終電後の遺失物係――明日の落とし物が届きます   作:夜番の拾い主

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三十三人目の乗客

 三十三人目の備考欄には、兄――高瀬奏汰、とあった。俺の名前だ。

 

 二〇二〇年七月十七日、月白発六時四十八分。事故が起きるはずだった通勤列車に、二十一歳の俺は乗っていた。

 

 そこまでは覚えている。時計店の早番へ行くため、毎朝同じ車両の同じ扉を使っていた。けれど、その日は保安装置の予防交換で終日運休になった。店へ電話を入れ、駅前でアイスを買って帰った。

 

 買ったのは一つだったはずだ。なのに木のスプーンを二本もらった。

「どうして、そんなことを忘れてたんだ」

 遺失物室の机に、六年前の名簿、赤い傘、契約書、運休記録を並べた。物は嘘をつかない。少なくとも、人間よりは嘘のつき方が単純だ。

 

 名簿の二十六番、高瀬奏汰。三十三番は氏名欄が白く抜け、備考に「兄 高瀬奏汰」。事故予告の重量記録は三十三人分。改変後の乗車記録は三十二人分。赤い傘の契約書には「――瀬 澪」。荷札には一度だけ「高瀬」。

 

 組み合わせは一つしかない。

「高瀬澪」

 声に出した途端、机の向こうでミオが肩を震わせた。彼女は赤い傘を抱いている。二十三歳の顔で、十七歳の持ち物をつかんでいた。

「私の名前?」

「たぶん」

「たぶん、かあ」

 笑い方が下手だった。俺も似たような顔をしている気がする。兄と書いてある。俺の妹だ。書類上はそうなる。

 

 書類がなくても、思い当たる物はあった。自宅の台所に、使い道の分からない小さな合鍵がある。駅前のアイス店では、店員に本数を聞かれる前に指を二本立てる。赤い傘を見ると、置いていかれた気分になる。それでも妹の顔は浮かばない。

 

 家族を忘れた罪悪感だけが先に戻ってくる。ずいぶん効率の悪い修理だ。必要な部品を最後に寄こす。

「ごめん」

「何が?」

「忘れてた」

「私も忘れてるよ」

「お前は契約で奪われた。俺は普通に六年暮らした」

 ミオは傘の石突きを床につけた。こつ、と硬い音がする。

「普通に暮らせるようにする契約だったんじゃない?」

「だからって、暮らした側の責任が消えるわけじゃない」

「それ、私が決めていい?」

 宮野さんの件で学んだはずのことを、もう外しそうになった。

「決めてくれ」

 ミオは少し考え、傘を机へ置いた。

「じゃあ、まだ謝らなくていい。思い出してから、内容を具体的にして」

「具体的な謝罪を要求する妹って、面倒だな」

「今の、ちょっと兄っぽかった」

 俺たちは同時に黙った。兄っぽい。その基準を、ミオはどこから持ってきたのか。

 

 黒田さんが咳払いをした。壁際の椅子に座り、俺たちから目をそらしていた。

「続けてもいいか」

「お願いします」

 

 自分でも驚くほど、声が仕事用に戻った。感情を片づけられない時、俺は手順へ逃げる。ミオが横目で見たが、今は止めなかった。

 

 黒田さんは古い運休記録を開く。

「破損片が出たのは、事故前日の零時十三分だ。荷札には翌朝六時五十一分、旧ホーム切替器とあった。すぐ保線へ連絡したが、点検では異常なし。私は勝手に非常停止をかけるつもりだった」

「それで事故は防げます」

「列車一本ならな。だが荷札は消えなかった。次に出た文字が、三十二名死亡、差額未納だ」

 

 未来の破損片を返すだけでは、原因が別へ移る。切替器を止めても、信号故障、車両故障、人為ミス。三十二人が死ぬ結果のほうが固定されていた。

「夜間受けは、別の物を要求した」

 黒田さんが契約書を指す。

「誰からも探されない一人。記録からも、記憶からも、関係からも外れる人間だ。私は断った。三十二人を救うために一人を消す権限はない」

「その場に、澪がいた」

「売店の棚卸しを手伝っていた。閉店後、赤い傘を取りに戻ってきた」

 ミオの手が持ち手へ移る。

「私、売店で働いてたんだ」

「夏休み前の手伝いだ。店主と親しかった。君は事故列車の名簿を見て、兄の名を見つけた」

「それで署名した?」

「すぐではない」

 黒田さんは強く否定した。

「私と三時間、言い争った。設備を壊そうとした。破損片を海へ投げた。警察へ通報しようとした。どれも駄目だった。午前四時を過ぎ、君は私から契約書を奪った」

 

 結論だけなら、一瞬の自己犠牲に見える。実際には三時間、ほかの手を試した。そこは重要だった。正解だったという意味ではない。

「俺へ連絡は」

「した。つながらなかった」

 

 記憶が、音から戻った。六年前の夜。枕元で震えるスマートフォン。画面を見ずに切った。翌朝が早いから、妹からの電話はどうせアイスか何かの頼みだと思った。

 

 胸が痛い、と書けば簡単だ。実際にはもっと細かい。右手が机の端を探し、電話を裏返そうとする。もう鳴っていない黒電話を止めたくなった。

「三回、着信があった」

 口にすると、映像がつながる。メッセージも来ていた。

『兄ちゃんは遅い』

 いつもの文句だと思った。朝になったら返すつもりで、そのまま眠った。朝には送信者の欄が空白になっていた。俺は広告通知だと判断して削除した。

「思い出した」

 ミオが俺へ近づく。手を伸ばしかけ、途中で止めた。彼女は赤い傘以外へ触れられない。

「カナタ?」

「電話を切った。三回とも」

「そっか」

 

 責めないでくれ、と思った。責められないほうがきついとも思った。どちらも俺の都合だ。

「謝る内容ができた」

「まだ。最後まで聞く」

 ミオの声は静かだった。俺ではなく、彼女が手順を守っている。

 

 黒田さんが続ける。

「午前四時四十七分、澪は署名した。最後まで兄へ知らせたがっていた。だが契約は、誰にも見つけてもらえないことが条件だ。署名したあとで知らせれば、成立しない」

「書いたのは、自分の名前だけですか」

「代価欄に高瀬澪。理由欄に、三十二人を返すため。返却希望欄は――」

 黒田さんは口を閉じた。

「何です」

「返却を希望する、に丸がある」

 ミオが顔を上げた。六年前の彼女は、自分で消えると選んだ。同時に、戻りたいとも書いた。一つの選択へ、片方だけの気持ちを当てはめていた。妹は勇敢だったから消えた。自分を大切にしなかったから消えた。どちらも簡単すぎる。

「私、帰りたかったんだ」

 ミオは赤い傘の布をなでた。

「そりゃ、そうだよね。駅、夜は冷えるし。売店のおにぎりは賞味期限が切れるし」

 冗談の形をしているが、笑っていない。

「六年も待たせた」

「カナタが契約したわけじゃない」

「電話を取っていれば」

「電話一本で、三十二人と私を同時に助けられた?」

 答えは出ない。取っていれば、少なくとも一人で署名させずに済んだ。それでも事故の期限は近く、設備を失う規則も当時は確証がない。過去へ都合のいい工具を持ち込んでも、修理にはならない。

「助けられたとは言えない」

「じゃあ、今できることを決めよう」

 ミオは契約書を自分のほうへ向けた。

「私は返却を希望してる。これで一つ決まった」

「事故の未来は戻さない」

「それも一つ」

「人を代わりに渡さない」

「三つ」

 

 残るのは、設備を失う方法だ。規則には書いてある。具体的な手順がない。

 

 業務用時計が零時十二分を示した。黒電話が鳴る。受話器を取る前から、誰でもないと分かった。呼び出し音が、時計の秒針と同じ間隔で鳴っている。

『契約再照合』

 男とも女ともつかない声が、耳元ではなく部屋全体から聞こえた。

『返却期限まで、残り四日。代替遺失物を指定してください』

「人は指定しない」

『既定の差額は、一名です』

「設備を失う方法があるはずだ」

 一秒の沈黙。

『選択肢を開示します』

 受け箱の内側で、紙を吐き出す音がした。

 

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