終電後の遺失物係――明日の落とし物が届きます 作:夜番の拾い主
赤い傘の持ち主欄は空白だった。記入漏れなら、まだいい。六年前の遺失予定、六日後の返却期限、ミオだけが触れられる現物。まともに動いている箇所のほうが少ない。
「それで、思い出したことは?」
「雨の日が嫌い」
「傘の記憶としては役に立たないな」
「あと、ウサギのシールは好きじゃなかった」
「貼ったのは?」
「たぶん、私」
好きじゃない物を自分で貼る。その矛盾を指摘すると、ミオは持ち手を見下ろした。
「誰かにもらったから、捨てられなかったのかも」
今度は使える。誰かと、ミオを結ぶ物だ。
俺は受付机へ赤い傘を置いた。布、石突き、露先、骨、手元。古い傘は分解しやすいが、持ち主の許可がない。持ち主らしい本人は「好きにして」と言ったものの、記憶のない状態での許可をそのまま採用していいかは怪しい。
まず外から調べる。骨は十六本。量販品にしては多い。中棒の根元に製造番号があり、二〇一九年製。月白駅売店の値札には、閉店した雑貨店「しおさい」の印が残っている。
「知ってる?」
「店は知らない。でも、しおさいって音は好き」
ミオは机の前へしゃがみ、傘の内側をのぞいた。灰色のコートが床へ広がる。こうしていると普通の二十三歳に見える。朝になれば奥の扉へ消える点を除けば。
「持ち手、少し長くない?」
言われて測る。確かに長い。同じ型の標準寸法より二・八センチ長い。後付けの握り革で継ぎ目が隠されていた。
人間を見るより、物を見るほうが得意だと思っていた。ミオに先を越された。少し悔しい。
「外してみる?」
「その前に写真を撮る。戻せるように順番も記録する」
「カナタって、ケーキを食べる前にも分解図を描きそう」
「ケーキは元へ戻さない」
返事をしてから、妙な既視感が残った。同じような軽口を、昔も誰かに返した気がする。思い出そうとすると、頭の中で歯車が一枚抜ける。回転は続くのに、先へ力が伝わらない。俺は作業へ戻った。
握り革を傷つけないよう薄いへらを差し、接着を剥がす。現れた継ぎ目はねじ式だった。左へ三回転。持ち手の底が外れ、中から細く巻いた感熱紙が落ちた。ミオが息を止める。
紙は灰色の荷札と同じ材質だ。印字はほとんど消えていたが、一番下の署名欄だけ筆圧が残っている。――瀬 澪。前の一文字が欠けている。
「ミオって、この澪?」
「たぶん。音は同じ」
「名字は瀬で終わる」
「広瀬、川瀬、長瀬。いくらでもあるね」
彼女は平気そうに候補を並べた。けれど、傘から手を離さない。指先が白くなるほど握っているのに、紙には触れようとしなかった。
署名の上には、別の圧痕がある。遺失者契約。読めたのは、その五文字だけだった。
「黒田さんに電話する」
「今、二時だけど」
「六年前の人間一人が傘に入っていた。勤務時間の問題じゃない」
黒電話で自宅番号を回すと、呼び出し一回でつながった。
『赤い傘が出たか』
挨拶より先に言われた。
「知ってたんですね」
『出ないことを願っていた』
「それを、知ってたと言います」
受話器を握る指に力が入る。電話機の角が机と平行ではない。直したくなったが、今それをやると話を逃がす。
『高瀬。朝まで待て。台帳を持って行く』
「電話で説明してください」
『電話は記録が残らん』
「この黒電話、交換機の記録に載っていません」
『だから怖いんだ。夜間受けにつながる物を信用するな』
筋は通っている。腹が立つ程度には。
「一つだけ。遺失者契約とは何です」
黒田さんの呼吸が止まり、遠くで波の音がした。
『持ち物じゃなく、人を失くす契約だ』
通話が切れた。ミオは俺の顔を見ていた。聞こえていたらしい。
「人を失くすと、どうなるんだろうね」
「実例なら目の前にいる」
「そっか」
短く笑う。いつもなら俺の言い方が悪かったと訂正するところだ。今回は、訂正する言葉が見つからない。
夜明け前、ミオは赤い傘を持って駅舎の外へ出ようとした。
止める暇はなかった。受付窓の脇を通り、閉じた改札の前へ立つ。彼女が右足を駅前広場へ踏み出した瞬間、遺失物室の奥で物音がした。振り返る。ミオは、さっきまでいなかった受付机の向こうに立っていた。
赤い傘だけが改札前の床へ落ちている。
「もう一回」
「やめろ」
「条件を変える。傘を置いていく」
「結果は見えた」
「一回で仕様を決めるなって、いつも言うでしょ」
いつも。彼女はそう言った。
「俺が?」
「……誰かが」
ミオは目をそらした。
二回目は傘を置き、三回目は俺が手をつないだ。結果は同じだった。境界を越えた瞬間、俺の手から重さが消え、彼女は遺失物室へ戻る。四回目を試そうとしたので、改札のシャッターを下ろした。
「横暴」
「安全確認だ」
「ものは言いようだなあ」
軽口が戻った。少しだけ助かった。
始発の準備放送が流れると、ミオの輪郭が薄くなる。
「朝になったら、傘を勝手に分解しないでよ」
「もう分解した」
「もっと、って意味」
「持ち主の許可が出ていない」
ミオは一度だけ目を丸くし、笑った。
「じゃあ夜に。私が戻ってから」
奥の施錠扉を開けず、その向こうへ消えた。
午前九時、黒田さんが紺色の風呂敷を抱えて来た。退職して三か月で、背中が少し小さくなったように見える。白い半袖シャツの胸ポケットには、現役時代と同じ赤鉛筆が差してあった。昼勤の同僚へ会議室を借りると言い、遺失物室を閉める。
「ミオは、朝はいないんだな」
「名前を知っているんですか」
「知らん。いなくなった人間の名前は覚えられない。紙へ書いても、駅の外では文字が消える」
黒田さんは風呂敷から三冊の台帳を出した。背表紙は二〇二〇年。通常の遺失物台帳に見えるが、最終ページだけ紙が二重になっている。赤鉛筆で端をこすると、圧痕が浮いた。
一、荷札を読むこと。
二、予定前の返却は、持ち主の意思を確認すること。
三、大きすぎる変更をしないこと。
四、差額が出た場合、人を渡さないこと。
五、契約を解くなら、救った未来を戻すか、受け口を永久に失うこと。
「五番があるなら、どうして実行しなかったんです」
「契約書がなかった。誰を失くしたかも思い出せない。設備を壊せば、救った未来が維持される保証もなかった」
「今は?」
「赤い傘が戻った。再照合だろう。期限までなら、選び直せるかもしれん」
かもしれない。人一人に使っていい精度ではない。俺は台帳を一枚ずつ撮影した。黒田さんが残した文字のうち、駅の外でも消えないのは規則だけ。固有名詞は黒い染みになっている。
「六年前、何があったんです」
黒田さんはすぐには答えず、赤い傘へ頭を下げた。
「三十二人が死ぬはずだった」
「列車事故ですか」
「そうだ。旧ホームへの切替器が折れ、通勤列車が工事区画へ入る未来だった。破損片が前日に届いた。交換すれば済むと思った。だが三十二人分の死は、鉄の欠片一つでは釣り合わなかった」
時計の秒針が進む。室内の誰も、次の言葉を急かさない。
「夜間受けは、一人を要求した。誰からも見つけてもらえない人間を」
「あなたが選んだんですか」
「違う」
黒田さんは顔を上げた。
「本人が署名した。私は止められなかった」
手順に逃げているのは俺と同じだ、と責める気にはなれなかった。止められなかった結果を六年持ち続けた人の顔だった。
「本人は、誰を救ったんです」
「名簿が残っている。だが一人分、数が合わん。乗客は三十二人のはずなのに、事故予告の重量計は三十三人を示していた」
一人が消えたなら、三十三が三十二になった。計算は合う。問題は、消えた本人が乗客側にもいたことだ。黒田さんは、赤い傘の持ち手へ触れようとしてやめた。
「傘を持っていたのは、十七歳くらいの娘だった。駅の売店を手伝っていた。私より先に、事故列車へ知っている人が乗ると気づいた」
「誰です」
「思い出せん」
当然の答えなのに、腹の奥が冷えた。
俺は赤い傘の荷札を取る。持主欄は空白のまま。親指で紙をなぞると、感熱面に黒い点が一つ浮いた。点は線になり、二文字だけを作る。高瀬。
俺と同じ名字だった。