終電後の遺失物係――明日の落とし物が届きます 作:夜番の拾い主
未来から届いた婚約指輪を返そうとして、持ち主に「いりません」と言われた。
予想していなかったわけではない。遺失物窓口では、財布や鍵と違って、持ち主が見つかっても引き取られない物がある。壊れた傘、古い服、元恋人からの贈り物。所有権と欲しい気持ちは別管理だ。
それでも、まだ失くしていない指輪を見せて拒まれる場面までは、接客研修に入っていなかった。
「宮野紗季さんで、間違いありませんか」
「はい。刻印も、私のです」
七月十九日、午後六時二十分。月白駅前の喫茶店。窓の外では雨が降り始めている。
向かいに座る宮野さんは、左手をテーブルの下へ隠している。未来から届いた指輪は白い布を敷いた小箱の中。現物は彼女の左手にもあるはずだから、二つを並べれば説明が破綻する。見せたのは裏側の写真だけだ。S to T 0719。
宮野さんは写真を一度見て、コーヒーへ視線を落とした。
「今日が、式場の契約日なんです」
「遺失予定は十九時十二分。月白駅二番線です」
「知ってます」
即答だった。
「失くす予定をご存じなんですか」
「捨てる予定です」
言葉の選び方が正確すぎる。衝動ではなく、決めて来た人の声だ。俺は受付票へ書きかけた「返却」を線で消した。紙の上なら修正できる。問題は、俺が一時間前にやったことだ。
午前零時十三分、指輪が夜間受けへ届いた。荷札には宮野紗季、十九時十二分、二番線。過去の定期券払い戻し記録から連絡先を探し、本人へ「確認したい貴重品がある」と伝えた。その時点で、返すことしか考えていなかった。
ミオは電話の横で「何を失くすか聞いた?」と尋ねた。指輪だと答えると、そうじゃない、と首を振った。
今なら分かる。理解が三時間ほど遅い。
「差し支えなければ、なぜ捨てるのか伺ってもいいですか」
宮野さんは左手をテーブルへ出した。同じ指輪が薬指にはまっている。未来の物より細かな傷が少ない。十九時十二分までの五十二分で傷が増えるとは考えにくいから、未来の指輪は捨てられたあと線路脇を転がるのだろう。
「彼は、私のものをよく片づけるんです。勝手に」
宮野さんは指輪を回した。
「服も、友達からの手紙も、仕事の資料も。要らないと思ったから捨てたって。最初は部屋がきれいになったと思いました。私、片づけが苦手なので」
雨粒が窓を細く流れる。彼女はそれを数えるように黙った。
「式場も、仕事を辞める時期も、住む場所も決まってました。私が返事をする前に。でも、全部、私のためだと言われると、断る私が悪いみたいで」
腹が立つ、怖い、つらい。そういう名前を彼女は使わなかった。代わりに、左手を何度も握っている。爪が指輪の下へ入り、皮膚が赤い。
「今日、捨てれば終わると?」
「彼に返します。そのあと、もし受け取ってもらえなかったら、駅のごみ箱へ入れるつもりでした」
「線路へ落とす予定になっています」
「たぶん、追いかけられて、投げます」
計画は粗い。危険でもある。指輪を投げれば、相手が拾おうとするかもしれない。二番線は十九時十四分に快速が通過する。
だから返すべきだ。未来の指輪をこちらで保管し、彼女の手元の指輪も預かれば、線路へ落ちない。
そこまで考えて、止めた。物理的には正しい。だが、彼女が捨てたい理由を聞く前の俺と、手順が変わっていない。
「指輪をどうするかは、宮野さんが決めてください。ただ、線路へ投げるのはやめてほしい。あなたにも、拾おうとする人にも危険です」
「じゃあ、どうすれば」
「返したいなら、人目のある場所で返す。受け取られなければ、俺が遺失物ではなく一時預かりとして受け取ります。捨てたいなら、貴金属店で処分できます」
「売るんですか」
「売ってもいい。溶かして別の物にしてもいい。そこまで俺が決めると、同じ間違いになります」
宮野さんは初めて、俺の顔をまともに見た。
「駅員さん、変なこと言いますね」
「今日はよく言われます」
実際には一人目だ。ミオなら毎晩言うので数に入れない。
「私、結婚しません」
宮野さんは言った。声は小さいが、指輪から指を離している。
「指輪は、彼に返します。返すところを見ていてもらえますか」
業務範囲外だ。勤務時間外でもある。断る理由は十分にあった。
「人目のある改札前なら」
俺は受付票へ、立会い、と書いた。
十九時ちょうど、婚約者の男が来た。高そうなスーツに雨の跡がついている。宮野さんを見ると安心した顔をし、俺を見ると眉を寄せた。
「紗季、これは何。駅員さんまで呼んで」
「結婚をやめます」
宮野さんは指輪を外し、小さな封筒に入れて差し出した。
「式場には明日、私から連絡します。仕事は辞めません。部屋も出ません」
「また不安になったの? 大丈夫だって、何度も説明しただろ」
男は封筒を受け取らない。代わりに宮野さんの手首へ手を伸ばした。俺は二人の間に受付用トレーを差し入れた。
「返却物は、こちらへ置いてください」
人間の手を止めるのに、プラスチックのトレーが役立つとは思わなかった。男の手が止まる。
「あなた、関係ないでしょう」
「そのとおりです。ですから、宮野さんの決定を代わりに説明はしません」
宮野さんが封筒をトレーへ置いた。
「受け取らなくてもいい。でも、私はもう着けません」
男はしばらく彼女を見た。怒っているのか、困っているのか、俺には断定できない。頬が引きつり、口が何度か動いた。最後に封筒をつかむ。
「あとで話そう」
「話しません。連絡はメールだけにしてください」
宮野さんは頭を下げ、改札前から離れた。俺も一礼してついていく。
十九時十二分。二番線を快速が通過した。指輪は落ちなかった。
遺失物室へ戻ると、未来から届いた指輪は消えていた。荷札には一行だけ残っている。返却不要 持主確認済。
「ほらね」
「何が」
「返せばいいってもんじゃない」
「先に答えを言わず、俺に失敗させただろ」
「言ったよ。何を失くすか聞いた、って」
「情報量が足りない」
「人間は荷札じゃないからね」
反論しにくい言い方を覚えている。
ミオは赤い傘を机へ広げた。持ち手から出た契約書は、透明な証拠袋に入れてある。
「私も、返してもらいたくないって言ったら?」
手が止まった。
「駅から出たくないのか」
「違う。たぶん、出たい。でも、六年前の私が自分でここへ来たなら、その選択をなかったことにしていいのかな」
宮野さんへは、本人が決めるべきだと言えた。同じ答えをミオへ返すのは難しい。
「選んだ理由を知らないうちは、返すとも返さないとも決めない」
「それは私が決めることじゃない?」
「記憶がない状態で、六年前の選択を引き継がせたくない」
言ってから、また俺が決めていると気づいた。
「……理由を一緒に探す。見つけたあとで、お前が決める」
ミオは少しだけ目を細めた。
「前半、かなり偉そうだったけど、後半で修正したから合格」
「採点される仕事じゃない」
「遺失物係は採点されないの?」
「減点だけはされる」
黒電話が鳴った。零時十三分ではない。二十一時四十分。受話器を取ると、黒田さんだった。
『高瀬。古い運休記録が見つかった。事故予定の列車に乗っていた三十二人の名簿もある』
「三十三人目は?」
『名簿の一番下に、消した跡がある。名前は読めん。ただ、備考欄に続柄だけ残っていた』
黒田さんは一度、息を継いだ。
『兄、と書いてある』