からは測定できなかった項目なのかわからなくてね」
「なるほどなるほど……それがこの『Lv.100』なんですね」
サトノダイヤモンドはシネマガンを手に取ると、その場で考え込むように、じっとそのディスプレイを見つめる。やがてそのまましゃがみこんでいき、それきりサトノダイヤモンドはしばらく黙り込んで熟考しているようだった。
そんな彼女の様子を見たトレーナーは、余計な気を使わせてしまっただろうかと思い、先ほどとは逆に彼が彼女に声をかけようとする。
「すまない、余計な手を煩わせたかも──、」
「Loveです」
「……えっ」
彼の言葉を遮るように呟くと、サトノダイヤモンドはゆっくりと立ち上がった。
「これはLevelではなく……Loveです」
「なんて?」
困惑するトレーナーと対象的に、サトノダイヤモンドはふんすと大真面目な表情を浮かべていた。
「これはきっとミスリードです。『Lv.』という一見ゲームのレベル表記のように見えますが──わざわざ略語を用いているということは、Levelと見せかけてLoveという可能性もあると思います。そして彼女は先日担当トレーナーの方とお付き合いされているとのことです。つまり──トレーナーさんとお付き合いしているウマ娘は強くなるというジンクスをこのシネマガンが証明しているのではないでしょうか?」
「……い、一理あるかもしれない」
ねえよ。
そうだったこの子あの珍説信じてるっぽいんだった、とトレーナーは今更ながら先月のトランセンドからの情報を思い出す。妙に理路整然と珍説の支持を表明するサトノダイヤモンドは冷静に見えて、その実掛かり気味になっているようであった。その上際現状においてこの『Lv.100』が何を指しているか不明である以上、あながち間違いではないのかもしれない、と思わざるを得ないのが尚更たちが悪い。
思わず出た彼の呟きにサトノダイヤモンドはにっこりと微笑む。
「そうですよねっ! じゃあ、このことを証明するためにも、更に実例を発見するべきだと思いませんか?」
「……い、一理あるかもしれない」
ねえよ。
トレーナーはずんと迫るサトノダイヤモンドに気圧され、壊れたスピーカーのように同じ返答を繰り返す。
サトノダイヤモンドはうんうん、と満足そうに頷いた。
「そうですよねっ! ということでそのシネマガンで、私を撮ってみてくだ──」
「こらダイヤ」
段々とヒートアップしていくサトノダイヤモンドに海水をかけるが如く、若い男の声が二人の間を遮った。
声がした方を見ると、夏らしいカジュアルなシャツとハーフパンツを身に着けた、ゆるい黒髪と明るい瞳の青年が困った顔を浮かべていた。
「と、トレーナーさん!」
「ダイヤ、ちょっと落ち着こうか。先輩も困っているから」
青年──サトノダイヤモンドのトレーナーが彼女を窘めると、サトノダイヤモンドははっと我に返った顔をして、次第にしゅんと罰の悪い表情に変わっていった。
「あ……ご、ごめんなさい、私……」
「ああいや、気にしてないから」
サトノダイヤモンドの謝罪にトレーナーは軽く手を上げた。
夏の海という気分が上がりやすい環境だ。如何に話題を集めるウマ娘の一人とて、一人の十代の少女であることには変わりはない。きっと夏の暑さにあてられてテンションがおかしくなっていたのであろう。トランセンドのトレーナーはそう思うことにした。
「すみません先輩、お忙しい中……」
「気にしなくていいって。ちょうど暇だったからさ。ほら、こっちはいいからそっちのトレーニングに励みな」
彼がそう言うと、サトノダイヤモンドとそのトレーナーは頭を下げ、何度かこちらを見返しつつ去っていった。
その姿は何事かを話し合いながら遠ざかっていく。その様は随分と仲が良いように見える。傍目から見えるその関係性はトレーナーとウマ娘、兄と妹、あるいは。
ふと、彼はその手にあるガジェットを遠ざかる二人の後ろ姿に向けた。レース中の撮影も考慮し、遠くからでもはっきりと対象を捉えられる機能性は、彼の意図通りに発揮された。
やがてディスプレイに表示されていた項目を見て、彼は。
「………………マジか」
トランセンドが戻るまで、ただ遠くを見つめているのだった。
***
午後。太陽が天頂を越した頃。宿舎のとある一部屋。遮光カーテンで窓を閉め切られたそこは当然のように薄暗かった。いかにも怪しげな部屋ですと言わんばかりのそこにはとあるウマ娘たちの会合場所となっていた。
「……と、いうわけでシネマガンに見覚えのない項目が追加されてたんだけどさ。お二人ともお心当たりは?」
「ねェ」
「ないねぇ」
「だよねぇ~」
そんな気はしてたよん、とトランセンドは肩を竦めた。
「つか、んだその曖昧な項目。パラメータを数値として示すのはデータをより具体的に理解できるようにするためってのに、んなわかりづれェモン表示させたら本末転倒じゃねェか」
全くもってロジカルではない、と言わんばかりにエアシャカールは憮然とした顔を浮かべる。
「そもそも『Lv.』を実装したとして、それで何がわかるのか自体が不明だからねぇ。ゲームのような強さを意味するならばそれは何を基準としているのか? 数値の大小でどれだけの差があるのか? そしてそれを把握することに何の意味があるのか? それが定まってないなら実装するメリットなんて何処にあるというんだい?」
アグネスタキオンはそうつらつら述べながらも、彼女らが開発したガジェットの未知の現象そのものには興味を惹かれているようで、シネマガンをべたべたと弄んでいた。
「まあ、現に表示されている以上、ただのフレーバーテキストとは思えないけどね。だからこそ『Lv.』の意味を解明したいところだけれど……」
「何せ前例がなさすぎる。可能な限り同様のデータを収集しねェと解明もクソもねェ」
理路整然とした二人の会話にトランセンドがたまに間を挟む。エアシャカールがシステムを担当し、アグネスタキオンがシネマガンの理論確立を担当。そしてトランセンドは全体的に進行管理や方針を取りまとめるプランナーという役割分担が成す会話であった。
「……ちなみに二人の予想では何を意味してると思う? ウチは順当にLevelかな」
「あぁ? ……
「
こうした会話も周りのフォローが得意な彼女がその場にいるからこそ起きているのだろう。事実、目の前の二人はシネマガンの開発中方針の違い(あるいは音楽性)によって度々言い争いが発生していた。
「ふむりふむり。トレちゃんは?」
「え? あー……Loveとか?」
「ぷっ……!」
トレーナーは午前中の出来事を思い出しながら答えると、トランセンドは吹き出すように笑った。その傍でそれはねぇだろ、と言わんばかりのエアシャカールが呆れた目で彼を見ていた。
「と、トレちゃんがLoveって……っ! ふ、ふふ……っ」
「自分でも変な回答してる自覚はあるけどな。午前中そうじゃね? つってた子がいたんだよ」
「サトノダイヤモンドちゃん?」
「サトノダイヤモンド」
トランセンドはそういえば自分が件のウマ娘と担当トレーナーの元にデータ報告していたときに話しかけられていたな、とちらりと彼を見た時の記憶を思い返して得心する。
「なるほどねえ。じゃあトレちゃんも若干信じてはじめてきたんだ、アレ」
「いやあそんなことはないけどな。流石に印象が強くなってきただけで」
「アレ?」
エアシャカールが尋ねると、トランセンドは件のウマ娘が発端で発生した『トレーナーとウマ娘の距離が近くなると急に強くなる説』の話をした。
「珍説じゃねェか」
「絶対言うと思った」
いつか聞いたリアクションがエアシャカールの口から飛び出す。
「んなもん根拠に『Lv.』を解釈したところで論外だろ。トレーナーとウマ娘が仲良しこよししてるだけで勝てるならトレセン学園はいらねえよ」
「それは……そうかも」
「いや? 一概にそうとは言い切れないかもしれないねえ」
ふと、いつの間にかシネマガンを弄る手を止めていたアグネスタキオンが口を挟んだ。
皆が彼女の方に視線を向けると、アグネスタキオンは独り言を呟くように滔々と続けた。
「ウマ娘とトレーナーは基本的に利害関係の一致によって成り立っている。ウマ娘は自身の目標の達成のために、必要なものを都合よく提供する相手を、トレーナーは自身の指導方針に適し、己の功績を積むのに都合が良い指導相手をそれぞれ求めるという具合に。
ウマ娘とトレーナーが契約を結んだり解除したりを見かけるのはその辺りが理由とも言えるのだろうね。
そしてチームを組まない限りは一心同体だから、レースで活躍しているウマ娘とトレーナーの二人の間には、信頼関係も自然と構築されるのは自明というものだ。
そして我々は、どうやら想いや絆なんて言葉で言い表される何かがレースでの走りに影響与えることもままあるらしくてねえ。信頼という言葉も心理的な作用の一種であるから、ウマ娘とトレーナーの間にある心理的距離がレースでの走りに影響を与え、結果強くなったと評される状態になっていた、というパターンはあり得ないわけではないのだよ。まぁ私には共感できないがね」
「ああ、そういえば君らの言っていたそのウマ娘もそういった心理的距離の影響を受けやすいタイプなのかもしれないねえ」
「……ふむ、そうだ。トラン君とそのトレーナー君。ちょうどいい、君らのその予想を検証してきてくれたまえ」
「検証?」
トレーナーが問い返す。
「ああ、珍説と言われているけれども、現状根拠のある仮説はトレーナー君の予想しかないからねえ。珍説も説だ、地道に検証して解明するしかないだろう」
「お、なら丁度いいじゃん。この間この説の検証してみよって言ってたし」
トランセンドがにひ、といたずらっぽく笑みを浮かべると、トレーナーの方へと向き直った。
「じゃ、そういうことだから──デートしようぜい、トレちゃん?」
「いいけど今日はトレーニングだから明日な」
「えー」
***
翌日の昼を少し過ぎた頃。夏合宿真っ只中とはいえ毎日がトレーニングというわけではなく、当然それぞれの都合に合わせて休みの日は用意されている。
「さて、じゃあ行こっか」
「おう──といっても何の予定も立ててなかったけどいいのか?」
「いーのいーの。なんだかんだ突発的だったからさ。こういう風に散歩しながら色々見て回ってくのもいいもんじゃない?」
そういってトレーナーの手をとるトランセンドは、夏らしい涼やかな格好だ。上はさらりとしたTシャツに軽やかなスカート、足元はサンダルと、海岸の散歩を意識したような装いだった。
「ほら、いこいこ」
二人がコンクリートの階段を下って砂浜に降り立つと、スニーカーとサンダルの足跡がさらりとした感触を残して増えていった。
波音とともにきらりと貝殻が光る砂浜は、トレーニングに励んだり休暇を楽しむウマ娘たちと、彼女たちやその他観光客を相手する海の家や屋台で賑わっていた。
特に食べ物を売る屋台などは人間よりも食べる量の多いウマ娘がいることもあり、ずいぶんと繁盛しているようだった。特に大食いチャレンジなどを催しているところなどはトレーニング明けで腹ペコのウマ娘たちの餌食になっており、店員が忙しさに悲鳴を上げているのは想像に難くなかった。
トランセンドとトレーナーもまた出店を見て回っており、定番の店やごく稀に現れる風変わりな店など、まるで夏祭りめいた様相の通りを楽しんでいた。
「お、かき氷屋じゃーん」
「行くか?」
「もち。海来て行かないのはナシじゃんね。ウチはいつも通りブルーハワイのつもりだけど──お?」
かき氷の屋台の前でトランセンドは、店前で並び立てられたのメニューの札を見て立ち止まった。
イチゴ、メロン、レモン、ブルーハワイ、練乳、みぞれ……と、定番のフレーバーが並ぶ中、一つだけ『?』とだけ書かれた札が立てられていた。
「すみません、このハテナマークのやつって何なんです?」
興味に惹かれたトランセンドは店員に声をかけると、気前の良さそうな雰囲気の男性店員が答えた。
「お、これかい。こいつは秘密のフレーバーってやつだ。よくかき氷のシロップってのは色と香りが違うだけで全部同じ味って言うだろう? じゃあ完全に透明のシロップにして風味をランダムにしてみたら面白そうってことでな。みぞれとは別で用意してんだよ。メニューにないフレーバーも追加してな」
つまるところ実際に食べるまでどんな味なのかわからないブラックボックスのかき氷ということだろう。
トランセンドはますます好奇心を挑発されたような顔を浮かべながらも、悩ましげに唸る。
「む、気になるなぁ……。けどやっぱブルーハワイは絶対に外せないし……ちらり」
そう言いながら、わざとらしく隣を一瞥すると、トレーナーはその言外の意味を把握して苦笑した。
「じゃあ俺がそれにしようか?」
「それを聞きたかった! じゃあブルーハワイとランダムで!」
「毎度あり! ああ、お二人さんで分け合うならカップル限定サイズがあるんだが、それでいいか?」
「えっ」
「お願いしまーす」
「はいよ、一〇〇〇円な」
「あ、はい」
今なんか平然とカップル扱いされたな、と思いつつまあ普通の特盛サイズよりは安いっぽいしいいか、と思い直し、トレーナーは財布から千円を出す。
お金を受け取った店員はすごすごと屋台の裏へと回ると、やがて大きな氷の塊を抱えて出てきて、よっこらせとかき氷機の台の上に乗せる。そして台の下にはシェア用の大皿を乗せると、店員はかき氷機のスイッチを押した。ガリガリと荒い音をたてながら氷が削られていき、皿の上に降り積もっていく。小さな山のように盛り上がっていくのを二人は期待しながら見守った。片方がウマ娘なのもあって大きめにサービスしてくれたらしい。やたら大きな氷山の頂点から仕切りを差したあと、レードルで青と透明のシロップを上からかけられていく。
「お待ちどう! ブルーハワイとランダムのカップルね!」
「うおでかっ。ありがとうございまーす」
出来上がったのは大皿の上に乗った青と白の巨大なかき氷だった。流石に両手で抱えるほどの大きさのものを食べ歩くわけにはいかなかったので、近くの海の家まで持ち込んでいくことにした。
二人が入ったそこは、休憩スペースとして多くの集客を意識しているのか、ショッピングモールのフードコートのようにたくさんのテーブル席が用意されていた。
風通しのいいスペースを陣取った二人はテーブルの真ん中に大皿を置いて席についた。
「やっぱ結構でかいな」
「あのおじさんだいぶサービスしてくれたっぽいね。採算取れてるのかなアレ」
「利益度外視で売ってるタイプの屋台とみた」
「かもね。……さてさて、本題のランダムフレーバー。トレちゃんは何味だと思う?」
「まあ流石にとんでもない味ではないとは思うしなあ。……ウマ娘向けのにんじん味とか?」
「ふむりふむり。じゃあウチは……透明だとは思わなさそうなチョコレート味とみた」
「これでどっちか当たっていたら面白いな」
「どうだろうね? それじゃ、いざ実食ということで」
いただきまーす、と二人の声が上がると、二人の匙が一見何もシロップが掛かっていなさそうな、ふわりとした部分へと伸びる。
シャリ、と匙が新雪のようにふわふわとした氷を掬うと、そのまま二人の口の中へと吸い込まれていった。
柔らかな氷は綿菓子のように舌の温度でみるみるうちにとろけ、次第に件のフレーバーのものらしき味わいに変わっていく。ほんの少しほろ苦く、それでいてクリーミーな優しい香りが口から鼻へと感じていく。明らかに和テイストな味わいのそれは口にした二人にも覚えがあった。
「これは……抹茶?」
「なるほどね~。そういえばちょっと前に透明なお茶とかあったし同じような作り方してるのかな。……あ、ちょっとミルクっぽいしどっちかというと抹茶ラテっぽいかも」
「確かに。いやでも普通に美味いな」
どんなゲテモノが来るのだろうかと内心ドキドキしていたトレーナーだったが、ちゃんと美味しいものが来たので感心しながらもう一口食べる。
「後でもっかいもらうねい。じゃーウチはブルーハワイも食べちゃおっと」
口に運ぶ天然氷の冷たさと、シロップに含まれた甘味が二人を癒やす。ブルーハワイと抹茶ラテは風味に違いが大きいので飽きが来ない。
とはいえ。
「スプーン一緒だと味が混ざっちゃうな……あ、そうだ」
何かを思いついたかのようにトランセンドはトレーナーに視線を向けた。
「トレちゃん」
「ん?」
「あーんしてよん」
「えっ」
かき氷を掬った匙の動きが止まる。
唐突な提案にトレーナーは唖然としながら見返す。豆鉄砲を食らったような顔を浮かべる彼を見てトランセンドはにや、と笑った。
「いやあ、ブルーハワイと抹茶ラテ混ざると変な味になっちゃうじゃん? だからどっちか専用のスプーンにすればいいかなって」
「そ、それだけならあーんじゃなくてもいいだろ」
「ちっ、ちっ、ちっ。わかってないなあトレちゃん」
わざとらしく人差し指を揺らしながら、トランセンドは続けた。
「そもそもこのデートって何のためにあるんだっけ?」
「う。……例の説の検証のため」
「そそ。いつもやってることにちょっと変化加えて、恋人っぽいやり取りをする。その結果心の距離がより縮まったウチらに『Lv.』の項目が検出されるかどうか実験する。だよね~?」
「………………。そう、なんだよなあ……」
トレーナーはここに来て頭を抱えた。いくら担当ウマ娘と仲が良いとはいえトレーナーは大人である。親友相当に心の距離感は近いと思っているものの、あからさまに関係性の深いやり取りをするのは倫理だとか立場だとかその辺りから来る呵責が尋常ではない。
というか普通に考えてウマ娘とトレーナーが在学中に付き合うのは流石にアレだろ。メジロ? サトノ? 別レギュレーションの話をするな。いやまあ担当ウマ娘の要望に応えるのもトレーナーの仕事っちゃ仕事だけどさあ……、それは、アレじゃん……。などという葛藤が彼の脳裏で高速で巡り巡っていく。
そんな様子を見ていたトランセンドは、むぅ、とやや不満げな顔を浮かべ、浮いたままの彼の匙に目を向ける。
そして匙を持った彼の手を取ると、
「あーんっ」
「あっ」
その匙に乗ったかき氷を口にするのだった。
「お、お、ま、トラ……」
「ヘタレだなあトレちゃん。このぐらいなんてことないじゃんよ。結局のところこれはごっこ遊びみたいなもの。実際にウチらがそうなるわけじゃないんだから。でしょ?」
「……まあそうだけどさ」
「なら問題なし。それにウチだって、そんなに躊躇われちゃったらそれはそれとして傷つくよん?」
トランセンドはほんの少し責めるような目でトレーナーを見つめる。トレーナーは罰の悪い表情を浮かべ、悪かったよ、と言った。
「……けどあんま大胆なのはNGだからな? 流石に」
「わかってるわかってる。あくまで検証だからさ、ね?」
「……わかった」
「それでよし」
じゃ、気を取り直して、とトランセンドは言うと、自らの匙でブルーハワイのかき氷を掬った。
「トレちゃん、あーん♡」
にやにやしながら、追い打ちのごとくトレーナーに向けるのだった。演技がかった甘い声を出す彼女にトレーナーは、思わず天を仰がざるを得なかった。
「お、お前、マジで……」
「おやおや? もう反故にしちゃうのかね? ……それとも、ちょっと恥ずかしがってる?」
「……一口だけだからな」
「そのちょーし。ほら、あーん」
「……あーん」
観念したトレーナーは、しぶしぶ差し出された匙を口に運ぶ。かき氷にかかったラムネのような清涼な味が口の中で広がる。なんとなく今まで食べたことのあるブルーハワイよりも甘く感じるのはあの店のシロップがそういう性質なのだろうか。
「ど?」
「……美味しい」
「そかそか」
彼が食べている様子をトランセンドは、面白いものを見るように、じっくりとその様を見つめていた。
と。
カラン。
彼らの隣の席で何か軽いものが落ちるような音がした。手に持っていた箸を思わずプレートの上に落としてしまった時のような、軽い木材と木材がぶつかったときに聞こえる、乾いた音。
それがいやに耳に残って、気になった二人は同時にその方へと顔を向けた。
「───────────────。」
エスポワールシチーがいた。
彼女は焼きそばに手をつけようと箸を持っていた手を止め、まるで時が静止したかのように、あるいはインターネットが繋がらないスマホのように、もしくは宇宙の真理を垣間見た猫のように、呆然とした顔を凍りつかせていた。
「あ、エスポん」
「……あー」
やっべ見られた。トレーナーは周りを確認していなかったことを後悔した。その一方でトランセンドはその場にエスポワールシチーがいたことに動揺することはなく、むしろ固まっている彼女の顔の前で手を振ってみたり、おーいと呼びかけたりなどしていた。
そうしたトランセンドのアプローチがあってか、削られる前の氷の塊のごとくフリーズしていたエスポワールシチーの目に意識が戻っていく。
「おーいエスポ~ん、生きてる~?」
「─────……はっ? ……えっ?」
そしてその氷はやがて溶けていく定めにあるのか、徐々にその温度を上げていく。熱源はたった今彼女が目撃した光景であろう。ぼんやりとしていた彼女の脳が徐々に再稼働し、目の前の事象に対して理解が追いついていく。感情を取り戻していく。次第に沸騰した水の水面がボコボコと揺れるが如く、動揺が生まれていく。
「……───ッ!? な、ななななな───ッ!!」
「あ、起きた」
以前トランセンドに「根はピュアッピュアのいい子」と評されていたことは間違っていないのであろう。次第にその顔は温度が急上昇したかのように真っ赤になっていく。
そして彼女のサーモグラフィーが限界になると、まるでコミックのように目に混乱を宿して絶叫した。
「ななな、何してんだお前ら─────ッ!?」
「それはそうなんだよなあ……」
目の前で自分以上に動揺している相手を見ると一周回って冷静になるものらしい。トレーナーは目を逸らしながらそう思った。
「や、エスポん。どしたの」
「どしたのじゃないだろ!! お前ら、今二人で、あ、あああ、あーんって」
「それがどしたの」
「どしたのじゃな──、……え、も、もしかして、お前らって、その、つ、付き合って」
「ないよ~」
「は─────ッ!?」
エスポワールシチーはトランセンドの返しに目を白黒させ混乱する。
彼女は思う。男女二人でお出かけしてそうやってかき氷半分こしてあーんとかし合っていることを『付き合っている』というのではないのか。エスポワールシチーは反抗期真っ盛りの気性ながら本当にピュアであった。とはいえこれらの光景がシネマガンの検証のためにやっているなどと誰が想像できるのであろうか、と考えると彼女にも擁護の余地はあろう。
「ふ、ふふ。落ち着きなってエスポん。ウチら冗談でやってただけだからさ」
「じょ、冗談でって……。あーもう、驚いて損した……!!」
「ゴメンゴメン。お詫びにかき氷分けたげるからさ」
「むぅ……」
トランセンドはテーブルに配置されていたカトラリーケースからスプーンを取り出すと、そのままエスポワールシチーに渡す。エスポワールシチーは釈然としない顔を浮かべつつも、ブルーハワイのかき氷を掬って口にするのだった。
エスポワールシチーは思う。よく考えればそこに新しいスプーンがあるならわざわざ食べさせ合わなくてもよかったのではないか。というか付き合っていないというには二人の距離はあまりにも近すぎるのではないか。そもそもなぜ彼らはそのような行為に至ったのだろうか。
尽きぬ疑問は彼らがかき氷を完食し、去っていったあとも消えることなく、しばらく彼女の脳内を巡り続けた。
宿舎に帰り、夕食を取り、入浴を済ませ、その夜布団に体を潜らせてなおエスポワールシチーは考えに考えを巡らせた結果、寝不足になったのは完全な余談である。
***
それからのトランセンドとトレーナーの夏合宿は概ね似たような具合であった。
毎週のトレーニングと体力に合わせた休暇。今後の彼女の出走スケジュールについてのミーティングに例の説の検証。
トランセンドは今まで通り、トレーナーとの時間を楽しみながら日々を過ごしていた。一方でトレーナーはというと、不意打ちのように繰り出されるトランセンドの悪戯のようなアプローチに振り回されながらも、なんだかんだ今までの日々とそんなに変わらないか、と思うようになってからはそういう映画のシチュエーションのように捉えるようになった。
やがて合宿の最終日、二人は宿舎に用意された一部屋を会議室として借り、集まっていた。
「ようやく最終日だねトレちゃん」
「ということは……」
「うん、例の検証結果の確認だね」
そう言ってトランセンドはシネマガンを卓上の上に置く。
「今からシネマガンを使ってウチらを映す。それでウチらに『Lv.』の項目があれば検証は成功。『ウマ娘とトレーナーの距離が縮まると、急激に強くなっている』説は証明されるね」
「その代償に結構なもの支払ったような気がするな……」
「まあ、でも意外とそんなに変わらない日々だったでしょ。刺激的ではあったけれど」
「……まあ」
元来周囲から友人のように仲が良いと見られていたトランセンドとトレーナーは例のごとき日々を過ごしていたが、彼が想像していたよりは大それた変化ではなかった。
彼は思う。もし仮にあの説が正しいのであれば、自分はもう少し自制するべきであったのではないかと。しかし今更それを言っても詮無きことであろうし、そもそもトランセンドの距離感が近いのは互いを親友のように接しているが故であろう。
「さて、じゃあスイッチオンっと」
シネマガンが起動する。聞き慣れた起動音だというのに、それがトレーナーに妙な緊張を掻き立てる。横目でトランセンドを見るが、反対に何も緊張していないかのような態度だった。
「じゃ、こうしてディスプレイを反対にして自撮りみたいにしてっと。そしたらウチらのステータスを見ながら撮影ができる。じゃあ、結果発表~ってね」
テクノロジックな音とともにカメラに捉えられた彼らに紐づけられるように各項目が浮かび上がっていく。トレーナーのステータスが表示され、その横にトランセンドと彼のデータが表示される。
スピード、パワー、スタミナ、根性、賢さといった基本的な能力値に、それらに関わる詳細な情報が表示される。更に未だ潜在している能力値の割合やこれからの活躍の期待度──相変わらず超精度な数値の項目の数々。
けれども。
「……ない、ね」
「……ない、な」
散々話題にしてきた『Lv.』の項目は嘘のように表示させれないのであった。
トランセンドとトレーナーは互いに拍子抜けしたような顔を浮かべた。
「なーんだ。やっぱデマっぽいね、あの説」
「まあ、眉唾にも程があったからな……」
「あはは、でもこれはこれで楽しかったよ? まるで恋愛映画の演技をしているみたいで。トレちゃんは?」
「正直心臓がいつまで持つかわからなかったけどな……。まあ、非日常的ではあったよ」
「あは、ドキドキしたんだ?」
「からかうなよ……」
辟易した顔を浮かべるトレーナーを見てトランセンドは笑った。
終わってみれば、というものだろうか。結局、彼らは今までと大して変わらない日々を送ることになった。
けれどもトランセンドは満足げだった。彼女はシネマガンを戻しながら言う。
「ま、これで検証も終わり! トレちゃん、付き合ってくれてありがとうね」
「帰ったらトレーニング増やすからな」
「うぇ、地雷踏んじった。勘弁してよぉ」
そう話し合いながらも険悪な様子がないのはそれだけ彼らが親しい仲であることの証左であろう。
「あ、そうだ。ちょっと部屋に置き忘れたものあったからトレちゃん先行っといて。ついでにここの鍵はウチが返しとくから」
「ん? ああわかった」
やがて、一段落ついてからトレーナーはトランセンドにそう促され、一足先に部屋を後にする。
かちゃん、と扉が閉まったあと、トランセンドは扉に耳をあて、彼の足音が遠ざかっていくのを静かに聞き取っていた。そして足音が完全に聞こえなくなると、部屋に一人残った彼女は、緊張の糸が切れたかのように椅子に座る。
「───はあああああぁぁぁぁ」
天を仰ぎ、大きなため息をついた。そしてだらりと突っ伏すように机に体を預けた。
「ウチってば本当に演技派かも」
そう呟きながら、先ほどしまったシネマガンを再び取り出す。電源を付け、操作ができるようになると、慣れた手つきで設定画面を開く。
『表示項目設定』と表記された項目を選択すると、次のように設定を変える。
『Lv.』:非表示
『Lv.』:表示
「……狂人の真似というか、木乃伊取りというか……もしくはピグマリオン効果ってやつ? どちらにせよ──」
トランセンドは自覚する。この二ヶ月の行いの応報を。
彼女は思う。もし仮に、仮にだ。この説が本当であったとしたら自分はどうなっていただろうか、と。
トランセンドは考える。強さそのものには興味はない。けれどもその由縁が何であるか。そしてそれが本当であるのならば、その想いは隠すべきだろうか、と。
きっと、彼はいつも通り接してくれるであろう。なんだかんだ三年以上の付き合いになる。彼のことで知らないことはほとんどない。だが。
「誕生日になれば一応成人、か」
大人になるというのは人にとってもウマ娘にとっても大きな変化の一つだ。退屈な日々、変わらない生活への厭心。刺激的な変化、未知への好奇心。けれども変化ばかりの日々とは即ち変化がないことと表裏一体ではないだろうか。
『それ』が露呈したその日何かが変わる予見に背筋が凍る。柄じゃない仕草やアプローチも、柄じゃない日常ではそれが正常になってしまう。
だが彼女は。
「あーあ」
「好きに、なっちゃったな」
ゾクり、とその変化を恐ろしくも、どこか愛おしく抱いていた。
去年UNISON SQUARE GARDENの「スロウカーブは打てない」聴きながら書いてたんすけどその時の僕はまさかあんな昨日を迎えると思いませんでした