終電後の遺失物係――明日の落とし物が届きます 作:夜番の拾い主
午前零時十三分、まだ失くされていない補聴器が、遺失物室の受け箱へ落ちてきた。
からん、と鳴った音は軽い。硬貨よりは重く、スマートフォンよりはずっと小さい。時計修理をしていた頃なら、音だけで金属か樹脂か当てる遊びを始めるところだが、今は状況が悪すぎた。
月白駅は終電を吐き出して二十六分。改札は閉鎖済みで、夜間受けの向こうに人が入れる場所はない。
「鳴ったね」
「黒田さんは『鳴っても開けるな』とは言ってなかった」
「『まず荷札を読め』だったっけ」
「そう。つまり開けていい」
「ずいぶん前向きな解釈だね」
背中を押した本人が言う台詞ではない。俺は机の右端に置いた真鍮の鍵を取った。長さ四センチ、山は三つ。今どきの駅設備には似合わない古い鍵で、三か月前、前任の黒田さんから渡された。
『午前零時十三分に夜間受けが鳴ったら、まず荷札を読め。時計が一分でも違っていたら触るな』
説明はそれだけ。引き継ぎとしては赤点だが、黒田さんは四十年この駅にいて、冗談を業務命令に混ぜる人じゃなかった。
机の引き出しには、コンビニでもらった木のスプーンが二本入っている。一人で食べる夜食なのに、なぜか一本では落ち着かない。理由のない在庫も、いまのところ棚番号をつけて放置していた。
壁の業務用時計は、零時十三分四十二秒。机の電波時計も同じ。俺の腕時計だけが一秒遅れている。あとで直す。
鍵を回すと、受け箱の底に銀色の補聴器が転がっていた。耳の後ろへ掛ける型だ。薄い擦り傷、汗で白くなった電池蓋、右側を示す赤い印。使い込まれてはいるが、壊れてはいない。
問題は、その下に敷かれた灰色の荷札だった。
品名 右耳用補聴器
持主 大庭信一
遺失予定 七月十七日 二十一時四十二分
返却期限 七月十七日 二十一時四十一分
今日は七月十七日になったばかりだ。日付だけなら合う。予定時刻まで二十一時間以上ある点を除けば。
「印刷ミス?」
「感熱紙に未来の日付を誤印刷する機能があるなら、メーカーに苦情を入れたい」
ミオが棚から降りる。灰色のロングコートは、冷房の弱い部屋には暑そうだ。本人は暑くないと言う。そもそも彼女には体温があるのか、俺はまだ確かめられていない。
三か月前、この夜勤へ入った初日から、ミオは遺失物室にいた。社員証はない。勤務表にも名前がない。防犯カメラには映らず、始発が動く前には奥の施錠扉の向こうへ消える。駅の外へ出ようとすると、受付窓口の前へ戻ってくる。
普通なら警察を呼ぶ案件だ。初日に呼んだ。警察官は、俺が指差した椅子を見て「誰もいませんよ」と困った顔をした。それ以来、俺は彼女を夜勤の同僚として扱っている。人間には、解決できない問題を棚番号で管理する能力がある。
「大庭信一さん、知ってる?」
「知らない。補聴器の持ち主なら、右耳が聞こえにくい可能性が高い」
「それは私にも分かる」
ミオは補聴器を透かすように眺めた。ただし触らない。彼女が持てるのは、この部屋へ落とし物として入った物だけだ。
「でも、明日じゃなくて今日か。今日この人が失くすなら、先に返せばいいんじゃない?」
「まだ預かっていない物を返すのは、手続き上かなり難しい」
「手続きの心配なんだ」
「ほかに基準がない」
まず製造番号を控えた。駅の遺失物検索端末へ入力すると、一年前の照会記録が出る。大庭信一、七十二歳。以前、同型の左耳用を車内で失くし、窓口へ連絡していた。電話番号は残っている。
ここで連絡すれば、個人情報の目的外使用になる可能性がある。連絡しなければ、二十一時四十二分に何かが起きる。何が起きるかは荷札に書いていない。
俺は黒電話の受話器を上げた。外線ボタンはない。それでも発信音が鳴る。
「それ、つながるの?」
「今から確認する」
照会記録の番号を回す。ダイヤルが戻るたび、机の上で小さな歯車が回る音がした。三回目の呼び出しで、低い男の声が出る。
『はい』
「夜分に失礼します。月白駅の遺失物取扱室、高瀬と申します。大庭信一さんのお電話でよろしいでしょうか」
『そうですが。こんな時間に、何か?』
もっともな質問だ。未来から補聴器が届きました、と答えるのは接客マニュアルのどこにもない。
「以前お問い合わせいただいた補聴器について、確認したい点がありまして。現在お使いの右耳用に、電池蓋の接触不良はありませんか」
受話器の向こうが黙った。
『どうして分かったんです』
補聴器を裏返す。電池蓋のヒンジに、ごく細い黒ずみがあった。さっきは壊れていないと見たが、接点は別だ。汗が入り、瞬間的に電源が落ちる。落とす予定の品物が先に届いたのなら、摩耗も予定時点まで進んでいるらしい。
「同型機で起きやすい症状です。明日――いえ、本日、月白駅を利用されますか」
『妻の見舞いで、夜の列車に』
荷札の二十一時四十二分。時刻表を開く。二十一時三十九分、三番線着。乗客が改札へ上がる頃だ。
「その補聴器は使わず、予備をお持ちください。可能なら、午前中に当室へお越しいただけますか」
『困るよ。あれがないと、妻の声が聞こえない』
声が少し強くなった。故障を疑っているのではなく、故障だと認めたくないらしい。
ミオが俺の手元へ紙を滑らせる。――何を聞き逃したくないか、聞いて。もう答えは出ている。だが、本人の口から聞く意味があると、ミオの顔は言っていた。
「奥さまは、何とおっしゃる予定なんですか」
『退院したら、海を見に行こうと』
大庭さんの声が落ちる。
『一年前、左を失くしてから、聞き返すのが嫌になってね。何度も聞けば、妻が疲れるだろう。だから右だけは、まだ使えると言っていた』
使える物と、使いたい物は同じじゃない。
時計なら、日差が十分になった時点で修理を勧める。思い出があるから遅れたままでいいと言われたら、最後は持ち主が決める。補聴器も、それを着ける耳も、俺の管理物ではない。
「明日まで使い続けると、肝心なところで電源が落ちる可能性があります。聞き返すほうが、聞こえたふりをするより安全です」
説得ではなく、選択肢を並べた。予備を使う。筆談する。午前中に販売店へ持ち込む。その途中で当室へ寄る。大庭さんは長く黙り、最後に『分かりました』と言った。
電話が切れると、ミオが親指を立てる。
「接客、上手じゃん」
「三か月見て、その評価は遅い」
「人に聞くまでが長いんだよ、カナタは」
呼び捨てにされる筋合いはない、と初日に言った。二日目には諦めた。ミオは俺の文房具の置き場も、コーヒーを飲む順番も、なぜか最初から知っていた。
午前十一時、大庭さんは窓口へ来た。昼勤へ引き継ぐつもりだったが、眠れずに残ってしまった。契約社員の自主的な残業は褒められない。分かっている。分かっているが、荷札の時刻を見たあとで帰宅できるほど、俺の神経は太くなかった。
大庭さんは灰色の髪を短く刈った、小柄な人だった。右耳の補聴器を外し、販売店でもらった代替機を見せる。
「駅から連絡があったと言ったら、店員にずいぶん不思議な顔をされましたよ」
「こちらの確認不足でした。申し訳ありません」
「いや。接点が焼けかけていた。今日の夜までもたなかったそうです」
俺は受け箱から届いた補聴器を見せなかった。見せれば同じ物が二つ存在する。説明が増えるだけだ。代わりに、修理受付票の控えを確認し、大庭さん本人が代替機を選んだことを聞いた。
その瞬間、机の引き出しに入れていた灰色の荷札から文字が消えた。完全な白紙になったわけではない。斜めから見ると、紙の繊維に薄い圧痕が残っている。未来が消えたのではなく、使われなかった型として紙に沈んだように見えた。受け箱の補聴器も消えていた。
大庭さんは何も気づかず、「今度は妻の話を聞き返します」と笑った。
その夜、二十一時四十二分。三番線の防犯映像には、代替機を着けた大庭さんが黄色い線の内側で立ち止まり、後ろから来た作業台車を避ける姿が映った。もし右耳が落ち、拾おうとしゃがんでいたら。考えるのはそこまででいい。
零時十三分。夜間受けが、昨日より重い音を立てた。ミオは棚から降りず、俺が鍵を回すのを見ている。受け箱に入っていたのは、赤い傘だった。子ども用ではないが、持ち手に古いウサギのシールが貼ってある。
布は乾いている。骨が一本だけ曲がり、先端に六年前の月白駅売店の値札が残っていた。灰色の荷札を読む。
品名 赤色長傘
持主 ――
遺失予定 二〇二〇年七月十七日 零時十三分
返却期限 二〇二六年七月二十三日 零時十三分
「六年前?」
計算を間違えたかと思い、もう一度見た。数字は変わらない。
ミオが棚から降りた。いつもの軽い足取りではない。傘へ近づき、ウサギのシールに指を置く。触れた。三か月間、机も椅子も通り抜けた指が、赤い持ち手を確かにつかんでいた。
「それ」
ミオの声が震えた。彼女はすぐ笑おうとして、失敗した。
「たぶん、私のだ」